名無しの龍は愛されたい。−鱗の記憶が眠る海−

だいきち

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ニアが引き受けたもの

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 サクッと終わらせるつもりが、そんなに甘いものではないということだけを見せつけられて撤収したのが昨夜だ。
 昨日からなんだか様子のおかしいニアは、生返事ばかりであった。てっきり具合でも悪いのかとレイガンが心配するくらいにはなんだか様子がおかしくて、聞けば一言、わかんないけどざわざわするんだー。とだけ、相変わらずの間延びした声で宣った。

「神様の胸騒ぎってちょっと怖くない。」

 ユミルの作った朝食が並べられたテーブルに、ナナシとレイガン、エルマーが席につく。今朝のメニューは甘い卵液に浸したパンを焼いたものと、ナナシが乳搾りのお手伝いをした牛乳で作ったミルクスープ。付け合せのサラダには、レイガンが帰ってから作ったポテトサラダを添えた。
 ナイフとフォークで食べるのが普通だろう、けれどここではナナシだけおっきなスプーンだ。ふわふわのトーストを切るのはエルマーの仕事で、ナナシはそれを下手くそにスプーンで乗っけて口に運ぶ。これがいつものルーティンであった。

「わかる。」
「やめろやめろ、そうやって構えてっと、いざそうなったときの絶望感すげえだろう。」
「ぱん、ふあふあ!」

 ユミルの先程の一言に、レイガンが同意する。エルマーはナナシの反応にニンマリと笑うと、自分が作ったわけでもないのに、そりゃあ良かったなどと言う。

「てかさ、ナナシはどうなの。なんかざわついてたりすんの?」
「う?」
「ニアみたいにさ、なんかこう、やな予感がする!!みたいな。」
「ニアは別に、嫌な予感とは一言も言ってないぞー!」

 でも、変なんでしょう?と聞かれれば、ニアはぱたむっとお口を閉じる。ユミルの言うように、ニアの心の内側はずっと波紋を広げたままだったからだ。

 ナナシは、ポテトサラダのてっぺんに乗っけられたプチトマトをちょんっと摘むと、パクリと頬張る。エルマーが無言でナナシの口の中に指を突っ込み、へただけ回収するのもいつものことである。雑食の嫁を持つ旦那の、食事中のお仕事は多いのだ。
 ナナシはというと、お口を手で押さえながらむぐむぐと味わう。コクリと小さな喉仏が上下すると、きょとんとエルマーを見上げた。

「ざわざわ?」
「あー、あれだ。なんか、これからやなことが起こるかもしれねえっていう感覚、みてえな?」
「やなこと、うー…」

 むん、と唇を噤むと、ニアを見る。ナナシは少しだけ疲れているような、それでいて参っているような雰囲気のニアを見て、小さな頭を指で撫でた。

「むおっ!」
「まだ、へん?」
「……うーん、へんだー。」
「あ?今何したんだ?」
「ちゆ?」

 ナナシに治癒を施されたニアの頭が、キラキラと光っていて少しだけ面白い。御使いの治癒を施されても改善されないというと、いよいよおかしい。レイガンは眉を寄せると、ニアの滑らかな鱗を撫でた。

「ニア、一度大きくなってみろ。」
「ええ、お家壊れちゃうぞ?」
「馬鹿者、庭でだ。常識の範囲内での大きさで頼む。」
「レイガン、倒れちゃうだろー!」
「ユミルにポーションかけてもらう。」

 レイガンの言葉に、心得たユミルが旦那のインベントリに手を突っ込んだ。こういうやり取りを見ると、本当に二人が夫婦なんだなあと思う。エルマーはニアを連れて庭に向かうレイガンの後に続いた。

「レイガン、ニアのいとしごだから、わかるんだよう」
「へえ、愛し子っつーのは便利だな。」

 レイガンの手のひらの上で、遠慮がちに首を伸ばしたニアが、ちろりとレイガンの唇を舐めた。真名を告げられ、その体が光に包まれると、海の中とは違い、程々に。と言われたニアの姿は、まるで光が輪郭を繋げていくかのように、みるみるうちに人外へとその身を転化させる。一抱えもありそうな太さに変化したニアの体が、螺鈿らでんの光沢を放ちながらレイガンを囲うようにして優しく巻き付く。
 頭部の部分から扇状に艷やかな白銀の髪が広がると、人外という言葉正しく、大きな眼窩にアメジストを嵌め込んだ少女にも見える顔が、ゆっくりと三人を見下ろした。
 
 蛇の特徴である裂けた口は、ひれのようにも見える耳元までに至る。人外の容貌の中にも、神聖な美しさを放つ少女の体の薄い胸元には、あばらのようにえらの切れ目が走っている。
 光を透過する細い体は、身の内の水脈の流れを表すかのように、揺蕩う光を放つ。

「相変わらず、すんげえ人外。」
「そらそうだろー!だって人間じゃないもの!」
 
 わはー!と、エルマーの言葉を笑い飛ばしたニアの口がグパリと裂ける。牙を剥き出しにして大笑いをするニアの体に、凭れ掛かるようにして崩れたレイガンへ、ユミルがすかさずポーションをかけた。
 
「しっかりしなって、診るんだろ。」
「ああ、くそ、不甲斐ない。」
 
 ニアが両手をついてレイガンを囲う。その瞳はレイガンの頭ほどあり、蜷局を巻いて縮こまっても尚、尾の先は一番離れた庭の木に触れていた。
 
「原因に心当たりはないのか。」
「うーん、どうだろうなあ。いつもと同じことしかしてないし。」
 
 レイガンの手が、ニアの下瞼に触れる。まるで貧血を確かめるかのようにして覗き込むレイガンに、エルマーは医者の問診じゃああるまいしと引き攣り笑みを浮かべた。
 
「ふぉ…!」
「あ、こら。」
 
 どうやらニアの人外の姿にテンションが上がったようだ。頬を染めたナナシが、尾を振り回しながら駆け寄った。ペタリと抱きつくかのようにして、その螺鈿のような鱗を纏う胴体にくっつくと、頬を寄せて甘えるようにパタパタと尾を振った。
 
「ニア、かこいい!」
「むふん、そうだろそうだろー!もっと褒めてもいいんだぞ、だってニアは今とっても偉いからな!」
「えらい?」

 ご機嫌に宣うニアが、尾の先をびたん!と振る。木が揺すられ、数本の枝葉がぽろぽろと地べたに落ちると、おっと失礼などと言って体を巻き直す。

「いったろー!ニアは今ひとだす、ひとじゃない、あーっと、なんだあれ。」
「ひとじゃない…?」

 アレェ?と首を傾げるものだから、するんと流れた白銀の髪がバサリとエルマーの顔にかかる。

「ぶぇっ、ちょ、何か湿ってる!髪結べよお!」
「ええ!結ぶものなんかないもの!それに結んだら苦しいだろー!」

 曰く、ニアの髪は蛇の胴体の一部として馴染むらしい。脱線する話の方向に、レイガンは頭痛を感じた。眉間を抑える仕草が様になっているなあとユミルは思っているが。

 レイガンが、ニアの髪をちょんちょんと引くと、心得たとばかりにニアはそっと顔を近づける。寄せた額にペタリと手を当て、ちょっと大人しくしろと宣い、ニアの体の中に流れる魔力へ添わせるように、己の魔力を浸透させていく。
 触れたところから波紋のように広がるのは、共鳴をした互いの魔力だ。脈を打つかのように、一定の感覚でニアの体はじんわりと光る。
 まるで神話のワンシーンを見ているかのような、実に幻想的な光景であった。

 レイガンの閉じていた目がゆっくりと開かれる。キラキラと輝くように、光の残滓を溢した紫の瞳が、同じ色を宿す眼の前の神の一柱を見つめると、みるみるうちに怖い顔をした。

「ニア、お前宿したな。」

 レイガンの言葉に、ニアがパカリと口を開く。それがまた随分と間抜けと畏怖が入り交じったような面構えであった。
 宿したな、という言葉に真っ先に反応したのはナナシだ。ちょこちょことエルマーの隣に並ぶと、目を輝かせてニアを見上げる。

「あかちゃんいるのう?」
「ええ!昨日のレイガンとユミルみたいなことなんかしてないぞー!!」
「ぎゃーーー!!なにばらしてんのニアの馬鹿ー!!!」
「なんで俺え!?」

 まさかの暴露にとばっちりを受けたユミルは、顔を真っ赤にして何故かエルマーを蹴り上げた。余程の強打だったらしい、膝から崩れ落ちた姿を目端に留めたレイガンは、げほげほと取り繕うように咳払いをした後、違う!と口を挟む。

「お前、御霊流しなどしばらく請け負ってなかったろう。それに、もしするなら俺に相談するという約束だったろうが。」
「え、あーーー!!あれかぁー!」

 漸くことの発端を思い出したらしい。ニアが水掻きのついた手を拳でぽんと叩くと、レイガンは渋い顔をしたまま深い溜め息を吐く。

「ま、まて、言いてえことは山程あるけど、まずそのミタマナガシってなんだあ…」
「える、ほっぺにつちついてるよう。」
「レイガンの鬼嫁のせいで地べたとキスする羽目になったからなあ…」

 背後に暗雲を背負ったエルマーの頬についた土を、ナナシがつまんでとってやる。
 エルマーが体を起こして立ち上がるのを見届けると、レイガンはニアという水神の特殊性について、ゆっくりと語り始めた。
 
 

 
    
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