アイデンティティは奪われましたが、勇者とその弟に愛されてそれなりに幸せです。

だいきち

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虫よりも怖いもの 

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 シグムントがイザルの家に居候し始めてから、一週間。生き方を教えて欲しいと言ってきた元魔王は、本当に無知であった。
 まず、深夜の国にいたせいか天候というものを理解しない。雨が降れば痛ましそうに空を見上げ、雷が鳴れば大騒ぎをしてイザルの後ろに隠れる。初日にも雷が鳴っていただろうとイザルが言えば、あれは遠かったからまだ良かった。などと、真剣な顔をして宣うのだ。

「天候くらい理解しろ‼︎ 空に感情なんかねえ‼︎ お前だって魔術を使うだろう⁉︎ 雷魔法のほうが予備動作詠唱くらいなんだから余程怖いだろうが‼︎」
「こわい。痛いのは嫌だ、あれはびりびりするだろう。麻痺をするのもいけない」
「そういうことを言ってんじゃねええ‼︎」

 しんみりとした顔で頷く。一事が万事物事を素直に受け取るシグムントに、イザルは人の常識を説くことの苦労を覚える。何から教えていいのかすらわからない。この家のルールでもと思ったが、それは二日目に諦めた。シグムントが手伝おうと動くたびに、間抜けを晒す。見ていて微笑ましいと言える奴がいるなら、金を積むから引き取ってくれと言わんばかりに煩わしい。イザルが何かするたびに、爺のような間延びをした声で、イザルはなんでもできて偉いなあなどとふくふく笑うのだ。気が抜けることこの上ない。

「んで、てめえはいつまで居座るつもりだ、ああ?」
「足の傷が治るまでは甘えられないだろうか」
「おまえ、それを治した途端に手のひら返す気じゃねえだろうな」

 あれから三日、イザルはシグムントの自由を奪うという名目で、あえて足の治癒を最後まで施してはいなかった。イザルは疑い深い。幼少期から散々な目に合ってきたせいか、懐を開くまでに時間を要するのだ。
 しかし、当のシグムントはというと。イザルの嫌味も意に解さぬままに白い手のひらを晒した。

「てめ、なんのつもりだ!」
「なんでって、俺の手のひらが見たかったのだろう? 出し惜しみするつもりもないさ。安心して治癒してくれて構わない」
「……………」

 白い手をこちらに向け、ぐっぱとて指を握っては開く。少しでも妙な真似をしたら殺すと脅したはずなのに、シグムントにはきっと伝わってすらいないのだろう。
 ぴくぴくと痙攣する目元を労るように眉間を揉む。頭が痛い。例えるなら、これは爺の介護なのかもしれない。イザルは重い溜息を吐き出すと、犬をて招くようにシグムントを呼ぶ。

「おお、待ってくれ。すぐに行くからな」

 イザルの呼びかけに答えるように、床に腰を下ろしていたシグムントがヨタヨタと立ち上がる。一つ一つの動作が遅いのは今に始まったことではない。捻じ曲がった角がイザルの部屋のライトに当たり、カションと音がした。

「ひゃ」

 シグムントの口から、小さな声が漏れた。どうやら驚いたらしい。薄い手のひらが唯一ある一本の角を確かめるように触れて、恐る恐る音の原因を確認する。どうやら小屋に備え付けてあった魔導ランプが原因だと知ると、己の角の長さとライトまでの距離を手で測る。納得する理由を見つけて満足そうに頷いたところで、イザルが先に限界を迎えた。

「早く来いよォ‼︎」
「おお、すっかり忘れていた」

 イザルはせっかちな方ではないと自負していたが、シグムントが居候するようになってからは考えを改めざるをえなくなっていた。原因は、言わずもがなである。痺れを切らしたイザルの手が、バスバスと座っているベッドの横を叩く。
 シグムントの周りだけ、時の流れが遅いのかも知れない。苛立つイザルへと向けるには、到底正解とは思えないような温かな目線を向けられる。それがイザルにとっては腹立たしくて仕方がないのだ。
 今行くと一歩踏み出したシグムントが、己の着ているローブの裾を踏んづけた。くん、と布地が引き連れ、バランスを崩す。シグムントは、そのまま飛び込むかのようにイザルのいる方向へとつんのめった。

「うっ!」
「っぶねぇええええ‼︎」

 シグムントの立派な角が、ベットに座るイザルの足の間へとズドン! と突き刺さった。間一髪後ずさったので事なきを得たが、危うく生殖機能を失うところであった。
 真っ青な顔をして絶句しているいイザルの前で、シグムントがあわあわとしている。どうやら突き刺さった角を抜こうとしているらしい。

「おま、おま……んとに、おま、っ」
「す、すまないイザル、怪我は無いだろうか! 無いのなら抜くのを手伝ってくれまいか!」
「お前まじでそんな鈍臭くてよく生きてこれたな⁉︎」
「俺の生い立ちを気にしてくれるとはどうもありがとう! でもそれは今ではない!」
「やかましいわ‼︎」

 スパァン! シグムントの頭を叩く、小気味いい音が部屋に響く。突然の衝撃を後頭部に受けたおかげか、びくりと驚きで体が跳ねたおかげか。イザルのおかげで無事に角は抜け出せた。床に尻餅をついたシグムントは、頭飾りのように角の根本を綿で飾る。心なしか照れくさそうにしているくらいである。
 
「ああ、ありがとう。俺は君の世話になる度に物理耐性が上がっている気がするよ」
「そうかい、俺は忍耐力だよクソ野郎……」
「そうか、伸び代があるのは実にいいことだぞ。ふふ」

 そんなに穏やかに笑うところではない。こめかみに血管を浮かばせたイザルがシグムントの腕を掴んで、ベッドへと引き上げる。二人分の重さを受け止めたマットレスは、抗議するようにぼわりと綿を吐き出した。

「おら、足よこせ。もう面倒くせえからさっさと治してやる」
「それは俺を信用するということが? 有り難いが、それは不用心では」
「やかましい。今のお前になんか負ける気なんざ微塵もせんわ。ったく、くそが。まじでくそ」
「くそ? イザルは糞では」
「おめぇに言ってんだボケナスが!」

 イザルの胡座の上に俯せで落ち着くシグムントの足首を、ガシリと無骨な手が掴む。細い体は、少しだけ慌てたように身じろぎすると、ようやく治りの良い位置を見つけたらしい。
 肘をベッドについて上体を起こしたシグムントが、己の頭上にいるイザルを見上げて宣った。

「優しくしておくれ」
「っせぇな、もおお……」

 シグムントも温もりが、じわりとイザルの足に移る。魔族だからと体温まで低いと思っていた偏見は、ここ数日で消え去っていた。イザルの手に治癒の陣が浮かび上がる。肉が裂けた部分は、徐々に治りかけていた。傷口を覆うように手を添える。イザルの手のひらから放たれた、暖かな光がじんわりと細い足首を包み込む。
 イザルの口調と態度は治安が悪いことこの上ないが、治癒は暖かで優しい。直接触れて、暖かな魔力を与えてくれるというのは、存在を許されたようで嬉しい。けれど、この優しさも傷が治るまでの間だろう。シグムントは、それが寂しく感じた。

「イザ、」

 イザル。言葉を続けようとして、シグムントは口をつぐんだ。イザルの小屋の外に、人の気配を感じたのだ。家の扉を、律儀にノックする音が聞こえる。

「来客か?」
「……」

 見上げたイザルの顔は、先程よりも険しい表情になっていた。眉間にしわを寄せ、睨みつけるように扉を凝視する。イザルの銀灰の瞳がくらりと光るった。魔力視で値踏みするほどの相手が、この扉の外にいる。
 シグムントの体に緊張が走る。もしかしたら、深夜の国からの追手かも知れないと思ったのだ。小さな手が、イザルの服をギュッと握る。

「イザル……」
「黙れ」

 それ以上の問いかけを許されなかった。男らしい腕がシグムントの腰に回る。まるで荷物のように小脇に抱えられると、イザルの手のひらが魔力を纏いながら扉へと向けられた。

「最悪だ……」
「……、っ!」

 イザルの呟きがかき消されるほどの轟音が、部屋に響いた。木でできた扉は粉微塵に砕け、突風に吹き飛ばされるように二人へと破片が襲いかかってきた。なんの装備もなければ、大きな怪我を負っていたに違いない。しかし、怯えるようにイザルにしがみつくシグムントが傷つくことはなかった。半円状の結界の上を、砂埃とともに破片が過ぎ去っていく。たった一枚の薄膜で分断された外側の世界、立ち昇る煙の向こう側に人影を見たのは一瞬だ。
 すぐに、シグムントの視界は美しい翡翠色に輝いた。イザルが発動した転移魔法が、二人をこの家から遠ざける。つまり、転移をして、距離を取らねばならぬ相手が来たということであった。
 金属の擦れ合う音と共に、主人のいなくなった室内に男が現れた。大破した扉を踏みつける、重そうなブーツ。男は機動力重視のミスリル防具を纏い、顔を隠すかのように猛禽を模した仮面をつけていた。そこからのぞく、鋭い黒の双眸が廃墟同然の室内を見渡す。
 
「……チッ」
 
 そこに、男の目的であるイザルはいなかった。扉を吹き飛ばしたあの一瞬で転移をしたのだろう。部屋の中には、まだ魔力の残滓が残っている。派手にやりすぎたせいで、逃走の機会を与えたのだと知る。
 イザルは、一人ではなかった。一瞬だけとらえたのは、華奢な女を抱えている姿。足手纏いになるだろう女を捨て置かなければ、そう遠くには逃げれまい。女を置いていかなかったということは、手放せない理由があるということ。やはり、読みは当たっていたに違いない。
 男は、仮面の下で目を細める。部屋に残る魔力残滓で、大体の展開陣の大きさは測れる。イザルは、おそらくまだ遠くには行っていない。
 
「……手間をかけさせるなと、あれほど」
 
 仮面の下の整った鼻梁を歪ませると、男は魔力を研ぎ澄ました。
 
 
 
 
 
 
 
「わぁああぁぁあぁあ‼︎」
「ッチ」
「ぐゥえっ!」
 
 真上から情けない悲鳴をあげ落ちてきたシグムントを、イザルは片腕で受け止める。家から数百メートル離れた湖畔の大木の上に転移をしたのだ。 
 突然の闖入者には覚えがあった。眉間に皺を寄せ、煙の上がる方向へと睨みを効かせる。悠々自適の気ままな一人暮らしは、一ヶ月そこらで終わってしまった。これも、全ては──── 。
 
「お、おち、落ちるうイザルううう‼︎」
「じゃかあしいっ! 落ちたくなければ大人しくしやがれ‼︎」
「高い! 死ぬう!」
「こんなんで死ぬなら誰も魔王討伐なんて苦労しねえわ‼︎」
 
 イザルの腕に引っかかるシグムントのせいである。
 暴れるシグムントが、必死な形相でイザルの顔面にしがみつく。同じ石鹸を使っているはずなのに、シグムントの体からはふわりといい香りがする。それが地味に腹が立つのだ。
 イザルは顔にしがみつくシグムントを無理くり引き剥がすと、その細い腕を大木の幹に押し付けた。抱き込まれたことでぼさぼさになった髪の毛を首を振るようにして整えると、ふん、と不満をありありと張り付けた治安の悪い顔でシグムントを見下ろす。
 
「お前はそこにいろ。もう俺がいいって言うまでは動くな」
「むむ、むし、イザル虫がいるううう‼︎」
「虫くらいなんだ‼︎ てめえ爬虫類上がりなら虫なんぞ馴染みだろうが!」
「うねうねしているのは嫌だ‼︎ おち、落ちるのも嫌だあ!」
「だぁあうるっせええええ大人しくしてろクソ蛇野郎‼︎」
 
 ひんひんと情けなく泣いているシグムントを置き去りにして、イザルは大木から飛び降りた。慎ましやかな安寧が破壊されたイザルにとって、虫くらいで大泣きするシグムントは耳障りでしかない。虫はお前らの主食じゃねえのか。シグムントに聞いたら抗議されそうなことを思いながら、身体中に魔力を巡らせる。
 襲撃してきたものが何者なのかは、すでに見当がついていた。そしてどれほどまでに面倒臭い奴かというのも、痛いほど理解していたのである。

 
 

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