名無しの龍は愛されたい。−鱗の記憶が眠る海−

だいきち

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すれ違う価値観

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「私にはさっぱりわからないが、それの何がいけないのだ。」
「え、」

 静かな空気に、ラトの声が溶ける。シューロの周りに澱んでいた後悔や懸念も一緒くたにまとめて、無かったことのように扱う。ラトの言葉の真意がわからなくて、シューロは泣顔のまま見つめ返した。
 ラトは、ゆったりと鰭を動かすと、しばらく黙りこくる。もう一度シューロの言葉を振り返っていたようだ。それでも、後悔の理由はわからなかったらしい。言葉を紡げずにいるシューロを見つめると、いつも通りの口調で宣った。

「それに、シューロは殺してやろうとは思っていなかったのだろう。」
「こ、殺すつもりなんて、最初からなかった。」
「だろう、意図的ではないのなら、なんで謝る必要がある。遊びで殺したのでなければ、共食いをして納めればよかっただろう。」
「共食いなんて、ネレイスはしない……!」

 ラトの淡々とした言葉に、シューロは思わず語気を強めた。そんな、思いつきもしなかった恐ろしいことを宣ったラトはというと、シューロの驚いた様子に面食らったようだ。
 呑気に、そうなのか。と宣うと、シューロの否定に大人しくその話題を閉じる。どうやら純粋な提案の一つだったようだ。
 羅頭蛇はそうなのだろうか、種族の違いをまざまざと見せつけられた、そんな気がする。シューロは、語気を強めてしまったことを小さく謝ると、細い腕で抱えるようにして膝を抱いた。

「怒ってしまったのか。すまない、私の価値観を押し付けた。」
「……違うよ、ちょっとびっくりしただけ。……ラトは、ボクが怖くないの。」
「何がだ。」

 ラトはシューロの機嫌を窺うかのように、その華奢な背に己の身を寄せた。
 大きな鱗の一枚が、シューロの顔の側にきた。鱗の感触を確かめたくて、撫でるようにしてそこに触れる。

「ボクには毒が効かないんだ。だから、またラトだけが毒を食らってしまうかもしれない。」
「それは、仕方がないだろう。私には毒耐性がないからな。」
「なんで、仕方ないで納得できるの……」

 シューロは戸惑った。ラトの鰭が動いて、シューロの黒髪がふわりと揺れる。
 ラトは、また少しだけ黙りこくった後、諭すかのような口調で言葉を紡ぐ。

「それは、海にとっての普通だ。」
「え?」
「たまたまその種族で、シューロが一人だけそうだった。それだけじゃないのか。」

 ラトの言葉は、シューロにとって思いもよらないものだった。
 過ごしてきた群れのなかで、異端は己だけだったからこそ今に至る。それなのに、ラトはたまたまと言った。この広い海の中には、何千、何万、それ以上の命が暮らしている。幾年月も繰り返されてきた営みの中で、ずっと普通のままなわけがない。
 ラトは、ネレイスという狭い世界だからこそ、話が大きくなってしまったのだと言った。周りから隔絶したコミュニティの中では、視野が狭くなる。シューロの毒の効かない体質を神からの贈り物だと、誇るべきだと言ってくれる。
 シューロという存在を肯定してくれたのだ。

「色が違うからなんだ、仲間と違うからなんだというのだ。皆訪れる死は平等だというのに、生きているうちの不平等なんぞに苛まれて時間を割くくらいなら、最初から己の好きに生きればいいのだ。だからシューロは何も間違ってはいない。」

 シューロは上手に、今をきちんと生きている。

 そう言われて、シューロは喉を震わした。唇を真一文字に引き結び、涙を堪えるように下を向く。
 頭上ではラトが、よく泣くなあと困り果てた声で宣っている。シューロは、もう一度ラトの言葉を振り返るようにして、噛み締める。
 何も、間違ってはいないのだ。シューロは、ちゃんと生きている。心はあの日に縛られたまま、ずっと息苦しい日々を過ごしてきた。ニライのことは、一生忘れることはできないだろう。それでも、あの出来事を呪いになんかしたくなくて、必死で足掻いてきた。
 侮蔑や非難を背負ってきたシューロではなく、今の己を見てくれる誰かに、お前はきちんと生きていると言ってもらいたかったのだ。

「ありがと……」
「なんの礼かな。私は何もしていない。」
「それでも、ボクはラトにお礼を言いたかっただけだから。」

 なら、受け取ろう。そう穏やかな声で宣って、ラトは長い胴をほんの少しだけ縦にうねらせた。




 シューロが過去を話してから、海底に降り積もる雪のように、想いを一日一日と重ねてきた。地上の雪は溶けてしまうが、海の雪は溶けずに堆積していく。
 そして、重ねた気持ちの輪郭が鮮明になっていけばいく程、ラトとの別れの日が近づいていることも自覚していた。この気持ちを伝えるのは、迷惑だろうか。シューロはラトと共に眠るようになってから、気がつけばそんな事ばかりを考えていた。
 ラトの怪我は、どこについていたのかわからなくなる程、跡形もなく塞がっている。このままでは、もう一緒にいる理由が無い。共にいられるのは、ラト次第だ。


「……ラト、」

 名前を紡ぐだけで、こんなにも胸が苦しい。種族も違う。雄でもなければ雌でもない、中途半端な己が側にいてほしい伝えたとして、ラトは一体どんな反応をするのだろう。
 シューロはラトへのこの気持ちを大切にしたかった。たとえ断られようとも、伝えないまま終わるのだけは嫌だった。 
 
 狩りから戻ってくると、岩礁から顔を出してラトが起きていることを確認した。そのまま、緊張した面持ちでラトの近くに降り立つと、ゆっくりと歩み寄る。

「ああ、おかえり。難しそうな顔をしてどうした。」
「た、ただいま……」

 おかえりと返されるだけで、こんなにも嬉しい。シューロは照れたように小さく呟くと、ラトに指摘され、ようやく己の表情がこわばっていたことに気がついた。

「あの、……今、いいかな。」
「いくらでも。またタディグレイドを捕まえてきたとかはやめてくれよ。」
「そ、そんなんじゃない、ちょっと、言いたいことがあって、」

 ラトが、大きな体をゆっくりとシューロへ向けた。いいあぐねたまま、一向に本題に入らないシューロに不思議そうな雰囲気を出す。ラトの光の宿さない二つ目に見つめられながら、シューロは少しだけ身じろいだ。
 ああ、情緒が落ち着かないせいで、少しだけ泣きそうだ。声が、震えてしまうかもしれない。ラトは意地悪なところもあるから、小さな声でこの気持ちを伝えて仕舞えば、きっと聞き返してくるだろう。そうなれば、二度目の言葉を紡ぐのには、もっと勇気が入りそうだ。
 シューロはゆっくりと深呼吸を一つすると、意を決するように口を開いた。

「ら、ラトが好きだ。」

 緊張から、上擦って大きな声になってしまった。気持ちを口に出した瞬間、シューロは体の力が抜けてしまうかと思った。それを、なんとか堪えて立っている。
 ほんの少しの間。ラトが呼吸をする音と、己が呼吸をする音が重なって聞こえる程の静寂が、その場を優しく包み込んだ。緊張の色を宿したシューロの瞳が、ゆっくりとラトを見つめる。

「そうか、わかった。」
「うん、」

 うん、と頷きを返された気がする。シューロも思わず小さく頷くと、ラトの言葉を待つかのように黙りこくる。それでも、やっぱりラトの反応が気になって、もう一度ラトの顔を見る。

「……え?」
「なんだ、まだ何かあるのか?」
「…………。」

 不思議そうに、ラトがシューロを見つめている。そんな様子に、思わず面食らった。ラトは、何にも変わらない様子であった。むしろ、シューロの普段と違う様子を心配しているかのような目で見つめ返される。
 気持ちが通じ合わなかったのだろうか、それともはぐらかされているだけ?シューロは思い悩んだ後、確認をするかのように再び口を開いた。

「……ボクは、イルカが好きだ。」
「そうか。」
「え、っと……、」

 先程と、全く同じ調子で返事をされた。ラトへの恋心を差し出したシューロへの返事と、確認のために口にした単純な好きへの返事が、全くの同じ温度、つまりは同調をする程度の相槌に過ぎなかったのだ。
 要するに、シューロのラトへの好意が正しく伝わっていない。己の予想だにしない方向での展開に、シューロは分かりやすく狼狽えた。
 ラトは鈍い。大きな体に見合った大雑把な部分は知っていたが、まさかこういった好意に対しても鈍感だとは思いもよらなかった。
 
「他には何が好きなんだ。」
「え、えっと、」

 ラトが好き。と言っても、きっと友愛的な意味でしか捉えられないのだろう。今も、イルカは温厚だから、シューロもすぐに仲良くなれるだろう。などと妙な方向での返答を寄越して来る。
 違うのに、シューロは本当はイルカの話をしたいんじゃないのに。そんなことを思っていても、時間は無駄に過ぎるだけである。
 中身のない相槌で、ラトとの時間を無駄にしたくない。会話を続けようとして言い淀んでしまったが、鈍いラトに言葉で伝わるように気持ちを差し出すには、もっと直接的な表現で伝えるしかないということは明白だ。
 好きになった相手に、好意をぶつけることになるだなんて思いもよらなかった。シューロは羞恥心で初心な心が押し潰されてしまいそうだった。
 緊張で力が入らなくなった指先を、誤魔化すように握り込む。声が揺れてしまいそうだった。それでも、意地だけで震える唇を開くと、目の奥を熱くさせながら、気持ちを言葉に込める。

「ら、ラトへの、好きは……一緒にいたい、は、繁殖したい相手に、言う、やつ。」

 心臓の鼓動が、バカみたいに内側で暴れている。耳の奥がじくじくと鳴り、体の中の血液が慌ただしく全身を駆け巡っている。そのうち、じんわりと涙も滲んできて、シューロは己がきちんと立てているのかどうか不安になるくらい、足元が覚束なくなった。
 沈黙の間が、三拍続いた。
 髪で顔を覆いたくなる気持ちを堪える。シューロは、きちんとラトに己の気持ちを、それもこれ以上ないほど疑いようもない好意の表現で伝えたのだ。言い逃げせずに最後まで口にすることができた己を、褒めてやりたかった。
 
 ラトはというと、シューロを見つめて不思議そうに瞬きをし、考えているのか、大きなえらを一際ゆっくりと動かした。
 シューロの周りの酸素だけ、薄くなってしまったみたいだ。審判を待つような心地のシューロに、ラトは戸惑うような声色で宣った。

「繁殖は、稚魚を作る行為だろう。」
「そう、だけど……」
「シューロは、同族以外とも作れるのか。」

 ラトの純粋な疑問に、悪意がないのはわかっている。それでも、同族ともそういった行為をしたことがないシューロは、ラトの疑問を満たしてあげられるほどの答えを持ってはいなかった。
 そもそも、話を掘り下げたいのはそこではない。シューロはラトとの間に稚魚を作るかというよりも、好きだから、ずっと一緒にいたいという気持ちが伝わればいいなと思っていたのだ。
 返答に詰まってしまった。それでも、真摯な気持ちで応えなければいけない。シューロは、生半可な気持ちでラトに告白した訳ではないのだから。

「……わからない。」
「ふむ……。」

 ラトは頷くと、再び黙考してしまった。そうなると、シューロが口を挟む余地は無くなってしまう。ラトの沈黙は、シューロの不安と期待を煽るには、充分な時間であった。
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