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幸せの形
しおりを挟む嘘だと思った。こんなことが、現実で起こるわけがないとも思った。
シューロは、体の力が抜けてしまったかのように、ゆっくりと氷上に膝をついた。
誰もが、目の前で起こったことを理解していない。きちんとわかるのはシューロだけだというのに、それを説明する余裕を持ち合わせてはいなかった。
「シューロ。」
水中の、くぐもったような声色が、もう一度名前を呼んだ。二度と紡がれることはないと思っていた、温かな声色は確かにシューロへと向いている。
「歪な存在め。羅頭蛇としての本分を忘れたか。」
羅頭蛇の大きな群青色の体が、青く輝く。小さな水魔に宿る魂へ向けて、明確な怒りを浴びせた。それが、何よりの答えだった。
状況を窺っていたエルマーが、説明を求めるようにレイガンへと視線を向ける。水神であるニアが消え去った理由も聞きたかった。この氷の足場が溶けるのも時間の問題だろう。
「何がどうなってこうなりやがった……。」
「御霊流しをすると言ったろう。」
「こんな状況でえ?送る前に、でちまってんじゃねえか。」
エルマーが顎で指し示す。魂は見えずとも、何かが変わったということはわかるらしい。その隣で難しい顔をしていたレイガンが、小さく舌打ちをする。
二人の目の前では、二頭の魔物が睨み合っている。長い尾で囲うようにシューロに侍る小さな水魔は、その身を波打たせると、己よりも大きな羅頭蛇へと物怖じもせずに宣った。
「私は、確かに羅頭蛇であり、私の種族に誇りを持って生きてきた。」
「ならば、なぜ潔く死んでおけ。貴様の生は確かに私が終わらせた筈。」
「ああ、終わった。そして、それはシューロの苦しみの始まりでもあった。」
死んだ後、泡の一つになって、ラトはシューロの影を辿ってきた。ラトの願いは、己の死に縛られず、健やかに過ごしてほしい。ただそれだけだった。
しかし、実際は違った。ラトの願いは一方的な感情にすぎなかった。この目で見てきたシューロの姿は、あまりにも痛々しいものであった。
「まるで見てきたような口ぶりだな。ならば、そのネレイスが犯した罪も、もちろん認知している筈。」
「……。」
「そのネレイスは、私欲の為に卵を奪ったのだぞ。その罪深さを、お前が知らぬわけはないだろう。」
「もちろん、理解している。」
ラトの肯定に、羅頭蛇は満足そうに鰭を揺らした。
シューロが傷つくであろうことは、十分に理解している。しかし、守るべき種族間の理は、決して変えることができない。
ラトの選択肢は最初から一つしかなかったのだ。
「羅頭蛇、私は負けた。それは揺るぎない事実だ。」
「何が言いたい。」
「卵は返す。だが、シューロの行いが罪だというのは我々の中での話。その裁きは、種族が違うのであれば適用されないはずだ。」
シューロを背後に庇いながら、ラトは言った。その声に滲む後悔に、シューロが気がつかないわけがない。
手が震える。己の愚かを、まざまざと見せつけられたような気さえした。ラトを忘れたくなくて、勢いのままに行動した。それが、今になってシューロを苦しめる。
ああ、泣きそうだ。またラトに迷惑をかけてしまった。シューロのエゴがラトをこの世に留まらせたのだと、そう思ったのだ。
「詭弁だな。番いならなおのこと、我々の理に倣うべきだ。」
「……それでも、私は、」
「ラ、ト……、ごめ、」
ラトの言葉を、シューロが遮る。小さな手のひらが、きつく握り込まれた。膝を震わせながらゆっくりと立ち上がると、シューロは足をもつれさせながら羅頭蛇へと歩み出る。
両手で心臓の辺りを覆う。シューロはそのまま手のひらを差し出すようにして掲げると、手の上に小さな水流を作る。徐々に球状に膨んでいったそれが、やがて美しい宝玉のような卵へと変わる。シューロはそれを守るように抱きしめた。
「貴様が持っているものは、同胞の生きた証だ。それを奪うことは、羅頭蛇として生きたことを否定するのと同じだと、わからなかったのか。」
羅頭蛇の淡々とした声が、シューロの体の震えを大きくさせる。間違っていることなんて、最初からわかっていた。それでも、シューロは求めてしまった。ラトが残してくれるものが、欲しかったのだ。
「あ、証を、欲しかった……、ぼ、ボクはラトの子を成せないから、だから、」
「貴様の番いの覚悟とは、随分と軽いものなのだな。ネレイス、死してなおお前に振り回される同胞が、哀れでならない。」
「っ、」
「貴様が持っていても無意味だ。我らの生き方に干渉することは許さない。早くそれを返せ。」
唇を震わせる。そうだ、そんなこと、言われなくても最初から分かりきっていた。その上でシューロはラトとの番い関係を望んだ。子を成せないというのも、構わなかったはずなのに。
それなのに、ラトと番ってから、多くを望んでしまった。これは、きっと罰だ。自分勝手に欲を優先した己への、神様からの罰なのだ。
卵を抱き抱えたまま、シューロが一歩踏み出す。足の裏に突き刺さる小さな氷の破片が、心臓にまで到達してしまいそうだった。
「私は、シューロの番いだ。変わりものの羅頭蛇だ。」
ラトの静かな声が、シューロの耳に届いた。
羅頭蛇よりは小さく、シューロよりも大きな体が、氷上を泳ぐようにして隣へと並ぶ。
「私は、シューロだけに変化を求めた。そして、それがどれほど間違っていたのかを、愚かにも死んでから気がついた。」
「二度殺されたいのか。」
「お前がシューロを殺そうとするのなら、私は邪魔をする。」
羅頭蛇を静かに見つめ返したラトは、仮初の体でも確かにラトのままであった。
羅頭蛇は、一度倒した相手を前にその身を縦にうねらせた。隣に佇むシューロへと、虚な瞳を向ける。
「なぜ子を成せぬ相手と番ったのだ。私は、貴様が選択肢を誤った為に辿った道筋だと思う。故にこれは自業自得。」
「自業自得なんかじゃない、自分の意思だ。好きだから、だからっ」
「美しい関係だな。だが、同時に愚かだ。その思いが同胞を縛っていることを、未だ学べぬままだとは。」
「そんなの、ボクが一番わかってる……!!」
悲鳴混じりの声は、澄んだ空に響く。氷上が作り出す冴えた空気が、辺り一帯を支配する中、シューロは細い体を震わせながら、ラトの卵へと頬を寄せる。
青く光る、宝石のようなそれは、己の番いが生きた証だ。喉から手が出るほど欲しかった、ラトの一部。
「個で生きるラトが、ボクを受け入れてくれた。羅頭蛇の生き方を変えてまで、隣にいてくれた。」
だから、シューロは応えなきゃいけない。未練に感じて、魂だけでも寄り添ってくれるラトに、シューロはきちんと応えなくてはいけない。
「理を、尊重する。ボクが間違っていた。……ボ、クが、ラトを、縛っちゃいけない、……。」
震えるシューロの言葉に、ラトは大きく揺らいだ。
シューロはずるい。ラトの心に波風を立てるのだ。シューロによって乱された心の海はずっと荒れていて、それが苦しくて辛いのに、愛おしいと思ってしまう。
ああ、やはり己は出来損ないの羅頭蛇だ。そんなことを思って、ラトは小さく呟いた。
「私は、私の心に正直でいたい。それは刷り込まれた羅頭蛇としての本能ではなくて、きっと、育んでいくものなのだろう。」
「何を言っている。半端者め。」
「お前は、本物の羅頭蛇だ。ただそれだけのこと。」
本物の羅頭蛇だったら、きっと、名を紡がれる喜びは一生知らないままだったろう。ラトは、それに気づいてしまった半端者。この世の未練は、きっと理を犯したシューロに悲しんだことなんかじゃない。
「私は、死ぬ間際に名を紡げなかった。私が一番したかったことは、シューロの名を、呼ぶことなのだから。」
もう二度と紡げない筈だった。己の気持ちを音に乗せて、名前を呼べる幸せ。心臓が切なく悲鳴を上げて、苦しくて、呼吸の仕方も忘れるような感情の荒ぶりが、ラトは愛おしい。
シューロは、泣いてくれる。ラトを思って、泣いてくれるのだ。馬鹿なことをして、後悔して、自分を追い込んでまた泣いて、ラトのことで感情を乱して下手くそに生きる。そんな、己の為に不器用に生きる姿を見せられて、悲しいと嬉しいがごちゃ混ぜになって、言葉にできない。
だから、ラトは幸せだ。感情が、こんなに忙しなくなるような気持ちを教えてくれた、シューロに出会えて幸せだった。
願うなら、次は同じ形でありたい。誇りなんていらない、下手くそに二人で生紀ていけるような、そんな世界に同じ姿で生まれたい。
「羅頭蛇で生きたのが、こんなに辛いと思ったことは初めてだ。」
「愚か者め。私が生を終わらせたやつが、こんなにも愚鈍だったとは。」
「嗤えばいい、笑みを浮かべられるのなら。」
シューロは、肺から熱を吐き出すように涙を流すことしかできなかった。辛くて、苦しくて、こんな思いは二度としたくないと思っていたのに、神様が苦しめるのだ。
震える腕で、差し出した。青く美しいラトの卵、二人の繋がりを、シューロはその細い腕を精一杯伸ばすようにして羅頭蛇へと差し出した。
生まれ変わるのなら、同じ姿がいい。こんなに、たくさん泣いたのだ。少しくらい願いを叶えてくれたっていいだろう。
金色の、溶けそうな瞳が羅頭蛇を映す。ゆっくりとした動きで、水魔に宿ったラトが、長い尾でシューロを囲うように寄り添った。
羅頭蛇の姿が、青く光る。帯状の水の一筋が、シューロへ向かって伸びていく。そんな様子を前に、誰もその場から動くことはできなかった。
これで、おしまい。二人が、終わりを決めたこの瞬間を、誰が否定しようと思うのか。ただその光景を、目を逸らさずに焼き付けることが、エルマー達にできる唯一のことなのだから。
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