6 / 111
優しい約束
しおりを挟む
「カエレス様、おやめください」
背後から鋭い声が飛んできた。指先は、まるでその声に縛られるかのように、ティティアの目の前で動きを止めた。
「おいハニ!」
「怯えが伝わりませんか。俺たち草食にも分け隔てなく接してくださる、カエレス様らしくありません」
強いハニの口調に、カエレスは徐々に思考を取り戻す。微睡から覚める冴えた感覚が、全身の血液を入れ替えるかのように体を駆け巡った。無遠慮に伸ばした手を前に怯えるティティアに気がつくと、カエレスは冷水を心臓に流し込まれたように息をつめた。
鋭い獣の爪をしまいもせずに、触れようとしていたことに驚愕したのだ。カエレスの大きな手のひらは薄い肩を鷲掴まんとばかりに広げられている。触れずともわかる、微かに震えるティティアの表情は、カエレスの暴力を予測するようにこわばっていた。
大きく見開かれた夕焼けの瞳が一心に見つめ返す。瞳の中のカエレスはただ、獣の本能を如実に表すように獰猛な顔をしていた。
「カエレス様、お戻りください。お嫁様は落ち着いてからご紹介します」
警戒を言葉に乗せていたのは、ハニもまた同じであった。無意識のうちに膨らんでしまったカエレスの魔力が、部屋の空気に圧力をかけているようだった。
指先を握り込むようにして、鋭い爪は収められた。番いを前にしての、己の意思の効かぬ衝動に抗うように、カエレスが一歩下がった時だった。
「……すまな」
「い、いいよ、俺は」
震える声が、カエレスを引き留める。
その手は震えを隠すように寝具を握りしめたまま、夕焼けの瞳は真っ直ぐにカエレスを閉じ込めて、宣った
「だって俺、そのためにここにきたんだもん」
「ティティア様、でも」
「俺、オウサマと結婚するんでしょ?だから、大丈夫だよ……です」
なれていない敬語で取り繕う。そんなティティアの姿を前に、カエレスはゆっくりと深呼吸をした。
小さな手が、そっと持ち上がる。ティティアの左手がカエレスの指先に触れると、柔らかさを確かめるかのように、ゆっくりと握りしめられた。
「すまないって、さっき言おうとしてくれたから、いいですよ」
「………」
「でも無言は怖いから、何か話してほしいかも、なんて」
ぎこちなく笑みを浮かべるティティアの様子を前に、カエレスの背後ではハニが脱力したようにため息を吐いた。
その場を支配していた空気がゆっくりと溶けていく。無言を貫いていたカエレスの瞳が柔らかなものに変化したのを感じ取ったのだろう。ティティアの怯えはなりをひそめ、カエレスへと窺うような視線を向ける。
「……初めましてティティア。私はアキレイアスの王様をしているカエレスだ」
「オウサマ、ってよぶ?」
「いいや、仲良くしてもらいたいからね。皆のように名前で読んでくれて構わない」
「じゃあ、カエレス?」
「ティティア様、敬称を」
「ロク、構わないよ」
ティティアの呼び方に表情を固めたのはロクとニルだけであった。しかし緊張は杞憂に終わり、カエレスはティティアを前に穏やかさを静かに取り戻した。機嫌を表す狼の尾が、ゆらりと揺れる。
カエレスの周りにいない、随分と人懐っこい生き物を前に興味が湧いたのかもしれない。頬を染めて鼻の頭を掻くティティアの仕草は、獣人と同じだ。
緊張がほぐれたのだろう様子を前に、カエレスは詫びるかのように床に膝をついて目線を合わせた。
「ここにきた以上は、もう人の国には返せない。君には私の子供を産んでもらうし、ずっとここで暮らしてもらう。悪いが、ここで生きる覚悟を決めてほしい」
小さな手のひらを覆うように、握りしめる。ティティアへと向けた言葉に、配慮はなかった。それでも、拒まれても覆らない事実を、誤魔化すのも嫌だったのだ。
想像していた否定は、飛んでこなかった。ティティアは形のいい唇をゆっくりと閉じると、カエレスの目を見つめ返してこくりと頷いた。
「カエレスの役に立てるならいいよ。でも、優しくして欲しいけど」
「優しくする。私と君は、今日から対等だ」
「たいとう……」
「同じ立場、という意味ですよティティア様」
ロクの耳打ちに、安心したように表情を緩める。幼さの残る笑みに、思わず喉がぐるりと鳴った。
これが私の番いか。カエレスは、ハニの想像の通りに驚いていた。それは小柄な体はもちろんだが、何よりも怯えられずに己を受け入れられたことが一番だった。
カエレス以外にも、もちろん獣頭の王はいた。それでも、番いに出会った王は過去に一人しかおらず、それもすんなりとは受け入れられることはなかったという。
己よりも体温の低い小さな手を両手で温めながら、カエレスはティティアから目を逸さなかった。体の何処かに眠るアテルニクスの本能が、離れがたく感じているのかもしれない。信心深いつもりはないくせに、都合よく解釈した己に少しだけばつが悪くなった。
背後から鋭い声が飛んできた。指先は、まるでその声に縛られるかのように、ティティアの目の前で動きを止めた。
「おいハニ!」
「怯えが伝わりませんか。俺たち草食にも分け隔てなく接してくださる、カエレス様らしくありません」
強いハニの口調に、カエレスは徐々に思考を取り戻す。微睡から覚める冴えた感覚が、全身の血液を入れ替えるかのように体を駆け巡った。無遠慮に伸ばした手を前に怯えるティティアに気がつくと、カエレスは冷水を心臓に流し込まれたように息をつめた。
鋭い獣の爪をしまいもせずに、触れようとしていたことに驚愕したのだ。カエレスの大きな手のひらは薄い肩を鷲掴まんとばかりに広げられている。触れずともわかる、微かに震えるティティアの表情は、カエレスの暴力を予測するようにこわばっていた。
大きく見開かれた夕焼けの瞳が一心に見つめ返す。瞳の中のカエレスはただ、獣の本能を如実に表すように獰猛な顔をしていた。
「カエレス様、お戻りください。お嫁様は落ち着いてからご紹介します」
警戒を言葉に乗せていたのは、ハニもまた同じであった。無意識のうちに膨らんでしまったカエレスの魔力が、部屋の空気に圧力をかけているようだった。
指先を握り込むようにして、鋭い爪は収められた。番いを前にしての、己の意思の効かぬ衝動に抗うように、カエレスが一歩下がった時だった。
「……すまな」
「い、いいよ、俺は」
震える声が、カエレスを引き留める。
その手は震えを隠すように寝具を握りしめたまま、夕焼けの瞳は真っ直ぐにカエレスを閉じ込めて、宣った
「だって俺、そのためにここにきたんだもん」
「ティティア様、でも」
「俺、オウサマと結婚するんでしょ?だから、大丈夫だよ……です」
なれていない敬語で取り繕う。そんなティティアの姿を前に、カエレスはゆっくりと深呼吸をした。
小さな手が、そっと持ち上がる。ティティアの左手がカエレスの指先に触れると、柔らかさを確かめるかのように、ゆっくりと握りしめられた。
「すまないって、さっき言おうとしてくれたから、いいですよ」
「………」
「でも無言は怖いから、何か話してほしいかも、なんて」
ぎこちなく笑みを浮かべるティティアの様子を前に、カエレスの背後ではハニが脱力したようにため息を吐いた。
その場を支配していた空気がゆっくりと溶けていく。無言を貫いていたカエレスの瞳が柔らかなものに変化したのを感じ取ったのだろう。ティティアの怯えはなりをひそめ、カエレスへと窺うような視線を向ける。
「……初めましてティティア。私はアキレイアスの王様をしているカエレスだ」
「オウサマ、ってよぶ?」
「いいや、仲良くしてもらいたいからね。皆のように名前で読んでくれて構わない」
「じゃあ、カエレス?」
「ティティア様、敬称を」
「ロク、構わないよ」
ティティアの呼び方に表情を固めたのはロクとニルだけであった。しかし緊張は杞憂に終わり、カエレスはティティアを前に穏やかさを静かに取り戻した。機嫌を表す狼の尾が、ゆらりと揺れる。
カエレスの周りにいない、随分と人懐っこい生き物を前に興味が湧いたのかもしれない。頬を染めて鼻の頭を掻くティティアの仕草は、獣人と同じだ。
緊張がほぐれたのだろう様子を前に、カエレスは詫びるかのように床に膝をついて目線を合わせた。
「ここにきた以上は、もう人の国には返せない。君には私の子供を産んでもらうし、ずっとここで暮らしてもらう。悪いが、ここで生きる覚悟を決めてほしい」
小さな手のひらを覆うように、握りしめる。ティティアへと向けた言葉に、配慮はなかった。それでも、拒まれても覆らない事実を、誤魔化すのも嫌だったのだ。
想像していた否定は、飛んでこなかった。ティティアは形のいい唇をゆっくりと閉じると、カエレスの目を見つめ返してこくりと頷いた。
「カエレスの役に立てるならいいよ。でも、優しくして欲しいけど」
「優しくする。私と君は、今日から対等だ」
「たいとう……」
「同じ立場、という意味ですよティティア様」
ロクの耳打ちに、安心したように表情を緩める。幼さの残る笑みに、思わず喉がぐるりと鳴った。
これが私の番いか。カエレスは、ハニの想像の通りに驚いていた。それは小柄な体はもちろんだが、何よりも怯えられずに己を受け入れられたことが一番だった。
カエレス以外にも、もちろん獣頭の王はいた。それでも、番いに出会った王は過去に一人しかおらず、それもすんなりとは受け入れられることはなかったという。
己よりも体温の低い小さな手を両手で温めながら、カエレスはティティアから目を逸さなかった。体の何処かに眠るアテルニクスの本能が、離れがたく感じているのかもしれない。信心深いつもりはないくせに、都合よく解釈した己に少しだけばつが悪くなった。
21
お気に入りに追加
399
あなたにおすすめの小説
完結!【R‐18】獣は夜に愛を学ぶ(無垢獣人×獣人にトラウマを持つ獣人殺し)
路地裏乃猫
BL
愛するつもりなどなかった――
幼少期に家族を獣人に殺され、自身も心身を蹂躙されたロア=リベルガは復讐を誓い、最強の獣人殺しとなる。ある日、いつものように獣人の村を滅ぼしたロアは、そこで獣人の子供リクと出会う。いつものように始末しようとして、なぜか逆に助けてしまったロア。そのまま旅に連れ歩くが、成長の早い獣人はあっという間に育ちきってしまう。それでもなお子ども扱いを続けるロアに、ついにリクは、大人の欲望を自覚しはじめる。
だが、それは同時に、リクがロアの敵と化すことも意味していた。
性欲を知った獣人は途端に狂暴になる。かつてロアを蹂躙したのも大人の雄たちだった。それでも大人になり、雄としてロアを求めたいリクと、そんなリクを許せないロア。果たして二人は、種族の壁を越えることはできるのか。
※ハッピーエンド
※冒頭にモブレ描写あり注意
※転生系ではありません
―――登場人物―――
ロア=リベルガ(人間)
最強の獣人殺し。幼少期に家族を獣人に殺され、彼自身も心身を蹂躙された過去を持つ。
世界から獣人を駆逐し尽くすことを自らの使命に生きている。
リク(獣人)
かつてロアが滅ぼした獣人の村の、その唯一の生き残り。獣人の駆逐を悲願とするロアだが、なぜか彼だけは生かし、そして連れ回している。
リクもそんなロアを慕い、彼の背中をついて回っている。が、その本心は……
ゲイン(人間)
かつてロアとともに王立の異種族掃討部隊に属していた男。ロアの強さと、それを裏打ちする純粋な憎悪に焦がれている。
そのロアが、彼が憎むはずの獣人を連れ回していることが耐えられない。
転生令息は冒険者を目指す!?
葛城 惶
BL
ある時、日本に大規模災害が発生した。
救助活動中に取り残された少女を助けた自衛官、天海隆司は直後に土砂の崩落に巻き込まれ、意識を失う。
再び目を開けた時、彼は全く知らない世界に転生していた。
異世界で美貌の貴族令息に転生した脳筋の元自衛官は憧れの冒険者になれるのか?!
とってもお馬鹿なコメディです(;^_^A
いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜
きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員
Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。
そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。
初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。
甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。
第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。
※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり)
※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り
初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。
僕を拾ってくれたのはイケメン社長さんでした
なの
BL
社長になって1年、父の葬儀でその少年に出会った。
「あんたのせいよ。あんたさえいなかったら、あの人は死なずに済んだのに…」
高校にも通わせてもらえず、実母の恋人にいいように身体を弄ばれていたことを知った。
そんな理不尽なことがあっていいのか、人は誰でも幸せになる権利があるのに…
その少年は昔、誰よりも可愛がってた犬に似ていた。
ついその犬を思い出してしまい、その少年を幸せにしたいと思うようになった。
かわいそうな人生を送ってきた少年とイケメン社長が出会い、恋に落ちるまで…
ハッピーエンドです。
R18の場面には※をつけます。
蒼い春も、その先も、
Rg
BL
高校二年生の春。
自傷癖のある朝比奈穂希は、校内一の優等生として有名な佳澄椿と出会う。
穂希は自分に自傷癖があること、そして自傷をやめようと思っていることを打ち明けるが、椿の反応は穂希の想像とは少し違うものだった。
自身の傷に対する椿の言動に違和感を覚える日々を過ごしていたそんなある日、彼に『君のことを好きになってしまった』と告げられる。
※自傷行為常習の穂希くんが主人公なので、痛々しい描写多々あります。苦手な方、ご注意を!
名無しの龍は愛されたい。−鱗の記憶が眠る海−
だいきち
BL
【名無しの龍は愛されたい スピンオフ】
深海で生きていた変わりものの魔物ラト×群れから追い出された魔族の少年シューロ
シュマギナール皇国の陰謀を暴き、男性でありながらエルマーの子供を孕んだ神の御使いであるナナシと共に、永遠の愛を誓ってから一週間。
美しい海を誇る南の国カストールでの甘やかなハネムーンは、相変わらずのエルマーのおかげで穏やかには終わらなかった。
「海上での魔物討伐、お前も巻き添えで。」
エルマーが持ってきた依頼。レイガンが巻き込まれたのは、海で暴れる巨大な魚型魔物、羅頭蛇の討伐であった。それに加えて行方不明だったニアも、何やら面倒ごとを引き連れて戻ってきた!
エルマー達五人と一匹の前に現れた、孤独な海の魔族。ネレイスのシューロ。彼が大切に抱きかかえていたのは、死んだ番いの卵であった。
海を舞台に大きな波乱が巻き起こる。愛を知らないもの同士の、純粋な家族の形がそこにあった。
ニアの、神様としての本当の姿。そして紫の瞳が映す真実とは。全ての答えは、海の魔族である少年シューロが握っていた。
これは、一つの海の物語。魂の邂逅、そして美しくも残酷な恋の物語。
※名無しの龍は愛されたい読了後推奨
※BLですが、性描写はなしです
※魚型魔物×孤独な魔族
※死ネタ含む
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる