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羽化
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窓を突き破った衝撃が、全身に痺れとして伝わる。夜風の冷たさを巻き込み外に投げ出されたルシアンは、外套を広げるようにして地べたへと降り立った。
「ルシアン……‼︎」
「っ」
咆哮は己の名を紡いでいた。ルシアンの周りの空気が、重力を帯びたようにズシリと重くなる。黒い眼を光らせて空を仰げば、ガインは理性を失った表情で襲いかかってきた。
足に強化魔法を施す時間はない。今のガインは人間としての限界値を超えていた。ルシアンの影を縫い止めるかのように振り下ろされた拳。それは、地べたを抉るほどの衝撃を伴うものだった。
ガインが双剣を持っていなくて幸いだった。それだけがルシアンにとっての救いである。軋む体を叱咤すると、蹌踉めきながら立ち上がる。
「おいルシアン生きてるか⁉︎」
「うるさい……、黙れ……」
頭上から飛んでくるメリディアの声に、ルシアンは片手を上げて返事をする。黒い瞳は、呆れから苛立ちへと変化していた。気だるげに外套についた汚れを払う。一見、呑気にも見えるルシアンの姿はしかし、共に戦場を駆け抜けてきたメイディアの目には、苛立ちを隠すことは叶わなかった。
「めっちゃくちゃキレてるじゃん」
「面白い。ちょうど良い機会だ。ルシアンとガイン、どちらが優れているか、この私に示してみるがいい」
「っ、セタンナ隊長止めろってば!」
「黙れメイディア。この私が見届ける喧嘩は、全て不問にしてやる。ふふ、どうするルシアン。ガインは乗り気のようだぞ」
女性にしては低く、そして不思議な甘さを含む声が夜の空気に溶ける。セタンナは男装の麗人だ。しかし、女性特有の柔らかさはない。
男所帯の紅一点というよりは、番犬を飼い慣らす冷徹な調教師という方がしっくり来るだろう。
「隊長、俺はガインを殺してしまうかもしれない」
「面白い、なら俺はお前の首を部屋に飾ってやるよ」
ルシアンの瞳孔が細まる。ガインを前にしたそれは、魔物と対峙する時と同じ感覚だった。肺に酸素を取り込むように短く呼吸を繰り返す。ルシアンの手のひらが、ゆっくりと剣の柄にかかった。
足の裏に、じわじわと魔力を行き渡らせていく。鋭く、俊敏に風を切ることが、勝敗を決する。
手足のみに身体強化を施した。魔力を使っての戦い方は、人によって癖がある。定型にはまる形もまた美しいだろう。しかし、戦いを前にすればそれは邪魔になる。遊撃とは、つまり型には縛られてはいけないということ。
「行くぞ!!」
「っ、!!」
ガインが踏み込んだ。突き出された掌底を、ルシアンが右に飛んで躱す。空気が裂ける音がして、ルシアンの外套に切れ目が入った。踵で地べたを削るように体を回転させた。
広がった外套につられるように、ガインの灰色の瞳がゆっくりと左を向いたその時、後頭部に強い衝撃が走った。
「か、っ……」
土煙がブワリと辺りを覆った。ルシアンは正面から迫るガインを受け流し、そして後頭部に回し蹴りを放ったのだ。
剣に手をかけたのは、ルシアンが正面から剣を抜くと見せかけるためのフェイント。部分的にかけた属性魔法が、不安定な体勢で行う一打を可能にした。
ルシアンは蹴りを放った片足を上げたまま、目の前で崩れるガインを冷たい目で見下ろしていた。まだ、終わっていない。本当の戦いは、この後だった。
「勝ったのか……?」
「見誤るな」
「え、だってガインは」
メイディアの言葉を止めたのは、薄玻璃が割れるような細やかな音。足元でガラスが割れたわけでもない。それなのに、メイディアの耳元では確かに何かが砕ける音がした。
「う、うう、う、う、うう、う、うう……」
嗚咽混じりのくぐもった声が聞こえた。ガインは子供のように頭を抱え、大きな体を縮めるようにうずくまる。ガインが泣いたことなんて、今まで一度も見たことはなかった。それは、ルシアンだけではない。メイディアもまた同じである。
終わったはずなのに、足元からせり上がろうとする違和感はなんだ。ルシアンの眉間の皺が深くなる。
「なんで、なんでだよお……っ、お、俺だって、が、頑張ってきた、のに、っなんで、なんでお前が、っ」
「……戦の腕だけが全てじゃない。戦いを前にして、周りを見定める力を養え。お前には物事を俯瞰して見る力がない」
「け、けん、剣で食わしていかなきゃ、……お、俺は、俺は家族に、き、き、期待、されている、んだ、な、ナノに、ッ」
「剣ならお前は、俺よりも優れているだろう。だがな、それを奪われた時の戦い方はどうするんだ。お前は型にしかはまらない。俺がそう説いても、お前は聞く耳を持たなかった。そうだろう」
ガインの双剣の腕は優れている。しかし、柔軟性はなかった。遊撃隊として、個で動くことを咎められはしない。しかし、勇猛と無鉄砲は違う。ガインは確かに強い。しかし、下手をすれば周りの生死を脅かしてしまう勇猛さは、ルシアンからすれば愚かと同じことであった。
「お前を倒しテ、俺が副隊長にならなクちゃ、か、家族に見放されるだろウ……‼︎」
ガインは叫んだ。身のうちを焼いていた思いを吐き出すように。精鋭部隊とも呼ばれる遊撃部隊に配属され、ただひたすらに己の剣の腕を磨き続けた。しかし、副隊長に選ばれたのは年下のルシアン。剣だこを潰して、同じ量の鍛錬を行った。戰に出た回数は、ガインの方が多い。それなのに、それなのに。
期待してくれる家族も持たない、寂しいルシアンにガインは居場所を奪われた。
「お前の帰りを待つ家族ハいない癖ニ……‼︎ 寂しいやツの癖ニ……ぁ、あ、あああアあアアア‼︎」
夜の空気をガインの咆哮が震わせる。空中に不可視の糸が周りに張り巡らされたかのように、ルシアンは一瞬にして動けなくなった。
この感覚には覚えがあった。魔物が使う、威圧の状態異常。それを、ガインはルシアンへと放ったのだ。
「な、に……‼︎」
ルシアンの目の前で、羽化は始まった。体を丸めたガインの背中を突き破るように、大きな蝶の羽が夜闇に広がったのだ。ずるりと音を立て、ガインの体から中身を引き摺り出すように産まれ落ちる。元の体の質量を無視した大きな魔物が、一対の複眼でルシアンを見据えた。
ガインと同じ灰色の眼。仲間の特徴を残した大きな蝶の魔物は。長い手足を引き抜くかのようにしてガインだったものを脱ぎ捨てた。
「な、んだあれ、……っ」
「……やはり」
メイディアの動揺の横で、それでもセタンナだけは冷静さを保っていた。
羽化した。霧の魔物が、たった今目の前で存在をあらわにしたのだ。それは、人の尊厳を奪われ魔物に変貌する悍ましい光景であった。
ガインは半魔ではなかった。純粋な人だった。しかし、ルシアンの目の前にいるのはみたこともない巨大な魔物だ。己の仲間が姿を変えるなど、どう予測ができようか。ルシアンはただ魔物から目を逸さぬまま、静かに体へと魔力を巡らせる。
「動け、ルシアン……!」
「っ……‼︎」
メイディアの叫び声が、ルシアンを動かした。弾かれるように駆け出すと、真っ直ぐに魔物の懐に飛び込んだ。
巨大な魔物との戦いは、思考が停止しても体が覚えていた。巨躯を操る分リーチは長いが動きは緩慢だ。ルシアンはガインの血溜まりも厭わずに踏みつけて肉薄すると、体を支えている足の一つ目掛けて剣を一閃させた。
「くそ、っ……苦手分野だ……‼︎」
放った一打は剣を通してルシアンの手を痺れさせる。得意分野は剣よりも弓である、ルシアンは舌打ちをすると、手にしていた剣をあろうことか投げ捨てた。鉤爪のように返しのついた魔物の細長い銛のような足を避けると、武器も持たずに魔物の下を一気に駆け抜けた。
途端、恐ろしいほどの風圧が地べたに打つかり、ルシアンはその突風に巻き込まれるかのようにして壁に体を叩きつけた。
「く、そっ……!」
体勢を立て直す。壁の破片が背中を滑るように落ちていく。黒い瞳の睨みつける先、蝶の魔物はその羽に光を宿し始めた。巨大な風魔法を放ってくる。こういう時の直感ほど当たるものはないだろう。ルシアンは強化魔法をかけた足で大きく飛び上がった。
魔物によって繰り出された突風が、ルシアンの滞空時間を稼ぐ。考えろ、どうすればいい。ルシアンの頭の中では、吹き荒れる風のように思考が巡る。ガインは、元に戻るのだろうか、ふとよぎった甘さを叱咤するかのように、セタンナの鋭い声が飛んできた。
「戸惑うな‼︎」
「ッ、……‼︎」
頬を張られたかのように、ルシアンの視界が一気に開ける。眼下には、ルシアンを見上げるガインだった魔物がいた。
左手にゆっくりと光が集まっていく。右手は、弦を引き絞るかのように顔の真横に着いた。ルシアンの手には、光の弓が召喚されていた。不可視の弦が、キリキリと鳴く。放った一射、光の矢は空気の皮膜を突き破るように、真っ直ぐに魔物の脳天を貫く。
──── 負けたくない……
鋭い光が、魔物の頭部を突き抜ける瞬間、ガインの震える声が聞こえた。やるせなさを抑えるような、ルシアンへの無念の声だった。胸の内から、引き絞られるような感情が暴発しそうだった。ルシアンは眼を見開いたまま、仲間だった魔物が形を崩すように死ぬ瞬間を見つめた。
「……ガイン」
真っ黒な血溜まりを弾くように降り立った。骸が、ゆっくりと魔素となって消えていく。そこに、ガインの姿は見えない。最後まで魔物の姿のまま消えていくのだ。
ガインを討った手は微かに震えていた。それを、握り込むことで抑える。細く、ゆっくりとした呼吸で心身の動揺を落ち着かせようと努めながらも、ルシアンはの心は亡失感に苛まれていた。
魔物を殺すことに慣れた体が、ガインを殺したのだ。魔物化する一因を担っているかもしれないという事実が、ルシアンの視野を狭めた。
ここが、戦場だったら。仲間を危険に晒す愚かを演じていただろう。後悔と行き場のない苛立ちが、ないまぜとなって心に影を作る。
「ルシアン……‼︎ 無事か⁉︎」
「……、」
メイディアの声がルシアンを現実に引き戻す。掴まれた肩がひどく熱いと感じるほど、ルシアンの体温は下がっていた。ルシアンの瞳が、仲間だったガインの骸を探すように彷徨う。最後まで消えていくところ見ていたはずなのにだ。
「ガインは消えた」
「……セタンナ隊長」
「ルシアン、お前の働きは誤りではない。憂うな」
「っ、セタンナ隊長、今声をかける言葉はそうじゃないでしょう……⁉︎」
冷酷にも聞こえるその言葉を許さなかったのはメイディアだった。ルシアンの頬を撫でるように、一本に編み込んだ焦茶の髪が視界を横切る。
ルシアンが止める間も無く真っ直ぐにセタンナへと向かったメイディアの手が、セタンナの襟元を掴んだ。
「私に対する配慮をしているのなら、それは誤っている。メイディア」
「っ、ぐぁ、……っ」
肉を打つ鈍い音がした。ルシアンが目にしたのは、メイディアがセタンナによって地面に縫いとめられた姿だった。
男の体を軽々といなしたその手には、氷で形成された長いロッドを握りしめていた。
同じ氷属性を持ってしてでも、メイディアはセタンナに敵わない。男として、胸ぐらを掴まぬようにした無意識の配慮が隙となったのだ。
セタンナが埃をとるようにして掴まれた襟を直す。その碧い瞳に宿る鋭さは、上に立つものとしての自覚だけではないだろう。
「ルシアン、お前が見たものは残念ながらリアルだ。ガインが何故魔物化をしてしまったのかは知らない。だが、ああなってしまった以上はどうにもならないことも知っている」
「なん、で」
「お前にはこれからそれを調査してもらうつもりだ。返事はイエス以外は許さない。わかっているだろう、ルシアン」
冷たいロッドが、真っ直ぐにルシアンの胸を突いた。術をかけられたわけではない。しかし、触れたそこから凍りついていくように、ルシアンはそれ以上言葉を告げることはできなくなっていた。
「ルシアン……‼︎」
「っ」
咆哮は己の名を紡いでいた。ルシアンの周りの空気が、重力を帯びたようにズシリと重くなる。黒い眼を光らせて空を仰げば、ガインは理性を失った表情で襲いかかってきた。
足に強化魔法を施す時間はない。今のガインは人間としての限界値を超えていた。ルシアンの影を縫い止めるかのように振り下ろされた拳。それは、地べたを抉るほどの衝撃を伴うものだった。
ガインが双剣を持っていなくて幸いだった。それだけがルシアンにとっての救いである。軋む体を叱咤すると、蹌踉めきながら立ち上がる。
「おいルシアン生きてるか⁉︎」
「うるさい……、黙れ……」
頭上から飛んでくるメリディアの声に、ルシアンは片手を上げて返事をする。黒い瞳は、呆れから苛立ちへと変化していた。気だるげに外套についた汚れを払う。一見、呑気にも見えるルシアンの姿はしかし、共に戦場を駆け抜けてきたメイディアの目には、苛立ちを隠すことは叶わなかった。
「めっちゃくちゃキレてるじゃん」
「面白い。ちょうど良い機会だ。ルシアンとガイン、どちらが優れているか、この私に示してみるがいい」
「っ、セタンナ隊長止めろってば!」
「黙れメイディア。この私が見届ける喧嘩は、全て不問にしてやる。ふふ、どうするルシアン。ガインは乗り気のようだぞ」
女性にしては低く、そして不思議な甘さを含む声が夜の空気に溶ける。セタンナは男装の麗人だ。しかし、女性特有の柔らかさはない。
男所帯の紅一点というよりは、番犬を飼い慣らす冷徹な調教師という方がしっくり来るだろう。
「隊長、俺はガインを殺してしまうかもしれない」
「面白い、なら俺はお前の首を部屋に飾ってやるよ」
ルシアンの瞳孔が細まる。ガインを前にしたそれは、魔物と対峙する時と同じ感覚だった。肺に酸素を取り込むように短く呼吸を繰り返す。ルシアンの手のひらが、ゆっくりと剣の柄にかかった。
足の裏に、じわじわと魔力を行き渡らせていく。鋭く、俊敏に風を切ることが、勝敗を決する。
手足のみに身体強化を施した。魔力を使っての戦い方は、人によって癖がある。定型にはまる形もまた美しいだろう。しかし、戦いを前にすればそれは邪魔になる。遊撃とは、つまり型には縛られてはいけないということ。
「行くぞ!!」
「っ、!!」
ガインが踏み込んだ。突き出された掌底を、ルシアンが右に飛んで躱す。空気が裂ける音がして、ルシアンの外套に切れ目が入った。踵で地べたを削るように体を回転させた。
広がった外套につられるように、ガインの灰色の瞳がゆっくりと左を向いたその時、後頭部に強い衝撃が走った。
「か、っ……」
土煙がブワリと辺りを覆った。ルシアンは正面から迫るガインを受け流し、そして後頭部に回し蹴りを放ったのだ。
剣に手をかけたのは、ルシアンが正面から剣を抜くと見せかけるためのフェイント。部分的にかけた属性魔法が、不安定な体勢で行う一打を可能にした。
ルシアンは蹴りを放った片足を上げたまま、目の前で崩れるガインを冷たい目で見下ろしていた。まだ、終わっていない。本当の戦いは、この後だった。
「勝ったのか……?」
「見誤るな」
「え、だってガインは」
メイディアの言葉を止めたのは、薄玻璃が割れるような細やかな音。足元でガラスが割れたわけでもない。それなのに、メイディアの耳元では確かに何かが砕ける音がした。
「う、うう、う、う、うう、う、うう……」
嗚咽混じりのくぐもった声が聞こえた。ガインは子供のように頭を抱え、大きな体を縮めるようにうずくまる。ガインが泣いたことなんて、今まで一度も見たことはなかった。それは、ルシアンだけではない。メイディアもまた同じである。
終わったはずなのに、足元からせり上がろうとする違和感はなんだ。ルシアンの眉間の皺が深くなる。
「なんで、なんでだよお……っ、お、俺だって、が、頑張ってきた、のに、っなんで、なんでお前が、っ」
「……戦の腕だけが全てじゃない。戦いを前にして、周りを見定める力を養え。お前には物事を俯瞰して見る力がない」
「け、けん、剣で食わしていかなきゃ、……お、俺は、俺は家族に、き、き、期待、されている、んだ、な、ナノに、ッ」
「剣ならお前は、俺よりも優れているだろう。だがな、それを奪われた時の戦い方はどうするんだ。お前は型にしかはまらない。俺がそう説いても、お前は聞く耳を持たなかった。そうだろう」
ガインの双剣の腕は優れている。しかし、柔軟性はなかった。遊撃隊として、個で動くことを咎められはしない。しかし、勇猛と無鉄砲は違う。ガインは確かに強い。しかし、下手をすれば周りの生死を脅かしてしまう勇猛さは、ルシアンからすれば愚かと同じことであった。
「お前を倒しテ、俺が副隊長にならなクちゃ、か、家族に見放されるだろウ……‼︎」
ガインは叫んだ。身のうちを焼いていた思いを吐き出すように。精鋭部隊とも呼ばれる遊撃部隊に配属され、ただひたすらに己の剣の腕を磨き続けた。しかし、副隊長に選ばれたのは年下のルシアン。剣だこを潰して、同じ量の鍛錬を行った。戰に出た回数は、ガインの方が多い。それなのに、それなのに。
期待してくれる家族も持たない、寂しいルシアンにガインは居場所を奪われた。
「お前の帰りを待つ家族ハいない癖ニ……‼︎ 寂しいやツの癖ニ……ぁ、あ、あああアあアアア‼︎」
夜の空気をガインの咆哮が震わせる。空中に不可視の糸が周りに張り巡らされたかのように、ルシアンは一瞬にして動けなくなった。
この感覚には覚えがあった。魔物が使う、威圧の状態異常。それを、ガインはルシアンへと放ったのだ。
「な、に……‼︎」
ルシアンの目の前で、羽化は始まった。体を丸めたガインの背中を突き破るように、大きな蝶の羽が夜闇に広がったのだ。ずるりと音を立て、ガインの体から中身を引き摺り出すように産まれ落ちる。元の体の質量を無視した大きな魔物が、一対の複眼でルシアンを見据えた。
ガインと同じ灰色の眼。仲間の特徴を残した大きな蝶の魔物は。長い手足を引き抜くかのようにしてガインだったものを脱ぎ捨てた。
「な、んだあれ、……っ」
「……やはり」
メイディアの動揺の横で、それでもセタンナだけは冷静さを保っていた。
羽化した。霧の魔物が、たった今目の前で存在をあらわにしたのだ。それは、人の尊厳を奪われ魔物に変貌する悍ましい光景であった。
ガインは半魔ではなかった。純粋な人だった。しかし、ルシアンの目の前にいるのはみたこともない巨大な魔物だ。己の仲間が姿を変えるなど、どう予測ができようか。ルシアンはただ魔物から目を逸さぬまま、静かに体へと魔力を巡らせる。
「動け、ルシアン……!」
「っ……‼︎」
メイディアの叫び声が、ルシアンを動かした。弾かれるように駆け出すと、真っ直ぐに魔物の懐に飛び込んだ。
巨大な魔物との戦いは、思考が停止しても体が覚えていた。巨躯を操る分リーチは長いが動きは緩慢だ。ルシアンはガインの血溜まりも厭わずに踏みつけて肉薄すると、体を支えている足の一つ目掛けて剣を一閃させた。
「くそ、っ……苦手分野だ……‼︎」
放った一打は剣を通してルシアンの手を痺れさせる。得意分野は剣よりも弓である、ルシアンは舌打ちをすると、手にしていた剣をあろうことか投げ捨てた。鉤爪のように返しのついた魔物の細長い銛のような足を避けると、武器も持たずに魔物の下を一気に駆け抜けた。
途端、恐ろしいほどの風圧が地べたに打つかり、ルシアンはその突風に巻き込まれるかのようにして壁に体を叩きつけた。
「く、そっ……!」
体勢を立て直す。壁の破片が背中を滑るように落ちていく。黒い瞳の睨みつける先、蝶の魔物はその羽に光を宿し始めた。巨大な風魔法を放ってくる。こういう時の直感ほど当たるものはないだろう。ルシアンは強化魔法をかけた足で大きく飛び上がった。
魔物によって繰り出された突風が、ルシアンの滞空時間を稼ぐ。考えろ、どうすればいい。ルシアンの頭の中では、吹き荒れる風のように思考が巡る。ガインは、元に戻るのだろうか、ふとよぎった甘さを叱咤するかのように、セタンナの鋭い声が飛んできた。
「戸惑うな‼︎」
「ッ、……‼︎」
頬を張られたかのように、ルシアンの視界が一気に開ける。眼下には、ルシアンを見上げるガインだった魔物がいた。
左手にゆっくりと光が集まっていく。右手は、弦を引き絞るかのように顔の真横に着いた。ルシアンの手には、光の弓が召喚されていた。不可視の弦が、キリキリと鳴く。放った一射、光の矢は空気の皮膜を突き破るように、真っ直ぐに魔物の脳天を貫く。
──── 負けたくない……
鋭い光が、魔物の頭部を突き抜ける瞬間、ガインの震える声が聞こえた。やるせなさを抑えるような、ルシアンへの無念の声だった。胸の内から、引き絞られるような感情が暴発しそうだった。ルシアンは眼を見開いたまま、仲間だった魔物が形を崩すように死ぬ瞬間を見つめた。
「……ガイン」
真っ黒な血溜まりを弾くように降り立った。骸が、ゆっくりと魔素となって消えていく。そこに、ガインの姿は見えない。最後まで魔物の姿のまま消えていくのだ。
ガインを討った手は微かに震えていた。それを、握り込むことで抑える。細く、ゆっくりとした呼吸で心身の動揺を落ち着かせようと努めながらも、ルシアンはの心は亡失感に苛まれていた。
魔物を殺すことに慣れた体が、ガインを殺したのだ。魔物化する一因を担っているかもしれないという事実が、ルシアンの視野を狭めた。
ここが、戦場だったら。仲間を危険に晒す愚かを演じていただろう。後悔と行き場のない苛立ちが、ないまぜとなって心に影を作る。
「ルシアン……‼︎ 無事か⁉︎」
「……、」
メイディアの声がルシアンを現実に引き戻す。掴まれた肩がひどく熱いと感じるほど、ルシアンの体温は下がっていた。ルシアンの瞳が、仲間だったガインの骸を探すように彷徨う。最後まで消えていくところ見ていたはずなのにだ。
「ガインは消えた」
「……セタンナ隊長」
「ルシアン、お前の働きは誤りではない。憂うな」
「っ、セタンナ隊長、今声をかける言葉はそうじゃないでしょう……⁉︎」
冷酷にも聞こえるその言葉を許さなかったのはメイディアだった。ルシアンの頬を撫でるように、一本に編み込んだ焦茶の髪が視界を横切る。
ルシアンが止める間も無く真っ直ぐにセタンナへと向かったメイディアの手が、セタンナの襟元を掴んだ。
「私に対する配慮をしているのなら、それは誤っている。メイディア」
「っ、ぐぁ、……っ」
肉を打つ鈍い音がした。ルシアンが目にしたのは、メイディアがセタンナによって地面に縫いとめられた姿だった。
男の体を軽々といなしたその手には、氷で形成された長いロッドを握りしめていた。
同じ氷属性を持ってしてでも、メイディアはセタンナに敵わない。男として、胸ぐらを掴まぬようにした無意識の配慮が隙となったのだ。
セタンナが埃をとるようにして掴まれた襟を直す。その碧い瞳に宿る鋭さは、上に立つものとしての自覚だけではないだろう。
「ルシアン、お前が見たものは残念ながらリアルだ。ガインが何故魔物化をしてしまったのかは知らない。だが、ああなってしまった以上はどうにもならないことも知っている」
「なん、で」
「お前にはこれからそれを調査してもらうつもりだ。返事はイエス以外は許さない。わかっているだろう、ルシアン」
冷たいロッドが、真っ直ぐにルシアンの胸を突いた。術をかけられたわけではない。しかし、触れたそこから凍りついていくように、ルシアンはそれ以上言葉を告げることはできなくなっていた。
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「……辺境伯卿、私に何か御用ですかな」
「もう、そのように無理をしないでください。美しい姫君にこの冷たく汚れた床は似合わない」
何故かお姫様抱っこでマティアスに持ち上げられたフレデリックにさらに信じがたい言葉が聞こえる。
「では……皇帝陛下の甥であり《《麗しい青薔薇の姫君》》である、フレデリック・コルヌイエ・リシュリュー小公爵との婚姻を認めて頂きたい」
初恋拗らせヤンデレ騎士に連れ去られてらちかんされたフレデリックの運命はいかに!?
※が付くところは背後注意な性的な表現があります。
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主人公のライバルポジにいるようなので、主人公のカッコ可愛さを特等席で愛でたいと思います。
小鷹けい
BL
以前、なろうサイトさまに途中まであげて、結局書きかけのまま放置していたものになります(アカウントごと削除済み)タイトルさえもうろ覚え。
そのうち続きを書くぞ、の意気込みついでに数話分投稿させていただきます。
先輩×後輩
攻略キャラ×当て馬キャラ
総受けではありません。
嫌われ→からの溺愛。こちらも面倒くさい拗らせ攻めです。
ある日、目が覚めたら大好きだったBLゲームの当て馬キャラになっていた。死んだ覚えはないが、そのキャラクターとして生きてきた期間の記憶もある。
だけど、ここでひとつ問題が……。『おれ』の推し、『僕』が今まで嫌がらせし続けてきた、このゲームの主人公キャラなんだよね……。
え、イジめなきゃダメなの??死ぬほど嫌なんだけど。絶対嫌でしょ……。
でも、主人公が攻略キャラとBLしてるところはなんとしても見たい!!ひっそりと。なんなら近くで見たい!!
……って、なったライバルポジとして生きることになった『おれ(僕)』が、主人公と仲良くしつつ、攻略キャラを巻き込んでひっそり推し活する……みたいな話です。
本来なら当て馬キャラとして冷たくあしらわれ、手酷くフラれるはずの『ハルカ先輩』から、バグなのかなんなのか徐々に距離を詰めてこられて戸惑いまくる当て馬の話。
こちらは、ゆるゆる不定期更新になります。
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真面目系委員長の同室は王道転校生⁉~王道受けの横で適度に巻き込まれて行きます~
シキ
BL
全寮制学園モノBL。
倉科誠は真面目で平凡な目立たない学級委員長だった。そう、だった。季節外れの王道転入生が来るまでは……。
倉科の通う私立藤咲学園は山奥に位置する全寮制男子高校だ。外界と隔絶されたそこでは美形生徒が信奉され、親衛隊が作られ、生徒会には俺様会長やクール系副会長が在籍する王道学園と呼ぶに相応しいであろう場所。そんな学園に一人の転入生がやってくる。破天荒な美少年の彼を中心に巻き起こる騒動に同室・同クラスな委員長も巻き込まれていき……?
真面目で平凡()な学級委員長が王道転入生くんに巻き込まれ何だかんだ総受けする青春系ラブストーリー。
一部固定CP(副会長×王道転入生)もいつつ、基本は主人公総受けです。
こちらは個人サイトで数年前に連載していて、途中だったお話です。
今度こそ完走させてあげたいと思いたってこちらで加筆修正して再連載させていただいています。
当時の企画で書いた番外編なども掲載させていただきますが、生暖かく見守ってください。
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俺にとってはあなたが運命でした
ハル
BL
第2次性が浸透し、αを引き付ける発情期があるΩへの差別が医療の発達により緩和され始めた社会
βの少し人付き合いが苦手で友人がいないだけの平凡な大学生、浅野瑞穂
彼は一人暮らしをしていたが、コンビニ生活を母に知られ実家に戻される。
その隣に引っ越してきたαΩ夫夫、嵯峨彰彦と菜桜、αの子供、理人と香菜と出会い、彼らと交流を深める。
それと同時に、彼ら家族が頼りにする彰彦の幼馴染で同僚である遠月晴哉とも親睦を深め、やがて2人は惹かれ合う。
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