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海へのおもい

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 ずっと前から、こうなるだろうと思っていた。それでも、それが今日ではない。明日でもない。きっと、ボクが生きているうちには起こらないことを願っていた。
 ツルリとした卵を胸に抱いて、これが新しい命だと頭でわかっていても、素直に喜んであげられなかった。
 だってこれは、彼の終わりを突き付けるものだ。愛おしい彼の産んだ卵を、こんな複雑な気持ちで愛でることはあるのだろうか。
 
 彼は、ボクに言ったのだ。生きた証を残せないこと。そして産まれた卵は、彼の種族の理に従って欲しいと。

 本当は嫌だった。
 ボクが首を縦に振らないことなんて、最初からわかっていた筈なのに、彼に良く見られたいボクは頷くことしかできなかった。
 ボクが彼と同じ種族で、彼が単為生殖などではなかったら、きっとこんなことで悩まなかったのだろう。
 海の神はこの茹だってしまいそうな程苦しい愛なんて、経験したこともないのだろう。だから、彼の種族へとこんな特殊な本能を与えたのだ。

 魔石の一つでも残してくれたら、たったそれだけの願いすら許されない。
 鯨ですら、骨が残るのだ。それなのに、なんで彼の生きた証は何も残らないのだろう。ボクに、彼が溶けた泡をかき集めて生きろというのか。
 手元に、愛しいものが生きた証を残しておきたいというのが、なんで許されないのだ。ボクは、そんなに悪いことをしたのだろうか。


 

 
 
 
 
 
 
 
 古臭い本の匂いは嫌いじゃない。欲を言えば、そんな古くからある本なのに、なんで何も欲する情報が載っていないんだ。というのが本音ではあるが。
 
「海洋魔物図鑑。」
「もう読んだ。羅頭蛇なんて載ってねえ。」
「違う、水陸対応型の魔物を探してるんだ俺は。」
「マーマンみてえなのはいた。」
「みてえなのってなん………」
 
 あれから、遅い昼食を挟んで、レイガン達はカストールの中にあるギルドへと向かった。ユミルに案内をされてデュラハンと戦った、あのときのトーナメントへの参加用紙を提出したギルドである。
 二階建ての建物の右上の部分。そこには書庫があり、本棚にはギルドで報告を受けた達成依頼報告書やら、討伐報告の上がった魔物の詳細、そして漁師組合から提供された海の魔物の情報やら、観察書、魔物関連の図鑑が数十種類。
 中には密猟や魔物の素材を乱獲する為に訪れた違法船舶が、突然海底から現れた巨大な見慣れぬ蛸型の魔物によって、瞬きのうちに沈められていったという記録さえ残っている。
 ナナシは、こあいね。などと言っているので、おそらくこれがガニメデの仕業だとは思っていないだろう。
 エルマーは大きな欠伸をひとつすると、本棚にもたれかかるようにして座り込む。直感型のこの男に、文字の海の中から情報を見つけ出せと言うのは、はなから無理であったのだ。
 
「もうなんだっていいじゃんかよお。なんかヒントねえの。水陸両用の魔物で、しかも意思疎通が可能なら、さっさと街に繰り出して魚顔の野郎捕まえた方がはえーじゃん。」
「言いたいことはわかるが、大体の予測を立てる為にも見目は知っておくべきだ。」
「おい見てみろ!!トビウオの魔物なんているぞ!!ワハハ、これに跨って海を渡ったらさぞ気持ちいいだろうなあっはっは!!」
「サジが跨るのは僕だけだ。そこはまかり間違っても譲ることはできない。」
「お前………俺の話聞いていたか。」
 
 各々が海から逃げてきたであろう、まだ見ぬ片割れの目星をつけ為に、このギルドの二階を陣取って半人半魚の魔物を探していた。
 今まで見つけたのは、有名どころのマーメイド、アザラシの皮を被ったセルキーという魔物や、気高き海の使者ネレイス。そして人の無念を集め、糧とする水妖フーア。
 ナナシはエルマーのお膝の上で、寝転んで絵本を見るかのようにして調べ物に参加しながら、読めぬ字に時折首を傾げては、パタパタと尾を揺らす。

「うみのこ、おようふくきるのう?」
「あ?服?」

 エルマーのお膝の上で、ナナシがきょとんとした顔で宣う。ナナシが読んでいるご本には、ワカメや貝殻などで身を隠す海の魔物が多いのだ。桜貝のような爪が飾る細い指で、胸元を貝で隠すマーメイドの絵をポチリと指差す。

「レイガン、海に上がってきた魔物って服着るのか。」
「郷に入っては郷に従えというしな。俺なら着るが。」
「たしかに、それは僕らの常識かもしれないな。布くらいは巻くかもしれないが。」
「エルマーならぱんいちでも平気だろう。サジは知ってるぞ。」
「全裸でも戦えるぜ。」
「かぜひいちゃうよう?」

 レイガンが無言で本を閉じると、それを元あった場所に差し込む。ナナシの鋭い指摘に、成程と思ったのだ。
 海の魔物が陸に上がり、人通りの多いところに紛れるのだろうか。少なくとも体の乾きには抗えないだろう。だとすれば、海の側で沖の羅頭蛇が気付きにくい、身を隠せるものが多いそんな場所にいる筈だ。

「アロンダート。聞くが、お前が仮に海の魔物で、陸に隠れるとしたら何処に隠れる。」

 レイガンの紫の瞳がアロンダートに向いた。聡明な元第二王子である彼は、このメンバーの中では一番の地頭の良さを誇る。彼の知略に満ちた意見は、ときに道筋を照らしてくれる為、こうしてまともな意見を求めるときにはまっ先に指名されるのだ。

「ふむ、そうだな。ビーチ沿い、あそこは観光客も多い。見慣れぬ輩がいても変に思う者は居ないだろう。夜は船着き場で眠るかな。」
「ビーチ沿い。」

 ナナシの読んでいた本を閉じると、エルマーはよいせと立ち上がる。元あった場所に本を戻せば、のろのろと立ち上がるナナシに手を貸して、その腰に腕を回す。

「なら探すにも観光客に紛れたほうがいいだろう。水着でも買うか。」
「まじでか!サジも選ぶぞ!うはは、昂ぶってきた!」
「本分を見失いそうだな。まあ、こういうのをバカンスというのだろうか。」
「は………。」

 痛む頭を抑えるように、レイガンが項垂れる。確かに武装をしたまま行くのは警戒心を強めてしまうので、観光客に紛れる為に水着を着るのは理解できる。しかし依頼はきちんとやるだろうが、なんとも締まらないやり取りに、溜め息をつくことくらいは許してほしい。

 結局、ギルドを後にした一行は、その足でまずは水着の調達に向かった。まったく、資金を集める為に受注をしたというのに、必要経費とはいえどもまさかの展開である。
 レイガンもエルマーも、無難なハーフパンツ、もとい追い剥ぎをしたハーフパンツを水着として代用することにして、問題は巻き込んだアロンダートとサジ、そしてナナシの分である。

「水着か、着たことはないな。しかし僕は転化をするだろう。すぐ脱げるのがいいな。」
「紐パンにしよう。サジは自分の魅力わかっているからな!無論選ぶ色は黒一択である!!」
「ナナシも、えるとおなじのにする」
「お前は妊娠してっからワンピースでも着ようなあ。」
「えー!」

 水着が防具屋に置いてあるなんて知らなかった。ギルドを出る前に聞いておかなければ、恐らく一生辿り着かなかっただろう。レイガンはディスプレイされている切れ味の良さそうなサーベルを眺めながら、そんなことを思った。
 磨かれた刃先に反射し、映し出されているエルマー達はというと、見繕った水着を片手に何とものんびりとしたやり取りをしている。

「みろエルマー、シーサーペントの鱗出できた防水、耐氷結のビキニアーマーなんかもあるぞ。わはは、ブーメランぱんつ!!!」
「あー、そんなんこの間の女が着てたなあ。」
「える、なんでそんなのみたのう。」
「うぉっと………ちげえ!!浮気じゃねえから拗ねんな!!」

 白い麻のロングドレスのようなものを選んだナナシが、その無垢な容姿の背後に暗雲を立ち上らせる。エルマーの今の一言に思うところがあったらしい。
 サジはというと、どうやって着るのだとこちらが聞きたいくらいの紐でできた布面積の少ない水着を片手に、一体どんな状況で女の下着を見たのだとエルマーを茶化す。完全に火に油だった。

「あいつが勝手に俺の目の前で股広げて、」
「えるのばかー!!!しらないもん!!ふんだ!!!」
「あ、ちょ、ナナシ待てって!!」

 ナナシが持っていた麻のロングドレスをエルマーに押し付ける。制止を待たず、むくれながら店を駆け足で出たナナシに、エルマーは顔を真っ青にさせた。

「今のはエルマーが悪いな。」
「僕もそう思う。」
「言ってる場合じゃねえ!てめ、サジ後で覚えとけよ!?ちょ、ああもう!!ギンイロ出すのは反則だろナナシーー!!」

 手に持っていたロングドレスを、エルマーは次にアロンダートへと押し付けた。
 店の外ではギンイロを召喚したナナシが、べっと舌を出して怒っているんだからな。というアピールをすると、うんしょとその背に跨って飛び立った。エルマーはというと、一拍遅れて店を出たかと思えば、大慌てでその背を追いかける。全く、自業自得とは言え騒がしい男である。
 そんな旦那の慌てふためきを後ろ目に、ナナシがギンイロと共に向かったのは、道の先にある海岸だ。
 どんなに腹に据えかねても、迷子にはなりたくない。やはり根底は素直でいい子なナナシは、エルマーが追いかけ易いようにまっすぐに逃げたのだ。
 
「ナナシ、プンプンナノー!」
「える、おんなのひとのぱんつみるするしたって、ふんだ!」
「ウワキー!!」
「ナナシいるのに、ナナシのぱんつだけじゃ、やだなのう!」
 
 ふんす!と不機嫌に尾を揺らしながら、エルマーを引き離した一人と一匹は、ゴツゴツした岩場の近くに降り立った。ここは開けているし、エルマーが追いかけてナナシを探しても、きっとすぐに見つけられるだろう。
 ギンイロは少しだけ高い岩場の近くに降り立った。ナナシは岩場にしがみ付くようにして手をつけば、ギンイロはそのままゆっくりと体高を縮めて、安全に体から下ろした。
 
「は………あっちに、おおきなおふねあるよう!」
「ナナシ、コロブカラギンイロニツカマッテ!」
「うん、」
 
 早速目についた貨物船のような船に興味を示したナナシへ、ギンイロが寄り添う。目を離すと腹の重みですぐ足がもつれるのだ。エルマーのいない今、ギンイロが護衛がわりだ。
 ぺたんこのお靴のまま、ギンイロにくっついて船の側までちょこちょこと歩く。岩場は歩きにくい。ちろりと視線を巡らせれば、ビーチからも近いようだった。
 
「ここ、えるとやしがにつかまえたところう?」
「アノクサイヤツ!!ギンイロモオボエテル、オエ~~!」
 
 匂いを思い出したのか、うげっと長い舌を見せつける。クチャっとした顔になったギンイロの口吻をよしよしと撫でていれば、パタパタと尾を振り回しながら、べろりとナナシの掌を舐めた。
 この辺は特に暑い。ギンイロはハカハカと呼吸をしながら、どこか日陰になるところでナナシを休ませようと視線を巡らせた時だった。
 
「ム。」
「う?」
 
 ぴたりと歩みを止める。ナナシは立ち止まったギンイロを不思議そうに見つめた。
 ギンイロが再び口をパカリと開き、ハカハカと呼吸をしたのだ。確かめるように、ふんふんと地べたの匂いを嗅いだり、虚空に鼻先を掲げてひくつかせる。どうやら何かを感じ取っているらしい。
 ナナシが不思議そうに首を傾げていれば、口を閉じたギンイロはその翡翠の瞳で岩場の影を真っ直ぐに見つめた。
 
「ナニカイル。ナナシサガッテ。」
 
 パチリとその身に静電気を纏わせるギンイロに、ナナシの顔も僅かに緊張の色を宿す。小さな喉仏をコクリと上下させると、ナナシは胸の前で手を組むようにして、いつでも結界を展開できるように構えた。
 
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