名無しの龍は愛されたい。−鱗の記憶が眠る海−

だいきち

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口下手な慰め

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 ラトが同じ種族だったら、胸に縋り付いて泣いていたかもしれない。そんな詮無いことを考えて、また涙を流す。
 己の求めていることを、請うのはいけない。けれど、焦がれてしまうのは、ラトが優しく寄り添ってくれる日々に依存してしまっているからだ。
 ラトにとってのシューロの体温は、長く身を合わせ続けるには、あまりにも高すぎるに違いない。
 シューロは、最初にラトに触れた時のことを振り返る。ムンクスデビル達に負わされた傷のせいで、ふらついた体を支えてくれたラトの尾に、手を添わせた時のことを。
 あの時、ラトは長く触れ合うことに耐えられず、シューロの手のひらから逃れるように身を捩ったのだ。今はもう慣れたとしても、未だラトに触れる時は遠慮がちになる。

 ラトが大きな胸鰭を静かに揺らす。シューロの頬を撫でるようにして、水流が穏やかに黒髪を煽った。泣いたことでほのかに熱を持った目元が、ラトの前に晒される。
 ラトが、静かにシューロの泣き顔を見つめる。

「……私が寝ても、シューロは眠れないのだろう。なら、少しだけ話をしよう。」

 穏やかな声色は相変わらずだ。ラトはシューロの返事を待たずにゆっくりと語り出した。
 普段とは違うラトの行動に驚きはしたが、シューロは黙って話を聞くことにした。淡々と取り留めのない話をする、心地よい声に寄り添う。

 ラトは、長くこの海を生きてきたので、シューロの知らないことを沢山知っていた。
 珊瑚礁に住むカラフルなタコが、色によっては死ぬほど不味く、それでもせっかく見つけたのだからとやせ我慢をして残さず食べたこと。
 捕まえた巨大な魚を、当時のねぐらの中で食らっていたら、満腹になって三日ほど外に出ることができなかったこと。
 鮫の群れの側を泳いでいたら仲間と間違えられ、しばらく小判鮫に張り付かれて過ごす羽目になったこと。
 そんな具合に、シューロの知らない間抜けなラトが、そこには沢山いた。どうしてそんなことになるのかと、思わずクスリと笑ってしまうような内容ばかりを、ラトは話し続けた。

 最初は、なんでこんな話を。と思っていた。小さく漏らしていた嗚咽が止む頃には、ラトが泣き止ませるために慮ってくれたのだと気がついた。
 そんな、小さなラトの優しさがどれ程シューロを救っているのかなんて、きっと気がつきもしないだろう。
 稚魚にするようなあやし方をされたのは少しだけ気恥ずかしいが、それでも嬉しかった。気恥ずかしさから、顔に血流が集まってくる。今、シューロは一体どんな顔でラトを見ているのだろう。
 己はまだ、ラトに稚魚扱いされてしまう程には、幼くみられているのだろうか。

「……あ、ありがとう、」

 珊瑚も寝静まるような、静かな夜だけが理由だけじゃない小さな声で、シューロは呟いた。

「私の話は、どうだった。」

 シューロの呟きに気がつかないまま、ラトは感想を求めてくる。穏やかで、静かな眼差しだ。それでも、ラトの仄かな高揚は受け取れた。
 長い胴をほんの少しだけ縦にうねらせる。表情ではわからないラトの、嬉しい時にする仕草だ。きっと、ラトはシューロの感謝を知ってて聞こえないふりをしたのだろう。

「ちょっとだけ、笑った。ごめん、だって食べ物の話ばっかり。ラトは少し、食い意地が張りすぎだと思う。」
「む。食事というのは必要なことだ。シューロもたくさん食べて大きくなるといい。」

 大真面目に諭してくるのがおかしくて、思わず吹き出しそうになってしまう。ラトは当たり前のように、自分の食べる量が普通だと思っている。大きな体に必要なエネルギーには違いないだろうが、同じものをシューロにも求めてくるところが、少しだけ可愛い。

「ボクはこれ以上食べても、もう大きくはならないよ。」
「そうなのか?その大きさで成熟しているとは、随分と小さい種なのだな。」

 ラトと比べて仕舞えば、ほとんどの生き物が小さいものばかりだろう。
 納得しているラトの言葉をなぞるように、シューロは少しだけ気になった部分を問いかける。

「ねえ、ボクもってことは、ラトはまだ大きくなるの?」

 出会った時に、少しだけお互いのことを話したが、シューロはラトの種族名くらいしか聞いていない。
 シューロは、自分のように海の魔物達には当たり前に名前があると思っていたが、それもシューロの知る常識ではなかったのだ。ラトたち羅頭蛇の生態もについても、知らないことばかりである。
 そんなシューロの問いかけに、ラトはゆったりと鰭を動かして返事をしてくれた。

「もちろんだとも、今よりもずっと大きくなる。」

 ラトの声色の温度が上がった。誇らしげに言い切る姿が面白くて、シューロはついに吹き出して笑ってしまった。

「ラトは、今いくつなの?」

 もしかしたら、この見た目と話し方でも、まだ成体ではないのだろうか。シューロはそんな想像をして、事実である可能性も否定できないことに気がついて狼狽えた。
 そうだとすれば、自分の方がしっかりしなくてはいけない。挽回できるかはわからないが、と、シューロは確定もしていない事実に気合いを入れ直す。
 
「さあな、鱗を横に数えればわかると思うんだが。」
「鱗の数でわかるの?」

 それは、羅頭蛇だからなのだろうか。ラトと同じ形をした魚たちにも、同じ方法が当てはまるのだろうか。そんな興味は湧いたが、シューロはラトの言葉に促されるように、金色の瞳で鱗の一枚を見つめた。
 ラトの体を覆う群青の鱗の一枚は、シューロの掌よりも大きい。大きな体に目線を走らせる。ざっと見るだけでも、相当な年数を重ねていることがわかる。

「どうだ。」
「うん、数えるのには骨が折れそうだ。」
「そうだろう。自分では数えられないから、まあ年は食っている方だとしか言えないなあ。あと倍くらい生きるんじゃないか。」

 大雑把な返事をもらったが、不安に覚えたラトの幼体疑惑も払拭でき、シューロは少しだけホッとした。
 ここ数日でラトが体に見合った性格であるということはすでに把握済みだ。つるりとした鱗は固く、鎧のように鈍く艶めく。
 シューロは深い群青に輝く鱗を見つめながら、遠慮がちに口を開いた。

「……ラトの鱗、数えてもいい?」
「別に、構わない。」

 シューロは岩場から出ると、ゆっくりとラトの側に歩み寄った。一番大きな頭部の鱗から、えら周りを覆う鱗はどれも複雑で不揃いである。そっと、鱗の一枚に触れると、ラトはくすぐったそうに少しだけ鰭を動かした。

「……熱い?」
「まだ気にしているのか。」
「……うん。」

 ラトにとってのシューロは、熱そのものだ。初めて触れた時に身じろいだことを、気にするなと言われても無理な話だ。
 シューロがラトを気にかけたから反応を示したくらいで、前回のように大きな動きはしなかった。
 手のひらを、ゆっくりと滑らせるようにして、一枚一枚数えていく。
 ラトはただ黙って、シューロの好きなようにさせてくれた。時折ラトが鰭をゆったり動かし、ふわりとした柔らかな水の感触がシューロの身を撫でていく。
 静かで、二人の呼吸だけがそっと穏やかに聞こえる時間だった。

「……シューロ、くすぐったい。」
「ご、ごめん、」
「違う、いいんだ。ただそんなに熱心に数えると疲れるだろう。」
「えっと、」

 そんなことない、というのが正しいのだろうか。シューロは小さく口を噤むと、ゆるゆると首を振るだけに留めた。本当は、鱗を数えるとは名ばかりで、シューロはラトに触れたかったのだ。
 ムンクス・デビルたちによって、傷つけられた鱗の部分は回復した。シューロが見つけてきたタディグレイドをラトが食べてからは、それはあっという間の出来事だった。
 
「鱗の傷は、もう治っているかな。」
「……まだ残ってるよ、ラト。」
「……そうか、ならまだ休んでいかないとな。」

 本当は、ラトだってもう体の具合が良くなっているだろうに、こうしてシューロの小さな嘘に付き合ってくれる。ラトの柔らかな声で、シューロはもっと名前を呼んでほしかった。
 鱗の上で、シューロの小さな掌が拳を作る。一緒にいたい、一緒にいたいけど、また己の過ちで辛い目に合わせたらと思うと、怖い。
 
「ラト、」
「なんだ。」

 優しい時間は、きっと永遠ではない。
 
 ラトは、シューロの言葉で紡がれた己の名前に返事をした。
 まだ、涙の理由は聞いていない。言いたくなければ言わなくてもいいと思っていたし、思い出して泣くのなら、また笑わせればいいだけのこと。ラトはシューロの涙を見たくない。
 二度目に名前を紡がれた時、シューロの中に小さな決意のようなものを感じ取った。
 シューロが己と出会ったことで、何かを変えようとしていることがわかった。それを理解してから感じたのは、甘美な心地だ。
 その正体が、何なのかはわからない。初めて沸いたこの感情に、名前のつけようがなかったのだ。

「ラト、あの、ね」

 震える声に、鰭を動かすだけで答えた。相槌はいらない、もし必要なものがあるとすれば、それは互いに対する理解くらいだ。
 シューロは、言葉をつっかえさせながら、ゆっくりと口を開いた。その口調は罪人の告白のように重々しい。
 ラトはただ淡々と、シューロの独白を聞いていた。友達だと思っていた仲間がいたこと、そして、その仲間を意図せずに殺めてしまった原因が、己の忌諱すべき能力であること。
 その独白を聞いて、ようやくシューロが一人でいることの理由がわかった。年若く、色味の違うネレイス。独り立ちをするにも未熟な彼が、広い海を彷徨い続けていたその理由。毒が効かないという、群れにとっての異常。

「だ、だから、ラトが動けなくなって、毒に侵されているって気がついた……また、ラトも、ニライみたいになったら、って」

 まるで、肺に何かが詰まってしまったかのように、嗚咽を溢す。小さな掌は震え、その表情は黒髪が遮って窺えない。
 ラトはシューロの言葉を静かに聞き終えた今も、穏やかにその小柄な体を見つめていた。
 
 言ってしまった。
 
 シューロは、己の過去をラトに曝け出した今、足元から這い上がってくる後悔に身を浸していた。

 ラトに、ラトの残りの生の流れに、シューロは己を刻みたかった。これはエゴだ。いずれ離れていってしまう未来があるのなら、ラトだけにはシューロを覚えていてほしかった。
 愚かで孤独なネレイスだというレッテルを貼られても、ラトの記憶の一欠片として存在をしていたかった。
 白い海底の砂に手をついた。シューロの指の隙間から、煙のように砂が立ち上る。
 澱んだ水にも似た後悔が、シューロの周りを漂っている。それを、ラトには気づかれたくないと思った。




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