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 最初は、一体何が起きたのかはわからなかった。マルコは陣を埋め込んだ青い瞳を見開きながら、突如として床板を突き破って現れた不思議な色合いの狼型の魔物に目を奪われた。
 
 キラキラと鱗が周囲の光源を拾って乱反射する。なんて美しい生き物だろう。思わず見惚れてしまうほどの姿を持つ魔物は、ガパリと口を開けて先ほどの淫魔を咥えると、貴族に術をかけ終えたもう一人の男の元へと降り立った。
 
「シス!大丈夫!?」
「さ、最悪…!咥えるとかマジでないわ!!」
「団長!わ、ちょっと待ってば!」
 
 んベッとカルマの腕にシスを落とす。まるでまずいもんでも食ったかと言わんばかりの微妙な顔をした魔狼、もとい転化したサディンは、首輪に値札のタグをつけたまま、一気に跳躍した。
 
「マルコ!!」
「っ、が…っ!」
 
 背後から、ヨルの悲鳴まじりの声が聞こえた。マルコが慌てて振り向けば、壁を突き破って現れた黒毛の人狼の拳が、勢いよく己の頬にめり込んだ。
 
「クセェ匂い振り撒いてんじゃねえ!!風呂入れ風呂ぉ!!」
 
 グルル!と転化した上半身で床を踏み締めて失礼なことをぬかす人狼に、ヨルは指を刺して叫んだ。
 
「お、お前あの時の業者じゃねえか!!」
「業者じゃねえ!!」
 
 ジキルが後ろ足に力を込める。ざわざわと魔力をたぎらせると、その赤の瞳をぎらりと輝かせた。
 
「俺ぁ蜘蛛の巣だ!!」
「うぁ…っ!!」
 
 振り上げた拳を地面に押し付けるようにしてめり込ませたと同時に、会場の床板が勢いよく捲れ上がる。バキバキと音を立てながら向かってきた亀裂を慌てて避けると、着地点で待っていたサディンが、ヨルの目の前で四つ足からゆっくりと人の形に戻る。
 
「は、半魔…!?」
「いいや。」
 
 ヨルが空中で体をひねる。落下の勢いを利用して振り下ろした杖の先は、そのゾッとするほど美しい顔の手前で、ばきりと折れて飛んでいった。
 
「騎士団だ。」
「ぃあ…っ!!」
 
 大きな手によって、頭を鷲掴まれた。その握力もさることながら、空中から襲いかかってきたヨルの頭を腕力だけで床に叩きつけたサディンは、誰が見ても人ではなかった。
 地面に頭をめり込ませて意識を失ったヨルから手を離す。きらりとわずかに光ったその腕には、微かに鱗の名残が残る。マルコはその不思議な特徴を残したサディンに気を取られるかのように視線が奪われていた。
 
「君は、」

 マルコの声に、ゆっくりとサディンの瞳がそちらへと向く。ジキルに殴られた顔を晒したままごくりと喉を鳴らすと、マルコは全身に魔力を行き渡らせた。
 
「お前、スミレ殺したやつだな。」

 たった一度の瞬きで、目の前に転移をした赤毛の美丈夫は、優しく微笑んでマルコを見る。

「…、あの、男娼の恋人?」
「違う。」
 
 マルコの体を、無属性の魔力がじんわりと染み渡っていく。これは、高揚だ。滅多に釣れない強い相手が目の前にいると、マルコは爛々と蒼い瞳を輝かせると、強化した足で後ろに飛び退るように跳躍をしながら、その瞳の陣から数匹のヘルハウンドを一気に吐き出した。
 
「まるまんま召喚陣になってるのか。」
「団長、逃げて!」
 
 サディンに一直線に向かってきた魔物が、大口を開けて火炎を吐き出した。迫る火球になんの感慨も持たぬまま、避けようともしないサディンに全員が息を呑んだ、その瞬間。
 
「ごめんくださあああああい!!!」

 なんとも気の抜けるような声とともに、真上から木っ端を散らしてエルマーが降ってきた。ミュクシルの巨体に踏み潰されるようにして、ヘルハウンドが汚い鳴き声をあげて潰されると、エルマーはサディンに向かっていた火球を無属性の皮膜で包み込み消火した。間抜けな登場に気を抜いたらしいマルコが、訝しげな顔で突如現れた、サディンと瓜二つの男を見て戸惑う。
 
「父さん、遅い。」
「お前、俺が降りてくるってわかってても避けろよお。肝が冷えたぜえ。」
 
 マルコの目の前で、ヘルハウンドがスナック菓子かのように、目の前で黒い幽鬼によって食い千切られていく。ビチャ、とマルコの頬に血肉が飛ぶと、ようやく我に帰ったらしい。慌てて次の魔物を召喚しようと前髪を上げようとした。
 
「ぃ、ぎ…!!」
「もうそれいらねえ。」
 
 怪しげな光を宿したサディンの瞳が、マルコを射抜く。指を弾くという、たったそれだけの動作で、義眼の中の圧力を一気に上げたのだ。ぱりんというガラス玉の割れる音とともに、マルコの左目が破裂した。

「い、ぃあぁあっ!?」


 眼窩の中で破裂したことで、マルコの目の内部には細かなガラス片が突き刺さる。あまりの痛みに顔を抑えてのたうち回れば、まるで押さえつけるかのように、その右肩を尖ったヒールが突き刺した。
 
「一度やって見たかったんだ。人の眼球に種を仕込むとどうなるのかって。」
「ーーーーーっ、っぉ、おま、え…!」
 
 マルコの真上に、瞳に狂気の色を宿したサジが、ゆっくりと微笑んだ。
 
「可愛いから、キノコにしてやろうなあ、苗床ちゃん。」
 
 きゃは、とはしゃぐそれは、まるで幼子のような無邪気さを宿す。体を蔦で拘束されたまま、乾涸びたキノコのようなものを無理矢理に眼窩に捩じ込まれると、あまりの痛みに絶叫した。
 
「い、嫌だああああ!!とれええええ!!」
「うわうるさ。」
 
 マルコの伽藍堂の眼窩に溜まっていた血液が、ジュルジュルと吸収されて行く不快感に、怖気が走る。まるで血管に根を走らせるかのようにして菌糸が顔の内側を探る様子に、ただジタバタと暴れるしかできなかった。
 
「だめだよマルコ。お前は縋られても助けなかったんだから。」
 
 サディンの手が、優しく語りかけながら前髪を横に流す。痛みと恐怖に、痛覚を麻痺させるための術が練れないでいるマルコの頬を、サディンがゆっくりと包む。
 
「誰もお前を助けない。だから安心してのたうちまわるといい。」
「ひ…っ…!」
 
 マルコの目の前で、悪魔が微笑んだ。金色の瞳を三日月のように歪めて、まるで愛を囁くかのような声色で後悔を強いる。今まで捌いてきた魔物は、皆檻の中にいた。だから怖くなかったのだ。しかし、ヨルもマルコも、自分から魔物を外に出してしまった。目先の金と、己の承認欲求を満たすために魔物を使った。
 ああ、なんでもっと早く辞めなかったのだろう。マルコは苦痛に顔を歪ませながら、ただただ目の前の悪魔に許しを乞うことしか出来なかった。
 
 
 
 
「おら、起きろー。」
「う…っ…?」
 
 あの後、待機させておいた騎士団の連中にその場の回収を任せると、サディンは控え室のクローゼットの中に突っ込んでいた人物の頬を強かに叩いた。
 
「いった!え、いって…え、だれ…。」
「お前、ヨナハンだろ。お前を探しにきたんだよ。俺ら。」
「は…?え、なんで簀巻き…」
「セントールになって暴れられても面倒だから。」
 
 淡々とそう語る目の前の美丈夫の背後では、ボロボロのフォーマルに身を包んだユリが、不遜な態度で腕組みをして立っていた。
 
「は…、ユリ…?お前、捕まったんじゃ。」
「ユリじゃなくて、今はシス。第一騎士団所属のシス。んで目の前の赤毛は団長。」
「………?」
 
 ヨナハンは訳がわかりませんと言った顔でサディンを見る。些か不機嫌なようで、戸惑いながらチラリと部屋をみると、血に濡れた瓶が転がっていた。
 
「…あ、お、俺…突然背後から…。」
「ああ、殴ったのは俺だ。お前にでしゃばられてもやりづらいと思ったからな。」
「ああ…え、あの赤い魔狼は…?」
 
 と、痛みにうめきながら恐る恐るサディンに問いかけると、ムスくれた顔のまま、首を見せる。顎を上げ、見やすくさせたサディンの首には、あの魔狼と同じ値段付きの首輪が付けられている。思わず呆気に取られたかのように見ていると、盛大に舌打ちをされた。
 
 
 
 
 
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