珈琲杯の憂鬱

平倉義忠

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第壱章 《カツフエエ・パリス》の人々

弐. 幸子

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 彼女は私の幼馴染みで、十年ほど音沙汰なくなつてゐた。
 それが、数ヶ月前に偶然入つたこの店で彼女が働いてゐたので、それからこゝの常連になつた。

 いかにも女給らしい、黒いワンピースに白いフリルのついたエプロンのメイド服は、恐らく、知恵子さんの趣味だらう。
 カラスのやうにつやゝかで真黒な髪と卵のやうになめらかで真白な肌、その卵形の顔に切り込まれた猫目びやうがん、すつと通つた鼻、リンゴよりもあかく薄い唇、そこにゑくぼとともに浮かぶ笑みはあでやかな牡丹ぼたん
 かういつた風だから、彼女目当てゞ来店する客も少なくない。男女問はず。

 うん、今日は少し用事が入つてね、と言ひながらカツプを手に取り、その香りを嗅ぐ。
 刹那、私はもはやこゝにはゐない。
 鼻を通じて脳まで貫くその香りに、恍惚とするのである。
 黒々しい液体を口に含む。
 桜桃のやうな風味に、絹のやうな舌触りのこれは、ケニアの深煎りである。
 一口、もう一口と、少しずつ口に含む。
 この店には、通常メニユーの他に《本日の珈琲》といふものがある。曜日ごとの日替わりで、一種類の珈琲とデザアトが組み合はされてゐる。
 今日はケニアとザツハトルテの組み合はせだ。

 私が珈琲に意識を奪はれてゐる間に、幸子がオムライスとザツハトルテを運んで来てゐた。
 「ねえ?こんなに暑い日なのに、そんなに熱い珈琲を飲んでて、平気なの?冷たいほうが良くない?」
 こつちのほうが香りが立つて良いんだよ、と答へた。
 それと同時に、

チリリーン、バタン!

ドアが乱暴に開けられ、二人組の男が入つてきた。彼らも常連客だ。
「いらつしやいまし~」
 ぱつとさらに表情を明るくすると、幸子は二人のほうへ行つてしまつた。

 もう一口、珈琲をすゝつた。
 さうする時、いつも思ひ出す言葉がある。
 その昔、シヤルル=モオリス・ド・タレエラン=ペリゴオル(Charles Maurice de Talleyrand Périgord)といふ、フランスの政治家は言つた。

   良い珈琲とは、
   悪魔のように黒く、
   地獄のように熱く、
   天使のように純粋で、
   そして戀のように甘い。

 正直、私はこの格言が正しいとは思つてゐない。
 味の感覚なんて人其々それ/゛\だ。そも/\、悪魔や天使になんて会つたことはないし、地獄にだつて行つたこともないから、どんなところなのか知らない。それに恋だつて、私は知らない。第一、さういふ物事に「味覚」で感じとれる「味」なんて、あるわけがない。
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