油彩の箱庭

だいきち

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箱の中

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 揮発性油独特の、胸を悪くするような空気の中。部屋の主人である佐一郎は一人、一枚の絵の下でうずくまっていた。
 花畑のような床と対照的な、黒と白で描かれた絵は裸婦画であった。灰色の肌を持つ、佐一郎によく似た妙齢の女性が無表情で正面を向いている絵。
 灰色の壁に四方を囲まれ、鉄格子のような窓が一つ嵌め込まれただけの作業部屋。朝はまだいいが、夜になるとカンテラの光しか頼りになるものはない。
 電気が通っていないわけではない。佐一郎が好んでそうしているのだ。
 黒い髪は、肩に当たって毛先の方が跳ねている。肋の浮いたやせぎすの体を薄いシャツで隠した佐一郎は、猫のように背中を丸めて細く細く呼吸をしていた。
 服に頓着がないのか、腰回りが緩いボトムスを無理やり紐で縛り付けて留めている。縛り方がきついせいで、生地との摩擦でところどころ痣を作っていた。

「また蛹になっているのですか」

 カンテラの光が揺れた。一枚しかない扉を開いて、灰色の部屋に男が入ってきたのだ。

「三日。あなたは絵に熱中するあまり人としての営みを疎かにした」

 氷のような声だった。
 灰色の壁に、白い手袋をはめた手がよく映えた。指先が辿るのは室内灯のスイッチだ。佐一郎が嫌う、人工的な光を作る場所。
 指で探るように、指先が突起を押し込んだ。望んでいた光が照らさないことに気がつくと、面倒くさそうに舌打ちをする。佐一郎によって取り外された光源は粉々になって、部屋の隅で盛り塩のようになっていた。

「……風呂に入り、食事をとってください。三日分の命を蔑ろにして描いた絵が満足のいくものでないのなら、もう現実に戻りなさい」

 黒い三揃は、男がこの屋敷の執事であることを表していた。
 磨き上げられた靴が、佐一郎の花畑へと足を踏み入れる。芳醇というにはあまりにもかけ離れている油臭い部屋の中央で、小さくなっている佐一郎の襟首を掴んだ。

「しね」
「生憎あなたより先に死ぬつもりはない」

 佐一郎のたった一言に、男は口元をわずかに歪ませて宣う。
 白い手袋をはめた手が、佐一郎の腹に回る。華奢な体を引き寄せるように持ち上げた男は、背後から抱きしめるように佐一郎の首に手を添えた。
 足が浮く。男の力だけで持ち上げられている状態に、細い足が空を蹴った。黒髪に埋もれる形のいい耳に、男の唇が寄せられる。

「あなたが俺の手間を増やすんですよ」
「やめろ、離せ!気持ち悪いんだよ!」
「ああ、そう。またその姉に縋るのか」

 ひく、と掠れた声で、佐一郎が嘲笑した。
 久慈の蛍石のように美しい瞳が、スッと細まる。佐一郎とは対照的な白い髪が、異国の血を思わせる整った顔立ち影を落とす。
 灰色の部屋の、油彩の花畑の中心で、遺影のような絵の目の前で。

「翡翠に成り代わりたかったくせに」

 久慈の言葉に、佐一郎の喉が引き攣った声を漏らした。瞳孔が細まり、細い体はワナワナと震えた。久慈の白手袋の上から爪を立てるように、佐一郎はその手を剥がそうともがいた。

「俺はお前に付き合って、お前の望み通りに振る舞っていた。ただそれだけなのにな」
「くそ、クソ野郎、しね。お前なんてこの家に必要ない、この……俺に食わせてもらっていることを忘れるな!!」
「人並みの生活が一人では送れないお前が俺を食わせている?なら料理の一つでも作ってみろ。お前の体は、俺によって生かされていることを忘れるな」
「お前なんかいなくても、俺は生きていける!俺は社会不適合者なんかじゃない、俺は、俺は俺は……!!」

 佐一郎の幼児のような駄々は、容易く久慈によって制される。顎を捕まれ、絵の前に固定される。この世には存在するはずのない佐一郎の姉が、静かに己を見つめていた。
 久慈の腕が、佐一郎の体を固定するように抱きしめる。力強い男の腕に閉じ込められている現実が、佐一郎を静かに追い詰める。
 油彩の花畑の上で、白と黒の男がもつれあう。遺影のような絵の前で、全てを晒されるように内側を暴かれる。

「もう弔ったはずでしょう、佐一郎。あなたは翡翠を弔った」
「死んだ、もう、俺が、殺した」
「そうだよ佐一郎。お前が殺した。お前が作り上げて、お前が殺した」
「俺は、だって俺は、」

 女になれば、愛されると思った。

 佐一郎の乾いた唇が震えた。
 己は画家だ、想像から全てを生み出す画家。白いキャンパスに閉じ込めるのは心象世界だ。
 虚像の世界を愛していたい。それは、佐一郎の心が許される唯一の場所だからだ。

「お前の気持ちを否定されて、可哀想に」

 久慈の毒のような言葉が、佐一郎の皮膚組織の隙間から侵食してくる。

「心を破かれて、一気にハリボテが崩れた。可哀想な佐一郎、嘘を現実にしようと……こんな絵まで作り上げて」

 久慈の大きな手のひらが、佐一郎の下腹部へと這わされる。女にはあるはずのない膨らみへと手のひらを押し付けると、薄い耳に唇を寄せた。

「抱かれたかった?画商の男に。お前は女のように組み敷かれて、情けなく喘ぎたかった?」
「違う、違うそんなことはない……」
「お前の顔は上等だよ、佐一郎。だけど体は変えられない、騙せるのは、せいぜいベットまでだ。わかるだろう?」
「やめろ、触るなクソ野郎……!!」

 久慈は嘲笑った。佐一郎の心を整えるための、ささやかな嘘を。
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