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迫る影
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まずシューロが向かったのは、寝床にしている岩礁から程近い、海藻が多く自生している一帯だった。多くのプランクトンもいるからか、小魚がよく集うのだ。運が良ければ、蟹も見つけることができる。
シューロとしては、ここ数日は食べなくても凌げてしまうような、そんな大きな獲物がいればいいなと思う。
この間は、ここに大きな鮫が出た。水玉模様のその鮫は、シューロに気がついても意に介さず、平たい体で大きく口を開け、優雅にその場を回遊した。
多分ラトが言っていたホエールシャークだ。鯨のように大人しくて、大きな鮫。その歯は退化して随分小さいと聞く。
シューロは、ラトのように見た目と中身が違っている生き物を初めて見た時に、意思の疎通ができないだろうかと思った。もし意思の疎通ができたら、少しだけ話してみたかった。その歯を使わなくなったきっかけを、聞いてみたかったのだ。
「今日は、来ないのかな。」
腹のたしになりそうな大きな魚や蟹は見当たらない。シューロも腹を満たさねばと義務的に狩りへ出た為か、あまり積極的になれなかった。
結局、手にしたのは味気ない海藻と、岩の隙間で縮こまっていた海鼠だけ。それも、身をうねらせて逃れようとするものだから、シューロは結局逃してやったが。
少しだけ高い場所まで泳ぎ、競り上がっている岩礁の中腹に腰掛けた。岩肌を背もたれのようにして、シューロは遠くを見やる。もう少し行くと、ケルプの森だ。一日で五十センチも伸びるという海藻が茂るその場所は、ここよりももっと大きな獲物がいる。
ただ、泳ぎで森を抜け切るには、シューロは大きすぎる。狩場の移動を決めあぐねている理由の一つとして、何かあった時に逃げ切れない可能性がある、ということが大きい。
狩りをするときも、海底を歩くことになりそうだな、と思った。それは全然構わないのだが、そうなると森に行ったとしても、貝くらいしか拾えないのだ。
「ん…?」
シューロの横から何かが飛び出した。それはこの辺じゃあまり見かけない魚だった。もしかしたら、このままケルプの森へと向かうのだろうか。シューロの半分ほどの体長はありそうな魚が、真っ直ぐに森へと向かっていく。
あの大きさだと、森に行っても海藻が邪魔をして思うように身動きが取れなさそうだ。そんなことを思っていると、周りの空気が変わったような気がした。
ぬるい水流が、シューロの頭上からゆっくりと降りてきた気がした。は、と小さく声をあげそうになったが、両手で口を塞ぐようにして堪える。つま先からゆっくりと体が冷えていくような、そんな心地になった。海底の白い砂の上に映し出された岩礁の影が、ゆっくりと伸びていくのだ。
シューロの真上に、何かがいる。もしかしたら、ホエールシャークだろうか。そうだといい、そうであってほしかった。
「あ、」
シューロの口から、今度はぽろりと小さな声が漏れた。目の前に、白いものが降ってきたのだ。金色の瞳が、ゆっくりと影の主の元へと向く。
上から海雪のように降ってきたのは、生き物の残骸だった。それが、優しくシューロの体を撫でるかのように舞い落ちる。
真っ黒い体表の何かが、岩礁の上から無邪気な様子でこちらを覗き込んでいる。それは、連なるぎざ歯をめちゃくちゃに動かして、逃げていった魚とよく似た獲物を咀嚼しながら、こちらを見下ろしていた。
「あ、あ、」
その顔は、大きな鮫の顔をしていた。人型の手で頬杖をつきながら、無邪気にはしゃぐように、時折奇妙な声で笑う。
シューロにはそれが何か、すぐにわかった。
「なにしてるのおお」
「………、」
「いないのお、ねええ、」
海の魔物、カリュブディス。鮫の頭をしたその魔物に応え、己の場所を示す愚かは決してしてはいけない。シューロはそう聞いていた。
彼らの目は横についている為、正面からは襲ってこない。鮫と同じ習性だけならいいが、厄介なのは食らった魔族の体を模す。海の魔族は鮫に食われてはいけない。カリュブディスになる可能性があるからだ。
「いないのお、いないのお」
人型の手が、岩礁を掴む。カリュブディスが獲物を定めるとしたら、その体を横に向けて視界に収める時だ。
シューロは、身体中の細胞が泡立ったような感覚になった。まるで、体が内側から凍らされていくような、そんな本能的な危機感と嫌悪感。それを煽るのは、カリュブディスの見た目そのものだ。
鮫の感情も宿さぬ様な顔と体に、幼い雌の魔族の体が繋がっていた。
カリュブディスは食らった魔族の知能を宿す、幼い体を取り込んだらしい。その欲は自制を知らぬだろうということは、容易く見て取れた。
小さな手のひらで、その身を引きずるようにして岩礁に降りてくる。見るものが見れば、鮫が岩礁に引っかかり、死んでいるかのように捉えるだろう。その答えは、カリュブディスを前にしたものしか理由を知ることはできない。
カリュブディスの黒い鮫の顔は、ぱかぱかと壊れた蓋のように口を動かしている。まるで探るかのように鼻先を左右に揺らしながら、シューロを視界に収めようとしている。
「いるよ、いるよう」
「っ、……、ぅ、」
「ゴハン、ゴァア、ン」
幼いものが、まるで親を呼ぶかのようにして声を上げる。カリュブディスが岩礁に体を擦り付けるかのようにしてこちらに近づいてくる度に、パラパラと礫が海底へ落ちていく。
一匹の小魚が、ふよ、とカリュブディスの前を横切った。瞬間、緩慢な動作だったとは思えないほどの速さで、小さな手を使って魚を鷲掴む。その手の動きは実に素早く、見えぬ皮膜を突き破るかのような勢いであった。
鷲掴んだ魚を口の中に押し込むかのように食らいついた。小魚を捕食しただけの動作で、カリュブディスの周りには細かな水泡がいくつも出来上がる。
シューロは口元を押さえたまま、その黒髪を広げた。カリュブディスが食事に集中している間に、逃げねばならないと思った為だ。
ー逃げなくては、あれに食われたら、きっとボクの能力を模してしまう。死んでまで他のものに迷惑をかけるだなんて、絶対にいけない……!
シューロは急く気持ちを慎重に宥めながら、注意深く岩礁から離れる。カリュブディスが、どれ程早いかはわからない。鮫の体についた幼い手足を見るからに、おそらくそこまで泳ぐのはうまくはないだろうと予想した。
シューロはカリュブディスへの視線を逸らさぬように気をつける。海底に降り立つと、正面を保ったまま、ゆっくりと後退りをした。
カリュブディスの動きは止まっている。ケルプの森まで逃げよう。海藻の森は、身を隠すことに適している。シューロは海底を蹴るように移動しながら、ちらと道の確認をするように、一度視線を逸らしたときだった。
「ーーーーーーっ!!!」
軽い圧を感じて、慌てて顔を向けた。シューロの髪が無意識下で素早く展開され、重い一打を受け止める。軽い体が、砂を巻き上げながら弾き飛ばされる。一体何が起きたのか分からなかった。
「う、っ」
不明瞭な視界の中、体を強かに打ち付けた。シューロの体を受け止めたのは、進行方向から大きくずれた場所にある岩礁だ。肺に溜まった空気を吐き出すようにして咳き込んだ。
体が痛い、肺が細く鳴いている。黒髪がハラハラと水の中で舞うのが見てとれた。訳がわからないまま、本能だけが正確な指示をシューロに伝達する。立て、動け、逃げろ。
肩で呼吸をしながら、顔を上げる。シューロは今、カリュブディスの視界の範囲に収まっていた。瞳が揺れる。岩礁からの距離を一息に詰めてきたというのか。
カリュブディスはその体を四つん這いにして、海底の砂地の上に降り立っていた。鮫顔の側面についている黒い瞳で、横目だけでシューロを捉えている。
鳥肌がたった。何も考えていないような無機質な目をこちらに向けているというのに、カリュブディスは子供の手遊びのように海底の砂を握っては零す。どうやら、砂に埋まっていた貝の一つに気を取られたらしい。
「ぁあー、あ、ああ、ご、はぁん?」
幼いものの声色が、重ねられたノイズ混じりに聞こえてくる。
シューロは短い呼吸を繰り返していた。落ち着かないといけない、慌てると下手をこく。カリュブディスが他のことに気を取られているうちに、シューロは幾つもの泡を作り出した。
カリュブディスの知能は、おそらく低い。ならば、目眩しのように泡を周辺に放って視界を潰そうと思ったのだ。
シューロの魔力によって形成された幾つもの泡が、海中に漂う。何十、何百にも及ぶ泡は、シューロを隠すように広い視界を幻想的に飾っていく。泡の動きが少しでも変わったなら、カリュブディスはその方向から襲ってくるに違いない。
髪で盾を展開すると、その場から離れる。何十にも重なった泡の壁越しに、カリュブディスがヨタヨタと動く姿を、シルエットとして捉える。
シューロはふわりと浮かび上がると、その身を翻すかのようにして岩礁を越える。裏側に降り立つと、髪に魔力を行き渡らせるかのようにして硬度を上げた。
ゴポリ、と泡の音がした。シューロが身構えたその瞬間、岩礁を飲み込むかのようにして放った泡が、突如として迫り上がってきた。
カリュブディスが、突進してきたのだと理解した。すぐさまその場から離れると、シューロは髪の一束を帯のように伸ばして、大きな岩の一つを絡め取った。
「ぅあ、っ!くそ、っ」
「ああああああああああー!!!!!!!」
岩礁を飛び越えるように跳ね上がったカリュブディスは、その大きな口で泡を飲み込むようにしてシューロの頭上に姿を現した。鋭い歯が並ぶ口の中を晒しながら、幼いものが抱っこを強請るかのようにして両手を広げて襲い掛かる。
シューロは髪で掴んだ大きな岩を口の中へと食らわせる。鋭い歯が硬い表面にめり込むと、吐き出せずにもがくようにしてのたうち回る。
これでいい、これで時間が稼げる。一か八かの行動だった。シューロは早鐘を打つ鼓動を宥めるかのように胸元に手を添える。
早く、カリュブディスから逃げなくては。のたうち回る魔物から離れるべく、シューロは浮上しようとして、膝に力を入れた。
「っ、なんで、……!」
シューロの体は動かなかった。膝には力が入らず、手は小刻みに震えていた。予期せぬ魔物との遭遇と、本能的な恐怖から陥った恐慌状態が、そうさせたのだ。
カリュブディスが、咳き込むようにして、岩だったものを口から吐き出す。どうやら数本の歯が折れたらしい。礫とは違う細かなものが水中に撒かれると、緩慢な動きで海底に突っ伏した。
「いあ、あ、いあ、い、こあい、こああい……!」
まるで、幼いものが泣くようにしてカリュブディスが喚く。小さな手を使い、よたよたと四つん這いになると、再びその瞳はシューロへ向けられた。
戦わなくてはいけない。シューロは肩で呼吸をするほど肺を酷使して、緊張状態を解そうと努力した。鮫の弱点を思い出せ、次が来たら、鼻先を殴ってやればいい、できる。シューロ、怖がるな、大丈夫。
何度も自分に言い聞かせる。次に備えて魔力を髪に巡らせると、シューロは重心を落とすようにして構えた。髪で縛り上げて、動きを止める。その後は、カリュブディスの口の中を魔力の泡で満たして、窒息させればいい。頭の中で何度もシュミレーションを行う。これがきっと、試練なのだと思った。これを乗り越えることができたら、シューロは。
金色の瞳で、再びカリュブディスを睨みつける。目の前の魔物はゆっくりと体を起こすと、ふわりと浮き上がる。カリュブディスの体の周りに侍るかのように、水の流れが変わる。そのまま水中を切るようなスピードで、無邪気な魔物はシューロへと肉薄した。
「っ、ぅあっ」
「あーーーーああ、あーーー!!」
「ヒ、ッ」
己の髪が素早くカリュブディスに巻き付いた。開いた両顎を固定するかのように、きつく締め上げる。顔の近くで、カリュブディスが口を開けて暴れている。シューロはすぐさま鮫の弱点である鼻を千切り取ってやろうとした、その時だった。
「アーーーーーーーーーーーー!!!!」
「ーーーーーっ!!」
至近距離で放たれた甲高い声と共に、カリュブディスの細い腕がシューロの腕を鷲掴む。幼児を取り込んだとは思いないほどの力でキツく握り締められたまま、シューロはその華奢な体を押し付けられるようにして岩礁へと叩きつけられる。
カリュブディスの尋常ではない動きでその身の自由を奪われ、至近距離では大顎が丸呑みをするかのように口を開けていた。
ゴツゴツとした岩礁にシューロを押し付けて、その身を食らっていやろうという魂胆が透けて見えた。
大顎がめちゃくちゃに動き、シューロの髪の拘束が徐々に緩まってくる。己は最後まで、迷惑をかける生き方しかできないなんて。じんわりとその瞳に涙を滲ませる。こんなやつに殺されるくらいなら、いっそ舌を噛み切って死んでやる。
頭に過ぎる考えに身を任せるかのように、シューロが震えながら、己の口を薄く開いた時だった。
シューロとしては、ここ数日は食べなくても凌げてしまうような、そんな大きな獲物がいればいいなと思う。
この間は、ここに大きな鮫が出た。水玉模様のその鮫は、シューロに気がついても意に介さず、平たい体で大きく口を開け、優雅にその場を回遊した。
多分ラトが言っていたホエールシャークだ。鯨のように大人しくて、大きな鮫。その歯は退化して随分小さいと聞く。
シューロは、ラトのように見た目と中身が違っている生き物を初めて見た時に、意思の疎通ができないだろうかと思った。もし意思の疎通ができたら、少しだけ話してみたかった。その歯を使わなくなったきっかけを、聞いてみたかったのだ。
「今日は、来ないのかな。」
腹のたしになりそうな大きな魚や蟹は見当たらない。シューロも腹を満たさねばと義務的に狩りへ出た為か、あまり積極的になれなかった。
結局、手にしたのは味気ない海藻と、岩の隙間で縮こまっていた海鼠だけ。それも、身をうねらせて逃れようとするものだから、シューロは結局逃してやったが。
少しだけ高い場所まで泳ぎ、競り上がっている岩礁の中腹に腰掛けた。岩肌を背もたれのようにして、シューロは遠くを見やる。もう少し行くと、ケルプの森だ。一日で五十センチも伸びるという海藻が茂るその場所は、ここよりももっと大きな獲物がいる。
ただ、泳ぎで森を抜け切るには、シューロは大きすぎる。狩場の移動を決めあぐねている理由の一つとして、何かあった時に逃げ切れない可能性がある、ということが大きい。
狩りをするときも、海底を歩くことになりそうだな、と思った。それは全然構わないのだが、そうなると森に行ったとしても、貝くらいしか拾えないのだ。
「ん…?」
シューロの横から何かが飛び出した。それはこの辺じゃあまり見かけない魚だった。もしかしたら、このままケルプの森へと向かうのだろうか。シューロの半分ほどの体長はありそうな魚が、真っ直ぐに森へと向かっていく。
あの大きさだと、森に行っても海藻が邪魔をして思うように身動きが取れなさそうだ。そんなことを思っていると、周りの空気が変わったような気がした。
ぬるい水流が、シューロの頭上からゆっくりと降りてきた気がした。は、と小さく声をあげそうになったが、両手で口を塞ぐようにして堪える。つま先からゆっくりと体が冷えていくような、そんな心地になった。海底の白い砂の上に映し出された岩礁の影が、ゆっくりと伸びていくのだ。
シューロの真上に、何かがいる。もしかしたら、ホエールシャークだろうか。そうだといい、そうであってほしかった。
「あ、」
シューロの口から、今度はぽろりと小さな声が漏れた。目の前に、白いものが降ってきたのだ。金色の瞳が、ゆっくりと影の主の元へと向く。
上から海雪のように降ってきたのは、生き物の残骸だった。それが、優しくシューロの体を撫でるかのように舞い落ちる。
真っ黒い体表の何かが、岩礁の上から無邪気な様子でこちらを覗き込んでいる。それは、連なるぎざ歯をめちゃくちゃに動かして、逃げていった魚とよく似た獲物を咀嚼しながら、こちらを見下ろしていた。
「あ、あ、」
その顔は、大きな鮫の顔をしていた。人型の手で頬杖をつきながら、無邪気にはしゃぐように、時折奇妙な声で笑う。
シューロにはそれが何か、すぐにわかった。
「なにしてるのおお」
「………、」
「いないのお、ねええ、」
海の魔物、カリュブディス。鮫の頭をしたその魔物に応え、己の場所を示す愚かは決してしてはいけない。シューロはそう聞いていた。
彼らの目は横についている為、正面からは襲ってこない。鮫と同じ習性だけならいいが、厄介なのは食らった魔族の体を模す。海の魔族は鮫に食われてはいけない。カリュブディスになる可能性があるからだ。
「いないのお、いないのお」
人型の手が、岩礁を掴む。カリュブディスが獲物を定めるとしたら、その体を横に向けて視界に収める時だ。
シューロは、身体中の細胞が泡立ったような感覚になった。まるで、体が内側から凍らされていくような、そんな本能的な危機感と嫌悪感。それを煽るのは、カリュブディスの見た目そのものだ。
鮫の感情も宿さぬ様な顔と体に、幼い雌の魔族の体が繋がっていた。
カリュブディスは食らった魔族の知能を宿す、幼い体を取り込んだらしい。その欲は自制を知らぬだろうということは、容易く見て取れた。
小さな手のひらで、その身を引きずるようにして岩礁に降りてくる。見るものが見れば、鮫が岩礁に引っかかり、死んでいるかのように捉えるだろう。その答えは、カリュブディスを前にしたものしか理由を知ることはできない。
カリュブディスの黒い鮫の顔は、ぱかぱかと壊れた蓋のように口を動かしている。まるで探るかのように鼻先を左右に揺らしながら、シューロを視界に収めようとしている。
「いるよ、いるよう」
「っ、……、ぅ、」
「ゴハン、ゴァア、ン」
幼いものが、まるで親を呼ぶかのようにして声を上げる。カリュブディスが岩礁に体を擦り付けるかのようにしてこちらに近づいてくる度に、パラパラと礫が海底へ落ちていく。
一匹の小魚が、ふよ、とカリュブディスの前を横切った。瞬間、緩慢な動作だったとは思えないほどの速さで、小さな手を使って魚を鷲掴む。その手の動きは実に素早く、見えぬ皮膜を突き破るかのような勢いであった。
鷲掴んだ魚を口の中に押し込むかのように食らいついた。小魚を捕食しただけの動作で、カリュブディスの周りには細かな水泡がいくつも出来上がる。
シューロは口元を押さえたまま、その黒髪を広げた。カリュブディスが食事に集中している間に、逃げねばならないと思った為だ。
ー逃げなくては、あれに食われたら、きっとボクの能力を模してしまう。死んでまで他のものに迷惑をかけるだなんて、絶対にいけない……!
シューロは急く気持ちを慎重に宥めながら、注意深く岩礁から離れる。カリュブディスが、どれ程早いかはわからない。鮫の体についた幼い手足を見るからに、おそらくそこまで泳ぐのはうまくはないだろうと予想した。
シューロはカリュブディスへの視線を逸らさぬように気をつける。海底に降り立つと、正面を保ったまま、ゆっくりと後退りをした。
カリュブディスの動きは止まっている。ケルプの森まで逃げよう。海藻の森は、身を隠すことに適している。シューロは海底を蹴るように移動しながら、ちらと道の確認をするように、一度視線を逸らしたときだった。
「ーーーーーーっ!!!」
軽い圧を感じて、慌てて顔を向けた。シューロの髪が無意識下で素早く展開され、重い一打を受け止める。軽い体が、砂を巻き上げながら弾き飛ばされる。一体何が起きたのか分からなかった。
「う、っ」
不明瞭な視界の中、体を強かに打ち付けた。シューロの体を受け止めたのは、進行方向から大きくずれた場所にある岩礁だ。肺に溜まった空気を吐き出すようにして咳き込んだ。
体が痛い、肺が細く鳴いている。黒髪がハラハラと水の中で舞うのが見てとれた。訳がわからないまま、本能だけが正確な指示をシューロに伝達する。立て、動け、逃げろ。
肩で呼吸をしながら、顔を上げる。シューロは今、カリュブディスの視界の範囲に収まっていた。瞳が揺れる。岩礁からの距離を一息に詰めてきたというのか。
カリュブディスはその体を四つん這いにして、海底の砂地の上に降り立っていた。鮫顔の側面についている黒い瞳で、横目だけでシューロを捉えている。
鳥肌がたった。何も考えていないような無機質な目をこちらに向けているというのに、カリュブディスは子供の手遊びのように海底の砂を握っては零す。どうやら、砂に埋まっていた貝の一つに気を取られたらしい。
「ぁあー、あ、ああ、ご、はぁん?」
幼いものの声色が、重ねられたノイズ混じりに聞こえてくる。
シューロは短い呼吸を繰り返していた。落ち着かないといけない、慌てると下手をこく。カリュブディスが他のことに気を取られているうちに、シューロは幾つもの泡を作り出した。
カリュブディスの知能は、おそらく低い。ならば、目眩しのように泡を周辺に放って視界を潰そうと思ったのだ。
シューロの魔力によって形成された幾つもの泡が、海中に漂う。何十、何百にも及ぶ泡は、シューロを隠すように広い視界を幻想的に飾っていく。泡の動きが少しでも変わったなら、カリュブディスはその方向から襲ってくるに違いない。
髪で盾を展開すると、その場から離れる。何十にも重なった泡の壁越しに、カリュブディスがヨタヨタと動く姿を、シルエットとして捉える。
シューロはふわりと浮かび上がると、その身を翻すかのようにして岩礁を越える。裏側に降り立つと、髪に魔力を行き渡らせるかのようにして硬度を上げた。
ゴポリ、と泡の音がした。シューロが身構えたその瞬間、岩礁を飲み込むかのようにして放った泡が、突如として迫り上がってきた。
カリュブディスが、突進してきたのだと理解した。すぐさまその場から離れると、シューロは髪の一束を帯のように伸ばして、大きな岩の一つを絡め取った。
「ぅあ、っ!くそ、っ」
「ああああああああああー!!!!!!!」
岩礁を飛び越えるように跳ね上がったカリュブディスは、その大きな口で泡を飲み込むようにしてシューロの頭上に姿を現した。鋭い歯が並ぶ口の中を晒しながら、幼いものが抱っこを強請るかのようにして両手を広げて襲い掛かる。
シューロは髪で掴んだ大きな岩を口の中へと食らわせる。鋭い歯が硬い表面にめり込むと、吐き出せずにもがくようにしてのたうち回る。
これでいい、これで時間が稼げる。一か八かの行動だった。シューロは早鐘を打つ鼓動を宥めるかのように胸元に手を添える。
早く、カリュブディスから逃げなくては。のたうち回る魔物から離れるべく、シューロは浮上しようとして、膝に力を入れた。
「っ、なんで、……!」
シューロの体は動かなかった。膝には力が入らず、手は小刻みに震えていた。予期せぬ魔物との遭遇と、本能的な恐怖から陥った恐慌状態が、そうさせたのだ。
カリュブディスが、咳き込むようにして、岩だったものを口から吐き出す。どうやら数本の歯が折れたらしい。礫とは違う細かなものが水中に撒かれると、緩慢な動きで海底に突っ伏した。
「いあ、あ、いあ、い、こあい、こああい……!」
まるで、幼いものが泣くようにしてカリュブディスが喚く。小さな手を使い、よたよたと四つん這いになると、再びその瞳はシューロへ向けられた。
戦わなくてはいけない。シューロは肩で呼吸をするほど肺を酷使して、緊張状態を解そうと努力した。鮫の弱点を思い出せ、次が来たら、鼻先を殴ってやればいい、できる。シューロ、怖がるな、大丈夫。
何度も自分に言い聞かせる。次に備えて魔力を髪に巡らせると、シューロは重心を落とすようにして構えた。髪で縛り上げて、動きを止める。その後は、カリュブディスの口の中を魔力の泡で満たして、窒息させればいい。頭の中で何度もシュミレーションを行う。これがきっと、試練なのだと思った。これを乗り越えることができたら、シューロは。
金色の瞳で、再びカリュブディスを睨みつける。目の前の魔物はゆっくりと体を起こすと、ふわりと浮き上がる。カリュブディスの体の周りに侍るかのように、水の流れが変わる。そのまま水中を切るようなスピードで、無邪気な魔物はシューロへと肉薄した。
「っ、ぅあっ」
「あーーーーああ、あーーー!!」
「ヒ、ッ」
己の髪が素早くカリュブディスに巻き付いた。開いた両顎を固定するかのように、きつく締め上げる。顔の近くで、カリュブディスが口を開けて暴れている。シューロはすぐさま鮫の弱点である鼻を千切り取ってやろうとした、その時だった。
「アーーーーーーーーーーーー!!!!」
「ーーーーーっ!!」
至近距離で放たれた甲高い声と共に、カリュブディスの細い腕がシューロの腕を鷲掴む。幼児を取り込んだとは思いないほどの力でキツく握り締められたまま、シューロはその華奢な体を押し付けられるようにして岩礁へと叩きつけられる。
カリュブディスの尋常ではない動きでその身の自由を奪われ、至近距離では大顎が丸呑みをするかのように口を開けていた。
ゴツゴツとした岩礁にシューロを押し付けて、その身を食らっていやろうという魂胆が透けて見えた。
大顎がめちゃくちゃに動き、シューロの髪の拘束が徐々に緩まってくる。己は最後まで、迷惑をかける生き方しかできないなんて。じんわりとその瞳に涙を滲ませる。こんなやつに殺されるくらいなら、いっそ舌を噛み切って死んでやる。
頭に過ぎる考えに身を任せるかのように、シューロが震えながら、己の口を薄く開いた時だった。
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