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危険な遊び

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 シューロの体は、水圧に逆らうようにして不躾に持ち上げられた。その華奢な身の負荷が傷口に響き、ぐっと息が詰まった。
 海水の塩分がじわりと傷口に広がっていく。目の奥が溶けてしまうのではと思うほどの痛みは初めてで、悲鳴を上げそうになるのを必死で堪えた。
 逃げなくては。でも、どうやって。は、は、と短い呼吸を繰り返しながら、シューロはゆっくりとその銛にも見える何かの先を目で辿る。しなやかで、柔軟性のある鋭利なそれが繋がっていた先。それは、ムンクス・デビルと呼ばれるタチの悪いエイ型の魔物であった。

「ヤッタァ、今回は俺の勝ちだあ。」
 
 まるでシューロを的にして、遊んでいたかのような口調であった。間延びした声の出所はわからない。しかし鋭く、黒い銛のような尾の先と、それに繫がる部分は鞭のようにしなやかで強靭だ。体表は、岩場の影に紛れるには実に適した色味である。
 その魔物は、天井に張り付き、息を潜めながらシューロを待ち構えていたらしい。平べったいひれの部分を波打たせるかのように、己の手柄を喜んだ。

 遠心力に巻き込まれたシューロの体が岩場にぶつかる。小さく呻いた声に気がついたのか、その尾を持ち上げるようにシューロをぶら下げると、尾の先を揺らしながら遊ぶ。

「う、っ」
「調子にのるなよ。今回はたまたま獲物がお前の側に近づいただけだろ。」

 シューロの顔から、表情が抜けた。背後から聞こえたもう一つの似た声に、その身を緊張でこわばらせたのだ。己を蹂躙して喜んでいるムンクス・デビルとは違う。応じた声の主は悪魔の名を冠する魔物に似つかわしく、残忍さを滲ませるような口調であった。
 痛みで目が霞む。歯を食いしばると、シューロは喉から声を搾り出すようにして口を開く。

「な、にして、」

 二匹の魔物が、たわいのない言葉の応酬を繰り返す。やれ僅差だっただの、まぐれだっただの。シューロの声はその二匹の隙間をすり抜けて耳に届いたようだ。己の足を貫くムンクス・デビルが声を拾うように反応すると、声の主を確かめるかのようにして尾の先を揺らす。

「活きがいい、お前、まだ動けるんだなあ。」
「弟よ。お前の刺しどころが悪いのだ。」

 会話のやり取りからして、おそらく兄の方だろう、もう一匹のムンクス・デビルが呆れたような声を漏らしながら、同化していた岩肌から剥がれるように底へと移動をする。
 その体表は、色味の強弱をつけるかのように斑点模様が混ざり合う。影にも溶け込む事が出来る黒い色合いを纏っていた。
 震える手で、シューロが足を貫く尾を鷲掴む。これ以上負荷をかけられたらまずい。痛みに耐え、己の体力の消耗を最低限に抑えようとするシューロの行動に、弟が反応する。
 
「そんなことないよ。もうじき動かなくなる。」

 滑らかな体表は、光が差せば兄と同じ色を纏っていた。弟のムンクス・デビルが無邪気に尾を揺らしながらそんなことを宣った。楽しそうにはしゃぐ声色に慈悲はない。シューロは傷口をこれ以上広げないため、足を貫く尾に髪を絡ませる。目一杯力を込めても、シューロの手首と同じ太さのその尾がへし折れる気配はなかった。
 
「ピンピンしているじゃないか。全く、お前は本当に詰めが甘い。」
「ええ、これは驚きだなあ。」

 魔物二匹はシューロを挟んで呑気に会話を楽しんでいる。今ある生にしがみつこうと抗うシューロを気にもかけずに、己の上下で興じるたわいもない会話に、徐々に苛立ちが募る。その苛立ちの中には、迂闊だった己への情けなさも含まれていた。
 きっと、ここは二匹の寝床だったのだろう。気がつかなかったシューロが愚かだったのだ。
 ゆっくりと呼吸を繰り返し、痛みを逃す。その金色の瞳は弱る気配がなく、未だムンクス・デビルを射抜いたままであった。
 
「お前、毒が効かないのか。」

 やがて、いつまでたっても弱る気配がないシューロに気がついたらしい。平たい体のどこに顔があるのかはわからないが、残忍な雰囲気を隠そうともしない兄の方であろうムンクス・デビルの声に、甚振るもの独特な愉悦じみた色が滲む。
 毒が効かない、というシューロの特性を指摘されたことで、先程の言葉の意味をようやく理解した。
 どうやら、突き刺した足から徐々に体の自由を奪うつもりだったらしい。思うままに蹂躙してきたであろう二匹の、シューロに対する見る目が変わった。

「あんた達の住処に入ったのは、悪かった。」

 尾を握り締める力は弱めずに、シューロは呼気を吐き出すようにして言う。今更ながら、あれだけ待ち望んでいた会話のできる相手が、己を害するものだとは笑えてくる。
 緩んだ口元に気がつくと、兄のムンクス・デビルはぐっと顔を近づけて宣った。

「お前がこちらに入り込んだことは構わない。俺たちは楽しく遊べるならなんだっていいんだ。だからこうして獲物を捕まえている。」
「……串刺しにして、死ぬ獲物ばかりをか。」
「そうだ、お前は一体、どれくらい持つのかな。」

 愉悦じみた声だった。シューロが小さく息を詰めた瞬間、ぐん、と水圧を無視するかのような速さで、その身を放り投げられた。
 傷口から無造作に尾が引き抜かれる。細い体が解放された。岩場に叩きつけられるようにしてシューロの動きが止まる。煙のように風穴の開けられた足から血が漏れ出ると、シューロはゴポリと口から泡を吐き出した。

「ネレイスは初めてだなあ。」
「ネレイスかあ?色が違うぞ兄よ。」

 無邪気な会話が、シューロの記憶を抉り出す。広がった黒髪に、ムンクス・デビルの兄弟は真似をするかのように鰭を広げてぐるりと回転をした。
 岩場に背を凭れかからせながら、肩で呼吸をする。痛い、痛くて動きたくない。だけど、動かなくてはシューロはまた弄ばれる。
 無邪気な殺意を前に、震える体を叱咤した。

「痛い、痛いかあ?可哀想に。毒が効けば無駄に体力を使わずに死ねたのになあ。」
「毒が効かないから、やっぱりネレイスじゃないなあ兄よ。可哀想に、可哀想で、可愛いねえ。」

 ムンクス・デビルの尾が、フォン、としなる。またあの一打が繰り出されるのだ。シューロは震える腕に力を入れると、動く足で岩場を蹴り、真上に向かって一気に飛び出した。

「おや、頭がいい。」
「そんなに上に行ったら、尾が当たらないじゃないか。」
「迎えに行ってあげよう、そしたら、次が本当の本当に、最後。」

 しなる尾は垂直には伸ばせない。狭いところではダメだと悟ったシューロが、咄嗟の行動にでる。下からはつまらなそうな声が飛んできた。シューロは目くらましがわりの泡を作り上げると、それを二匹の悪魔へ放った。
 できるだけ、遠くへ。できれば、珊瑚の森まで逃げたい。シューロは今、二つの危機に晒されていた。それはムンクス・デビルに蹂躙されること、そして、この血の匂いを嗅ぎつけた鮫によって、甚振られることの二つだ。
 情けない、情けなくて、涙が出てきた。貫かれた足の傷からは、血が吹き出し続けている。そのせいで動きは鈍くなってしまった。髪を広げて、水中を滑空するかのように必死で逃げる。肺が痛い、怖い、死にたくない。

「お前、つまんないんだよ。」

 背後で破裂音が聞こえ、慌てて振り向く。礫を撒き散らしながら現れたムンクス・デビルが、纏わりついた泡を振り払うかのようにその身を回転させた。

「あの溝に引き込んであげようかあ。暗くて、怖いぞ。お前の体は耐えられるのかなあ。」
「弟、いいなあ。なら、生かしたまま連れて行ってあげようか。きっと、あいつででかい獲物が釣れるかもしれない。」
「生き餌ってやつだな。わは、人間ごっこだなあ。」

 二匹の言葉に、シューロは一気に加速した。足が痛むが、それ以上に己の生が脅かされる状況に身を投じているのだ。
 必死なシューロとは裏腹に、ムンクス・デビルは実に優雅な動きで追いかけてくる。羽のように鰭をひろげ、水の中を羽ばたき、二匹一対となって狩りを仕掛けてくる。
 シューロが攻撃に備え展開をした黒い髪。そのシルエットが彼らに近いものとして見られているのだろうか。怪我をしている姿など気にも留めずに、周りの海のものたちは傍観をしていた。


「ぃ、やだ」

 か細い声が、口から空気の泡となって漏れる。手を伸ばした。海嶺に沿って直上すれば振り切れると思ったのだ。微かに水の流れが変わった。怪我をしていない方の足首に、鞭のようなものが巻き付けられた。
 掴み損ねた岩場で、シューロの指先が削れる。シューロは体を岩場に擦り付けるようにしながら引きずり下ろされた。

「俺たちは優しいから、暗くて冷たい所に案内してやるなあ。」
「よかったなあ。お前が知らない世界だ。ほうら、行くぞ。」
「ぃ、いゃだ、や、やだ、っ」

 掴み損ねた岩場ががあっという間に遠ざかっていく。水の流れを無視し、畏怖を感じた深淵の海溝へ二匹の悪魔によって誘われる。
 嫌だ、その先は行きたくない。金色の眼が、大きな割れ目に向けられた。真っ黒で、光の届かないその世界が、口を開けて待っているのだ。心臓が嫌な音を立てて跳ねる。体を縮めるように丸めると、必死でその尾を引っ掻いた。
 それでも、ムンクス・デビルの尾は、滑らかな鞭のようにしなやかで、そして皮膚は強靭であった。まるでシューロの抵抗を擽ったそうにケタケタ笑う。
 指先が破け、手からも血が滲んだ。前を振り向く。視線の先には、ムンクス・デビルのせいで近づけぬまま回遊する鮫が居た。
 シューロが逃げてきた最初の鮫達だ。ムンクス・デビルが飽きるのを待っているのだろう。
 ああ、なんで、こんな筈じゃなかった。ただ生きたかっただけなのに。

「し、に、たく、ない」

 シューロの口から泡が漏れた。音にすれば、誰にも届かぬささやかな声だったに違いない。
 この雄大な海で、今日命の灯火が尽きるのが、たまたまシューロだった。ただそれだけのこと。
 それが海の日常で、生き方なのだと、頭ではシューロもわかっていた筈だった。

 もがくうちに、海溝は真下に迫っていた。シューロの見下ろした世界は真っ暗で、光を通さないただの闇だった。今からシューロはこの暗闇の世界に飲み込まれるのだろう。

 瞼を閉じる。体を護るように小さくする。黒い世界で、その闇を引きずるようにして大きなものが動いた気がした。




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