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鯨の墓場
しおりを挟むその日、鯨の骨が沈む離れた海域へと、シューロは連れてきてもらっていた。前々から行きたいと、ラトにねだっていたのだ。
白い砂地に溶け込む鯨の骨が、海の光を吸収して青く輝くところを、一度でいいから見てみたかったのだ。
波が穏やかで、生き物の姿も少ない静かな場所だった。海の中に当たり前にあるのに、滅多に見かけることのない珍しいもの。ラトが昔見たという鯨の骨の話を聞いて、シューロの好奇心が疼いたのだ。
シューロはラトと同じ時間を共有するようになってから、なおのことラトの記憶に残った景色を、共に見てみたいと思うようになったのだ。
番いであるシューロの可愛らしくも、控えめな要望にラトが応えぬわけもない。ラトはシューロを背に乗せるようにして、記憶を頼りにその場所へと案内をした。
訪れたそこは、石灰化した珊瑚が周辺を囲うように積み上がる。砂地の白が光を吸収する、儚くも生を全うした海の王者が眠る墓場。巨大な骨が捩れた流木のように沈む、幻想的で美しい空間であった。
「すごい、ここは……うまく言えないけれど、静かな気持ちになる。」
「流れる時間は、皆平等だ。だけど、私もここに訪れたときは今のシューロと同じ感覚になった。」
こういうのを、静謐。というのかもしれないな。ラトは、そう呟くと、その虚ろの二つ目で巨大な骨を見つめた。
珊瑚の石灰とは違う、骨の白さだ。この大きさの生き物が海を渡り、確かに生きていた。今は、この場所を終の住処とし、歩んだ歴史と共にここに眠っているのだ。
血肉は泡に変わり、今もこの海の記憶として息づいている。
不思議と巨大な骨の周りは透き通って見えた。シューロはゆっくりと歩み寄ると、体を支えていたであろう、肋骨の一つに手を添えた。
「魔物だったら、こうはならない。」
「ああ、魔素となって消えるからな。」
「……生きた証が、いつまでもこんな風に残れば良いのに。」
白い骨に頬を寄せた。鯨の形を残したまま、まるで遺物のように存在している。この砂地を終の住処にした理由が、少しだけわかる気がした。
ここは静かで、澄んでいる。白い砂は辺り一面の海底を覆い、海面から僅かに届く光が柔らかく辺りを照らしている。
生まれて初めて海底の砂地へと身を任せる時、それが最期の時を迎える日であったら、一体どんな心持ちで果てる瞬間を待つのだろう。
穏やかな気持ちだろうか、それとも、悲しいと思うのだろうか。そんなもの、誰も推し測ることが出来ないとわかっている筈なのに、その答えを知りたいと思ってしまうのは、今、シューロには失いたくないものがあるからに他ならない。
大きな体だ、もしかしたら、ラトよりも大きいかも知れない。シューロは、肋骨を砂地に沈め、檻のようにも見えるその上体部分を見上げると、身の内側から湧き上がってきた形容もしづらい感情を抑えるように、その手を小さく握り込んだ。
「今が幸せだから、少し怖い。」
「怖い?」
ラトが聞き返す。巨大な骨の隣にたたずむ小柄な姿は、少しだけ哀感を纏っていた。シューロは小さく頷くと、ラトに並ぶようにして歩み寄る。
こんな、大きな生き物が死んでしまう。そんな世界に自分達はいるのだと考えたら、シューロは怯えてしまったのだ。
大きな鱗の一枚に手を添えて、頬を寄せる。ラトはシューロより長生きだ。百年を超えて、番いとしてシューロの隣に寄り添ってくれている。
しかし、シューロが、ラトと同じだけの寿命を重ねることは出来ない。種族の違いもあるが、もし己の命が散った時、自分が一体何を残して海に溶けるかがわからなかったのだ。もしかしたら、何も残すことが出来ないかもしれない。魔石の一つでも残ってくれればいいが、そんなものは自分ではわからない。
だから、シューロは鯨の骨を見たいと思った。生きた証が形として残っているその場所を、二人の共通の記憶として残しておきたいと思ったのだ。
「この場所に畏怖を感じるのは、ある意味の敬意を払っている、ということだと私は思う。」
側に寄り添いながら黙りこくってしまったシューロへ、ラトはゆっくりと語りかけた。
穏やかな口調だ。シューロの華奢な身を、優しくその尾鰭で囲う。
「敬意……?」
「私たちは、肉体の終わりと共に魔素となって消えるだろう。それ以外は、全く彼らと同じなのに。」
魔物も魔族も、食べて眠り、意思疎通をし、独自の言語を介す。営み、子孫を残し、守りたいものの為に、己の生を全うする。
大きく違うのは、死んだら魔素になるということ。
「憧れがあるのかもしれない。私たちは、形を残すことが下手くそだ。だから、誰かの記憶に残りたいと思うのだろう。」
「あ……、」
シューロの心の中で、言葉にできなかった部分を補うように、ラトはシューロの意図を汲み取って言葉を紡いでくれる。
「だから、こうして力強く生きた証を残す彼らを見ると、憧憬を向けてしまうのかもしれないね。おそらく、それが畏怖の正体だ。」
柔らかな口調は、そっとシューロを包み込む。いずれ、二人は海の記憶の一部となる日が来るだろう。その日が、一体いつ訪れるのかはわからない。今日かもしれないし、数十年後かもしれない。
今がこうして幸せだからこそ、まだ見えぬ先の運命に、ふとした時に翻弄されてしまう。でも、ラトはそれでいいのだと言ってくれる。
群青色の大きな体が、優しくその身を寄せるかのように距離を縮めた。己の身動き一つで傷つけてしまいそうになる、小柄なネレイスを慮る運命があるだなんて、ラトには予想もしなかった。
「生きるとは、そういうことだよシューロ。先のことが見えたら面白みもないだろう。」
「そうなのかな、」
「ああ、そんなもの知れてしまったら、私たちがこうして共にいる今も、運命の決めた道筋なのかと疑ってしまうかもしれない。」
そう考えると、つまらないだろう。そう言って細かな泡を浮かべ、少しだけ意地悪な口調でラトが宣う。
シューロがそっとラトの体に触れる。そのまま己の身を重ねるかのように、大きな鱗の一つに頬を寄せると、心もとない声で呟いた。
「もしボクが死にそうになったら、ラトがボクを食べてくれる?」
「怖いことを言う、何でまたそんな発想になった。」
少し呆れたような声でラトが問いかける。その様子は少しだけ不機嫌そうで、シューロの発言の意図を探るように、慎重に言葉を選ぶ。
横目で見たシューロは、己の思考に少しだけ参ってしまっているかのような雰囲気であった。
「番いの死に際だなんて、考えたくはないな。それに、私はシューロを食べることはできない。」
淡々とした口調ながら、少しだけ困った雰囲気を纏うラトに、そんな顔をさせたいわけじゃないのに、と思った。
シューロが物騒なことを言い出したのには、きちんとした理由があった。ラトは覚えていないかもしれないが、初めて助けてくれた時、シューロはラトに丸呑みされたのだ。あの記憶が衝撃的すぎて、きっと強く印象に残ってしまったのだと思う。
「……だって、ボクはラトと同じ時間軸では生きられないかも知れない。」
俯いたままのシューロがポツリと呟く。ラトはその表情を覗き込もうとして、やめた。鼻先が砂地に埋まってしまうだろうし、シューロから何をしてるのと聞かれたとして、君の顔が見たかったなどと宣えば、真剣な話に水を差してしまう気がしたからだ。
「……寿命の話か?」
「それもそうだけど、」
そう言って黙りこくるシューロの様子に、ラトはふむ、と熟考した。生きた証を残したい、もしどちらかが先に死んだら、その証と寄り添って生きていきたいと、つまりはそう言ったことなのだろう。
健気なまでの思いは、身近な者の死を経験し、その古傷を未だ胸に抱えているからなのかもしれない。
シューロは、ゆっくりと口を開く。ラトに思いの丈を口にするのは、まだ少しだけ緊張する。
「ラトとずっと一緒にいたい、もしボクが先に海に溶ける日が来たら、その時はラトの体と一つになりたい。」
「そうしたら、私が君を看取れないじゃないか。」
「みとる……?」
「看取る、というのはね。最期の時間の共有だ。」
穏やかな声が、ゆっくりと諭すように宣う。
シューロは聞きなれない言葉の続きを促すように、まっすぐにラトを見つめた。最期の時間とは、いまわのきわのことだ。海へと、体を構成する全てが溶けるその時まで側にいるということ。
長い尾鰭でシューロを抱き上げると、ラトは己の体の上にシューロを乗せる。
「君が私に教えてくれたんじゃないか。寄り添うということがどれだけ満たされるかという事を。」
「へ、」
「こうして、私は最後まで君の側にいたい。沢山のものを共に見て、経験をする。その楽しさも私に教えてくれたな。」
ラトがシューロを乗せたままゆったりとした動きで泳ぐ。別れを惜しむかのように、ラトの動きに合わせて白い海底の砂が巻き上がる。長い尾鰭を優雅にしならせ、竜にも見えるその体を遊泳させると、尾鰭の先で振り払うかのように砂を散らした。
「それなのに、シューロは酷い事を言う。私から君を取り上げるようなことはしないでくれ。」
ラトの言葉が、じんわりとシューロの胸の内側に溶けていく。細胞の一粒一粒が震えてしまって、情緒が忙しない。こんなに体が茹だってしまいそうなことを言わないで欲しかった。
幸いだったのは、ここがラトの背中の上で、今の己の顔を見られなくて済むことくらいだろうか。シューロはラトの背中に顔を埋めるかのようにして小さくなると、熱くなった顔を冷やすように、頬を押しつけた。
「ラトはずるい。」
「何もずるくないぞ。あと、髪がこそばゆい。」
いつものように、意地悪な言葉の返しの一つでもしてくるかと思ったのに、不意打ちはやめて欲しかった。
シューロはラトの最後の言葉に聞こえないふりをすると、両手を広げてラトの背中に身を預ける。シューロなりの精一杯の甘えを、ラトは小判鮫の真似事かと言って笑うけど、今はそれでも構わなかった。
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