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砕ける青
しおりを挟むあの、青い光は見覚えがあった。決して見間違うことはない、シューロにとってのトラウマの光だ。
真横を通り過ぎる水流は、シューロの泳ぎを邪魔するかのように流れを変える。進行方向からくる、異常な流れは波紋のようだ。何か大きなものがぶつかり合うことで生じる、大きな波紋。
過去の経験に急かされるような気持ちになったのは、久しぶりである。泳ぎは早い方と言えど、己の不安を否定する為に、急く思いが動きに現れる。それでも、幾度となくその身を煽るかのように行手を阻む水流のせいで、シューロは思うように勢いを出せずにいた。
もどかしい。シューロは、己の心臓に巡る血液が、ドロリと重く凝ってしまったかのような心地に苛まれながら、先を急ぐ。
一体、何が起きたのだ。見開かれた目は少しの異変も逃さぬように、真っ直ぐに向けられていた。まるでその様子は、視線が固定されてしまったかのように動かない。耳の奥でどくどくと鳴る鼓動が、己の手足の自由を奪い、体を支配されてしまったかのようであった。
何もない、きっと、これは勘違いだ。己の心を宥めることに長けている筈のシューロが、そう祈らずにはいられないくらい、じわじわと心に侵食する不安から、今にも身を引き千切られてしまいそうであった。
ーー嘘だよね、ラト、ラトはきっと、あの光とは、関係ないよね。
長い黒髪が扇状に広がる。金色の瞳から零れた涙が、シューロの黒髪にあたって弾ける。表情を失った顔は、徐々に苦痛を堪えるかのようなものへと変わっていった。
違う、違うと言って、別の何かが起きたんだと、頼むから誰かそう言って。震える口が、僅かに開いた。漏れ出そうな嗚咽を堪えた。
海が、再び青く光った。シューロはまるで水中を滑空するかのように黒髪を広げると、見えぬ皮膜を突き破るかのような勢いで先を急いだ。
何かに抗うように動かし続けた体は、悲鳴を上げていた。通い慣れている道が、今日に限って別の世界へと繋がってしまったんじゃないかと思う程、長く感じた。
「はぁ、……っ、……」
漏れ出る魔力が、水に溶けるようにして広がっている。どこまでも深い青は、濃い魔力のせいで視界が濁ってしまったかのように、認知を妨げてくる。
景色は確かに澄んでいる筈なのに、思考に靄がかかってしまって視覚情報が行きつかないような、そんな具合だ。
シューロは肩で呼吸をしながら、数度瞬きをして視界を慣れさせる。海上で、稀に起こるけあらしのような不明瞭さが徐々に馴染んでくると、少しずつ辺りの景色が輪郭を帯びてくる。
ラトは、どこだ。もしかしたら、シューロの勘違いかもしれない。祈りの気持ちは徐々にその身の焦りへと反映される。
体は急いているのに、呼吸が覚束ない。それが、不安からくるものなのだと、シューロは気がつかなかったのだ。
ーーこの先、目にするものが現実だとしても、ボクはそれを認めることができるのだろうか。
かられた不安を払拭するように、シューロは急いだ。そして、視界の不明瞭さが漸く晴れた時、シューロの周りからは音が消えていた。
その光景を見た時、シューロは体が石になってしまったかのように、動けなくなった。
海が鳴いている。そんなことを思ってしまうほどの衝撃が、水を通してシューロの身に浸透してくる。金色の双眸が目にしたもの、それは己の番いでもあるラトと同体格の羅頭蛇が、本能のままにぶつかり合う姿であった。
長い尾が、鞭のように滑らかにしなる。水を切り裂く様に打ち合い、弾かれたその先が岩礁の一部をこそげとる。
きっと羅頭蛇同士の本能の共鳴なのだろう。距離は離れている。それなのに、シューロの身に突き刺さる確かな緊張感は、呼吸の仕方を忘れさせるものだった。
二頭の起こす波が、離れているシューロにまで衝撃として伝わってくる。腕で顔を覆うように、目を閉じ流されまいと踏ん張るシューロの長い黒髪を、勢いのある水流が背後へと攫った。
二匹の羅頭蛇の、硬い鱗が擦れあう高い音が耳に届く。それがなんだか悲鳴のようにも聞こえてしまい、シューロは怖くて仕方がなかった。
硬い岩礁を、尾のたった一振りで砕いてしまった時の、低く重い音とは真逆である。
お互いの体を、命を、削り合う痛みが声になったかのようだった。
この戦いは、苦しい。そう感じるのは、羅頭蛇にとっての戦いは、どちらか一方の死を以て幕引きとなるからに他ならない。命を賭した、悲しい本能だとシューロが知ってしまったからだ。
「は……、っ……」
それでも、シューロの体は三年前の羅頭蛇同士の戦いを、まだ覚えていた。喉がひりつく。視界がぼやけて、己の心臓がバクンと跳ねた。あの時と同じ、死の宣告を受けるかのような、そんな心地。
離れていてくれ。決して、近寄らないでくれ。
ラトがシューロに約束をさせた決まり事。それは、シューロを羅頭蛇の本能から守る為だと痛いほど理解している。互いの愚かである、あの時の出来事は、すぐに思い出せるほど骨身に染みていた。
しかし、それが今シューロを縛り付ける枷となった。立ち尽くすシューロの目の前で、澄んだ青色が剥がれ落ちたのだ。
「あ、っ」
つい漏れ出た声を、押さえつけるかのように口を覆った。見開かれた金色が、決して逸らすまいと一直線に二頭を視界に収める。震える指を、宥めるかのように重ねる手。シューロは両手で口を押さえると、落ち着くように深呼吸をした。
ーーあれは違う。あれは、ラトの鱗なんかじゃない。
青い光を散らしながら、輝く鱗がゆっくりと海中に舞う。大きな蛇にも似た体の隙間を縫うように、それは確かな存在感を持って海の青を吸収する。
見開かれた目、シューロの金色の虹彩がぐらりと揺れる。蘇るのは、鱗を卵に変えると言っていたあの時のラトの言葉だ。
死ぬ前にたった一つしか残せない卵は、剥がれ落ちた鱗が変異するものと言っていた。なら、どちらがラトの鱗だろう。
金色の瞳は、二頭の羅頭蛇の命のやりとりを見つめていた。本当は、目を逸らしたかった。それが出来なかったのは、シューロの中で一縷の望みを抱いていたからに他ならない。
群青の体が、滑らかな光沢を放つ。その時、ラトの鎧のような額の鱗に亀裂が入った。
「ーーーーーー……っ、」
シューロの唇が震えた。己が、なんて声を発したのか分からなかった。もしかしたら、それは声ではなく、吐息のようなものだったのかもしれない。シューロの言葉は音になれぬまま、静かに海に溶ける。
ラト。
ラトがその瞳をシューロへと向けた。抗えぬ筈の、呪いにも似た本能の隙間を縫うようにして意識を取り返したことは、羅頭蛇としては異常なのかもしれない。
二頭の羅頭蛇の縺れ合いによって押し出された波が、突き放すようにしてシューロの体を追いやろうとする。
力の入らない足で、必死に堪える。現実をまっすぐに見つめていた。今どんな表情をしているかはわからない。それでも、この瞬間から目を背けて仕舞えば、シューロはきっと後悔する。
「らと……」
か細く水を震わせたシューロの声は、押し返すうねりによって散らされた。言葉になっていたかもわからないその音に、深海の闇のように虚ろなラトの瞳が、応えるようにシューロを見やる。
物言わぬ静かな瞳は、その目にシューロを焼き付けるかのように逸らされることはなかった。もしかしたら、一度目の約束は覚えているな。などと宣って、シューロを気にかけているのかもしれない。
群青の体が、美しく光る。命懸けのやり取りは、今終わろうとしていた。
ラトの額の大きな鱗に走る亀裂が、割れるように広がる。シューロが数刻前に触れていた場所へと、冷たい死がラトの体を侵食していく。
「ぁ……」
震える指先で、岩礁に手をついた。気がつけば、己の声を堪えることができなかった。シューロの顔からは表情が抜け、今にも膝から崩れてしまいそうなほどだった。足は確かに海底の砂を踏み締めているというのに、その感覚が奪われたかのように覚束ない。
シューロの目の前で、少しずつ、少しずつ、ラトの体へと死の根にも似た罅が這わされていく。見ていられない、向き合いたくない。それなのに、瞳は瞬きすら忘れてしまったかのように、ラトの姿を真っ直ぐに見つめていた。
嘘だ、こんなの現実じゃない。だって、明日はラトと沈没船を見にいくって約束をした。ラトがその約束を破るわけがない。
「い、ぃゃだ、」
一緒にいるって言った。だって、ラトが自分を選んで欲しいって言ったんじゃないか。側にいてほしいって、そう言ったんじゃないか。
ずっとこれからも、隣にいるって約束したじゃないか。
「やだ、やだ……ラト、やだ……っ」
喉から絞り出すような、汚い声でも構わなかった。今、ラトの名前を呼ばなくては後悔する。シューロは込み上げる胸の痛みを口から吐き出すようにして、喉を焼いた。
岩礁を握る手からは血が滲む。ラトとの約束は、未だ不可視の鎖でシューロを拘束したままであった。
飛び出したかった。ラトの近くに行きたかった。それなのに、ラトは物言わぬ眼差しでシューロを押さえつけるのだ。甘えるシューロを、柔らかな瞳で見つめている時にも似た、そんな凪いだ眼差しでシューロを制す。
ラトの口から、ごぼりと細い泡がこぼれた。それは、水の流れで容易く散らされてしまうほどに頼りないものであった。
ーーなんて言ったの、聞こえない、聞こえないよラト。ちゃんと、声に出して言ってくれないと、聞こえないんだよ。
「ぅ、ぁ……」
澄んだ水の中に、海雪が舞う。青く光るいくつもの命の欠片と共に、シューロの目前を幻想的に彩った。
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