名無しの龍は愛されたい。−鱗の記憶が眠る海−

だいきち

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美徳と懇願

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 自分の本能に、こんなにも打ちのめされることになるなんて、初めてだった。

「シューロ……!シューロ、お願いだ起きてくれ……っ!」

 ラトは、初めて血の気が引くというのを経験した。聞こえるものが耳にすれば、それは感情が引き千切れそうな懇願だ。個で生きていくことを本能とする羅頭蛇のままだったら、きっと一生感じることのない、逃げ場のない後悔。
 情けないことに、シューロが気を失ってからどれくらいの時間が経過していたのかがわからない。ただラトは、己の内側で暴れる感情の奔流に急かされるままに、思いつく限りの手を尽くした。
 これが悲しみか。だとすれば、こんなに辛いものはない。身の内側が徐々に溶けていってしまいそうな感覚に苛まれていた。ラトは、目を閉じたままピクリとも動かないシューロを、押し潰さないように気を配りながらも、側から離れることをしなかった。
 シューロの体から煙のように立ち上っていた赤い血に、誘われるように迫ってくる鮫を己の威圧で何度も追い返した。その姿は、少しでも近づこうものなら骨も残さないといった殺意めいたものであった。
 番いを守るもう一つのラトの顔を見たら、きっと照れ臭そうにするだろうに、ラトは、長い尾でシューロの体を閉じ込めると、その上に覆い被さるようにしてシューロを守る。
 時折様子を窺うかのようにこちらへと視線を向けてくるものには、威嚇をするように魔力を放って牽制をした。
 ただ刻々と過ぎる時間の中、シューロが再び己の名前を紡いでくれるのを、ひたすらに待ち続ける他はなかったのだ。






 なんだろう。

 シューロは己の頭の中に響く、物悲しげな反響音にも似たその声を耳にして、そんな疑問を浮かべた。
 瞼が、重い。全身が引き攣れるように痛くて、動けそうにない。まるで何かに纏わりつかれているような、そんな感覚である。
 眠たい、眠たいけれど、起きなくてはいけない。何かに呼ばれている。そんな気がするのだ。声はくぐもっていて聞こえにくい。それでも、シューロはその声の主が、ラトなんじゃないかと思っていた。
 冷たい水の中にいる筈なのに、何かに包まれている。動きたい、そう念じてやっと動かすことが出来たのは指先のみで、シューロの体は重たい何かに抑え込まれたままだった。

「ぅ、……」

 声を出すことは出来た。自分の意思で発した音に、頬に触れる水の感触が大きく動いた。顔の上で、渦を巻く。水の流れを追いかけるように、シューロの黒髪がふわりと揺れた。
 その感覚が呼び水となって、シューロは瞼を震わせながら、ゆっくりと金色の瞳に光を宿す。

「シューロ……!!」

 聞き慣れた声だ。ああ、やっぱりあのもの悲しい声はラトのものだったのだ。明瞭ではない視界を頼りに、シューロはラトを探した。
 こめかみが、ずきりと痛んだ。顔を顰めると、ぬるりとしたものがその頬を撫でるように滑り落ちた。

「……な、に……かい、そう……?」

 数度瞬きをすることで、視界を取り戻した。視線を下せば、己の体を覆い隠すかのようにして、黒緑色の海藻が纏わりついていた。どうやら動きを制限されていたのはこのせいらしい。
 己の周りを囲むようにして、ラトが丸くなっていた。体の上に乗せられた海藻の上では、数匹のペニスフィッシュが元気よく飛び跳ねている。
 なんだこの状況。もしかして、ラトによる新手の揶揄いだったりするのだろうか。シューロはポカンとした間抜け面で、己の現状を前に呆けてしまった。

「ラト、……」

 ヌメヌメした海藻よりも、今はラトのつるりとした鱗を感じていたい。シューロは身を捩り、なんとか腕を一本引っこ抜く。
 簡単な動作さえままならない程の重量感のある寝床だ。シューロは手を伸ばすようにしてラトに触れると、労わるように優しく撫でた。

「……気が、ついたか……。」

 水を微かに震わせる、聞いたこともない憔悴したラトの声色。少しだけ安堵の色も混じるその声に、応えるように小さく頷いた。それでも、ラトの口からは、いつものように軽口混じりの言葉は出てこない。
 シューロが目を覚ましたことによる安堵だけではない。複雑な感情が入り交じっているのは確かだった。

「私が、怖くないか……」

 不安が混じる、弱々しい声色だ。その憔悴したラトの様子に、シューロはやっと己が気を失う前の状況を思い出した。
 
「っ、」

 迫り来る鋭い尾鰭が体を押し上げた。あの瞬間が脳裏に蘇る。怖かった。尾で薙ぎ払われた魔物たちが、どんな末路を辿ったのかを、シューロはよく知っていた。
 小さく息を詰めたシューロを前に、ラトは身に纏う雰囲気に更なる後悔を滲ませる。
 しかし、シューロは気づいていた。これは、どちらか片方が、責められるものではないということを。シューロ自身もラトの言いつけを守らなかったし、ラトはこういったことを想定した説明を省いていた。
 互いの種族が違うことを理解した上で番ったのであれば、決して蔑ろにしてはいけないものだ。
 シューロはラトの打ちのめされている様子にサッと顔を青褪めさせた。それと同時に、己がラトの一打で絶命しなかったことに、深く感謝した。
 己の無意識下の事故で番いを失うことなど、絶対にあってはならない。それは、悲しい経験を重ねてきたシューロだからこそ理解していた。

「ラト、……っごめん、ぼ、ボクもラトの言ったこと、全然守ってなかった……」
 
 目の奥が熱い。か細い声で紡がれたシューロの心からの言葉に、ラトは何度もすまないを繰り返した。
 互いが招いた油断だ。シューロはラトの口元に手を添える。この体に、触れることができてよかった。ラトに深い傷を負わせることがなくてよかった。
 シューロは嗚咽を堪え、口にすることは叶わなかった。しかし、その掌から伝わる本当の気持ちを、ラトはしっかりと受け止めていた。

「これは、何があったの。」

 互いの無事を確認してからしばらくして、シューロは己の身に起きている状況を確認するかのように問いかけた。大量の海藻にくるまりながら、ペニスフィッシュが踊っているこの状況。
 ラトはシューロの不思議そうな顔に気がつくと、その巨躯を丸めるようにして顔を寄せた。

「この海藻は、傷に効く。最初にシューロに渡したあれだ。」
「うん、」
「ペニスフィッシュも、また同じだ。覚えているだろう。」
「うん。……え?これもしかしてボクの為に?」
「……私なりに、考えたんだが、やはり駄目だろうか。」

 シューロのキョトンとした反応を前に、ラトが少しだけ落ち込んだ様子を見せる。体が大きいラトが、シューロに出来る事はこれくらいしかない。
 同じ種族であれば、その手で労ってやることも出来ただろう。しかしラトには抱きしめる腕が無い。この大きな体で守ってやることは、と考えたが、不注意で危険に晒したばかりだ。
 ラトの中の後悔が、じわじわと広がっていく。その瞳にいつもより力がないことに気がついたシューロは、唯一動かせる腕で海藻を引き寄せると、それを噛み千切り、見せつけるようにして咀嚼した。
 本当は傷はまだ痛かったけれど、シューロなりの嬉しいを、ラトに伝えたかったのだ。


「ボクの為にありがとう。ラト、こんなにしてくれて。」
「これくらいしか、思いつかなかった。私は、……君とは体が違うから。」
「嬉しい、そうやってラトがボクのことを考えてくれたことが、それが一番嬉しいから、いいよ。」

 柔らかく微笑むシューロに、ラトは本当に?と伺うような様子で鼻先を近づける。
 嫌われたくないのだ。怖がられたくはない。シューロは、ラトの口にはしない心の声を感じ取っていた。この海藻も、小さなペニスフィッシュも、ラトが探し集めてきたものだ。
 個で生きることを美徳としていたラトが、種族としての生き方を捻じ曲げてまで側にいて、番いとして寄り添ってくれる。シューロがそこまでさせたのに、なんで嫌いになれると思うのか。

 シューロの側を離れようとしない。ラトの穏やかな声が、僅かに震えている。治癒の為とはいえ、こんもりと盛り上がった海藻に埋もれながらの間抜けな状態ではあったが、それでもシューロはここがどこだかも気がついていた。

 ここは、おそらくあの魔石化した貝の上だろう。ラトは口にはしなかったが、シューロにはわかっていた。
 魔石から出る魔力が、じんわりとシューロの傷を癒してくれているのを、しっかりと肌で感じていたのだ。

「話そう、ラト。もう一度、ラトの種族のことを教えて。」
「そうだ、そうだな……。シューロ、でも、まずは傷を治してからだ。」

 ラトの懇願にも似た声色に、シューロは寄り添った。そして、二人は足りない言葉を補うように穏やかな時間を過ごす。
 シューロの傷が癒えるまでは、ラトは決して塒へと帰ろうとはしなかった。それはひとえにシューロの傷を慮っていたからに他ならない。
 手探りながらも甲斐甲斐しく世話を尽くすラトの周りには、不思議と敵意のある魔物は寄っては来なかった。
 繰り広げられた羅頭蛇の戦闘を見たものもいる。頭のいい魔物は近寄らないのだろうと説明をしてくれた。

 シューロが動けない間、ガニメデの眷属でもある岩礁を背負った大亀は現れなかった。もしかしたら、治るまで寝床を貸してくれると言う意味かもしれない。ラトとシューロは、動けるようになるまでの数日間、ありがたく間借りをすることにした。
 立ち去る時は、きちんとお礼を言おうと言う話になったのだ。そうして、三日間を過ごした二人は、もう一度話をすることにした。ラトによる、羅頭蛇の習性の話だ。

「羅頭蛇は、同格のものとしか、戦わない。それは個で生きる私たちにとっての戦いが、普通の生き物でいう繁殖になっているものだと思ってくれて構わない。」

 真剣な声色で紡がれた言葉に、シューロは呆けてしまった。繁殖と同義という言葉。それは、相手の求愛を、ラトがシューロの前で受けたと同じであった。

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