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わからせる ✴︎
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「ぅわあっ!」
あてがわれた部屋に着いた瞬間、シグムントはイザルによってベットの上へと放り投げられた。
スプリングが軋み、華奢な体がボヨンとはずむ。ひっくり返った亀のような動きでなんとか起き上がると、目の前には不機嫌顔のイザルが仁王立ちをしていた。
「シグムント。俺はお前の正体を晒すなと、散々言ったんだが?」
「う、うむ……」
「さっき、お前は角が、とか言おうとしなかったか? ああ?」
「か、顔が怖いイザルっ」
「悪いがこれが通常運転だ」
イザルがベットに乗り上げる音がした。放たれる威圧がなんだかを、シグムントは実によく理解していた。サッと顔が青ざめる。これは間違いなく、お説教コース待ったなしだろう。引き攣り笑みを浮かべた時、シグムントの不可視の角を大きな手が鷲掴む。
「ぁう、っ」
「お前が元魔王だとバレたらどうなるか、こと細やかに説明をしねえとわかんねえのか。あ?」
「わ、わかっている、けどっ……今までと違うからっ」
「違うからなんだ。お前はそうやってバカやって、俺を間接的に殺そうとしてんのか」
「っ……そんなこと思ってないぞ‼︎ あっ」
角を掴んだまま、イザルはシグムントの体をベットの上に縫い付けた。ぐっと体の距離が近くなる。後退りをしようとしたシグムントを牽制するかのように、顔の横にはイザルの肘が置かれた。
「ち、近いっお、重いぞイザル……!」
「主従関係わからせてんだ馬鹿野郎。いいか、お前が下手こきゃ俺は首と体がバイバイだ。なんでかわかるか? それは俺がお前を仕留めなかったからだ」
「わ、わかってる、生かしてくれてありがとうだが、王を騙したのはイザルだろうっ」
「んなの騙されるやつが悪いんだ。それに俺あいつ嫌いだし」
「お前の方がよほど魔王に向いている……」
シグムントの体を組み敷いたまま、イザルが吐き捨てるように言う。
男らしく鍛え上げられた体に抑え込まれたまま、シグムントは主従関係という言葉を頭の中で巡らせていた。確かにイザルはシグムントの命を残してくれたし、拾ってくれて世話を焼いてくれた。こうして上下関係を示されるのも成程道理である。
角を握っていたイザルの手が離れ、小さな顎を掴むかのように顔を固定される。冷たい色を瞳に宿してシグムントを見つめたイザルは、現実を突きつけるように宣った。
「いいかシグムント、お前はもう魔王じゃない。ただのシグムントだ。魔王だったことは忘れろ。そして、お前が魔族だと言うことも決して口外するな。俺の為にもな」
「い、イザル」
「お前が魔王だった時代は、もう終わったんだよ」
ベットへと縫い止めた体は、イザルの体にすっぽりと隠れてしまうほどに華奢だ。大きな体の男に押さえつけられる恐怖を味わえばいい。元魔王としてのプライドをへし折ってやると、イザルにはそんな思惑があったのだ。
銀灰色の瞳を見開いたシグムントの、慎ましい喉仏がこくりと上下する。ようやく置かれている状況を理解したかと思ったのも束の間で、シグムントはイザルが予測していなかった反応を示した。
「あ、……ありがとう」
「……あん?」
シグムントの顔は、微笑んでいた。揃いの銀灰の瞳を潤ませて、泣くのを堪えるかのようにだ。
形の良い唇が僅かに震えて、真一文字に惹き結ばれる。今まで無様な泣き顔しか見てこなかったせいか、イザルは己の苛立ちもすっかり忘れて、ただ見入ってしまった。
シグムントの小さな手のひらが、イザルの黒髪を避けるようにして耳にかけた。桜貝のような薄い爪が頬を掠めた時。イザルの中の何かが、微かにざわめいた気がした。
「そうだな、うん、俺は……もうただのシグムントだな……」
まろい頬を滑る一筋を、気がつけば指先で受け止めていた。シグムントの純粋な言葉を、気持ちのこもった眼差しを向けられて、体の内側からさざなみのように慣れぬ感覚が広がっていく。心の底からのありがとうも、嬉しいを眼差しに乗せて向けられることも。シグムントが初めてだ。いつもイザルへと向けられる目は怯えの色が混じるか、憎しみの色が混じるか。私欲混じりの打算的な目つきばかりであった。
いつもの、やかましくて情けない顔じゃない。イザルの目の前にいるシグムントは、確かに美しかった。
魔力がないのだと、散々嘆いていた頃のシグムントはもういない。その理由が、イザルの隣にいることに安堵しているからだとしたら──── イザルの心臓は、妙な跳ね方をした。
「イザル?」
頼むから、今は話しかけないでほしかった。喉が渇く。口を開けて仕舞えばおかしなことを聞いてしまいそうで、イザルは嫌だった。
ゆっくりと腕の力を抜いた。そのまま、シグムントに体重をかけるように身を投げ出すと、イザルの下からはくぐもった声が漏れた。
ぐぇ、だか、むぉ、だか。そんな声だ。苦しげなうめき声をあげる癖に、自由にしてやったシグムントの両腕は、行き場に迷うかのようにイザルの真横でウロウロしている。
イザルは、シグムントを押し潰したまま逡巡した。あの時つい口に出しそうになった言葉は、己への好意を確かめる言葉だ。そんなもの、口にして仕舞えばまずいに決まっている。仮に好きだと好意を向けられたら、一体どうするつもりだったのだ。
イザルは小さく舌打ちをすると、ゆっくりと体を起こした。そんなもの、聞かなくても反応を見ればわかることだ。後先考えずに行動して、余計面倒なことになった経験だってあるのに。イザルはそんなことも忘れて、指先をシグムントの唇へと運ぶ。
「試しても、いいか」
「うん? 構わないが、何を……」
イザルの呼気が、唇に触れた。それは、シグムントを黙らせるのには実に有効だった。口付けは決して押し付けるようなものではない。ただ、優しく啄むものだった。一瞬のはずのふれあいは、呼吸を止めていたせいで酷く長く感じた。正常に動いていたはずのシグムントの肺機能は不具合をきたし、脳に酸素を送ることすら放棄した体は、唐突に心臓の動きを早くする。
シグムントの目が、ゆっくりと見開かれる。身体中の全ての感覚が、熱とともに研ぎ澄まされた気がした。素足に触れるシーツの感触も、時計の針のカチコチという音も、階下から聞こえる細やかな話し声も、全てが日常を示してくる。それなのに、シグムントは今ここにはいなかった。
イザルと唇を重ねている現実が信じられずに、動けなくなってしまったのだ。意思が効かない。熱が脳へとたどり着き、異常をきたしてしまったのかもしれない。
触れ合った唇の感触をようやく掴む頃には、イザルの熱はゆっくりと離れていった。
「……息止まってんぞ」
「ぃ、イザル、な」
「試していいかって言ったろ」
「な、何ぉ」
白い肌は、笑えるくらいに上気している。その様子が、イザルの醜い矜持を満たす。熱を確かめるように頬に添えた手のひらから、シグムントの体温が侵食してくる。ああ、気分がいいな。と、イザルは上等な面で微笑んだ。相変わらず悪人のように治安の悪い笑顔であったが、それでも比較的優しく見えなくもない笑みだった。
「うっ!」
「ふは、」
唇の隙間から見えたのは、濡れた赤い舌だ。イザルは触れてみたくて、無意識にシグムントの口に指を含ませていた。無骨な指先が、熱を確かめるように舌を撫でる。
指先で潰された唾液がプチュンと音を立て、シグムントの形のいい唇の隙間からこぼれ落ちる。潤んだ銀灰の瞳に閉じ込められることが、こんなに心地の良いことだとは思わなかった。
シグムントは、されるがままであった。この行為になんの意味があるのかはわからなかったが、イザルは見たこともない満足そうな表情をしている。もしかしたら、イザルの機嫌が治るかもしれない。そんなことを思って大人しく行為を受け入れていたが、少しばかし妙な気分にもなってくる。腹の奥が熱くなって、下腹部に疼痛が走るのだ。慰めなれていないところが膨らんでしまって、シグムントは慌てて足を閉じた。
「ぃ、ぃあぅ、も、もうひゃめ」
「舌が赤いな。それに、普通よりなげえ。やっぱ本性が蛇だからか?」
「ぅ、うっ」
イザルの指が、シグムントの舌を摘む。そのまま口の中から引っ張られ、濡れた唾液がイザルの手首を伝う。飲み込みきれなかったシグムントの唾液が、ベットシーツに滲む。苦しくて、ついイザルの手首を掴んだ。
「やめてほしい?」
「ぅ、ン、っ」
「……どうすっかな」
ああ、まただ。と思った。
イザルが、楽しそうに笑みを浮かべている。いつもの悪人面ではない笑顔だ。シグムントは意地悪をされているはずなのに、抵抗は制止を試みる手のみ。
シグムントの頭が、じんわりと熱くなる。加虐心の混じったイザルのとろめくような瞳が、ただでさえままならない呼吸をさらに苦しくさせるのだ。視線が自然に熱を帯びて、見たことのないイザルの表情を求めてしまう。親指で舌の表面を摩擦されて、つい腰が震えてしまった。こんなはしたない姿を見られたくはないのに……。シグムントの気持ちとは裏腹に、体は馬鹿になっていくようだった。
「………」
「ふ…、ぅ…、」
シグムントの熱い吐息がイザルの指先に触れる。ぞりと動いた細い足に気がつくと、イザルは視線を向けた。不自然に閉じられた足が意味することなど、男ならわからぬものもいないだろう。シグムントの反応は、無情にもイザルを喜ばせた。
濡れた舌から手を離す。解放されるままに顔を背けようとするシグムントの頭を引き寄せると、イザルは制止の言葉を飲み込むように再び唇を重ねる。
「ぅ、うぅ、ん、ンぅ、……っ」
ああ、楽しい。イザルは、薄い舌を舐め上げるように深く口付けながら、ひどく高揚していた。聖剣を握り、生死をかけた争いを魔物と行ったあの時と同じ感覚が、体を支配していく。魔族であるシグムントを組み敷いているからかとも思ったが、それ以上の思考は面倒くさくなってやめた。
「ひ、んふ、っ」
唇の隙間から時折聞こえる、情けない上擦った声。人よりも少し長い舌に吸い付いてやれば、小さな手がゆるゆるとイザルの服を握りしめるのも気分が良かった。
甘い唾液に侵されるように、イザルもまた熱が頭を侵食していく。これは酩酊感にも似ているかもしれない。唇の隙間から、わずかな酸素しか与えられない。シグムントの抵抗はだんだんと弱々しくなっていき、漏れる声も涙混じりになっていた。
「はぁ、…っ、」
「ちゅ、ふ…っま、ン、んン…っ」
イザルに覆い被されたまま、思考もままならないほどの感覚に必死に応える。味蕾同士が擦り合わされ、イザルの唾液が喉に流れ込んでくる。体が重なって、苦しくて暑い。けれど、スライムベットが破裂したあの日の夜のように、他人の体温を側に感じて眠ると言うのは、いいなあと思ってしまった。
イザルからしたらこれも躾の一つかもしれないが、シグムントとしては、また違った意味合いを持つ。
「ぃ、ぁう、……」
こんな甘えたのような声が出てしまうとは思わなくて、シグムントは思わず顔を逸らした。唇が熱を持って痺れている。イザルの髪が頬に触れて、その先を求められているのがわかる。
イザルに触れられるのは嬉しい。嫌われてはいないという、一つの安心を与えてくれるからだ。恐る恐る、イザルの唇に触れるだけの口付けをした。それは小さな勇気だった。避けることもなく受け入れたイザルに、シグムントは少しだけ泣きそうになった。それは、イザルが気持ち悪がらなかったからだ。
赤くなった目元を、無骨な指先が撫でる。いつの間にか、イザルの腕によって逃げ場を閉ざされている。シグムントが何もしなくても、イザルがこうして体全体で囲ってくれるのなら、好きにしてほしいなあと思ってしまった。
「……シグムント、お前……抵抗もしねえのか」
ゆっくりと唇を離したイザルが、されるがままのシグムントを気にかけるように見つめてくる。
「ぅ、ン……?」
シグムントは未だ体の熱を持て余しながら、蕩けた瞳で不思議そうにイザルを見つめた。白い肌は上気して、なめらかな銀髪がベットに広がる。
両腕で囲うように閉じ込めた体は、イザルの服を遠慮がちに握り締めるだけである。身勝手な疑問で襲い掛かられたというのに、シグムントはただ次を待つように、イザルを見つめるだけであった。
「何を、考えている?」
イザルは戸惑った。シグムントへの問いかけが、己の思った以上に柔らかな声色になってしまったからである。いつもなら、もっと苛立った声を向けているところだ。その変化はもちろん、シグムントも気がついているだろう。しかし、それを指摘されることはなかった。細い指先が、柔らかさを確かめるようにイザルの唇へと触れる。
それは、一体どういう表情なのだろう。シグムントは上気した頬のまま、小さく息を吸うように唇を震わせる。とろけた瞳がゆっくりと逸れて、銀髪に埋もれるように色づいた尖り気味の耳が晒される。
気がつけばイザルはごくりと喉を鳴らしていた。犬歯が疼く、その柔らかな肉へと歯を突き立てたら、一体どんな声で泣くのだろう。そんな、シグムントが聞いたらまた怖がりそうなことを思った。
あてがわれた部屋に着いた瞬間、シグムントはイザルによってベットの上へと放り投げられた。
スプリングが軋み、華奢な体がボヨンとはずむ。ひっくり返った亀のような動きでなんとか起き上がると、目の前には不機嫌顔のイザルが仁王立ちをしていた。
「シグムント。俺はお前の正体を晒すなと、散々言ったんだが?」
「う、うむ……」
「さっき、お前は角が、とか言おうとしなかったか? ああ?」
「か、顔が怖いイザルっ」
「悪いがこれが通常運転だ」
イザルがベットに乗り上げる音がした。放たれる威圧がなんだかを、シグムントは実によく理解していた。サッと顔が青ざめる。これは間違いなく、お説教コース待ったなしだろう。引き攣り笑みを浮かべた時、シグムントの不可視の角を大きな手が鷲掴む。
「ぁう、っ」
「お前が元魔王だとバレたらどうなるか、こと細やかに説明をしねえとわかんねえのか。あ?」
「わ、わかっている、けどっ……今までと違うからっ」
「違うからなんだ。お前はそうやってバカやって、俺を間接的に殺そうとしてんのか」
「っ……そんなこと思ってないぞ‼︎ あっ」
角を掴んだまま、イザルはシグムントの体をベットの上に縫い付けた。ぐっと体の距離が近くなる。後退りをしようとしたシグムントを牽制するかのように、顔の横にはイザルの肘が置かれた。
「ち、近いっお、重いぞイザル……!」
「主従関係わからせてんだ馬鹿野郎。いいか、お前が下手こきゃ俺は首と体がバイバイだ。なんでかわかるか? それは俺がお前を仕留めなかったからだ」
「わ、わかってる、生かしてくれてありがとうだが、王を騙したのはイザルだろうっ」
「んなの騙されるやつが悪いんだ。それに俺あいつ嫌いだし」
「お前の方がよほど魔王に向いている……」
シグムントの体を組み敷いたまま、イザルが吐き捨てるように言う。
男らしく鍛え上げられた体に抑え込まれたまま、シグムントは主従関係という言葉を頭の中で巡らせていた。確かにイザルはシグムントの命を残してくれたし、拾ってくれて世話を焼いてくれた。こうして上下関係を示されるのも成程道理である。
角を握っていたイザルの手が離れ、小さな顎を掴むかのように顔を固定される。冷たい色を瞳に宿してシグムントを見つめたイザルは、現実を突きつけるように宣った。
「いいかシグムント、お前はもう魔王じゃない。ただのシグムントだ。魔王だったことは忘れろ。そして、お前が魔族だと言うことも決して口外するな。俺の為にもな」
「い、イザル」
「お前が魔王だった時代は、もう終わったんだよ」
ベットへと縫い止めた体は、イザルの体にすっぽりと隠れてしまうほどに華奢だ。大きな体の男に押さえつけられる恐怖を味わえばいい。元魔王としてのプライドをへし折ってやると、イザルにはそんな思惑があったのだ。
銀灰色の瞳を見開いたシグムントの、慎ましい喉仏がこくりと上下する。ようやく置かれている状況を理解したかと思ったのも束の間で、シグムントはイザルが予測していなかった反応を示した。
「あ、……ありがとう」
「……あん?」
シグムントの顔は、微笑んでいた。揃いの銀灰の瞳を潤ませて、泣くのを堪えるかのようにだ。
形の良い唇が僅かに震えて、真一文字に惹き結ばれる。今まで無様な泣き顔しか見てこなかったせいか、イザルは己の苛立ちもすっかり忘れて、ただ見入ってしまった。
シグムントの小さな手のひらが、イザルの黒髪を避けるようにして耳にかけた。桜貝のような薄い爪が頬を掠めた時。イザルの中の何かが、微かにざわめいた気がした。
「そうだな、うん、俺は……もうただのシグムントだな……」
まろい頬を滑る一筋を、気がつけば指先で受け止めていた。シグムントの純粋な言葉を、気持ちのこもった眼差しを向けられて、体の内側からさざなみのように慣れぬ感覚が広がっていく。心の底からのありがとうも、嬉しいを眼差しに乗せて向けられることも。シグムントが初めてだ。いつもイザルへと向けられる目は怯えの色が混じるか、憎しみの色が混じるか。私欲混じりの打算的な目つきばかりであった。
いつもの、やかましくて情けない顔じゃない。イザルの目の前にいるシグムントは、確かに美しかった。
魔力がないのだと、散々嘆いていた頃のシグムントはもういない。その理由が、イザルの隣にいることに安堵しているからだとしたら──── イザルの心臓は、妙な跳ね方をした。
「イザル?」
頼むから、今は話しかけないでほしかった。喉が渇く。口を開けて仕舞えばおかしなことを聞いてしまいそうで、イザルは嫌だった。
ゆっくりと腕の力を抜いた。そのまま、シグムントに体重をかけるように身を投げ出すと、イザルの下からはくぐもった声が漏れた。
ぐぇ、だか、むぉ、だか。そんな声だ。苦しげなうめき声をあげる癖に、自由にしてやったシグムントの両腕は、行き場に迷うかのようにイザルの真横でウロウロしている。
イザルは、シグムントを押し潰したまま逡巡した。あの時つい口に出しそうになった言葉は、己への好意を確かめる言葉だ。そんなもの、口にして仕舞えばまずいに決まっている。仮に好きだと好意を向けられたら、一体どうするつもりだったのだ。
イザルは小さく舌打ちをすると、ゆっくりと体を起こした。そんなもの、聞かなくても反応を見ればわかることだ。後先考えずに行動して、余計面倒なことになった経験だってあるのに。イザルはそんなことも忘れて、指先をシグムントの唇へと運ぶ。
「試しても、いいか」
「うん? 構わないが、何を……」
イザルの呼気が、唇に触れた。それは、シグムントを黙らせるのには実に有効だった。口付けは決して押し付けるようなものではない。ただ、優しく啄むものだった。一瞬のはずのふれあいは、呼吸を止めていたせいで酷く長く感じた。正常に動いていたはずのシグムントの肺機能は不具合をきたし、脳に酸素を送ることすら放棄した体は、唐突に心臓の動きを早くする。
シグムントの目が、ゆっくりと見開かれる。身体中の全ての感覚が、熱とともに研ぎ澄まされた気がした。素足に触れるシーツの感触も、時計の針のカチコチという音も、階下から聞こえる細やかな話し声も、全てが日常を示してくる。それなのに、シグムントは今ここにはいなかった。
イザルと唇を重ねている現実が信じられずに、動けなくなってしまったのだ。意思が効かない。熱が脳へとたどり着き、異常をきたしてしまったのかもしれない。
触れ合った唇の感触をようやく掴む頃には、イザルの熱はゆっくりと離れていった。
「……息止まってんぞ」
「ぃ、イザル、な」
「試していいかって言ったろ」
「な、何ぉ」
白い肌は、笑えるくらいに上気している。その様子が、イザルの醜い矜持を満たす。熱を確かめるように頬に添えた手のひらから、シグムントの体温が侵食してくる。ああ、気分がいいな。と、イザルは上等な面で微笑んだ。相変わらず悪人のように治安の悪い笑顔であったが、それでも比較的優しく見えなくもない笑みだった。
「うっ!」
「ふは、」
唇の隙間から見えたのは、濡れた赤い舌だ。イザルは触れてみたくて、無意識にシグムントの口に指を含ませていた。無骨な指先が、熱を確かめるように舌を撫でる。
指先で潰された唾液がプチュンと音を立て、シグムントの形のいい唇の隙間からこぼれ落ちる。潤んだ銀灰の瞳に閉じ込められることが、こんなに心地の良いことだとは思わなかった。
シグムントは、されるがままであった。この行為になんの意味があるのかはわからなかったが、イザルは見たこともない満足そうな表情をしている。もしかしたら、イザルの機嫌が治るかもしれない。そんなことを思って大人しく行為を受け入れていたが、少しばかし妙な気分にもなってくる。腹の奥が熱くなって、下腹部に疼痛が走るのだ。慰めなれていないところが膨らんでしまって、シグムントは慌てて足を閉じた。
「ぃ、ぃあぅ、も、もうひゃめ」
「舌が赤いな。それに、普通よりなげえ。やっぱ本性が蛇だからか?」
「ぅ、うっ」
イザルの指が、シグムントの舌を摘む。そのまま口の中から引っ張られ、濡れた唾液がイザルの手首を伝う。飲み込みきれなかったシグムントの唾液が、ベットシーツに滲む。苦しくて、ついイザルの手首を掴んだ。
「やめてほしい?」
「ぅ、ン、っ」
「……どうすっかな」
ああ、まただ。と思った。
イザルが、楽しそうに笑みを浮かべている。いつもの悪人面ではない笑顔だ。シグムントは意地悪をされているはずなのに、抵抗は制止を試みる手のみ。
シグムントの頭が、じんわりと熱くなる。加虐心の混じったイザルのとろめくような瞳が、ただでさえままならない呼吸をさらに苦しくさせるのだ。視線が自然に熱を帯びて、見たことのないイザルの表情を求めてしまう。親指で舌の表面を摩擦されて、つい腰が震えてしまった。こんなはしたない姿を見られたくはないのに……。シグムントの気持ちとは裏腹に、体は馬鹿になっていくようだった。
「………」
「ふ…、ぅ…、」
シグムントの熱い吐息がイザルの指先に触れる。ぞりと動いた細い足に気がつくと、イザルは視線を向けた。不自然に閉じられた足が意味することなど、男ならわからぬものもいないだろう。シグムントの反応は、無情にもイザルを喜ばせた。
濡れた舌から手を離す。解放されるままに顔を背けようとするシグムントの頭を引き寄せると、イザルは制止の言葉を飲み込むように再び唇を重ねる。
「ぅ、うぅ、ん、ンぅ、……っ」
ああ、楽しい。イザルは、薄い舌を舐め上げるように深く口付けながら、ひどく高揚していた。聖剣を握り、生死をかけた争いを魔物と行ったあの時と同じ感覚が、体を支配していく。魔族であるシグムントを組み敷いているからかとも思ったが、それ以上の思考は面倒くさくなってやめた。
「ひ、んふ、っ」
唇の隙間から時折聞こえる、情けない上擦った声。人よりも少し長い舌に吸い付いてやれば、小さな手がゆるゆるとイザルの服を握りしめるのも気分が良かった。
甘い唾液に侵されるように、イザルもまた熱が頭を侵食していく。これは酩酊感にも似ているかもしれない。唇の隙間から、わずかな酸素しか与えられない。シグムントの抵抗はだんだんと弱々しくなっていき、漏れる声も涙混じりになっていた。
「はぁ、…っ、」
「ちゅ、ふ…っま、ン、んン…っ」
イザルに覆い被されたまま、思考もままならないほどの感覚に必死に応える。味蕾同士が擦り合わされ、イザルの唾液が喉に流れ込んでくる。体が重なって、苦しくて暑い。けれど、スライムベットが破裂したあの日の夜のように、他人の体温を側に感じて眠ると言うのは、いいなあと思ってしまった。
イザルからしたらこれも躾の一つかもしれないが、シグムントとしては、また違った意味合いを持つ。
「ぃ、ぁう、……」
こんな甘えたのような声が出てしまうとは思わなくて、シグムントは思わず顔を逸らした。唇が熱を持って痺れている。イザルの髪が頬に触れて、その先を求められているのがわかる。
イザルに触れられるのは嬉しい。嫌われてはいないという、一つの安心を与えてくれるからだ。恐る恐る、イザルの唇に触れるだけの口付けをした。それは小さな勇気だった。避けることもなく受け入れたイザルに、シグムントは少しだけ泣きそうになった。それは、イザルが気持ち悪がらなかったからだ。
赤くなった目元を、無骨な指先が撫でる。いつの間にか、イザルの腕によって逃げ場を閉ざされている。シグムントが何もしなくても、イザルがこうして体全体で囲ってくれるのなら、好きにしてほしいなあと思ってしまった。
「……シグムント、お前……抵抗もしねえのか」
ゆっくりと唇を離したイザルが、されるがままのシグムントを気にかけるように見つめてくる。
「ぅ、ン……?」
シグムントは未だ体の熱を持て余しながら、蕩けた瞳で不思議そうにイザルを見つめた。白い肌は上気して、なめらかな銀髪がベットに広がる。
両腕で囲うように閉じ込めた体は、イザルの服を遠慮がちに握り締めるだけである。身勝手な疑問で襲い掛かられたというのに、シグムントはただ次を待つように、イザルを見つめるだけであった。
「何を、考えている?」
イザルは戸惑った。シグムントへの問いかけが、己の思った以上に柔らかな声色になってしまったからである。いつもなら、もっと苛立った声を向けているところだ。その変化はもちろん、シグムントも気がついているだろう。しかし、それを指摘されることはなかった。細い指先が、柔らかさを確かめるようにイザルの唇へと触れる。
それは、一体どういう表情なのだろう。シグムントは上気した頬のまま、小さく息を吸うように唇を震わせる。とろけた瞳がゆっくりと逸れて、銀髪に埋もれるように色づいた尖り気味の耳が晒される。
気がつけばイザルはごくりと喉を鳴らしていた。犬歯が疼く、その柔らかな肉へと歯を突き立てたら、一体どんな声で泣くのだろう。そんな、シグムントが聞いたらまた怖がりそうなことを思った。
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攻→ヴィルヘルム
完璧超人。真面目で自信家。良き跡継ぎ、良き兄、良き息子であろうとし続ける、実直な男だが、興味関心がない相手にはどこまでも無関心で辛辣。当初は異国の使者だと思っていたレイナードを警戒していたが…
受→レイナード
和平交渉の一環で異国のアドラー家に人質として出された。主人公。立ち位置をよく理解しており、計算せずとも人から好かれる。常に兄を立てて陰で支える立場にいる。課せられた使命と現状に悩みつつある上に、義兄の様子もおかしくて、いろんな意味で気苦労の絶えない。
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真面目系委員長の同室は王道転校生⁉~王道受けの横で適度に巻き込まれて行きます~
シキ
BL
全寮制学園モノBL。
倉科誠は真面目で平凡な目立たない学級委員長だった。そう、だった。季節外れの王道転入生が来るまでは……。
倉科の通う私立藤咲学園は山奥に位置する全寮制男子高校だ。外界と隔絶されたそこでは美形生徒が信奉され、親衛隊が作られ、生徒会には俺様会長やクール系副会長が在籍する王道学園と呼ぶに相応しいであろう場所。そんな学園に一人の転入生がやってくる。破天荒な美少年の彼を中心に巻き起こる騒動に同室・同クラスな委員長も巻き込まれていき……?
真面目で平凡()な学級委員長が王道転入生くんに巻き込まれ何だかんだ総受けする青春系ラブストーリー。
一部固定CP(副会長×王道転入生)もいつつ、基本は主人公総受けです。
こちらは個人サイトで数年前に連載していて、途中だったお話です。
今度こそ完走させてあげたいと思いたってこちらで加筆修正して再連載させていただいています。
当時の企画で書いた番外編なども掲載させていただきますが、生暖かく見守ってください。
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主人公のライバルポジにいるようなので、主人公のカッコ可愛さを特等席で愛でたいと思います。
小鷹けい
BL
以前、なろうサイトさまに途中まであげて、結局書きかけのまま放置していたものになります(アカウントごと削除済み)タイトルさえもうろ覚え。
そのうち続きを書くぞ、の意気込みついでに数話分投稿させていただきます。
先輩×後輩
攻略キャラ×当て馬キャラ
総受けではありません。
嫌われ→からの溺愛。こちらも面倒くさい拗らせ攻めです。
ある日、目が覚めたら大好きだったBLゲームの当て馬キャラになっていた。死んだ覚えはないが、そのキャラクターとして生きてきた期間の記憶もある。
だけど、ここでひとつ問題が……。『おれ』の推し、『僕』が今まで嫌がらせし続けてきた、このゲームの主人公キャラなんだよね……。
え、イジめなきゃダメなの??死ぬほど嫌なんだけど。絶対嫌でしょ……。
でも、主人公が攻略キャラとBLしてるところはなんとしても見たい!!ひっそりと。なんなら近くで見たい!!
……って、なったライバルポジとして生きることになった『おれ(僕)』が、主人公と仲良くしつつ、攻略キャラを巻き込んでひっそり推し活する……みたいな話です。
本来なら当て馬キャラとして冷たくあしらわれ、手酷くフラれるはずの『ハルカ先輩』から、バグなのかなんなのか徐々に距離を詰めてこられて戸惑いまくる当て馬の話。
こちらは、ゆるゆる不定期更新になります。
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俺にとってはあなたが運命でした
ハル
BL
第2次性が浸透し、αを引き付ける発情期があるΩへの差別が医療の発達により緩和され始めた社会
βの少し人付き合いが苦手で友人がいないだけの平凡な大学生、浅野瑞穂
彼は一人暮らしをしていたが、コンビニ生活を母に知られ実家に戻される。
その隣に引っ越してきたαΩ夫夫、嵯峨彰彦と菜桜、αの子供、理人と香菜と出会い、彼らと交流を深める。
それと同時に、彼ら家族が頼りにする彰彦の幼馴染で同僚である遠月晴哉とも親睦を深め、やがて2人は惹かれ合う。
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婚約破棄された冷血小公爵はライバルの最狂ヤンデレ騎士にらちかんされました
ひよこ麺
BL
「『姫』であるマリーノ・ゴールド伯爵令息より拒絶され婚約破棄となったため、フレデリック・コルヌイエ・リシュリュー小公爵より、『騎士』の資格を剥奪する」
その言葉を皇帝陛下から言い渡されたフレデリック・コルヌイエ・リシュリュー小公爵は絶望した。男しかいないこの世界では『姫』と『騎士』と呼ばれるふたつの役割により生殖をおこなう。
『姫』とは美しい花のような存在で『騎士』から愛され守られる存在で、『騎士』とは『姫』に忠義を捧げて守り愛し抜く存在であるとされている。
『騎士』は自らが愛する『姫』を選び、『騎士』に選ばれることで『姫』となる。『騎士』は『姫』に選ばれなかった者がなり、愛と忠義を捧げる『姫』を求める存在となる。
全ては愛される『姫』が優位な世界。
その世界で、一度忠義を捧げた『姫』から拒絶された『騎士』は『落伍騎士』とされ以降『姫』への求婚を禁じられる。
自身が『姫』となる以外では、事実上、独り身で生きることが確定する。
一般市民であればそれでも構わないが公爵家の嫡男であるフレデリックにとってそれは最大の瑕疵となり、家を繋ぐことができない以上は家督も継げないため家からも追い出されることを意味していた。
プライドの高いフレデリックは絶望からその場にへたりこんでいた。周囲で嘲り笑う声が響く中、ある男がフレデリックの側に進み出た。
それはずっとフレデリックをなぜかライバル視してきた辺境伯にして現在帝国最高の騎士と誉高いマティアス・ベラドンナ・バーデンだった。
「……辺境伯卿、私に何か御用ですかな」
「もう、そのように無理をしないでください。美しい姫君にこの冷たく汚れた床は似合わない」
何故かお姫様抱っこでマティアスに持ち上げられたフレデリックにさらに信じがたい言葉が聞こえる。
「では……皇帝陛下の甥であり《《麗しい青薔薇の姫君》》である、フレデリック・コルヌイエ・リシュリュー小公爵との婚姻を認めて頂きたい」
初恋拗らせヤンデレ騎士に連れ去られてらちかんされたフレデリックの運命はいかに!?
※が付くところは背後注意な性的な表現があります。
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