アイデンティティは奪われましたが、勇者とその弟に愛されてそれなりに幸せです。

だいきち

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弟の矜持 *

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 ルシアンの瞳は真っ直ぐにシグムントを見つめたまま、そらさなかった。黒い瞳の中に閉じ込められたシグムントは、未だ状況も理解せずにあどけない表情を晒している。
 その、まろく滑らかな頬に、ルシアンの手が添えられた。親指の腹で、赤くなった目元を労るように撫でられる。それがくすぐったいのだろう、シグムントは肩をすくめて気恥ずかしそうにしている。
 ルシアンは、思った。目の前の唯一の存在は、きっと純粋培養で育てられてきたに違いないと。そうでなければ、欲を孕む男の手など払いのけるはずだと。
 時計の音が、静かな部屋でただ一つ存在を示している。ルシアンの手を許したシグムントが、不思議そうに見つめ返したその時。オホンと一つ、気まずそうな咳が聞こえた。

「俺がいるってわかってる?」
「……メイディア」
「お、おぉ、先程の……すまぬ」

 扉を開けたままの体勢で、気まずそうに固まっていたのはメイディアだ。その手には、シグムントのためだろう着替えがあった。
 シグムントが申し訳なさそうな顔をするなり、視界を遮るようにルシアンが着替えに手を伸ばした。無骨な手は、しっかりと細い腰を引き寄せたままだ。
 わかりやすい独占欲と、無差別じみた嫉妬心を目の当たりにして、メイディアは頭が痛くなった。
 この余裕のない男が、己の上司であることを恥じるようにため息を吐く。
 つくづく損な役割ばかりを演じる羽目になる。おそらくこの後は、追いかけてくるイザルの相手もしなくてはいけないのだろう。メイディアは着替えをルシアンの手に乗せると、己の首を断つように親指を一閃させた。
 
「今回だけだからな副隊長。俺を邪魔者扱いするんなら、最初からこんなとこに転移してくるんじゃねえっての」
「わかっている。……悪いが一刻ほど席を外してくれ」 
「一刻で終わるのか」
「……二刻だ」
 
 粗野に振る舞うメイディアは、ルシアンに対して苛立ちを覚えているようだ。話の内容がわからぬまま、シグムントだけが置いてけぼりにされていた。
 ヘーゼルの瞳が向けられる。その目は可哀想なものを見る目であった。
 
「あんまり煽ってやるなよ。それがあんたの為になる」
「うん?」
 
 意味深な言葉を残して、メイディアは退散するように出ていってしまった。
 ルシアンの執務室で二人きり、シグムントはゆっくりと体を離すと、上着の前を合わせるかのように身を隠した。

「服を着る前に、湯浴みはできるだろうか。寝汚く寝てしまって、まだなんだ」
「シグムント」
「うん?」
「イザルに、抱かれたのか……?」
 
 ルシアンの問いかけを前に、シグムントはじわじわと頬を染めていった。魔族独特の、少々尖り気味の耳が分かりやすく色づく。その様子が、否定もしようがない事実なのだとルシアンへ突きつけるようだった。
 それでも、シグムントはぎこちなく首を振った。それは純粋に、最後まで行為をしていないが故の素直な否定である。それでもルシアンは、己の周りの酸素が薄くなってしまったかのような心地に苛まれた。
 腹の内側で、ぐるりと獣が唸った気がした。ルシアンの目の前で、己に目も合わせずに羞恥に顔を染める。シグムントの中には、まだイザルの気配が残っている。
 
「ま、まだだ、そ、そのうち、そういう予定になっている」
「予定……」
「こういう事には慣れていなくてな、どうしていいかわからないんだが」
 
 シグムントの言葉は、慰めにすらならなかった。体がどんどんと冷えていき、思考が明瞭になっていく。ルシアンを見上げるシグムントの瞳が、ほのかに潤んでいることに気がついた。
 その瞳に映る、イザルと瓜二つの己の姿が、酷く歪んだ気がした。
 
「ひゃ、っな、なん」
「シグムント、俺は」
「うっ、く……っ」
 
 華奢な体が、ルシアンの手によって執務室の机に押し付けられた。華奢な体に影を落とすように見下ろすルシアンに、出会った頃のような表情はなかった。
 メイディアが持ってきた着替えはすでに出番を無くし、床に落とされている。押さえつけられた手首から伝わる痛いまでの感情に、シグムントは戸惑った声を漏らした。
 
「る、ルシアン……?」
「君にその気がないのは、十分に伝わった。だけど俺も男なんだよシグムント。欲しいものは欲しいし、奪いたい」
 
 上着がずれ、白い素肌が晒される。薄赤に染まる慎ましやかな胸の頂を囲むように、白い胸にはイザルの歯形が刻まれていた。
 鬱血痕のように、可愛らしい主張ではない。その忌々しいイザルの獣性にも似た欲を、ルシアンは今から上書きをする。唾液を絡ませるように胸の粒を舐め上げると、一息に噛みついた。
 
「ひぅ、っぃ、いた、っ」
「イザルに噛まれた時は、痛くなかった……?」
「な、なん、ぇ」
「比べられても、腹が立つだけだけど」

 ぢぅ、と音を立てて吸い付かれる。与えられた突然の痛みと微かな性感に、薄い肩が跳ね上がった。
 ルシアンはシグムントの背中に手を回すと、胸を逸らすように持ち上げる。刺激を与えられ立ち上がる胸の粒に、呼気が触れる。大きな手のひらがシグムントの薄い腹を辿り、吸い付くように滑らかな肌に触れた。

「る、ルシアン、なんだこれ、や、やめてくれ」
「やめない。俺の目を見ろシグムント、イザルとは違う、俺の目は黒だろう」
「ああ、る、ルシアンの瞳は、黒だ」
「そうだ、俺は……イザルなんかじゃない」
「っ……」

 眉を寄せたルシアンの瞳の奥に、くらりと揺れるものが見えた気がした。シグムントは、はくりと唇を震わせる。ルシアンの感情の揺らぎに、アルベルと似た色を見たのだ。
 ルシアンは、イザルへの嫉妬に取り憑かれている。大きな感情の起伏がきっかけだとしたら、ルシアンの中に眠る悪意の種が発芽してしまうかもしれない。
 シグムントの思考は、忙しなく巡った。今この場を切り抜けるには、受け入れてしまうのが得策だろう。しかし、そうなるとイザルとの約束を破ることになる。

「っぁ、ま、まてっ」
「それは無理な話だ」

 そうこうしているうちに、腕をルシアンの首に回すようにして、シグムントは正面から抱きすくめられる。節ばった長い手指が柔らかな会陰をくすぐると、ルシアンが微かに息を詰める。

「っ、君は」
「ひゃあっ」
「っと、すまない……‼︎」

 慌てて体を離したルシアンに引きずられるように、シグムントは引き起こされる。戸惑いを向けてきたルシアンの目が、ゆっくりと柔らかそうな太ももの間に向けられる。本来ならば女性にはないものを認めると、ルシアンはピタリと動きを止めた。

「お、男……?」
「あ、あまり見ないで、くれ……」
「だ、だけど」

 成人にしては小ぶりな性器は、白く艶かしい足によって遮られた。シグムントの体は線が細い。華奢な体とその容貌に、女性と言われても真偽は不明なまま通ってしまいそうだ。
 怯えているのかも知れない。耳の先を真っ赤に染めて俯く姿に、ルシアンは居た堪れなくなった。

「すまない……。君は確か、女性と言っていなかったか」
「い、イザルが、そういうことにしろと言った……」
「あいつ……美人局のようなことをさせようとしたのか……」 
「つつも……? なんの言葉だ?」

 首を傾げるシグムントの様子は随分とあどけない。大人なら知っているであろう言葉も、知識がないのか不思議そうに聞き返す。きっと、魔族だからが理由ではない。シグムントは箱に入れるように大切に育てられたのだろうと、ルシアンはそんなことを思った。

「ルシアン、もう平気か……?」
「……何がだ?」
「…………」
「っ、と」

 シグムントの手が、ルシアンのシャツを掴んだ。緩い力で引き寄せられるままに身を任せる。
 小さな手のひらがルシアンの両頬を包み込むと、近い距離で見つめ返された。

「……ああ、よかった。もう怖い色はしていないようだ」

 シグムントは柔らかく微笑んだ。その笑みは、死んだ母親ですら向けられたことのないものであった。慈愛に満ちた笑みを浮かべるその表情が、己のものだけならよかったのに。
 ルシアンは胸の奥を甘く泣かせると、遠慮がちに小さな掌に頬を寄せる。

「もう大丈夫だ、ルシアンがいい子だから、怖いものはバイバイしたみたいだぞ。どれ、シグムントにもう一度お顔を見せておくれ」
「怖いもの……?」
「うん、ルシアンは、まだ知らなくていい。俺はお前が平気なら、それでいいんだ」

 そう言われて、ルシアンは甘い香りのするシグムントの胸に頭を抱かれた。
 先程は同意もなしに触れてしまったと言うのに、寛大なのか鈍感なのかがわからなかった。それでも引き寄せられるままに胸に頭を抱かれれば、ほのかに香る甘い香りや男にしては少しばかりふくりとした胸の粒に性欲を刺激される。まるで、シグムントの特別にでもなったかのように思ってしまうのだ。
 無責任な優しさは、時として残酷だ。男の腕の中で、こうも心がほぐれることがあるとは思いもよらなかった。
 ルシアンがlほう、と吐息を漏らした時。騒々しい騒音がひとときの甘やかな時間を奪い去った。

「ぎゃああああむりいいいいい‼︎」
「ーーーーーーーっ⁉︎」
「きゃいんっ!」

 けたたましい悲鳴と共に、執務室の扉がメイディアによって突き破られた。ルシアンは慌ててシグムントから体を離すと、血相を変えて振り向いた。
 唐突な体勢の変化に、鈍臭いシグムントは見事に机の下へと転がった。ぺたりと床についた体をむくりと起こす。銀灰の瞳に映ったのは、げっそりとしたイェネドを小脇に抱えて仁王立ちするイザルの姿である。

「シグムント無事かァ‼︎」
「人踏みつけにしてんじゃねええええ」

 床に臥した体を踏みつけにされたメイディアの額は、ぶつけたのだろう赤く腫れ上がっていた。可哀想な体に、もう一人分の成人男性の影がかかる。遊撃隊の履く特殊な装備の一つである見慣れた靴は、もちろんルシアンのものだ。
 顔のそっくりな男同士がメイディアの体の真上で火花を散らす状況に、助けを求めるようにシグムントへと向けられた狼の瞳。メイディアの心境は分かりやすく萎えている。

「帰りたい」
「おやあ、可哀想になあ」

 シグムントは情けなくぐずるメイディアへと手を伸ばすと、そっと頭を撫でてやる。
 その頭上では、ルシアンの硬質な声がイザルへと向けられた。

「お早い到着すぎて、こちらの準備が整っていない」
「なぁにがこちらの準備は整ってねえだクソガキ。人のもんに手ェ出しといて随分なご挨拶を言うじゃねえか」
「事情聴取、というやつだ。その扉の修理代、誰が払う」
「んなもんテメェの給料から差し引いといてくれや弟くんよ」

 部屋の空気は、今にも一触即発といった具合である。メイディアは早々に諦めたようで、イザルによって床に落とされたイェネドへと憐れみの視線を向けていた。
 シグムントからしてみれば、すでに見慣れた兄弟喧嘩である。しかしことの発端がルシアンによるシグムントの拉致であることは、いまいち理解していないようだった。

「なあ君、伸びているところすまないが、なんでイザルは怒っているんだろうか」
「それより先に労ってくんない」
「ああ、元気か君は。見たところダメそうだなあ」
「労わる気あんのかよお!」

 メイディアは、それはそれは深いため息を吐いた。なぜなら、シグムントによってもたらされたこの状況は悪夢でしかないからだ。
 イザルがこうしてわざわざ毛嫌いする城の一角へと訪れたということは、なりふり構っていられない理由があったからに他ならない。一向に状況を理解しようとしないシグムントの様子がわざとなのか、それとも天然からくるものなのか。
 おそらく後者であろうことは容易に察せられたが、今のメイディアにとってその真実こそが目を背けたいものである。
 なぜこうも貧乏くじばかりを引くのだろうか。表情は明確に語っていた。近くで伸びている黒髪長髪の男もまた、同類の匂いがする。こういう時の鼻だけはやけに効くのだと、メイディアは要らぬ自負を再確認した。

「うちの副団長が、あんた誘拐したろ。んで、キレたイザルが転移でこっちまで来たってわけ。二刻くらい時間稼げると思ったのに、ったく、自信無くしちゃうよなあマジで」
「なんだお迎えか。なあ君、すまないが肩を貸してくれないか。俺は歩くのが苦手なんだ」
「肩貸すのは構わないけどさ、あれ止められる? あーあーあー、ったく顔合わせんといっつもこうなんだから」

 目のやり場に困る白い素肌は、落ちていたルシアンの隊服の上着で再び隠した。着替えをさせる手もあったが、おそらくこの後に起こるであろうことを、地頭のいいメイディアはなんとなくだが察していたのだ。
 薄い肩を抱くように立ち上がる。イザルとルシアンは、飽きもせずに互いの胸ぐらを掴んで歪みあっていた。
 飛び交う本、スタンドライト。イザルは万年室でルシアンに襲い掛かり、そしてルシアンは花瓶をイザルの頭へと振り下ろしている。
 狭い室内で、よくもまあ血生臭い兄弟喧嘩を行えるものだ。止めなければとオロつくシグムントの横で、苦労人の気配を存分に漂わせるメリディアだけが、不毛な兄弟喧嘩を他人事のように眺めていた。



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