アイデンティティは奪われましたが、勇者とその弟に愛されてそれなりに幸せです。

だいきち

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フォレストフォール

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 森の深部に向かうにつれて、どんどんと魔素は濃くなっていった。シグムントが時折振り返るようにして背後を気にするので、五回目を超えた際に痺れを切らして喝を入れた。イザルにしては随分と堪えた方である。

「後ろから襲われたらどうするのだ。もしかしたらイザルのように正々堂々としていない魔物がいるかもしれないだろう!」
「喧嘩なら買うぞクソジジイ……」

 さっきまでしおらしくイザルに縋っていた時は可愛げがあったのに。気を抜いたらすぐにこれである。
 ヴィホルダーが現れるというフォレストフォールまでは、もう間も無くといったところだ。空気中の水分量が増し、長くのびた草が歩みを阻む。いよいよ月夜茸の群生地が近いようだ。ところどころ、淡く光る幻惑作用のある胞子が草陰から漏れている。
 イザルは立ち止まると、徐にインベントリから赤い紐を取り出した。

「また俺を縛るのか!」
「ちげえ。こっから迷わねえように、木に目印つけんだよ」
「え、迷うのか? だって、真っ直ぐにしか進んできていないだろう」
「本当にそう思ってんのか?」

 鼻で笑ったイザルが、通ってきた道へと振り向き指をさす。つられるように背後へと振り向いて、シグムントは息を呑んだ。目に飛び込んだ光景が、到底理解の範疇を超えていたのだ。

「え……」
「ここが。木漏れ日森の深部。フォレストフォールに入った証だ」

 淡々としたイザルの声がシグムントに現実を教える。二人が辿ってきた道は、すでに森に飲み込まれていた。広がる針葉樹林の檻。木漏れ日が注ぎ込む気持ちのいい山道はまやかしのように消え、木々の隙間を埋め尽くすのは漆黒の闇だ。
 シグムントの背筋に冷たいものが走る。ゆっくりと辺りを見渡せば、あちらこちらで青白い光が浮かび上がっていた。

「月夜茸がなんで危険なのか。それは胞子に幻覚作用があるからだ。そんで、ここは群生地。フォレストフォールは、その名の通り森の中に落ちるって意味だ」

 ここから出るには、正気でいること。かならず目印を結びつけること。
 立ち竦むシグムントの横を、イザルが通り過ぎる。値踏みするように目を細めると、手のひらから風魔法を繰り出した。足元から浮かび上がる月夜茸の胞子を、穏やかな風圧で吹き飛ばす。胞子が消えたその場所に、時空を切り取ったかのように見覚えのある道が現れた。

「結びつける紐は、目立つ色にしねえとわからねえ。こんなふうにな」

 イザルは枝葉の一本に赤い紐をしっかりと結びつける。もう片方も伸ばすようにして、木漏れ日を受ける木の枝に結びつけた。
 赤い糸が、空間の途中で途切れているようにも見えた。深夜の国にも迷いの森はあるが、こんな恐ろしい仕掛けは存在しない。シグムントは目を見開いたまま、動けずにいた。視界が歪み、頭がふわふわとしてくる。体に意思が伝達しない。

「ぅ、っ」
「幻惑付与されてんじゃねえ。おら、水のめ」
「す、すまない……」

 イザルの指が弾かれる音と共に、爽やかな風が吹いた後のように意識が明朗になる。これが月夜茸の幻惑効果かと、シグムントは口元を押さえて戦慄いた。
 細かな胞子は、知らない間に体内に入り込む。毒ではないが、思考を鈍らせ判断力を奪うのだ。故に、群生地にくれば来るほどその危険は増して行く。
 イザルから水を受け取ると、気を鎮めるようにゆっくりと口に含んだ。柑橘系の香りがする。気付けがわりだろうか、ほのかにミント香りがした。

「俺の目を見ろ、シグムント」
「う、うむ」

 柔らかな両頬に、無骨な手が添えられる。見つめ返したイザルの瞳が、くらりと怪しく光った気がした。

「ふァ、な、何した、っ」
「服従魔法かけたんだよ。先に状態異常にかかってれば、幻惑は付与されないからな」
「な、なるほど」

 シグムントの体を、服従魔法特有の甘やかな刺激が支配する。イザルの機転も長い旅路で得た経験の一つだ。
 ぞくりとした甘い痺れが、シグムントの背筋に走る。頭の上から無理やり押さえつけられているかのような感覚だ。

「いくぞシグムント。俺から離れるな。」
「ぅ、うん、……」

 濡れた唇から、あえかな吐息が漏れた。命令を聞くだけで体がおかしくなってしまいそうだった。何気なく放たれた声が、耳元で囁かれているかのように聞こえるのだ。
 
「俺の後ろから離れるな。異常を感じたら知らせろ。いいな」
「ゎ、わかった」

 口の中に、唾液が溜まる。イザルの声を、もっと聞いていたい。シグムントはふらふらと歩みを進めると、鼻腔をくすぐる甘やかな香りに気がついた。
 知っている。これは魔物の花の香りだ。この近くに潜んでいるのだろう、シグムントはイザルの服の裾を掴んで立ち止まると、キョロリと辺りを見渡した。

「どうした」
「……フェロモンの匂いがする。近くに花型の魔物がいる証拠だ」
「種別までわかるか」
「……待ってくれ、多分……これっ」

 シグムントは、弾かれたようにイザルへと手を伸ばした。体を抱き込むと、そのままもつれあうように地べたへと倒れる。
 細い腕の中で、イザルの目端に映り込んだ浮かぶ土塊。地べたを引きずりあげるかのように勢いよく飛び出した緑色の触手が、二人のいた場所を削り取った。

「かふ、っ……!」
「でかした」

 イザルはシグムントの体を抱き込んだまま、場所を入れ替えるように受け身を取った。指先を一線するのみで展開した結界に、溶解液をまとった触手の鎖状攻撃が放たれる。


「ら、ラカントフラワーだ! その触手に触れると体が溶ける!」
「んで。種袋は金貨五枚分の価値……!」

 二人の目の前には、蛇にも見える大きな花型の魔物が立ちはだかっていた。首周りに咲いた花弁が、敵意を表すようにざわざわと震える。蔦を絡めたかのような醜悪な顔に埋め込まれた一つ目が、二人へと狙いを定める。
 迷宮の深部にいるような危険度の高い魔物が、なぜこの森にいるのかはわからない。しかし、二人には旅の資金が必要だった。イザルの口元が獰猛に笑みを浮かべる。換金できる素材は、いくらあっても構わない。
 イザルはすぐさま結界を解くと、茂っていた草の一部を毟り取った。木属性魔法である活性術を駆使し、草で作り上げたのは一本の太い蔓だ。
 
「ラカントフラワーの性別わかるかシグムント!」
「雄だ! 木属性魔法なら、誘発剤でフェロモンの香りを作れ!」
「は、なるほどね」

 やはりシグムントは使える。イザルはラカントフラワーと距離をとりながら、インベントリから取り出した誘発剤を蔓に振りかけた。その成分を植物魔物の雌のフェロモンに似せると、その蔓をラカントフラワーに向かって振り上げる。

「存分に愛し合ってくれて構わない」

 イザルは風魔法を放つと、蔓を旋風に巻き込むかのようにして空中で踊らせた。ラカントフラワーは木の蔓に寄生して幼体を生み出す魔物だ。緑色の夥しいほどの触手が、空中の蔓へと一斉に向かっていく。
 イザルは、その隙を逃さなかった。ラカントフラワーの伸びた鎌首めがけて、風魔法である鎌鼬を放ったのだ。三日月状の緑の刃が、真っ直ぐにラカントフラワーの首に目掛けて吸い込まれていった。

「わ……っ!」

 シグムントは、眼の前の光景を真っ直ぐに見つめていた。火炎魔法でなら一瞬だった魔物ではあったが、このフィールドでは悪手であった。手間のかかる方法ではあったが、森を傷つけることなく討伐して見せたイザルの手腕は、実に目を見張るものがあったのだ。
 ラカントフラワーの真っ赤な花びらが、風に乗って舞い落ちる。イザルは手で庇を作るかのようにして、魔素となって消えていく様子を見つめていた。
 すごい、やはりイザルは強い。シグムントの本能が、早く隣へ行きたいとせかしてくる。長い棒を拾って、杖代わりにイザルの元へ向かう。相変わらず下手くそな歩き方で向かってくる姿に気がつくと、イザルはニイ、と意地悪な顔で笑った。

「す、すごい! かっこよかっ」

 かっこよかったぞイザル! 忙しない気持ちを吐き出すように、元気よく声を上げたシグムントの言葉は、最後まで続くことはなかった。
 雷の轟く音がして、イザルの目の前に木端が飛び散る。木の捻り切れる音と共に現れた太い腕が、無邪気に近づいてくるシグムントの細い体を鷲掴んだ。

「しぐ、」
「ぁ、っ」

 見開かれた銀灰の瞳に映るのは、長い銀髪が描く軌跡だった。灰色の腕は全貌を明かさぬまま、あっという間にイザルの目の前から消え去った。攻撃を放つ隙すらも与えず、シグムントだけを目の前から連れ去ったのだ。
 

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