名無しの龍は愛されたい。−鱗の記憶が眠る海−

だいきち

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名前を呼んでよ

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 シューロの甲斐甲斐しい世話と、稀に見る己の勇気によって、状態異常に苛まれる日々から脱却した羅頭蛇は、未だシューロのいる岩場から離れてはいなかった。
 なんとなく、気にかかっていたと言うのもあるが、この色味の違うネレイスが随分と危なっかしく感じていたのだ。だから羅頭蛇は、その大きな体でシューロの寝床を塞ぐようにして、そこにいる。
 もしかしたら、これが居心地がいいと言うものかもしれない。そんなことを思ったが、口には出さなかった。一つのことで頭を悩ませているシューロに、余計なことを言って悩ませてしまったら、なんだか可哀想かもしれないなあと思った為だった。

 羅頭蛇を見下ろせるくらいの高い岩場で、シューロが物思いに耽っている。寝ている時に髪にくっついてしまったのだろう、細かな藻を小魚が啄んでいるというのに、シューロはそれに気づいていないようだった。

「また、ぼんやりとしている。」
「あ、ごめん。」

 羅頭蛇の声に、シューロが反応を示す。腰掛けていた岩場からこちらにふわりと降りてくるうちに、小魚は慌てて逃げていった。
 呼んだつもりはないのだが、ここ数日で世話をしてくれた時の癖になっているのだろう。律儀に羅頭蛇の目の前までふわりと降り立つ。

「髪が餌場になっていたよ。」
「えっ」
「もういないさ。」

 小魚たちは逃げていったと伝えると、捕まえればよかったかも、と少しだけ惜しそうにしている。
 ここ数日、ずっとシューロはおとなしいのだ。おそらく、あの時いいあぐねていたことが関係しているのだろうとは思うが、それをほじくり返そうにも、互いのことを知らなさすぎた。気まぐれに助け、そして互いの傷を慰め合う日がしばらく続いた。
 広い海ではあるが、同種でもない相手と、こんな奇妙な関係になるとはなかなかに数奇なこともあるものだ。羅頭蛇は、そんなことを思うと、再び悩むように黙りこくってしまったシューロを見て、ふむ、と一つ考えた。

「何を憂いでいるのかは知らないが、この海の広さに比べて、そんなに大きな悩みなのかな。」
「え?」
「シューロが今まで黙っていた時間は、私が狩りに出て帰って来れるほどの長さだよ。腹に抱え込むくらいなら、吐き出してみたらいいじゃないか。」

 ごぽ、と小さな泡が水中を擽る。シューロは羅頭蛇の言葉をしばらく大人しく聞いていたのだが、言い終えるくらいから口をもぞつかせ、なんだか少しだけ泣きそうな、でも、気恥ずかしそうにも見えるような表情を見せた。
 どうやら、黙って観察されていたのが恥ずかしかったらしい。羅頭蛇は、別に今の言葉でシューロを揶揄ったつもりはなかったのだが、そんな表情を前に、少しだけ浮かれた。まさか、そんな面白い反応を返してくるとは思わなかったのだ。

「い、いつからボクのこと見てたの……」
「いつから、変なことを言うな。なんだったら私が君を口に入れる前から見ていたよ。」
「ち、違う、そうじゃなくて……ボク、そんなに分かりやすかった?」
「まあ、例えるのなら岩場に珊瑚が生えるくらいには分かりやすい顔をしていた。」
「そ、そんなに……」

 色味のない岩場に、赤い珊瑚が生えているところを想像したシューロは、なんとも言えない顔をして羅頭蛇を見つめた。本人にその自覚はなかったらしい。
 シューロは羅頭蛇の指摘に気恥ずかしそうにしたが、その心のうちを明かすのには、少しだけ勇気が必要だった。
 穏やかな大きな魔物を目の前に、シューロの瞳が小さく揺れる。己の過去のことをラトに話すのは、きっと重いだろう。シューロはラトに嫌われたくはない。せっかくこうして言葉を交わすようになったのだ。また、この広い海を一人で泳ぐのは、どうしても嫌だった。
 黙りこくっていたが、このまま返事を返さないわけにもいかないだろう。シューロは己の中で落とし所を見つけると、ゆっくりと口を開いた。

「な、名前……」
「なんだ、名前?」
「う、うん、名前、お、教えて、欲しいなって……」

 まるで、タツノオトシゴのようなシューロの小さな呟きに、羅頭蛇は己の鰓呼吸を静めて、注意深く聞き取るハメになった。
 まさか、シューロが己にそんなことを聞いてくるとは思わなかったのだ。
 羅頭蛇はしばらく黙りこくり、その言葉の意図を考えたが、やはりよくわからなかった。羅頭蛇には、最初から名前などはないのだ。

 羅頭蛇は羅頭蛇。ネレイスのように、己の種族名だけではない固有名詞を持つ方が珍しいのだ。
 だから、羅頭蛇はなんの気も無しに、ないよそんなもの。と一言で返した。

「え、ない?」
「ないさ。生まれてこのかた、つけられたこともない。別に不便じゃないしね。私は種族名だけでも十分だと思っている。」
「待って、じゃあ自分以外の羅頭蛇に出会ったら、なんていうの。」
「言葉よりも体で挨拶を交わすからなあ。」
「……?よくわからないな、」

 のんびりとした声で言われた言葉に、シューロが首を傾げる。種族が違うのだ。だから羅頭蛇の当たり前を、シューロは理解できないかもしれない。
 己の思っていた答えとは違ったようで、困った顔をするシューロに、羅頭蛇はゆっくりと口を開く。

「名前が欲しいとも思ったことがない。」
「でも、自分を表す言葉だよ。名前を呼んで慰めてくれた羅頭蛇がそんなこと言うなよ。」
「だって、ネレイスには種族名以外にもあるだろう。私にはそれがないからな。」
「……そうだとしても、ボクは羅頭蛇を、君という個を認めたい。」

 シューロの言葉に、羅頭蛇はなるほど、と思った。個を認めたいと言うのは、初めて言われた言葉だった。それは、たくさんの同種の中での一人の存在に価値を持たせるものだと、そうシューロが説いてくれたのだ。
 今まで過ごしてきた百年余りを、惰性で生きてきたつもりは毛頭ない。しかし、シューロの言葉はその視野を広げ、そして己の価値観を変えてくれるものだった。
 ああ、やっぱりこの子は面白い。だからこうも離れ難いのかもしれないなあ。そんなことを考えているとは思っていないだろう。黙りこくってしまった羅頭蛇を見て、シューロの表情に徐々に諦めの色が侵食する。
 言わなければよかったと思っているのだろう。そんなシューロを前に、羅頭蛇は口を開いた。

「なら、私の価値を君がつけてくれ。」
「……名前を、ボクがつけろってこと?」
「私の名前を呼びたいと、君が言い出したんだろう。この広い海を探しても、名を持たない私たち羅頭蛇にそんな酔狂なことを言うものはいない。だから、君が私につけてくれた方が、残りの命分は意味のあるものになりそうだ。」
「残りの、命分……」

 羅頭蛇の声色が喜色を帯びる。シューロは自分の言葉が飛躍して、なんだかとんでもないことになってしまったのではと、少しだけ物怖じした。
 そんな責任のあることなんて出来ない。そう言おうとしたのに、羅頭蛇はシューロの逃げ道を塞ぐように長い尾でゆっくりとその体を引き寄せる。

 光の宿さぬ羅頭蛇の虚ろな瞳が、シューロを見つめる。大きな鰭がゆったりと水を撫でるように動き、言葉の続きを待っているようだった。
 シューロは腰に回った長い尾を宥めるようにそっと撫でると、ぎこちなく目を逸らした。

「思いつきだったのに、こんなことになるなんて。」
「シューロは思いつきで一週間も悩むのか。」
「……それも気がついてたの、」
「なんだ、正解だったのか。」
「………。」

 にゅ、とシューロの口が少しだけ突き出た。ここ数日で分かったことは、シューロは隠していたことがバレると蛸の真似をすると言うことだ。羅頭蛇は、その表情を気に入っている。
 己の言葉一つでコロコロと表情を変える。若いネレイスが己の柔らかな部分を擽るのだ、そんな心地を知ってからは、何度でもその顔が見たいと思っている。そんなことを言って仕舞えば、またシューロは蛸のモノマネをするに違いない。多分、これは楽しいと言う心地だろう。

「ラト、」
「うん?」
「……羅頭蛇の種族名からとって、ラト……。わ、分かりやすくて、いいでしょ。」

 シューロの口から紡ぎ出された己の個を表す名前に、羅頭蛇、改めラトは、えらをゆっくりと動かして噛み締めた。

「ラト、ラトかあ。」
「いやなら、また考えるけど、」
「そうじゃない、耳馴染みがいいのは、ここ数日で君が稚魚のように羅頭蛇羅頭蛇と呼んでいたからだろう。」
「ぼ、ボクは稚魚じゃない……っ」

 ラトの揶揄いまじりの言葉に、シューロは髪を広げて抗議する。水の中なのに、なんだか顔が熱い。それに、ラトが言葉尻に嬉しそうな色を宿すから、情緒がざわめいて仕方がない。
 自分の心臓が、こんなにも忙しなくなるのはラトの前だけだ。シューロは未熟だから、その気持ちにどんな名前がつくのかをまだ知らなかった。

「ラトだ、よろしく、シューロ。」
「よ、よろしく……ら、ラト……」

 また、シューロがタツノオトシゴみたいな小さな声になる。ラトはシューロが気恥ずかしそうになるだろうなあと分かって、あえて挨拶をしたのだ。
 個の価値なんて、考えたこともなかった。海で生まれて、運命のままに死ぬのだから、それこそが価値だと思っていたのに。

「シューロ、君は面白いな。」
「また稚魚って、馬鹿にするんでしょう。」
「今は私は稚魚だなんて一言も言っていないのに。シューロからいうだなんて。」
「ラト!」

 おおこわい。恥ずかしさからくるシューロの抗議に、ラトはコポコポと泡を零して笑う。鎧のように硬いこの身を叩いても痛みなど感じるわけもないのに、それでもシューロはお構いなしに戯れてくる。
 本人からしたら、きっと本気なのだろう。ラトは楽しそうにその体をくるんと回転させ、腹を見せると、そんな可愛らしいシューロの抗議に、参った参ったと笑うのだった。


 それからしばらくして、シューロは己の過去についてラトに語る機会があった。離れ難く思っていることは伏せたまま、シューロは互いのことを少しずつ知っていきたいと思ったのだ。
 それは、シューロにとってはとても勇気のいることではあったが、それでも、離れ離れになったとしても、ラトの記憶にシューロが少しでも残っていればいい。そんな、小さな欲の様なものを抱いてしまったのだ。
 この広い海ではちっぽけな存在でも、ラトにとってはふとした瞬間に思い出してもらえるような、そんな存在になりたいという欲だ。
 話すきっかけは、シューロから招いた。夢見が悪くて、嗚咽を漏らしていたらしい。それを、ラトが優しく起こしてくれたのが始まりだった。




「シューロ。」

 心配するような、ラトの声でシューロの意識がゆっくり浮上する。膝を抱えて岩壁に凭れていたシューロは、いつの間にか体をくの字に丸め、上半身をうつ伏せにして寝ていたようだった。
 体を小さくして眠るシューロの、嗚咽混じりの声に反応したラトは、その姿が痛々しくて、思わず声をかけたのだ。

「……ごめん、」
「いいんだ、具合でも悪いのか……」
「ちが、う……」

 シューロは、胸元できつく握り締めていた拳を緩めると、ラトの睡眠を邪魔してしまったことを謝った。
 ラトは柔らかな声でシューロを労わる。洞を覗き込むように群青の巨体を寄せて、片目でシューロを見つめていた。
 心配してくれている。シューロは泣きそうな顔のまま、ラトの言葉に首を振って否定をしようとしたが、まだ胸の奥に凝っている心情が悲鳴を上げていていた。
 ただ息を詰めたような、そんな情けない声での返事しかできない。
 悪夢から解放されたのに、まだ胸が痛い。まるで呼吸の仕方を忘れてしまったかのように、シューロの肺を犯す過去の心の傷が。忘れるなと苛むのだ。

「ヒック、ぅ……っ、」

 泣くのは子供みたいで嫌なのに、溢れる涙を止めることができない。小さな手で顔を覆い、下手くそに泣くシューロを前に、ラトは何かを黙りこくった。
 小さな体が苦しそうに呼吸をするのを見て、その不安定な様子の原因が体調ではないと感じ取ったのだ。
 ラトはその長い尾鰭をゆらりと動かし、体をシューロの前に移動させようとしたのだが、この洞は狭すぎると思いとどまった。小さく震えているシューロに寄り添いたくても、自分は大きすぎるのだ。
 ラトは困ったような雰囲気を纏うと、ゆっくりと窺うように声をかけた。

「シューロ、何をして欲しい。」
「ラ、ト……っ」

 シューロは、自分の声帯が馬鹿になってしまった気がした。情けない声がでてしまうくらい、ラトの優しさがシューロの柔らかい部分を刺激する。
 大きな体に似つかわしくないほどの柔らかな声色に、ラトの労わりを感じる。
 仲間たちに遠巻きにされ、ニライ以外とはろくに話したこともないシューロにとって、ラトは自分を認め、対等に扱ってくれる優しい存在であった。

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