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 結果は、サリエルの言うとおりであった。妊娠を示すその記号の羅列を黙って見つめながら、泣き腫らして疲れた顔をしたミハエルは、その紙を握りしめたままほうけているようであった。
 
 ロンは、ちろりと時計を見た。そろそろ帰り支度をしなければ変に怪しまれるだろう。ミハエルが早退したことはダラスも知るところだろうし、医務室にもいないとなると、探し回られてここに辿り着いた時の言い訳が思い浮かばない。
 
「ミハエルちゃん、とりあえず今日は帰ろう、今後のことは、また心が落ち着いてからにしてさ、ね?」
「…はい、」
「今日は、うちに帰るでしょ…。きっと局長も心配してるしさ、」
「うち、に…」
 
 ああ、そうか…家に帰らなくてはいけないんだ。ミハエルは当たり前のことに思い至った。帰って、様子がおかしかったら、またきっと心配をかけてしまう。妊娠しているなら、ヘタな薬を飲むのも良くない。どうしよう、ああ、帰りたくないな。ミハエルは、初めてそんなことを思った。ふらふらと立ち上がって、律儀にお辞儀をしたミハエルを、ロンが心配そうな目で追う。検査結果の履歴は自身の鍵付きの引き出しの中に念のため仕舞い込むと、出ていく背中に声をかける。
 
「ミハエルちゃん!」
「はい、」
「何かあれば、人を頼ることも学びなさい。いいね。」
「……、はい。」
 
 扉を支えにするかのように立っていたミハエルが、ピクンと肩を揺らした。薄い腹に手を添えて小さく頷くと、そのまま失礼しましたとだけ言って出ていった。
 
「意味、わかってんのかなあ。あのこ。」
 
 あんなに危うい子だったっけ。ロンは心配そうに見送ると、引き出しの小さな鍵をポケットにしまう。サディンは、どう思うだろうか。そんなことを気にかけたが、二人のことを第三者が押しはかるほど野暮なことはないかと考えることをやめた。
 今は、あの落ち込み用で何かをやらかさないかだけを注意すればいいかと考え直すと、疲れた眉間を揉むようにしてマッサージする。
 一応検診の話はしておいたが、いつまでもコソコソはしていられない。ロンはうまくおさまりますようにとだけお祈りすると、自分も帰る支度を始めた。
 
 
「どうするのか。お前は帰るつもりもないのでしょう。」
「ちょっと、しばらく考えたくて…、」
「何を考える必要がある。産むつもりのくせに。」
「それでも、…まだ僕には、言う勇気なんてありません。」
 
 寝転がったような状態で、サリエルがぷよぷよとついてくる。薄暗い廊下を壁伝いに歩きながら、8ヶ月後のまだ先の未来を想う。
 自分は、この子を抱けるのだろうか。その時、サディンは横にいてくれるのだろうか。ルキーノだって、そろそろ出産準備に入る。家にも頼れない。ミハエルはどんな過程を経たにしろ、自分が儘ならぬ、勇気も出せぬ情けない人間であることを悔いた。
 
「ごめんなさい。」
「それは、一体誰に対しての懺悔か。」
「ああ、そうですね…。」
 
 誰なんだろう。でも、ただ一つ言えることは、自分の渋滞している心象の中に、確かに喜びがあることだ。
 
「出張しようかな…。」
「は?」
「新薬の開発に、成功した研究機関があるんです。」
「はい?」
「研修生を募集してまして、それが、確か三ヶ月…。」
 
 三ヶ月、腹の子とともに入れたなら、誰にも頼らずに過ごせたなら、きっともう自分は平気な気がした。
 サリエルはポカンとした顔でミハエルを見つめる。この、サディン大好きっこが、まさか離れて暮らそうかと言い出すとは夢にも思わなくて、思わず黙りこくる。
 
「中絶はしません、お腹は、おそらく三ヶ月後にはもう丸くなり始めるでしょう。そうしたら、僕は自覚して、母になれる気がするんです。自覚してしまえば、きっとサディンから別れを切り出されても、そこまで傷つかない気がする。」
 
 淡々と語る様子に、サリエルは面倒臭そうな顔をした。ミハエルはそのまま医術局に戻ると、研究機関への出向の書類をゴソゴソと取り出した。それに印鑑とサインを書くと、大切そうにポケットにしまい込む。
 明日出勤して、これを所長に渡そう。そしたら帰って準備をして、サディンにもしばらく会えなくなることを言えばいい。頭の中でそんなことを組み立てると、なんだか自分が最善策を導き出したかのような気がして、少しだけ足取りが軽くなった。
 
「サリエル、」
「なんですかよ。」
「僕は馬鹿ですか。」
「ああ、とっても愛すべき大馬鹿ですねえ。」
 
 鼻で笑いながら、そんなことを言われた。ミハエルはゆるく微笑むと、今日はそのまま医務室に素泊まりをすることにした。
 
 
 
 翌日、サディンは少しだけ苛立った様子で医術局に向かって歩いていた。今朝方家に顔を出したら、昨日は帰っていないと言われたのだ。もしやまたどこかで倒れているのではと思い、心配と焦りが顔に出て、それはもうすれ違ったものが壁に張り付かざる追えなくなるほどに治安の悪い人相で、ズンズンと歩みを進める。
 近づくにつれて、耳がかすかな話声を拾った。なんだか驚愕の声や、惜しむ声が混じる中の様子を訝しげに思いつつも、コンコンと医術局の扉をノックする。
 
「はいはーい、って、げっ」
「ミハエルくんいますか。」
「しょ、少々お待ちくださ…」
「お待ちするから扉は開けておけ。」
「ヒエっ!」
 
 失礼な反応をした局員が、ゆっくり扉を閉めようとするのを足で阻止をする。がっ、と長い足をストッパーがわりにしてこじ開けたのだ、かわいそうに恐怖で小さく跳ね上がった小太りの男は、ワタワタと室内に逃げ込むと、今朝の話題の中心でもあるミハエルにとりすがった。
 
「みっ、みみみ、ミハエルちゃんっ!!怖いお兄ちゃんがおんもにいるようっ!」
「怖いお兄ちゃん?」
 
 サディンは、ピクリと眉を動かした。ミハエルはそこにいた。それなのに、なんだかいつもと様子が違うのだ。心なしか少しやつれているような感じさえする。サディンの好きな緑の宝石が向けられる。肌は白く、唇は赤らんで、目元は少しだけは腫れていた。まるで泣いていましたといわんばかりの風貌に、サディンはますます眉間に皺がよる。
 
「ミハエル。ちょっといいか。」
「サディン…、ええ、もちろん。」
 
 名を呼ばれて、かすかにミハエルの声が震えた気がした。サディンは素直にこちらにきたミハエルの腰に腕を回すと、エスコートするように使われていない資料庫のそばまで連れ立った。
 自分より小柄なミハエルが、俯いたまま肘のあたりを握り締めながら、おとなしくしている。サディンはいつになく様子のおかしいミハエルの顔を上げさせようと、頬に手を添える。
 
「昨日、お前はどこにいた。」
「…医務室。調べ物があったので。」
「体調崩して、早退したと聞いている。そんなままならない体を酷使してまでの調べ物って、一体なんだよ。」
 
 呆れた様子のサディンの声に、ミハエルは俯く。言え、言わなくては。不自然じゃないように、距離を置かなくては。自分で決めたことなのに、いざ本人を目の前にすると、怒られるのではと言う気持ちが先行して言い出せない。黙りこくるミハエルを心配して、サディンが頬を撫でる。促されるようにゆっくりと顔を上げたミハエルが、涙を堪えたような顔で口にした言葉に、サディンは小さく息を呑んだ。
 
「し、ばらく…、会えません…、」
「は?」

 何を言っているのかわからなかった。

「三ヶ月ほど、シュマギナールを離れます、どうか…、サディンは健康に気をつけて。」
「…待て、」
「僕、じゅ、準備があるので、」
「ミハエル、待てって。」
 
 ぐ、と腕を掴まれた。痛いほどの力でだ。ああ、怖い。サディンに背を向けたミハエルは、背後から感じるサディンの様子からして、ひどく怒っているようだと察してしまった。
 掴まれた腕が痛い。俯いたまま、離しての一言が言えなくて、ミハエルは溢れそうになった涙を受け止めるように、慌てて顔を押さえた。
 
「ふざけんな、馬鹿野郎。」
「ぅわ、っ」
 
 力強く腕を引かれた。怒りのままにミハエルを引き寄せたサディンは、まるで壁に押し付けるかのようにしてミハエルを壁際に寄せる。ああ、なんだか捕縛されたみたいだなあ。そんなことを考えるくらいに、これは思わぬ状況だった。背中に感じるサディンの体がぴたりとくっつく。顔の横に防具をつけた肘がついて、体全部を使って閉じ込められた。
 
「お前は、俺のことをなんもわかってねえな。マジで。」
 
 耳元で、サディンが粗野な口調で囁く。びくんと震えたミハエルの耳を、尖った犬歯でがじりと噛み付く。小さな掌に、サディンの大きな掌が重なると、まるで逃がさないとばかりに指をからませて握り込んだ。
 
 
 
 
 
 
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