アイデンティティは奪われましたが、勇者とその弟に愛されてそれなりに幸せです。

だいきち

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はじまりはじまり 

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「お前には、これから霧の魔物を調査してもらうつもりだ。返事はイエス以外は許さない。わかっているだろう、ルシアン」

 セタンナの怜悧な声が、ルシアンの頭の中にじんわりと浸透していく。向けられたロッドは彼女の愛用している武器で、棒状の部分に氷を纏わせ様々な武器の形を作る。
 魔物を刈り取ることに慣れた氷のロッドが、胸に押し付けられている。ルシアンは無言でそれを握り締めると、セタンナを真っ直ぐに見つめた。

「……質問は許されますか」
「許す」

 与えられた時間はそう多くはないだろう。メイディアの息を呑む音が聞こえて、冷たい夜風が肌を撫でるように二人の間を通り過ぎる。少しだけ強まってしまった語気は、ルシアンの動揺の表れだった。

「俺がガインを殺すと言った時、止めなかったのは……ガインの魔物化をわかっていたから。違いますか」
「可能性を強く感じていた、に訂正しろ。そして、おそらくお前が思っている通りだルシアン」

 セタンナの碧い瞳が、ルシアンの心の内側を注視するように細まった。
 小さく息を呑む。ルシアンの中の感情のさざめきが、波紋のように体に染み渡っていく。
 セタンナは、ガインが魔物になる可能性を理解した上で、ルシアンと打つけたのだ。つまり、ルシアンがガインを殺した事実に苦しめられるだろうことを知っていて、指示を飛ばした。
 ルシアンは、仲間だった男を魔物同様に処理をした。なにより、ルシアンはセタンナへとたしかに口にしていたのだ。ガインを殺してしまうかもしれないと。

「止めなかった理由は、わかりました」
「ガインをまともに相手にできるのは貴様だけだルシアン。メイディアがその役に回っていれば、こいつはお前の目の前で絶命していたことだろう」
「……俺だから、被害は最小限に抑えられたと。つまりはそういうことですね」
「ま、待ってくれ、せ、セタンナ隊長、そりゃあんまりだって! そんな、だって……背負わせるみたいな……っ」

 動揺する声に、セタンナは碧い瞳を向けた。そこには今にも掴みかかってくるようなメイディアの姿があった。

「メイディア……お前は優しいな。しかし、その優しさは迷いを生む。それは、戦場では通用しない」
「っ、ここは、戦場なんかじゃない……!」
「メイディア」

 淡々とした声がメイディアの言葉を遮った。ルシアンは、メイディアの優しさを知っている。そして、その優しさはメイディア自身の命を危険に晒すこともあるということを。

「話を聞かせてください。まずは、何故隊長がそのようにお考えになったのかを」
「執務室に来い。メイディア、お前もだ」
「……御意」

 夜の突き刺すような寒さだけではない震えが、ルシアンの体の内側へと広がっていた。セタンナの背を追うように歩む途中、一度だけ背後を振り返った。

──── 負けたくない。

 確かに聞こえたガインのあの言葉が、耳にこびりついて離れない。ルシアンは己の耳朶をカサついた指先で摘むと、緩く引っ張るかのように手を離した。
 確かに、殺してしまうかもしれないと言った。しかしそれは、ガインに対する牽制の意味合いも含まっていた。己の言葉には責任を持て。ガインが喧しく言っていた言葉を、こんな形で味わうことになるとは思わなかった。






 セタンナの執務室の扉は、枠だけを残して口を開けている。メイディアが散らばった破片の片付けに追われている姿を背後に、ルシアンはセタンナから説明を受けていた。
 執務室の魔導ランプが、暖かな光で室内を照らしている。あんな事があったばかりだというのに、人口的な光が優しくルシアンの緊張を解してくれるようだった。

「まるで、人が変わったようだと感じた。私の執務室では無駄口を叩かなかったガインが、ここ数日で随分な態度をとっていたからな」
「それは」
「あいつはお前の副隊長という座を狙っていた。そんな男が私を私情で巻き込むと思うか。任命権を持つのは私だぞ」

 ふん、とセタンナは鼻で笑った。遊撃隊の女帝と恐れられているセタンナの、唯一の癖のようなものだ。鼻で笑うのが似合っているというと語弊があるのだが、不思議と嫌な気分にはならない。
 ルシアンは、難しい顔をしたままセタンナを見つめる。メイディアは聞き耳を立てているのだろうか、やけに静かであった。

「本題に入りましょう、隊長。なんで貴女は人が魔物になる可能性を認めたのですか」
「ふん、この私を急かすほど偉くなったのか。まあいい、お前には働いてもらうしな」

 机に肘をついてルシアンを見つめたセタンナの口角が、にい、と上がった。随分と意地の悪い笑い方だ。
 夜も更けている。時間は有限ではないのも十分承知している。しかし、そうだとしても、説明をするに当たって、決して省いてはいけない部分というのも、勿論あるわけだ。
 セタンナは自嘲した。まさか誰にも話してこなかった昔話を、この後に及んでするとは思わなかったからだ。
 無惨にも割れて散らばってしまった窓ガラスを見つめる。整えられた通路の、一部分だけが退廃的な様相になってしまった。その有様が呼び水となって、セタンナは押し込めていた己の過去の記憶を容易く思い出すことが出来た。
 誰にも語ったことのないこの話を、腹心の男に話す事になるとは。しかし、目の前の男なら言い含めなくても妙な同情などはしないだろう。セタンナはそう判断すると、ルシアンの背後で空気に徹しているメイディアに視線を移した。

「メイディア。貴様も巻き込むぞ。こちら側の手札としてはルシアン一人じゃ心もとない。お前もあの瞬間を目の当たりにしたのだ。腹を括れ」
「……こちら側の、手札……?」

 不穏な響きを持ったセタンナの言葉に、メイディアが訝しげな顔をする。ルシアンもどうやら良い印象を抱かなかったようだ。表情を殺していた眉が、ピクリと跳ねる。
 セタンナは長い足を組むと、椅子の背もたれに寄りかかった。何も長く話をするつもりではない。しかし、楽な体勢を取ったのは、今から話す内容の事の大きさを、少しでも軽減して受け取ってもらう為にだ。

「私の母と、全く同じ状況だった」

 女性にしては低めの声が、端的に告げた。
 セタンナの言葉は二人の思考を一拍遅らせる。メイディアも、ルシアンも、すぐには言葉を発することが出来なかった。
 上司の性別が女性ということもあり、部隊の中では過去に触れることはタブーだと、暗黙の了解のようなものが少なからずあったのだ。男所帯の唯一の異性。側から見れば妙な詮索をされてしまうような立ち位置だ。しかし、セタンナの前ではそれは通用しない。
 徹底的に躾けられた彼らが、セタンナを女性として扱うことを許しはしなかった。妙な意識をさせないために、セタンナ自身も気を配っている。しかし、それを部下には気づかせない心の強さもまた持ち合わせていた。
 故に、セタンナのプライベートは機密事項というか、秘匿事項というか。とかく、その一端に触れて仕舞えばたちまち男としての機能を失うだろうという刷り込みをされていた。

 そんな、最も聞きづらいセタンナの過去の内容を、メイディアとルシアンは耳にしようとしている。自然と体に力が入ってしまうのは仕方がないだろう。しかし、話の流れを鑑みれば、当たり前な反応である。
 ルシアンは、セタンナの顔をまっすぐに見つめながら口を開いた。

「……それは、人が魔物になる瞬間、ということですか」
「そうだ」

 セタンナの相槌には、緊張感は見られなかった。それが、余計に二人を身構えさせた。掃除に手がつかなかくなったらしい、メイディアが真剣な面持ちでルシアンの横に並ぶ。
 机を挟んで男二人に見下ろされている状況ではあるものの、セタンナの表情は一切変わらなかった。強いていうなら、マテを言いつけた飼い犬が、きちんと己の指示通りに待機しているかを眺めるような、そんな眼だ。
 
「私の母の家の遺産を、父親が軍備に使い込んでしまってな。おそらくそれも国王の覚えをめでたくしようとした一つの下心だったんだろうが、まあそれが裏目に出て破産した。いいように利用されたんだな」

 セタンナの淡々とした口調で語られたのは、己の父親が夜会で不毛な自己顕示欲を発揮して、他の貴族たちから陥れられたということ。
 母親は、元々父親を嫌っていたそうだ。恋愛結婚ではない、家同士の繋がりを深めるために結婚したようなものだった。しかし、片方が倒れればもう片方も引きずられる。
 愛情のなかった婚姻だったからこそ、母親の父に対する不満は少しずつ降り積もっていた。そして、承諾のない遺産の使い込み。父は母の嫁入り道具すらも売ってしまうほどだったという。家庭で居場所のない父親は、社交界にその場所を求めた。
 少しずつ、少しずつ困窮していった。そうして、プライドだけが残ったまま、屋敷の維持費の捻出にも頭を悩ませるまでになっていたある日の夜に、それは起きた。

「父親が私に手をあげた。そして母が魔物になった」

 セタンナがきっかけで、両親は霧の魔物に殺された。
 ただ幼いセタンナは、父の話の途中でうたた寝をしただけだ。そして、家族の話に参加しないのはどういう了見かと激昂した父によって、セタンナは頬を弾かれた。幼い体が飛んでしまうほどの力の強さに、何が起きたのかわからなかったという。 
 しかし、もっとわからなかったのは、母親の方だった。

「ルシアン。お前、ガインを前にして何を見た」
「……何を、とは」
「黒い靄のようなものを見なかったか」
「あ……」

 ポツリと声を漏らしたのはメイディアだ。ルシアンは、黒い靄のようなものをガインの瞳の奥に見た事を伝えると、セタンナは小さく頷きメイディアへと視線を滑らせる。
 
「俺は、今朝だ。気のせいかと思ったんだけど、ガインの影が千切れたように見えて」
「影が、千切れる?」
「そんなわけねえって、俺も思っていたさ。だけど、ガインの瞳の件もあるだろう。なんだこれ、気持ち悪い……」

 ルシアンは整った鼻梁を歪めるように渋い顔をする。ある一つの予測が浮かび上がったのだ。しかし、唇は鉛になったように開くのが億劫だった。
 そんな部下の様子を前に、セタンナはその長い足を組み直した。

「私の母は、己の影に飲み込まれるように魔物になっていたな。影が千切れていたかまでは覚えとらんが、魔物への転化の瞬間はガインと同じだった」

 振り返れば真っ先に思い出すのは、異常なまでに取り乱した母の姿だ。口答えをせずに父によって抑え込まれていた母が、金切り声を上げながら襲い掛かった。父は母をいなしたが、侍従に取り押さえられた華奢な体が背中から破けるかのように魔物に姿を変えたのだ。

「……トリガーはなんなのですか」
「知るか。憎悪か何かじゃないか。まあ、腹に一物抱え込んでいる奴なんて山程いるだろう」

 皮肉な笑みで、セタンナが宣う。それは、そうだろう。人間は感情を持つ生き物だ。当然妬みや嫉みなども身の内に宿していく。そんなものが簡単に噴き上げて魔物になったら、ルシアンはイザルへの恨みでとうに魔物になっている。

「セタンナ隊長、まさかとは思いますけど、それを調べろってんじゃないですよね……」
「おや、私の部下は随分と察しがいいな」
「そんな」

 無茶苦茶だろう。メイディアとルシアンの心の声はしっかりと重なっていた。しかし、セタンナが指示を変えるときは、戦線での状況が思わしくない時だけだ。セタンナの躾通りに動き、指先の指し示す先へと疑いを持たずに挑めば、必ず結果は良いものに変わる。それをわかっているからこそ、強く否定はできない。言い方は語弊があるが、そういう体にされてしまった。

「魔物のことは、その道のエキスパートに聞け。殺すだけに特化した私たちよりも、よほど為になるだろう。」
「いや、でもそんな奴、……」

 セタンナの言葉に、メイディアが引き攣り笑みを浮かべた。魔物に詳しい人間なんているのかと。太陽の国では魔物は悪だ。武器を持つものは対策こそすれど、これはこういうもの。という一括りでしか見ていない。たとえは悪いが、潰した虫の数を覚えていないのと同じだ。

「そうか。しかしルシアンは心当たりがあるという顔をしているな」
「えっ」
「……、俺は今日、そいつを仕留め損ねたばかりです。隊長」

 地底から響くような恐ろしい声と表情で宣うルシアンに、メイディアはぞわり寒気を感じた。ルシアンがそんな反応を示すのは一人しかいない。もしかして、わざわざ非番の時に出かけていった目的がメイディアの予想通りだとしたら……、実際はそんなに仲が悪いわけではないのでは。と思ってしまう。しかし、それを口にしたらメイディアの上半身と下半身は永遠にさよならだ。

「それはいいタイミングだったなルシアン。お前が非番で、断りもなく襲撃をしに行った事には目を瞑ってやろう。これは借しだぞ」

 そして、私への借しは早急に返せ。そう言って、セタンナは女性にしては剣だこの目立つ手のひらをルシアンへと向けると、嫣然と微笑んだ。
 二人の間に挟まれたメイディアはというと、あれほどまでに生きた心地がしなかったのは初めてだと、後に同僚に語るのであった。

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