アイデンティティは奪われましたが、勇者とその弟に愛されてそれなりに幸せです。

だいきち

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メイディア・オルセンシュタインの不運な一日

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 体の中に、何かが滞留している。腹の内側がずっと重だるくて、シグムントはぐったりとしたまま動けないでいた。
 ここは、多分夢の中だろう。シグムントは、胎児にでもなった気分で小さく蹲りながら、息苦しさを堪えている。

──── 気持ちが悪い、気持ちが悪くて吐きそうだ。

 まるで、太い鎖で身を拘束されているかのような心地である。重い、苦しい、体が熱い。血液が茹ってしまいそうだった。涙の滲む目元を拭いたくても、指先一本動かせそうにない。
 震える吐息を口から漏らせば、額に冷たい感触がして、顔にかかっていた髪がゆっくりと避けられた。

──── ン、……ト
「ぅ、……?」

 先の尖った小ぶりな耳が、ささやかな声を拾う。掠れてよく聞こえないが、これは誰かが名を呼んでいるのだろうか。濡れた睫毛を震わせて、シグムントがゆっくりと目を開く。ああ、だめだ、まだ暗い。夢の中から離れたくて、震える指先で何かを手繰り寄せるようにして、暗闇に触れる。
 目覚めたいという意志が働いたのだろう、シグムントの指先は徐々に感覚を取り戻す。サラリとした何かに触れたかと思えば、手を取られるようにして握り締められる。
 あ、と声を出そうとした時、先ほどよりもしっかりとした声で名前を呼ばれた。

「シグムント……‼︎」
「っ、……」

 ライトをつけたかのように、唐突に思考が明瞭になった。訛りのような瞼をなんとかこじ開ければ、目の前にいたのは焦った顔をしたルシアンであった。
 部屋は明るくて、耳をすませば小鳥の囀りが聞こえてくる。きっと、今は朝なのだろう。シグムントが身を起こそうとすれば、それはルシアンの手によって制された。

「……どうした、おはようは言ってくれないのか……?」
「シグ、……おはよう」
「うん、おはよう……」

 泣きそうな顔のまま。無理やりに笑みを浮かべているようだった。おずおずと伸ばした手は引き寄せられるようにルシアンの体温に包まれる。そのまま甘えるように手のひらに頬を寄せるルシアンは、痛みを堪えるかのように宣った。

「……今、イザルが滋養のあるものを持ってくる。無理をさせてすまない……、体は、まだ辛いままだろう」
「体……?」
「君は、寝込んでいたんだ。大熱で三日も」
「……三日も? ああ、通りで体が熱いと思った」

 ルシアンの言葉に、体調が思わしくないことをようやく理解した。そして、この体の重だるさの原因も、下半身の感覚が未だ痺れていることにもだ。
 熱の原因は、抱かれたことによって、一度に二人分の魔力を取り込んだことだろう。一人ぶんの魔力を受け入れるだけでも体は数時間の休息を要するのだ。無理もない。
 シグムントは薄い腹に手を添えると、胎内の魔力を確認するように目を瞑った。イザルで馴染んだ体に、主張するかのようにルシアンの魔力が重なってせめぎ合っている。二人は魔力になってまで互いの主張を譲らないのかと、妙なところで感心してしまった。

「あの……ルシアン、俺はここにいてもいいものなのか?」
「なんでそんなことを言うんだ、いてくれなきゃ、看病はできないだろう?」
「だって、ここはルシアンのベットだろう。占領してしまったら、寝る場所がなくなってしまう」
「なら一緒に寝ればいい。俺の為にも、どうかこのベットを使ってくれ」

 シグムントの薄い手のひらに指を絡ませたルシアンが、懇願するように見つめてくる。まるで敬虔な信者が神に祈るかのような様子に、シグムントは少しだけ気恥ずかしそうに耳を染めた。
 そんなやりとりをしているうちに、今度は聞き慣れた足音が近づいてきた。言わずもがな、イザルである。その手には、湯気の立つ皿を持っていた。

「シグムント……」
「ああ、おはようイザル」
「……どけルシアン。お前はさっさとりんごでも剥いてこい」
「くそ、都合のいい時ばかり兄貴面か」

 イザルによって襟首を掴まれるように立たされたルシアンが、渋々キッチンへと姿を消す。見れば、ベットサイドには甲斐甲斐しい世話の跡が残っている。氷水のはった桶にかけられた白いタオルが光を吸収していた。

「体は」
「……まだ、本調子ではないな」

 無骨な手が額に触れる。相変わらず顔は不機嫌そうであったが、瞳の奥には反省の色が見てとれた。
 シグムントの言葉に、イザルの口元がかすかに尖った。本人すら気が付いていないだろう仕草に、思わず笑みがこぼれる。

「仲良しは、できたか?」
「あ?」
「ルシアンとイザルだ。俺は、少しくらいは仲を取り持つことができただろうか」
「……、ああ、そうさな……」
「?」

 イザルの眉間のしわがぐっと寄せられたかと思うと、ついにはいつもの純粋な不機嫌を顔に貼り付けた。しかし、その苛立ちの矛先はシグムントへ向けられたものではなかったようだ。こめかみに青筋をうかばせたイザルは皿をベットサイドへと置くと、腕捲りをするように背を向けて立ち上がった。

「ルシアン」
「言わずとも」

 え、と思った時にはすでに遅かった。いつの間にかキッチンから出てきたルシアンが、指を振るように結界術を展開したのだ。その数秒後、部屋の扉は開いた勢いのまま跳ね返った。しかし、扉は元の位置には戻らず、鈍い音を立てて何かにぶつかりはしたが。

「ホゲェ‼︎」
「ひゃっ」

 聞き慣れない男の声に、思わずギョッとして声が漏れた。慌てて何事かと身を起こそうとすれば、イザルの手が薄い背中に回る。

「寝てなくていいんか」
「いや、なにが起きたのかなって」
「気にするなシグムント、ゴキブリのようなものだ」

 ゴキブリのようなものとは……。シグムントはますます不思議そうな顔をして首を傾げた。
 しかし、その答えはすぐに解明された。銀灰の瞳が映したのは、透明な結界に押しつけられた犬の鼻だ。それが、ふんふんと匂いを辿るように薄い膜をなぞる。そのうち伸びてきた男の手が犬の首輪を掴むと、あっという間に引き下げる。次いで力技のように結界が蹴り破られると、扉の外からチャカチャカと爪の音を鳴らして大きな狼が現れた。

「この結界ルシアンのだろう。マジで、扉跳ね返ってデコぶっけたわくそ」
「ガゥッ」

 額を赤く染めて悪態を吐くのはメイディアだ。そして、足元にはオオカミに姿を変えたイェネドまでいる。どうやらシグムントが目を覚ますまで、イェネドはメイディアに面倒を見てもらっていたらしい。
 シグムントが疑問を抱くとすれば、イェネドはここにきたときは人型をとっていたはずである。もしやイザルが物理的にメイディアの記憶を改竄したとでも言うのだろうか。
 イザルが聞いたら呆れるようなことを思いはしたが、なんとなく口に出すのは憚られて我慢をする。シグムントにしては珍しくした賢明な判断も、あいにくイザルは気がつきもしないのだが。
 
「おはよう魔族の兄ちゃん。ええっと、状況説明が必要だよね。見たところまだだろうし」
「あ、ええっと、……君は、俺とそこの黒いわんわんを見ても怯えたりはしないのか?」
「怯えちまうほど弱くないし、それにあんたなら話通じるしね。てか黒いわんわんってやめてあげな。イェネドってんだろう?」

 シグムントのベットに前足をかけるように見上げるイェネドは、不服を顔に貼り付ける。ふんす、と吐いたため息からは、しっかりと文句が伝わってくるようだった。
 そんなイェネドの頭をわしりと撫でるメイディアは、魔族を前にして随分と気楽な様子であった。おかげで、こちらも構える機を逃してしまい、肩透かしを食らったような心地である。
 恐る恐るイザルを見上げれば、無言で頷かれた。どうやらシグムントが寝こけている三日間で、置かれている状況は随分と変わったらしい。
 
「で、体調は? 魔力は馴染んだ?」
「まだ少し、……余剰分を吐き出せれば整うとは思うんだが」
「それは術の行使でなんとかなるもんなの? それとも、魔石に移すとか?」

 シグムントの膝に心地の良い重さがかかる。見れば、イェネドが撫でられるのを待つように膝に顎を乗せていた。無言の圧力に屈するように黒い毛並みをワシワシと撫でる。少し見ない間に随分と甘えたになったものだと、そんなことを思う。

「魔術行使すんなら、とっておきの提案があるけど」
「メイディア、シグは病み上がりだ。その話は体調が整ってからにしてくれ」
「ルシアン、俺は随分と待った。それに、この時間のロスはあんたら二人がシグムントを嬲ったからだろう。悪いけど、セタンナ隊長はもうお冠だ」
「セタンナ隊長?」

 聞き慣れない名前に、シグムントが反応を示した。どうやら、ルシアンだけでなくイザルまでもがその存在を知っているようだ。
 渋い顔をする面々に、なんとなく取り残された心地になる。しかし、シグムントが説明を求めるまでもなく、酷く重い口調のメイディアが教えてくれた。




 その日のメイディアは、とにかくついていなかった。例えるなら、前世に侵してきた悪事のつけを一気に払えと詰め込まれたかのような一日であった。
 日中は、まだ良かった。珈琲に砂糖と塩を間違えて入れるような、うっかりミスくらいの不幸。しかし、ルシアンがちょっと出てくると言ってシグムントを連れ帰ってきたあたりから、どんどんと様子がおかしくなってきたのだ。
 上司でもあるルシアンの遊撃部隊の仕事は当たり前として、実はもう一つの密命があることはメイディアも知っていた。
 それは、元勇者でありルシアンの兄であり、憎き仇であるイザルをセタンナ隊長の元に連れてくること。しかも直接の言葉で連れてこいと言われたわけではないところがきもだ。
 ルシアンは、セタンナ隊長の右腕として正しく空気を読んだ。言外の意図を汲み取って、──── 本当は言われなければ知らないふりをしたかったのだが、そんなことをして仕舞えばたちまち氷漬けにされる──── イザルが自ら遊撃部隊の詰め所に訪れるように仕向けたのだ。
 しかしそう言う作戦であるならば、副官のメイディアにも共有をしてほしかったところが本音であった。何せ、霧の魔物の調査を強いられたのメイディアもまた同じだからである。
 戻ってきたらしいルシアンの気配に、メイディアは文句の一つでも言ってやろうと執務室の扉を開いた。そこで目にしたのは、己の上司と麗しい見目の男の逢瀬の真っ只中である。普通の神経ならば驚愕を顔面に貼り付け、無様を晒したに違いない。しかし幸いにして、逢瀬の相手の素性は骨を折ることもなく明らかになった。

──── どうした、嫌なことでもあったのか

 無言を貫くルシアンに、言葉を重ねた声は確かに男性のものだった。しかし、心を砕くような問いかけは演技をしているようには到底見えない。何より、メイディアを睨みつける獰猛なルシアンの眼光が、彼の声を受けてわかりやすく柔らかくなったのだ。
 おかげでようやく麗人の正体に合点がいった。
 きっと彼が、イザルの大切であり、ルシアンの心を奪った人物なのだろうと。
 ルシアンのしたことは誘拐だ。しかも、当然イザルもまた彼に面倒臭い執着心を持ち合わせている。要するに、イザルは彼を連れ戻しに間違いなくここに訪れるだろう。
 ならば、副官としてメイディアができることは限られている。ルシアンから命じられた黙認を強要された時間はおおよそ二時間。きっと、その制限時間内までイザルの侵入を許すなと、つまりはそう言ったことだろう。
 面倒くせえことになっちまったな。メイディアがため息を吐いて、数回目の嘆きを飲み込んだ時。日常が轟音とともに消失した。

「メイディアオルセンシュタイン。ルシアンの元へ連れて行け。そして、じじいを返せ」

 不機嫌顔で現れたイザルのどすの利いた声に、メイディアは思った。ジジイって誰だよと。

「うわあああああなんでだよお前ら兄弟はマジで人の話聞かねえのなんでだよマジでなんなんだよおおお‼︎」
「黙れ、無駄口を叩くな。俺の求める答えを俺の求めるように返せ」
「面だけじゃなくて理不尽も弟にそっくりだァ‼︎」

 メイディアは爆発音とともに飛び交う土塊に頬を汚しながら、必死にイザルの無差別広域魔法から逃げていた。予備動作なしで放たれる雷撃は、まるでメイディアの影を縫い止めるかのように足元スレスレを狙って落ちてくる。
 己の俊敏さをこうも神に感謝する日が来ようとは。長い茶髪の三つ編みが危うく貫かれそうになって、メイディアは地べたに転がった。そして、そのまま大慌てで木陰へと飛び込んだ。

「悪いことは言わない、素直に案内をして。きっとそうすれば怪我は軽くて済む」
「お前、っ」

 息の整う間も無く暗闇から落ちてきた声に、メイディアは思わず弾かれたように立ちあがろうとした。しかし、その手首は褐色の大きな手によって掴まれる。ギョッとしたのも束の間だ。男の黒髪からのぞく赤い瞳に気を取られた一瞬で、背後にイザルの殺気を感じた。
 鋭い金属が引き抜かれる音とともに、視界の端に青い光をとらえた。その軌道が間も無く皮膚に到達するだろう映像が脳内に流れる。遊撃部隊としての矜持がメイディアに無様を晒さぬように叱咤したその刹那、剣の鋒が顎の真下で固定された。

「イェネド。邪魔をするな。なんの為についてきた」
「ボスのやり方は良くない。シグムントが悲しんでもいいのか」

 イザルの刃を止めたのは、目の前の褐色の男だった。
 顎の下で止められた刃が、カタカタと揺れている。微かに触れた皮膚から血が滲むと、メイディアは我に帰ったように剣から身を遠ざけた。

「逃げんな」
「ボス‼︎」
「っ……‼︎」

 イザルをボスと呼ぶイェネドという男は、一体なんなのだ。メイディアの頭の中は混乱した。状況は依然切迫している。素直にイザルの求める答えを差し出した方がいいのだろうが、時間稼ぎをしなくてはメイディアがルシアンに殺されるだろう。
 前を向いても、後ろを向いても地獄には変わりない。活路を見出すとすれば、案内をすると嘘をついて、イザルをルシアンとぶつけることだろうか。
 緊張感に苛まれながら、メイディアが覚悟を決めるように瞳を輝かせる。しかし、決意の顔は自然と赤い瞳のイェネドへと向いた。青年は、困ったように眉を下げていた。その瞳に宿る理知的な光には、メイディアへの憐憫も含まれている気がした。

「っ……わ、わかった。わかったってば! ジジイがなんだかは知らねえけどさ、用があんのはどうせルシアンだろう⁉︎  あいつの部屋まで案内すっから、とりあえず落ち着けって!」
「てめえ、あいつのなんなんだ」
「副官だよ。まさかこんな形で知り合うだなん」
「なら逃げろ」
「て……は?」
 
 なんと言ったのだろう。メイディアには、イザルの言葉の真意がわからなかった。逃げろと言ったり、逃げるなと言ったり。耳がおかしくなってしまったのかと盗み見たイェネドの表情もまた、呆気にとられている。

「それは、どう言う」
「俺は虫の居所が悪い。副官なら、てめえもルシアンと一蓮托生だコラ」

 まるで魔王のような笑みを浮かべて宣うイザルを前に、メイディアは思った。
 ああ、もしかしたら。この世の理不尽はイザルによって支配されているのかもしれない、と。メイディアは決して信奉者などではなかったが、初めて神に祈りたくなった。
 魔王を討伐したという伝説の聖剣。その鋒の命が己という現実を、何せ受け入れたくなかったのである。




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