名無しの龍は愛されたい。−鱗の記憶が眠る海−

だいきち

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御霊流し

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 予測していた痛みは、こなかった。
 静まり返った氷上。誰もが息を呑み、一言も発言を許されないような空気の中で、シューロはゆっくりと目を開けた。
 抱いていた重みは、もうない。気がつけば、ラトの卵は羅頭蛇の喉元に収まっていた。殺されてもおかしくはないことをした。それなのに、なぜ。
 シューロの瞳に、戸惑いが宿る。それは、来るであろう羅頭蛇の攻撃から守るべく、その身を隣に侍らせていたラトもまた同じであった。

「なんで、」

 震える声が、言葉を紡ぐ。シューロの声に応えるように、羅頭蛇がゆっくりとひれを動かした。虚な瞳は全てを理解しているかのような、そんな目つきであった。

「なんで、だと。これが愚かなお前にとって、一番の仕置きになると思ったから、そうしたまでのこと。」
「それが、生かすことなの。」
「殺されて、番いのもとに行こうと思ったのだろう。その手助けを、誰がしようと思うのか。」

 羅頭蛇の声色は、なんの抑揚もない、感情は読み取れぬままであった。
 海が静かに凪いでいる。先程までの荒れた波は鳴りを潜め、ただどこまでも続く青がその終局の様子を見つめていた。
 
「愚か者は、どの種族にもいる。それを教えたのは他でもない貴様の番いだろう。羅頭蛇は、無駄な殺しはしない。」

 私は私の個としての考えを尊重する。それをお前が疑問に思うことは許さない。羅頭蛇は、そう告げる。シューロはせめぎ合う葛藤を指摘された様な心地になった。
 キツく握りしめられた小さな拳が、微かに震える。生き恥を晒して生きていくのか。魂のみになったラトの隣で、シューロはこぼれそうになる嗚咽を噛み締めて堪えた。
 
「お前はこれから、一人で生きていく。お前の隣には、もう番いが現れることはない。不安定な魂は還る運命だ、それを受け入れて生きていくことが、お前への罰だ。」
「ぼ、ボク、は……、」

 ヒック、と喉が震えた。
 返す言葉を探しあぐねるシューロの背後で、氷上を踏み締める音が近づいてくる。少しだけ引きずる足音は、その歩みが不本意なものだと知らせているようであった。
 シューロの隣に、影がかかる。ゆっくりと顔を上げれば、そこにいたのはレイガンであった。

「何をしにきた。またこの海を凍らせるつもりか。」
「あいにく、俺は自分の力量を理解している。ニアが紛れている今、これ以上の魔力を使うことはないさ。」
「読めぬ人間め。お前はどちらの味方だ。」
「俺は人間の味方だ。お前達のわだかまりが解消しない限り、俺たちの任務は終われない。」

 利害が一致したから共闘した。あけすけに宣うレイガンに、羅頭蛇は面白そうにその身を縦にうねらせた。
 レイガンは、シューロの顔を見やる。泣き腫らした目元の赤が目立つ、白い肌は寒さだけではない理由でさらに色素を薄くしていた。
 
「ラト。お前のせいでニアが形を保てなくなった。お前達は揃いも揃って理に背いてばかりだな。」
「ニア様は、消えてしまったのだろうか。」
「違う。そこらにいるさ。御霊流しをするためにな。」

 レイガンの紫色の瞳が、虚空を仰ぐ。その瞳には、魔素に変化し空間を支配するニアの姿が確かに映っていた。ラトのおかげで、とんだとばっちりだ。大気中に混じるニアもまた、少しだけ不機嫌な様子であった。

「羅頭蛇。一つだけ言っておく。お前達のいう通り、死は決して終わりではない。魂は廻る。だから輪廻がある。」
「私よりも寿命の短い生き物が御高説を垂れるとは恐れ入る。」
「ああそうだ。短い命だからこそ、見えてくるものだってある。」

 レイガンは、ゆっくりと羅頭蛇へと歩み寄る。もう相手に攻撃の意思はない。そして、羅頭蛇もまた同じであった。気だるげな雰囲気を纏いながらも、その身を持ってニアの魔力を感じ取っていた。

「ひとりは孤独だ。だから、誰かに認められたいと願う者が現れるのも、また不思議ではないだろう。」
「私はそうは思わない。」
「羅頭蛇としてあるべきがお前なら、それもまた美しい生き方だろう。だけどな、」

 短い命だからこそ、誰かの記憶に残りたい。レイガンの言葉を前に羅頭蛇は黙りこくる。個は強く、美しい生き方だ。そして孤独の上に成り立つ生き方でもある。
 それを否定するつもりはない。否定しないからこそ、シューロやラトの生き方もまた否定をするなと言外に告げたのだ。
 真っ直ぐな紫の瞳が、虚な瞳を前にして強く輝く。静かな空気は氷上を柔らかく撫でていた。

「生き方は一つではない。百年生きてて、そんなことも知らないのか。」
「……………。」

 レイガンの皮肉を込めた言葉に、羅頭蛇は僅かに波を揺らした。笑ったのかもしれない。

「面白い。言うではないか。」
「話は済んだ。ニア、いつまで漂っている。」

 緩んだ雰囲気を締めるかのような声色で、レイガンが宣った。途端に、周りの空気が霞み始める。
 晴れている筈なのに、辺り一帯を不明瞭に包むのだ。違和感のある光景がニアによるものだというのは、すぐにわかった。
 霞の中を、蛇が泳いでいる。その影は羅頭蛇を凌ぐほどの大きさであった。氷上を蜷局で囲むように蠢く大蛇を前に、己よりも大きなものを見慣れぬ羅頭蛇は、流石に身動いだ。
 
「シューロ、互いの目的は果たされた。本来なら、ラトがお前の名を呼んだ時点で御霊流しは為されるはずだった。ここまではニアのお目こぼしだ。悪いが、もう時間がない。」
「っ、い、やだ……」
「なるほど、異常な魔力は神に愛されていたからか。面白い。」

 羅頭蛇は、ようやく合点がいったとばかりに宣った。尋常ではない魔力で海上を凍らせたのだ。その理由がわかれば、羅頭蛇も先の戦いが予測を超えたものだったことに納得をした。
 
 仮初の体であるラトへと、視線を向ける。レイガンの瞳に映るラトは、もう覚悟を決めている様だった。
 ラトはシューロの体を囲うように丸くなりながら、己の胴に腕を回し、泣いている番いの姿を見つめていた。その瞳から、感情は読み取れない。それでも、諭すようなその口調はひどく優しく、慈しみのあるものだった。

「私は、何も言えずに死んでしまった。シューロの名前を呼んであげることすら、できなかった。」
「なんで、ま、また一人にするの……っ、ラ、ラトの、声を忘れたくない……」
「シューロ、声を忘れて、姿を忘れても構わない。だけど、君が私のものだということは、決して忘れないで。」
「やだ、やだよラト、嫌だ、」

 淡々とした語りの中で、ラトは目に焼き付けるようにシューロの姿を見つめていた。あの時と同じだ。ラトがシューロの目の前で散った、あの時と同じ凪いだ眼差し。
 ただ違うのは、今度はきちんとした別れの挨拶を交わせることだ。それは些細な違いでも、ラトにとっては己の口から思いを告げる大切な時間には代わりなかった。
 水魔の体に、再び文字が浮かび上がる。その体の内側で、大きな泡がゴポリと湧き立つ。二人が佇むの氷の下に、大きな手のひらが現れる。波がゆっくりとぶつかり合い、不安定な氷上はそのままシューロの心情を表しているかの様だった。
 シューロは理解した。死者に縛りがある理由を。こうして、再び言葉を交わして仕舞えば別れが辛くなる。これが未練で、魂を繋ぎ止めるための鎖になってしまうのだと。
 離したくない。離れたくはなかった。この腕で、ずっとラトを繋ぎ止めていたかった。それでも、ニアとの約束を違えてまで姿を現したラトへのお目こぼしの時間は、もう残されてはいなかった。

「この腕を忘れたくない。おかしいな、この体になってから、君に抱きしめられることの喜びを味わうだなんて、あまりに残酷すぎる。」

 穏やかな声色で、ラトはそんな狡いことを言った。

「どんな、どんな形でもいい。なんだっていいから、ラトがラトであれば、僕は、それだけでいいから、」
「そうだなあ、でもやはり、次は私が、ーーーーーー、」

 シューロが抱きしめる腕の内側で、ラトは縦に身をうねらせる。嬉しかったり、照れたりする時にラトがしていた仕草だ。それがシューロの涙を誘うのだ。
 ゴポリと口から漏らした泡は、そのままのラトの気持ちであった。音を成さないそれがシューロの耳元へと運ばれることはなかったが、虚な眼差しが向けるシューロへの熱量は、言葉では表しきれないものだった。

「きこえない、きこ、えないよ……」

 二人を離すようにラトを包み込む水の音で、ラトが何と口にしたのか、シューロには届かなかった。しっかりとラトの姿を目に映したいのに、涙が邪魔して見えづらい。
 シューロは瞬きを重ねて視界を取り戻す。ラトの体がゆっくりと浮かび上がる刹那、優しくシューロの体を撫でるように、長い尾鰭がその背に触れた気がした。

「ラト……!!」

 水がかたどる掌が、ラトをゆっくりと包み込む。見上げたその先には、紫色の美しい瞳をした何かが存在した。瞳の色しかわからない神的存在は、体を水の流れだけで形成していた。
 帯状に広がった水が、風で遊ばせるように緩やかに揺れている。穏やかな眼差しでラトを見つめるその姿は、まるで宗教絵画の一枚の様である。
 透明なのに確かな存在感を放つ。水の神でもあり、まつろわぬ魂を常世へ導く神。その手の内側で、ゆっくりとラトの魂は水魔から浮かび上がった。
 青く、美しく輝く宝石の様なその色は、海を写し取ったかのようだった。
 紫の瞳が、ゆっくりとシューロへと向けられた。穏やかな瞳は、全てを見透かされてしまいそうな程に澄んでいる。
 掌の内側で、ラトの魂はキラキラと光っていた。ニルマイア・ニルカムイ神は、大切なものを扱うようにそっと両手で包み込んだ。

「不器用なもの達だな。しかし、それもまた愛おしい。」
「ニア、さま」
「今日の日を忘れるな、シューロ。御霊は水の様に輪廻を流れていく。果ては一つしかない。」

 次の邂逅のその時まで、この瞬間を忘れるな。それが道筋を照らす光となる。
 ニルマイア・ニルカムイ神の声は、懐かしいような、それでいて聞き慣れない、複音を伴った不思議なものであった。
 
 レイガンが、その手をゆっくりと持ち上げた。
 ラトを包み込んだニルマイア・ニルカムイ神の手のひらが、水の流れを作る様に一筋の水流へと変わった。体は徐々に人の形をやめ、水流となって天高く伸びていく。その水の中で、ラトの魂は美しく輝いていた。

「これは、終わりではない。」

 レイガンの小さな呟きは、シューロの耳に届いていた。
 晴れているのに、雨が降る。神が引き連れた魂は、そのまま常世へと向かって消えた。冷たい雨は、ただシューロの頬の熱を優しく労わるかのように流れていく。
 氷上に降り注ぐ雨は、傷を負った体を瞬く間に治癒をしてくれる恵みの雨だ。それでも、できぬ治癒もある。
 やがて、蛇の尾のように細長い水の一筋が、海上を掠めるように登り切る。空に爪痕すら残さぬ幻想的なひとときは、確かにその場にいたもの達の記憶に残るものであった。

 レイガンは、あげていた手を、ゆっくりと降ろした。その腕には、絡まる様にして帯状の魔力が戻ってくる。それは、包帯のようにレイガンの腕に巻き付くと、淡く光って体に馴染む様に消えていった。

「っ、」
「ご苦労さん。」

 よろめき、後ろに倒れそうになった体を支えたのは、エルマーの腕だった。そのまま、肩を抱く様にして叩かれる。
 二人の目の前では。羅頭蛇がその身を沈めようというところであった。押し返されるように氷上へと乗り上げた波が、表面を滑り足元を濡らす。先程の幻想的な空間が嘘のように、海はいつもの様子を取り戻していた。

「見送りはしまいだ。私は帰る。」
「おう、お前とはまたやりてえなあ。」
「お前もまた神に愛される愛し子か。お前達の相手をできる魔物は、この私以外はいないだろう。」
「自惚れんな。うちの嫁が一番つええに決まってんだろう。っ、ぶぇっ」

 小さく笑って返したエルマーに、羅頭蛇は尾で波を叩く様にして水を被せる。横にいたレイガンと共に濡れ鼠になれば、引き攣り笑みを浮かべて海へと帰っていく様子を見送った。
 背後では、目が覚めたらしいサジが一際騒がしくしていた。戦いが終わり、少しずついつも通りが戻ってくる。氷上の透明度が徐々に増していき、氷が割れるのも間も無くだろう。
 夕焼けの赤が足元を燃える様な色に染める中、シューロだけは大人しく座ったままだった。

「……ちょっと行ってくる。」
「ん。」

 エルマーの腕から抜け出したレイガンが、インベントリからポーションを取り出した。それを豪快に頭からかぶると、そのままずかずかと氷を踏み締めて歩み寄る。
 ニアのおかげで魔力は枯渇していた。それでも体を叱咤したのは、己がニアと共に御霊流しをしたからに他ならない。
 ラトの未練は、シューロの名を紡げぬまま逝ったことだった。あの魔物が愛という言葉を認知していたのかは知らないが、レイガンから見ても二人は見まごうことなき番いであった。
 魂の、束の間の邂逅。それがどれほど美しく残酷なことであるか。レイガンは知っていたからこそ、シューロを気にかけたのだ。
 
「おい。」

 横に並ぶように声をかける。改めて、こんなに小さな体だったのかと思った。レイガンは、静かに海を見つめているシューロの黒髪にそっと手を添えると、わしりと頭を撫でた。なんとなく、そうしてやりたくなったのだ。
 まだ小さな子供の様に見える。そんな存在が番いの魂を引き止めるほどの無茶をしたのだ。慰める言葉は口にしないが、それでも今は一人ではないことを知ってほしかった。
 
「……ラト、なんて言ったの、かな。」
「そんなもの、都合のいい様に考えろ。」
「でも、」
「俺なら。」

 少しだけ、声を引きずるかのような柄の悪い口調であった。それでも、シューロはゆっくりとレイガンへと視線を向けた。己のことなど放っておけば良いのに、そうしなかったレイガンの気遣いに気がついて、少しだけ心を許していたのかもしれない。

「俺なら、きっと口にしたこともないような臭いセリフを言う。」
「……なんだ、それ。」
「雄とはそういう生き物だ。己の雌を置いていくなら、最後くらいかっこよく散りたいだろう。」

 眉間に皺を刻みつけながら宣うレイガンを前に、シューロは呆気に取られてしまった。
 ラトも、そうなのだろうか。シューロは想像をして、そして似合わなさすぎて少しだけ笑った。
 
「何してんだ!!早くしねえと氷割れるってえ!!」
「今行く。」

 後方から、忙しないエルマーの声が飛んできた。レイガンと二人、シューロは背後を振り向くと、その腕にはしっかりとナナシを抱きかかえたエルマーが急かすように手を振っていた。
 黒髪が、潮風にさらわれる。背後では海鳥がにゃあにゃあと鳴いていた。おぼつかない足取りで立ち上がると、シューロはレイガンに続くようにゆっくりと一歩を踏み出した。
 一度だけ、背後へと目を向ける。夜が燃える様な赤を飲み込もうとしている。そんな、黄昏時の海が広がっていた。


 
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