アイデンティティは奪われましたが、勇者とその弟に愛されてそれなりに幸せです。

だいきち

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シグムント 

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「太陽の国はすごいなあ。空に機嫌があるだなんて知らなかった。」

 イザルが追いかけてくるなんぞついぞ思わぬ。シグムントは手のひらで庇を作りながら、見慣れぬ天気の変貌を呑気に見上げていた。
 角をへし折られ、弱体化したことが城に広まった途端。城にシグムントの居場所はなくなった。統治していた国は、魔力が全てだ。力のない君主になど誰も傅かぬ。玉座を失ったシグムントが、深夜の国を追われるのは当然の成り行きであった。

「ああ、この山はなんと居心地がいいのだろう。普通に歩いていられるとは……随分と贅沢な経験をしているなあ」

 思えば、イザルの元に辿り着くまでは痛みと疲労で景観を愛でる余裕すらなかった。野山に飛ぶ蝶は毒分を振り撒かないし、燃えながら襲いかかってくることもない。虫は苦手だが、野花に留まる姿を愛でるのは好きだ。シグムントの住む国で、山を散策しようと思ってもこうはいかない。
 惜しむらくは、己の足が怪我をしていることだろうか。それさえなければ、もっと散策を楽しめたのに。
 シグムントの足の怪我は、イザルの家に向かう道中にできたものだ。草むらに仕込まれた、狩猟用のトラバサミに足を挟まれた。白い足は、鋭い牙が肉を穿っていた。血は乾いているが、痛みがまとわりつき足を引きずっている。こんな具合だから、趣味である散策も楽しむことはできない。
 額の傷よりも足を直してもらえばよかったと少しだけ思ったが、そもそも首を取ろうとした元魔王の傷を全て治す愚かはするはずもない。イザルは、この国でいう勇者なのだから。と、そんなことを思った。

「ああ、空が泣き出した。なにか嫌なことでもあったのだろうか」

 ぽつりぽつりと地べたに染み込む水滴に、シグムントは困ったという顔をした。本来ならば結界でも張ってしのぎたいところだが、それも今は難しい。仕方なく拾った棒に縋るように歩きながら、大きな木の下にその身を隠すことにした。
 残された右の角に触れる。魔素を溜め込む左角が無いせいで、右の角から取り込んだ魔素がどんどんと抜けていく。大気中の魔素がシグムントの右角を通して、そしてまた大気に還っていくのだ。まるで意味がない。恐る恐る左角があった根本にそっと触れる。つるりとした石のような肌触りが間抜けで嫌だ、そんなことを思う。

「ああ、火を付けたいが木の側だしな。弱った」

 遠くの空は怒っているようで、ゴロゴロと不機嫌に唸っている。曇り空を切り開くように雷鳴が走ると、その轟音にびくりと体を揺らした。
 人間の住むこの国は、空も無作為に術を放つのか。シグムントは木の幹にピッタリと背中をつけながら、遠くの空を眺める。もしかしたら、太陽の国の魔術は深夜の国を遥かに凌ぐのかもしれない。初めて見る空模様を前に、小さく身を震わせる。
 シグムントは、あまり頭の出来が良くなかった。今も己の思考に疑いを持つこともなく、遠くで鳴り響く雷鳴に見つからないようにしなくてはと気を引き締めたところだ。
 体を縮こまらせるように膝を抱きしめる。雨はシグムントの体温を容赦なく奪っていく。小さくなると寒くなくなるのは、長く生きた経験から学んだことである。鼻の頭を赤くしたまま、ずびりと鼻を啜った。

 帰りたいなあ。

 だけど、シグムントには帰る場所がないのだ。太陽の国では、魔王と呼ばれていたらしい。本当はヒュトーという種族のシグムントだ。三人兄弟の末っ子。一人だけ色味の違う異端っ子。
 実家は、人間が魔界と呼ぶ深夜の国の深い森の中にある。シグムントの家族は、黒い鱗にルビーのような美しい赤眼を持っていた。
 ヒュトーは、炎と毒を吐く龍と呼ばれているが、事実をいうと角の生えたただの蛇だ。シグムントは、そんな家族の中で一匹だけ真っ白だった。みんなと同じ黒い卵から生まれた、真っ白なシグムント。
 体の内側の組織が透けて気持ち悪がられた。人型になれば、兄弟のように黒い肌を持てるかと思ったのに、それも叶わなかった。みんなと同じなのは血の色だけ。一番上の兄がシグムントの腕に噛み付いたときに流れた血で知った。あれだけは、嬉しかった。痛かったけど。

 シグムントが次代の魔王に選ばれたのは偶然である。先代の魔王は未来視が出来る魔猿の王だったので、魔力の大きい異端を探せと言われた配下によって、シグムントは文字通り玉座へと引き摺り上げられた。

 異端は皆捨てられる。深夜の国の、暗い谷底の中に落とされるのだ。もちろん、シグムントも家族によってそこに落とされた。きっかけは兄の不興をかったこと。シグムントが喜んだ、家族とお揃いの赤い血の色。どうやらそれが気に食わなかったらしい。
 同じ血の色だから廃嫡などと、そんな理由で捨てられるとは思いもよらなかった。生きるということは、実に色んなことがある。
 まあ、落とされた谷の中には己以外にも何匹かいたので怖くはなかったが、谷底に城の関係者が現れて、一気に焼き払われた時は死ぬかと思った。シグムントに炎耐性がなかったら、きっと今ごろ蒲焼になっていたに違いない。

「あれは、きっと選別だったのだろうな」

 膝を抱えたシグムントが、呟く。異端の者が落とされる谷底、通称モルドモルの胃袋。暗く、深い谷底の中ですら居場所はないのかと思っていたら、あれよあれよと引き摺り上げられて魔王になった。
 そこから手習いで仕事を覚え、ディミトリというサテュロスを本性にもつ宰相と侍従たちによって、シグムントは嫌味を言われながら執務をこなした。


──── 貴方程魔王に向いている人はおりません。


 シグムントが魔王を重荷に思っていたことを知った上で、ディミトリは心底楽しそうにそんなことを言った。魔族らしく狡猾で、随分と捻くれた男であった。イザルが城を訪れたあの日も、倒れ伏すシグムントを起こすなり、開口一番に宣った。

──── 魔力が微々たる者には居場所はありません。無論、この深夜の国にはね。


 ああ、とても扱いやすくて、良い魔王でしたのに。そう言って、真っ赤な眼を歪ませて残念そうに宣った。
 城から摘み出されたシグムントであったが、ディミトリを恨んではいなかった。深夜の国では、今も昔もずっと変わらない不文律だ。いずれ老いて魔力が衰えれば同じことになると思っていたから、覚悟はできいていた。
 それでも、この未来が確定されていたのだとしたら。やはりシグムントはあの谷で生き残るべきではなかった。どうやら人の期待には応えることが下手らしい。良かれと思って起こした行動も、結局は周りが望む結果へと導くことができなかったりもする。
 魔王として尽力はしてきたが、まだ深夜の国の枯地問題は解決していない。あれがどうにかなれば、お花畑を作りたかった。
 そんなことを言うと、あなたの頭がお花畑です。埋めますよ。とディミトリに怖いことを言われるだろうから黙ってはいたが。
 
 体が震える、体温が下がってきたようだ。それに、何だか眠たくなってきた。
 シグムントの頬に雨が伝う。じんじんと痛む脚にそっと手を添えた。治癒が出来れば体は楽になるのになあ。と思って、生き汚く命にしがみつく己に自嘲する。

「…………」

 生まれ変わるなら人がいいな。ああ、イザルのような人間しか知らないから、基準は彼なのだけれど。
 少なくとも、シグムントの命を奪おうとして思いとどまってくれた。家族にさえ殺意を抱かれ谷に突き落とされたこの身には、すぎる優しさだったように思う。
 魔王としての己には優しかったディミトリでさえ、見放したのだ。だからこそシグムントは、イザルのような人間に憧れる。
 目が覚めてからは、統治してきた国の者たちから逃げ回ってばかりだった。魔王を殺せば箔はつく。弱肉強食の深夜の国での魔力なしの魔王など、格好の餌以外の何者でもない。シグムントの席は、誰しもが狙っていた。虎視眈々と寝首を狙うような奴らに囲まれて、ここまで生きて来れたのが不思議なくらいだ。
 逃げて、逃げ回ってここまで来た。食うものが無くて木の皮を食ったりもした。疲れても眠れない日々は過酷だったが、谷に落とされた経験があったからこそ、泣きはしたが諦めるようなことはしなかった。
 どういうわけかシグムントの育てた花をイザルが持っていったから、己の魔力を頼りにしてここまでこれた。導かれるようについた先、初めて入った太陽の国はとても綺麗で、吸った空気も美味しくて。イザルのいる国だと知っていたからこそ安心した。
 満身創痍でたどり着いたイザルの家の前、久しぶりに聞く言葉に思わず泣いてしまった。いや、イザルは怒っていたのだっけか。まあいい、どちらにしろシグムントは、こうしてイザルにニ度助けられたのだ。二度目は厚かましさを自覚していたので、笑うことしか出来なかった。

 雨が強くなってきた。シグムントはもう、動けなかった。体が震えて仕方がなかったのだ。
 関節が痛い。ヒュトーの姿を取ることも出来ない。取ったところで、隠れられるうろなどこの辺にはない。ああ、本当の終わりが近づいてきているのかもしれない。目を瞑って、卵のときを思い出す。
 目を閉じると、優しい手がシグムントを撫でてくれるのだ。生まれるのを心待ちにしてくれた母の手。その感触を思い出すだけで、幸せだなあと心が暖かくなる。妄想の中では、家族はシグムントに優しくしてくれる。夢見たことが現実になることなんてないけれど、魔王の時はゆっくりと妄想の世界に身を投じる時間は取れなかった分、少しだけ嬉しい。
 頭に触れる手が、わずかに強くなる。知らない手の感触だ。妄想の中の手のひらが塗り替わって、シグムントの意識は少しだけ浮上した。

「真っ白で、気持ち悪いな」

 ああ、そうそれ。よく言われる。

「何してんだ、こんなとこで」

 そんな優しくじゃないが、それも言われたことがある。

「風邪を引くぞシグムント」
「それは、言われたことないな……」
「は?」

 
 不遜で、不機嫌な声がシグムントの頭上に落とされた。
 ザアザアと雨が降る中、イザルは木の根元で丸くなっているシグムントを見下ろしていた。ただでさえ靴の中がぬかるんで最悪なのに、もっと胸糞悪かったのは、イザルが生かしたシグムントが今にも死にそうな姿だった。
 足元の小さな元魔王は訳のわからぬ返事をするくせに、生意気にもこちらの顔を見ようともしない。いや、顔を上げる気力も無いのかもしれない。イザルの眉間の皺が、また増える。舌打ちをしたくなる気持ちを堪えると、もう一度名を紡ぐ。

「シグムント」
「……こんなに、名を呼ばれたのは……、はじめてだ……」
「そうか。よかったな」
「ああ、う、れ、しい……」

 魔王城で仕留めようとした時よりも、今のほうが余程死にそうだ。シグムントが死んだら、その身は魔素に変わるのだろう。そうすれば、イザルが王に渡した角も魔素になって消えてしまう。つまり、イザルにとってシグムントが死ぬのは都合が悪かった。王を騙したことが知られたら、イザルの首は体から離れることになるだろう。死ぬとしても、そんな不格好で命を終えることだけは御免であった。非常にまずい。このままシグムントを見捨てれば、間違いなく今よりも状況は最悪になる。
 情けをかけて、良いことなんて何一つもなかった。しかも二度手間だ。現にこうして、イザルは気まぐれでまた助けようとしているのだから。

「ああ、面倒くさい」
「それも、言われる」
「はぁ……、少し黙れ」

 力の抜けたシグムントの両脇に手を突っ込んで抱きかかえる。体重の軽さに目を見張ったが、警戒心のなさに呆れが勝る。危機感がないのは、元魔王という自負があるからか、いや違う。今は雑魚だから、きっとただのアホに違いない。それとも馬鹿の方がしっくりくるのだろうか。
 そんな、人が聞いたら憤慨しそうな失礼な言葉を頭にちらしはしたが、どちらにせよ答えはすぐに出そうにない。というか、イザルは考えるのも面倒くさかった。雨の中、傘がわりの結界も張らずに来た道を戻る。手が塞がってるから仕方がないと言い訳をして。



    
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