名無しの龍は愛されたい。−鱗の記憶が眠る海−

だいきち

文字の大きさ
上 下
49 / 53

幸せの形

しおりを挟む

 嘘だと思った。こんなことが、現実で起こるわけがないとも思った。
 シューロは、体の力が抜けてしまったかのように、ゆっくりと氷上に膝をついた。
 誰もが、目の前で起こったことを理解していない。きちんとわかるのはシューロだけだというのに、それを説明する余裕を持ち合わせてはいなかった。

「シューロ。」

 水中の、くぐもったような声色が、もう一度名前を呼んだ。二度と紡がれることはないと思っていた、温かな声色は確かにシューロへと向いている。
 
「歪な存在め。羅頭蛇としての本分を忘れたか。」

 羅頭蛇の大きな群青色の体が、青く輝く。小さな水魔に宿る魂へ向けて、明確な怒りを浴びせた。それが、何よりの答えだった。
 状況を窺っていたエルマーが、説明を求めるようにレイガンへと視線を向ける。水神であるニアが消え去った理由も聞きたかった。この氷の足場が溶けるのも時間の問題だろう。
 
「何がどうなってこうなりやがった……。」
「御霊流しをすると言ったろう。」
「こんな状況でえ?送る前に、でちまってんじゃねえか。」

 エルマーが顎で指し示す。魂は見えずとも、何かが変わったということはわかるらしい。その隣で難しい顔をしていたレイガンが、小さく舌打ちをする。
 二人の目の前では、二頭の魔物が睨み合っている。長い尾で囲うようにシューロに侍る小さな水魔は、その身を波打たせると、己よりも大きな羅頭蛇へと物怖じもせずに宣った。

「私は、確かに羅頭蛇であり、私の種族に誇りを持って生きてきた。」
「ならば、なぜ潔く死んでおけ。貴様の生は確かに私が終わらせた筈。」
「ああ、終わった。そして、それはシューロの苦しみの始まりでもあった。」

 死んだ後、泡の一つになって、ラトはシューロの影を辿ってきた。ラトの願いは、己の死に縛られず、健やかに過ごしてほしい。ただそれだけだった。
 しかし、実際は違った。ラトの願いは一方的な感情にすぎなかった。この目で見てきたシューロの姿は、あまりにも痛々しいものであった。
 
「まるで見てきたような口ぶりだな。ならば、そのネレイスが犯した罪も、もちろん認知している筈。」
「……。」
「そのネレイスは、私欲の為に卵を奪ったのだぞ。その罪深さを、お前が知らぬわけはないだろう。」
「もちろん、理解している。」

 ラトの肯定に、羅頭蛇は満足そうに鰭を揺らした。
 シューロが傷つくであろうことは、十分に理解している。しかし、守るべき種族間の理は、決して変えることができない。
 ラトの選択肢は最初から一つしかなかったのだ。
 
「羅頭蛇、私は負けた。それは揺るぎない事実だ。」
「何が言いたい。」
「卵は返す。だが、シューロの行いが罪だというのは我々の中での話。その裁きは、種族が違うのであれば適用されないはずだ。」

 シューロを背後に庇いながら、ラトは言った。その声に滲む後悔に、シューロが気がつかないわけがない。
 手が震える。己の愚かを、まざまざと見せつけられたような気さえした。ラトを忘れたくなくて、勢いのままに行動した。それが、今になってシューロを苦しめる。
 ああ、泣きそうだ。またラトに迷惑をかけてしまった。シューロのエゴがラトをこの世に留まらせたのだと、そう思ったのだ。

「詭弁だな。番いならなおのこと、我々の理に倣うべきだ。」
「……それでも、私は、」
「ラ、ト……、ごめ、」

 ラトの言葉を、シューロが遮る。小さな手のひらが、きつく握り込まれた。膝を震わせながらゆっくりと立ち上がると、シューロは足をもつれさせながら羅頭蛇へと歩み出る。
 両手で心臓の辺りを覆う。シューロはそのまま手のひらを差し出すようにして掲げると、手の上に小さな水流を作る。徐々に球状に膨んでいったそれが、やがて美しい宝玉のような卵へと変わる。シューロはそれを守るように抱きしめた。

「貴様が持っているものは、同胞の生きた証だ。それを奪うことは、羅頭蛇として生きたことを否定するのと同じだと、わからなかったのか。」

 羅頭蛇の淡々とした声が、シューロの体の震えを大きくさせる。間違っていることなんて、最初からわかっていた。それでも、シューロは求めてしまった。ラトが残してくれるものが、欲しかったのだ。

「あ、証を、欲しかった……、ぼ、ボクはラトの子を成せないから、だから、」
「貴様の番いの覚悟とは、随分と軽いものなのだな。ネレイス、死してなおお前に振り回される同胞が、哀れでならない。」
「っ、」
「貴様が持っていても無意味だ。我らの生き方に干渉することは許さない。早くそれを返せ。」

 唇を震わせる。そうだ、そんなこと、言われなくても最初から分かりきっていた。その上でシューロはラトとの番い関係を望んだ。子を成せないというのも、構わなかったはずなのに。
 それなのに、ラトと番ってから、多くを望んでしまった。これは、きっと罰だ。自分勝手に欲を優先した己への、神様からの罰なのだ。
 卵を抱き抱えたまま、シューロが一歩踏み出す。足の裏に突き刺さる小さな氷の破片が、心臓にまで到達してしまいそうだった。

「私は、シューロの番いだ。変わりものの羅頭蛇だ。」

 ラトの静かな声が、シューロの耳に届いた。
 羅頭蛇よりは小さく、シューロよりも大きな体が、氷上を泳ぐようにして隣へと並ぶ。

「私は、シューロだけに変化を求めた。そして、それがどれほど間違っていたのかを、愚かにも死んでから気がついた。」
「二度殺されたいのか。」
「お前がシューロを殺そうとするのなら、私は邪魔をする。」

 羅頭蛇を静かに見つめ返したラトは、仮初の体でも確かにラトのままであった。
 羅頭蛇は、一度倒した相手を前にその身を縦にうねらせた。隣に佇むシューロへと、虚な瞳を向ける。

「なぜ子を成せぬ相手と番ったのだ。私は、貴様が選択肢を誤った為に辿った道筋だと思う。故にこれは自業自得。」
「自業自得なんかじゃない、自分の意思だ。好きだから、だからっ」
「美しい関係だな。だが、同時に愚かだ。その思いが同胞を縛っていることを、未だ学べぬままだとは。」
「そんなの、ボクが一番わかってる……!!」

 悲鳴混じりの声は、澄んだ空に響く。氷上が作り出す冴えた空気が、辺り一帯を支配する中、シューロは細い体を震わせながら、ラトの卵へと頬を寄せる。
 青く光る、宝石のようなそれは、己の番いが生きた証だ。喉から手が出るほど欲しかった、ラトの一部。

「個で生きるラトが、ボクを受け入れてくれた。羅頭蛇の生き方を変えてまで、隣にいてくれた。」

 だから、シューロは応えなきゃいけない。未練に感じて、魂だけでも寄り添ってくれるラトに、シューロはきちんと応えなくてはいけない。

「理を、尊重する。ボクが間違っていた。……ボ、クが、ラトを、縛っちゃいけない、……。」

 震えるシューロの言葉に、ラトは大きく揺らいだ。
 シューロはずるい。ラトの心に波風を立てるのだ。シューロによって乱された心の海はずっと荒れていて、それが苦しくて辛いのに、愛おしいと思ってしまう。
 ああ、やはり己は出来損ないの羅頭蛇だ。そんなことを思って、ラトは小さく呟いた。

「私は、私の心に正直でいたい。それは刷り込まれた羅頭蛇としての本能ではなくて、きっと、育んでいくものなのだろう。」
「何を言っている。半端者め。」
「お前は、本物の羅頭蛇だ。ただそれだけのこと。」

 本物の羅頭蛇だったら、きっと、名を紡がれる喜びは一生知らないままだったろう。ラトは、それに気づいてしまった半端者。この世の未練は、きっと理を犯したシューロに悲しんだことなんかじゃない。

「私は、死ぬ間際に名を紡げなかった。私が一番したかったことは、シューロの名を、呼ぶことなのだから。」

 もう二度と紡げない筈だった。己の気持ちを音に乗せて、名前を呼べる幸せ。心臓が切なく悲鳴を上げて、苦しくて、呼吸の仕方も忘れるような感情の荒ぶりが、ラトは愛おしい。
 シューロは、泣いてくれる。ラトを思って、泣いてくれるのだ。馬鹿なことをして、後悔して、自分を追い込んでまた泣いて、ラトのことで感情を乱して下手くそに生きる。そんな、己の為に不器用に生きる姿を見せられて、悲しいと嬉しいがごちゃ混ぜになって、言葉にできない。
 だから、ラトは幸せだ。感情が、こんなに忙しなくなるような気持ちを教えてくれた、シューロに出会えて幸せだった。
 願うなら、次は同じ形でありたい。誇りなんていらない、下手くそに二人で生紀ていけるような、そんな世界に同じ姿で生まれたい。

「羅頭蛇で生きたのが、こんなに辛いと思ったことは初めてだ。」
「愚か者め。私が生を終わらせたやつが、こんなにも愚鈍だったとは。」
「嗤えばいい、笑みを浮かべられるのなら。」

 シューロは、肺から熱を吐き出すように涙を流すことしかできなかった。辛くて、苦しくて、こんな思いは二度としたくないと思っていたのに、神様が苦しめるのだ。
 震える腕で、差し出した。青く美しいラトの卵、二人の繋がりを、シューロはその細い腕を精一杯伸ばすようにして羅頭蛇へと差し出した。
 生まれ変わるのなら、同じ姿がいい。こんなに、たくさん泣いたのだ。少しくらい願いを叶えてくれたっていいだろう。
 金色の、溶けそうな瞳が羅頭蛇を映す。ゆっくりとした動きで、水魔に宿ったラトが、長い尾でシューロを囲うように寄り添った。

 羅頭蛇の姿が、青く光る。帯状の水の一筋が、シューロへ向かって伸びていく。そんな様子を前に、誰もその場から動くことはできなかった。
 これで、おしまい。二人が、終わりを決めたこの瞬間を、誰が否定しようと思うのか。ただその光景を、目を逸らさずに焼き付けることが、エルマー達にできる唯一のことなのだから。
しおりを挟む
感想 5

あなたにおすすめの小説

侯爵令息セドリックの憂鬱な日

めちゅう
BL
 第二王子の婚約者候補侯爵令息セドリック・グランツはある日王子の婚約者が決定した事を聞いてしまう。しかし先に王子からお呼びがかかったのはもう一人の候補だった。候補落ちを確信し泣き腫らした次の日は憂鬱な気分で幕を開ける——— ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 初投稿で拙い文章ですが楽しんでいただけますと幸いです。

【短編】乙女ゲームの攻略対象者に転生した俺の、意外な結末。

桜月夜
BL
 前世で妹がハマってた乙女ゲームに転生したイリウスは、自分が前世の記憶を思い出したことを幼馴染みで専属騎士のディールに打ち明けた。そこから、なぜか婚約者に対する恋愛感情の有無を聞かれ……。  思い付いた話を一気に書いたので、不自然な箇所があるかもしれませんが、広い心でお読みください。

俺の彼氏は俺の親友の事が好きらしい

15
BL
「だから、もういいよ」 俺とお前の約束。

婚約者に会いに行ったらば

龍の御寮さん
BL
王都で暮らす婚約者レオンのもとへと会いに行ったミシェル。 そこで見たのは、レオンをお父さんと呼ぶ子供と仲良さそうに並ぶ女性の姿。 ショックでその場を逃げ出したミシェルは―― 何とか弁解しようするレオンとなぜか記憶を失ったミシェル。 そこには何やら事件も絡んできて? 傷つけられたミシェルが幸せになるまでのお話です。

『これで最後だから』と、抱きしめた腕の中で泣いていた

和泉奏
BL
「…俺も、愛しています」と返した従者の表情は、泣きそうなのに綺麗で。 皇太子×従者

十七歳の心模様

須藤慎弥
BL
好きだからこそ、恋人の邪魔はしたくない… ほんわか読者モデル×影の薄い平凡くん 柊一とは不釣り合いだと自覚しながらも、 葵は初めての恋に溺れていた。 付き合って一年が経ったある日、柊一が告白されている現場を目撃してしまう。 告白を断られてしまった女の子は泣き崩れ、 その瞬間…葵の胸に卑屈な思いが広がった。 ※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。

【完結・ルート分岐あり】オメガ皇后の死に戻り〜二度と思い通りにはなりません〜

ivy
BL
魔術師の家門に生まれながら能力の発現が遅く家族から虐げられて暮らしていたオメガのアリス。 そんな彼を国王陛下であるルドルフが妻にと望み生活は一変する。 幸せになれると思っていたのに生まれた子供共々ルドルフに殺されたアリスは目が覚めると子供の頃に戻っていた。 もう二度と同じ轍は踏まない。 そう決心したアリスの戦いが始まる。

完結·助けた犬は騎士団長でした

BL
母を亡くしたクレムは王都を見下ろす丘の森に一人で暮らしていた。 ある日、森の中で傷を負った犬を見つけて介抱する。犬との生活は穏やかで温かく、クレムの孤独を癒していった。 しかし、犬は突然いなくなり、ふたたび孤独な日々に寂しさを覚えていると、城から迎えが現れた。 強引に連れて行かれた王城でクレムの出生の秘密が明かされ…… ※完結まで毎日投稿します

処理中です...