狼王の贄神子様

きみのくちびる

　心許ないのだろう、ティティアはカエレスからの許可を待つように、大人しく立ちすくんでいた。その様子が、可哀想で可愛い。無意識の優先順位の先頭にいるような気がして、カエレスは心臓の奥を甘く鳴かせる。いつまでもおとなしい様子を愛でていたいが、そうもいかないだろう。

「おいで、ティティア」
「お膝に乗るの？」
「ああ、私を置いて出かけるのだから、甘やかしてもらいたくてね」
「……いいよ」

　ティティアの柔らかそうな唇が、チョンと尖った。細い体がそろそろと近づくのを、迎え入れるかのように腰を抱き寄せた。ここにきた時とは違う、肌の露出の少ない生成りの長衣を纏う体を抱き上げると、小さな尻を膝の上に乗せた。

「重くないの？」
「獣人からしてみれば、心配なほど軽い」
「成人なのに……」
「種族が違う。気に病むことなど何もないさ」

　鼻先をすり寄せるように、ティティアの黒髪へと埋める。芳醇な花の香りが優しく鼻腔をくすぐる。思わずなりそうな喉を堪えると、尾が勝手にパタリと揺れた。

「……仲の良い人は他にも見つかったかい？」
「うん、マルカと、ハニとニル……はたまに意地悪だけど、ウメノでしょ……あとロクは、当たり前か」
「そうか……、私は狭量だな。ティティアの知り合う友人が増えることを手放しで喜んでやれない。きっと、嫉妬をしている」
「え」

　カエレスの言葉に、ティティアがポカンとした顔をする。その間抜けな表情は、安心する腕の中にいるおかげか見られることはなかった。
　詫びている口ではあったが、本当のことでもあるのだ。カエレスはティティアの一挙手一投足に心を砕いている。もちろんそれは、いい意味でだ。
　聴覚の鋭い耳が、わずかにはねるティティアの心音を捉える。それだけで浮き足立っていることを、知られたくないと思うのはつまらない矜持だ。
　
「ごめん、な、なんか俺、そういうのされたことないから、ど、どうしよう」
「そういうの？　おや、体が熱くなっているね。私に顔を見せてごらん」
「いじわるなこと言ってる、ぜ、絶対にやだ！」

　くぐもった声でのささやかな抗議に、素直な感情が尾に現れる。カエレスも、ティティアと同じだ。番いとして、たくさんの感情を少しずつ身に宿していっている。
　嫉妬なんて、する相手もいなかったのだ。随分と贅沢な感情を学んでしまったものである。

「俺、発情期遅くてごめんね」
「気にしてないと言えば嘘になるが……まあ、私が言い出したことだしな」
「だって、周りがカエレスの子供を望んでるのに、俺はなかなか準備ができなくて」
「ティティアは気に病まなくていい。私は君と足並みを合わせられることが嬉しいのだから」
「でも、……」

　カエレス首元に、ティティアの顔が埋まる。おとなしい様子は、落ち込んでいるようにも見えた。薄い背を撫でる。ここにきてから、肋は目立たなくなっていた。食べられる物が限られる中で、努力したのだろうなと思う。
　毎度食事のたびにティティアが難しい顔をしていることを、カエレスは気づいていた。
　
「な、慣れたい」
「ん？」

　もぞりと身じろぎをしたティティアが、夕焼け色の瞳にカエレスを閉じ込めた。
　じわりと上がったのだろう体温が、カエレスの奥底に侵食してくる。芳醇な花の香りが蜜のように甘くなり、ティティアがカエレスへと向ける気持ちを如実に語る。

「……それを、どういう意味で言っているのかわかっているのかい」
「え、あっ」
「こうしているだけでも、私は結構こたえているのだけど」

　じわりと滲んだ汗に、体温の高まりを感じた。細い首に鼻先を滑らせる。緊張から身をこわばらせているくせに、拒絶の匂いはしなかった。己の肩に触れた小さな手のひらに力が入る。腰を掴んだ親指の先で薄い腹を緩く押してやれば、上擦った声が漏れた。

「ぉ、俺……は、発情期きたらわかんなくなっちゃうから、わ、わかるうちに、慣れたい、なって」

　震える声と、鼻腔をくすぐる香りがカエレスを不用意に煽る。金糸水晶の瞳がきゅ、と細まり、爪が僅かに伸びた。
　欲を宿した指先を、丸めるようにして誤魔化す。カエレスは小さく息をつくと、真意を確かめるように宣った。

「私を、雄として見てくれるということだね」
「……な、なんでそんな……い、言い方が、意地悪だ……」
「すまない、今私はすごく喜んでる」
「うう……」

　雷のような音が、カエレスの喉から鳴る。腕の中の番いが可愛くて、カエレスが龍ならきっと火炎を吐いていたに違いない。今まで怯えると思って、手を繋ぐぐらいしかしてこなかったのだ。
　鼻先を首筋に近づける。体温が上がったことでふくよかになる花の香りが心地よくて、堪えきれずにベロリと舐め上げた。

「ひゃ、っち、ちが、は、早い……っ」
「なら、ティティアが教えて。獣人が番いへと向ける愛情はティティアには刺激が強すぎるかもしれないから」
「お、俺だってわかんないよ……」

　ティティアの小さな手のひらが、カエレスの口元を抑える。指の隙間に悪戯をするように舌で撫でれば、情けない悲鳴をあげた。
　表情も、反応も。コロコロと変わって面白い。くつくつと笑うカエレスを前に、ティティアは少しだけむすくれるような表情を見せた。

「ろ、ロクが話してくれた本だと、好きな人同士は口をくっつけるんだって……」
「それで、どうする？」
「あ……えっと……幸せに、暮らす……？」
「くぅ……」

　つまり、絵本の話を参考にしたというのか。カエレスは遠吠えでもするのかと言わんばかりに天井を仰ぎ見ると、吠えてしまいそうな衝動を必死で堪えた。
　純粋培養がすぎる。まだ何も知らない子供のような無垢さがあるのに、発情期を経験しているのだ。その歪な事実が、カエレスの中で荒れ狂う。これを、しんどいというのだろうか。
　様子の変わったカエレスを心配そうに見上げるティティアを、ぎゅむ、と抱きしめる。そのまま担いで執務室を飛び出し、これが私の番いだと見せてやりたい気持ちを必死で堪えた。
　それでも、カエレスには一つの懸念があった。それは、人の口と己の口は違うということだ。

「……口付けを許してくれるのならさせてほしい。けれど、私の口は見ての通りこうだからな……怖くはないかい？」

　狼の大きな口は、顔の半分ほどまで裂けるように開く。深く口付けたとしても、牙がティティアの頬にあたるだろう。
　怯えるかもしれない。ぐぱりと開いて見せた口を前に、ティティアは照れたようにもじりとした。

「……カエレスだから、怖くないよ」

　夕焼けの瞳が、顔の熱に浸食されるように潤んだ。真似をするように小さな口を開くティティアを目にした瞬間。カエレスは引き寄せられるように唇を重ねていた。

「んむ、……っ」

　ティティアの小さな唇の中に、舌を差し込んだ。細い腰を抱く手の力が自然と強くなり、行き場のない手がカエレスの服を掴んだ。
　唾液は、蜜のように甘かった。暖かなそれを絡めるように薄い舌を舐め上げ、深くまで探る。ティティアの上体を逸らすようにカエレスが求めると、細い足が腰を挟むように回された。

「っか、ぇれ、……ス、お、ぉちる……っ」
「誘っている？」
「っちが、本当に、落ちる……っ」

　カエレスの毛並みを掴むようにして縋るティティアに、ようやく言葉の意味を理解した。真っ赤な顔で口の周りをべたべたにしたその姿は、確かにカエレスの手のひらだけで体を支えているようだった。
　黒髪が床につきそうだ。己が求めるままに唇を奪ったせいで、寝台でもないのに押し倒したような具合になっていた。

「……すまない、体の大きさを忘れて無体をしいた」
「ケホ、ッ……ほんと、平気だから、お、起こして……」
「ああ、すぐに」

　背中に手を添えるようにして体を引き寄せる。胸に顔をうずめる黒髪に鼻先を寄せると、ティティアはゆっくりと顔を上げた。
　また怒らせたかもしれない。そんな、申し訳なさそうなカエレスの様子が分かりやすかったのか、ティティアはふすりと笑った。

「怒られたわんちゃんみたいに、お耳が下がってる」
「む……」
「今度は俺からするから……、カエレスは大人しくしてて」
「わかった……」

　いい子ならいうことを聞いて。まるでそう告げるように、ティティアは赤らんだ顔で宣った。
　二回目があるのか。カエレスはティティアの言葉に簡単に一喜一憂してしまう。獣人の国王として、アキレイアスの者たちを導かねばならないというのに、なんという体たらくだろう。
　こんなところを、ハニやニルに見られたら多分立ち直れない。無意識でしたいい子のお返事をどう受け止められたのかわからない。
　ただティティアは美しい夕焼けの瞳を丸くして、その口元から、随分と桃色の馬鹿を放ったのであった。