名無しの龍は愛されたい。−鱗の記憶が眠る海−

だいきち

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決意

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 シューロは、ラトと過ごした海を捨てて、一人で初めて地上に足を踏み入れた。
 背後から迫るような威圧感は、沖の方からまだ感じている。肺がこの環境に慣れるまでは、シューロはいつまでも危険なままであるのは変わらない。

「はぁ……、っ……は、ぁ、っ……」

 酸素が濃い。荒い呼吸は、体が馴染もうとしていることからくる動悸のようなものだと理解している。口から唾液が止まらない、うまく呼吸ができなくて、今すぐにでも海に飛び込みたかった。
 濡れたままだった体の透明度が薄れて、徐々に濁るかのようにして指先から色が変わっていく。海では透けていた体も、太陽の下に出れば、焼けるようにして体表の温度と共に、シューロの肌は順応しようと変化していった。

 怖い、怖いよ、ラト。

 シューロは、滲む涙を腕に押し付けるようにして泣くのを堪えた。一人で、ここまできた。馴染んだ海の世界ではない、この陸で本当にシューロが生きていけるのかもわからない。
 ラトの卵も、いずれ孵化を迎える時までに海へ戻さなければ、死んでしまうだろう。本当に、何も考えなしだ。一体、なんでこんなことをしてしまったのだろう。

「ひ、っく……ぅえ…っ、ら、と…、ラト……っ……」

 情けない声が漏れた。シューロは白い肌を太陽に焼かれながら、膝を砂で汚す。容赦なく照らす太陽の日差しが痛い。ラトに縋りたい、触れたい、また笑いあって、共に過ごして、一緒に眠りたい。
 怯えからくる子供のような駄々が、気を抜けば口から溢れてしまいそうだった。金色の目から、ぼたぼたと涙を零す。シューロの下肢は光を浴びてしなやかな足を晒し、下穿きにも見える鱗が下腹部を隠す。
 薄い肩を慰めるように、黒髪が肌を撫でた。濡れた体が乾いたことで人と変わらなくなったシューロは、目元に僅かにネレイスの証でもある細かな鱗を残す。
 
 震える腕が、上体を起こすようにして体を支えた。姿が陸に馴染んだシューロは、嗚咽を漏らしながらよろよろと立ち上がった。遠くの方で、聞きなれない声がした為だ。
 身を隠さなくては、こんなところで捕まるわけにはいかない。シューロは、陸に上がったことで感じる重力に身を苛まれながら歩き出した。
 迫り上がった断崖は、海で言う岩礁だろう。そう当たりをつけて、覚束ぬ歩みを進める。時折、背後を確認するかのように振り返った。抜けるような青空はこんなにも海の色に似ているのに、こちらは随分と生き辛い。
 シューロの柔らかな足の裏を、細かな礫が傷付ける。そのまま、背の高い乾いた海藻にも似た緑をかき分けながら、シューロはそびえ立つ断崖のもとへと向かったのであった。
 それからシューロはしばらくの間、人気のない草むらの窪地で息を潜めるように海を睨みつけていた。羅頭蛇がシューロを諦めて海へと戻らないか。そんな祈りを込めて。









 こんなに、口が乾いたのは久しぶりだった。シューロは、そのまろい頬に幾筋もの涙を伝わせながら、肺から込み上がる思いを吐き出すかのようにして、呼気を震わせた。
 静かな小屋の中で、誰かが何かを飲み込むような音がした。それが、どんな感情からくるものなのかはわからない。ただシューロは疲弊していた。癒えていない心の傷に、寄り添ってもらいたいとは思わない、それでも、己の行動がきっかけで騒動を起こしてしまったのは、紛れもない罪の一つだろう。
 手にしていた銀色の毛並みが、涙で濡れていることに気がつくと、シューロは服の裾でそっと拭った。
 俯いたまま、己を囲むようにして黙りこくる人間たちの視線をその身に受け止めながら、シューロは涙を止めようと、何度も深呼吸を繰り返すことしか、できなかった。

 小さな海沿いの小屋の中。
 エルマーたちは淡々と語り始めたシューロの独白を黙って聞いていた。一人の魔族の生きた時間を、視界に映すようにして耳で捉えていった。それぞれが心に波紋を広げてしまうような語りは、番いを得たからこそ、その悲しみの大きさが分かることだった。

「……しゅー……ろ、」

 情けない声がした。シューロがゆるゆると振り向くと、同じ色を瞳に宿すナナシが、その目をとろめかすようにしてシューロを見つめていた。
 ふわりと柔らかな風が吹いて、ナナシはその身に薄い皮膜状の結界を張る。あえかな吐息が空を撫でると、シューロの体をキツく抱き締めた。


「う、」
「ふ、ふぁ、あー……っ!」
「ナナシ、」

 小屋いっぱいに、ナナシの泣き声が響いた。シューロの過去を聞いたナナシが、己に重ね合わせてしまったのだ。境遇は、似ても似つかない。それでも、その心の痛みに触れた今、心情を揺さぶられるなという方が難しいのだ。
 シューロは腕の中で、戸惑ったように瞳を揺らしている。ニアごとナナシの胸に抱き込まれ、規則正しい心臓の音を耳にした。シューロは、ナナシの背中を抱きしめ返すように、ゆるゆると腕を回す。

「今は口を挟むなよ、エルマー。」
「……。」

 レイガンの指摘に、エルマーは不貞腐れたように壁に背を凭れかからせた。長い足を組み直し、わんわんと泣く己の番いとは対照的に、静かに涙を零すシューロを見つめる。
 エルマーは、そんなシューロを前に、少しだけ苛立っていた。
 剣呑な目つきを晒すエルマーの様子を横で見ていたレイガンが、心底面倒臭そうな顔をする。この男の理不尽さは今に始まった事ではないが、それを今振るうのか、と思ったからだ。
 しかし、エルマーの発した言葉は、レイガンの予想に反したものだった。

「何がしてえんだよお前。」
「おい、」
「陸まで上がってきた、んで、お前は、どうしてえんだって聞いてるんだ。」

 その場の雰囲気に似つかわしくない、エルマーの冷たい声色が容赦なくシューロに向けられる。どうやらナナシに対しての嫉妬の矛先だけが理由ではないようだ。
 鋭い金色の双眸は、真っ直ぐにシューロに向けられている。そのままシューロは、ナナシの腕の中からゆっくりと顔を上げた。

「同情かって、俺ら動かそうってんならやらねえ。てめえが撒いた種に、俺らを巻き込むんじゃねえ。落とし前はてめえがつけな。」
「える、ひどいこと言う……っ!」
「ひどいこと言わせてんのは、そのガキだろう。」

 エルマーの言葉に、レイガンは眉を寄せた。シューロの今までの話を聞いた上での言葉選びとしては、あまりにも突き放すようなものだったからだ。
 案の定、ナナシはその金色の瞳に涙を滲ませると、動揺を隠せぬままに言い返した。
 周りの空気が僅かに張り詰める。ナナシがエルマーに対して怒ったことなど滅多にない。その場にいたアロンダートとサジでさえ、ギョッとした様子でナナシを見つめた。

 エルマーは、ナナシの腕の中でこちらを睨みつけるシューロを前に、小さく舌打ちをした。心底面倒臭そうなものを見るような目だ。その中に、僅かな苛立ちも含まれている。
 エルマーはレイガンが止めようとするのを無視してナナシの前に立つと、冷たい瞳でシューロを見下ろした。
 なんで自分がナナシからそんな目で見られなくてはいけないのだという、八つ当たりが混じっていないとは言えないが、エルマーはシューロの胸ぐらを掴むと無理矢理に立ち上がらせた。

「う、っ」
「ぇる!!」

 つま先だけを地べたにつけるようにして、シューロは体を支えられている。金色の瞳は、真っ直ぐにエルマーを睨みつけていた。
 シューロの胸ぐらを掴むエルマーの腕に、ナナシが縋り付く。一触即発の雰囲気に慌てたレイガンが間に入ろうとすれば、それを遮ったのはサジだった。
 
「エルマー、なんも言わんのはナナシに嫌われる要因だぞ。いいのか。」
「……うるせえ、んなことわかってらあ。」
「ぅ、やだあ……っ」
「ほら、ナナシはこっちにおいで。」

 アロンダートによって、エルマーからナナシが離される。泣いている己の番いを前に痛そうな顔をしたエルマーは、拳を握る手の力を僅かに強めた。
 泣かせるつもりではなかった。それでも、ナナシにどう思われようとも、エルマーはシューロに対して言わねばならないことがあった。
 煮え切らない覚悟を抱えるシューロは、エルマーにとっては面倒なやつだ。妙なことに巻き込まれて、ナナシを危険な目に合わせたくないというのが本音である。

「こちとら腹にガキいる雌囲ってんだ。てめえの明日も諦めようとしている奴の手助けなんて誰がするか。」

 シューロを射抜く金色の瞳は、その心の内側までもをしっかりと映していた。
 エルマーの、力強い言葉に宿るその意味がわからないわけじゃない。シューロはエルマーの言葉に戦慄く唇を真一文字に引き結んだ。

「俺は、てめえの命をぞんざいに扱おうとする奴には手を貸さねえ。残されたんなら生き汚くあがけ。死んでった奴に気を使わせるんじゃねえガキが。」
「っガキじゃない……!!お前になにがわかる!!」
「なら分からせてみろや、てめえがどうしてえのかをよ!!」
「ぅあ、っ」

 シューロの体を、エルマーが小屋に保管されていた漁船の船体に押し付ける。腕一つで縫い止めたシューロへと、エルマーがぐっと身を寄せた。
 
 エルマーが鋭い色を含んだ瞳にシューロを映す。その背後では、動きを止めたレイガンが、眉間にしわを寄せて様子を窺っていた。
 シューロは、エルマーの腕を掴み返した。血管の浮いた男らしい腕は、シューロの手のひらでは到底覆うことができない。

 お前に何がわかる。ボクの気持ちの、何がわかる。シューロはぎりぎりとエルマーの腕を握り締めながら、込み上げる悔しさに抗えぬままに、ボロボロと涙を溢れさせた。

 殺したい、殺したいに決まっている。己の大切を奪った羅頭蛇に、報復をしてやりたい。
 シューロは、その為の力がほしい。己一人では羅頭蛇に敵わないこともとうに理解している。だから悔しいのだ、だから辛いのだ。一人で成し遂げられないこの現実を前に、平気でいられるはずがない。
 羅頭蛇を殺せたとして、何も変わらないかもしれない。それでも、シューロは諦めることができなかった。
 これは己への慰めなんかではない、明日へと手を伸ばすための、一つの手段だ。諦めきれない執着じみた思考は、呪いにも似ていた。

「ボクは、まだ死ねない……!!」

 ラトのいないこの広い世界でシューロが一人取り残されるくらいなら、ラトの元へと行きたかった。共に過ごした日々を抱いたまま、生を終わらせたかった。
 エルマーは、シューロの投げやりな生き方に気がついてしまったからこそ、許せなかったのだ。
 しかし、エルマーに対して死ねないと宣言した今、シューロの瞳には確かな生きることへの覚悟が宿っていた。

「上等。」

 犬歯を見せつけるように、エルマーが笑った。初めてシューロの口から溢れでた、生きることへの強い言葉。それが、怒りや執念からくる理由だとしても構わなかった。
 動機が汚い方が、強く生きていくことができる。死に際に巻き込まれるのはごめんだが、その怒りや恨みをぶつけに行くのなら、話は別だ。

「トリは任してやんよ、クソガキ。」
「クソカサゴ……っ」
「いっでぇ!!」

 エルマーの腕が離れると同時に、シューロは一発脇腹にお見舞いしてやった。いけすかない相手に発破をかけられて鼻持ちならないが、それでも己の気持ちを浮上させたのは目の前の人間だ。
 シューロは吐き捨てるように悪態を吐いたが、それ以上は仕返しをするわけでもない。
 顔を上げた先にいた、涙目のまま呆けているナナシに目を移せば、シューロは少しだけ口元を緩く動かして、ナナシにだけわかるようなぎこちない微笑みを向けたのであった。

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