珈琲杯の憂鬱

平倉義忠

文字の大きさ
上 下
2 / 4
第壱章 《カツフエエ・パリス》の人々

壱. 《カツフエエ・パリス》

しおりを挟む
 チリゝーン

 「いらつしやい」

 びたベルの澄んだ音に古びてり減つたドアの軋む音が重なると、奥からキツネ目の笑顔がのぞいた。
 私は、こんちは、と軽く会釈をした。そして、オレンジ色のランプがぼんやり灯る店内へ、つか/\と歩みを進めていつた。
 お決まりの、一番奥の二人席で、カウンタア席に近い方に腰掛ける。それと同時にカウンタアへ向かつて、いつもの、お願いします、と声をかける。
「はーい、すぐれるからね」
 ニツコリとして、キツネ目の女はカウンタア席のど真ん中に突つ伏してゐた、クマのやうな男の頭を平手でピシヤリと叩いた。そして、カウンタアの向かう側の厨房へ、いそ/\と引つ込んだ。それは瞬きひとつ分のうちに起きたことである。
 叩かれた男は、脳天の、毛が薄くなつた部分をさすり/\、
「おや、いらつしやい」
と言つて、あごが外れさうなくらい大きな欠伸あくびをしながら、のそ/\と厨房へ入つていつた。

 彼はこの《カツフエエ・パリス》の店主、藤村 修ふじむら おさむさんである。聞くところによれば、彼は若かりし頃、陸軍下士官であつたらしい。恰幅の良い身体はかつて、細身で引き締まつてゐたとかいふ。もはやさやうな面影は、微塵も感じられない。かと思ふと、時々、上まぶたの垂れ下がつた目に、クマをも射殺すやうな眼光を見る。身体は衰えたやもしれぬが、中身はまだ残つているやうだ。
 彼をひつぱたいたキツネ目の女は、彼の妻、知恵子ちえこさんだ。彼女は夫より五つ上の姉さん女房で、二人はフランス・パリで偶然出会つたといふ。日本に帰国後、ほとんどすぐに結婚して修さんの夢だつたカフエエを開き、今に至るさうだ。
 いかにも夢想家ロマンチストの好みさうな話ではあるが、現実主義者リアリストの私でも、かういふロマンスもあるもんだなア、と苦笑する。

 ひとりホオルに残された私は、腐りかけたドアを開けたときから鼻孔をくすぐつてゐた芳香を、肺いつぱいに吸い込んだ。やはり、こゝが一番心穏やかにゐられる。何も考えずにゐられるのだ。
 ちらり、と近くに置かれてゐる装飾品に目をやつた。見馴れてはゐるものゝ、いつも興味をそゝられる。
 ホオルのあちらこちらに珈琲粉砕機コーヒーミル珈琲杯コーヒーカツプの他、エツフエル塔や凱旋門の置物や写真が、青白赤の三色旗と共に飾られてゐた。どれもこだわりのありさうな置き方である。
 これらの装飾も店の名前も、藤村さん夫妻の原点に由来するのだらう。
 ただ、店の名前の「カツフエエ」も「パリス」も、どちらもフランス語ではなく、ドイツ語か英語の発音なのだ。その点がいさゝか不思議なのだが、《カツフエエ・パリス》といふ響きは良いので、まア、良いのだらう。

 ところで、世に喫茶店、純喫茶、カフエエなどと呼ばれる、それ/゛\似たやうな店があるが、あらかた、喫茶店は酒を出さず、純喫茶も酒は出さないが女給がゐて、カフエエは酒も出すし女給がゐる、といつた風である。
 この《カツフエエ・パリス》はその中のカフエエにあたる。もつとも、この店の「女給」は、他のカフエエにあるやうないかゞはしいサアビスはしてゐないし、たつたひとりしかゐないが。

 「あら、いらつしやい!今日は少し遅かつたんぢやない?」
 おまちどおさま、と言つて海色の珈琲杯コーヒーカツプを置いたのは、この店の女給・水原 幸子みづはら さちこだつた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【ママ友百合】ラテアートにハートをのせて

千鶴田ルト
恋愛
専業主婦の優菜は、娘の幼稚園の親子イベントで娘の友達と一緒にいた千春と出会う。 ちょっと変わったママ友不倫百合ほのぼのガールズラブ物語です。 ハッピーエンドになると思うのでご安心ください。

赤毛の行商人

ひぐらしゆうき
大衆娯楽
赤茶の髪をした散切り頭、珍品を集めて回る行商人カミノマ。かつて父の持ち帰った幻の一品「虚空の器」を求めて国中を巡り回る。 現実とは少し異なる19世紀末の日本を舞台とした冒険物語。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

ライト短編集

篁 しいら
ライト文芸
篁 しいらの短編集を纏めました。 死ネタ無し/鬱表現有り

読めない喫茶店

宇野片み緒
現代文学
生真面目な新卒営業マン・澤口、 うんちく好きで変わり者の店主・松虫、 ジャズロックバンド『シグ』の姉弟、 そして彼らを取り巻く人々。 読み間違いをきっかけに、 交流は広がってゆく── カバーイラスト/間取り図:goto 装丁/作中字/本文:宇野片み緒

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

喫茶店オルクスには鬼が潜む

奏多
キャラ文芸
美月が通うようになった喫茶店は、本一冊読み切るまで長居しても怒られない場所。 そこに通うようになったのは、片思いの末にどうしても避けたい人がいるからで……。 そんな折、不可思議なことが起こり始めた美月は、店員の青年に助けられたことで、その秘密を知って行って……。 なろうでも連載、カクヨムでも先行連載。

家出したとある辺境夫人の話

あゆみノワ@書籍『完全別居の契約婚〜』
恋愛
『突然ではございますが、私はあなたと離縁し、このお屋敷を去ることにいたしました』 これは、一通の置き手紙からはじまった一組の心通わぬ夫婦のお語。 ※ちゃんとハッピーエンドです。ただし、主人公にとっては。 ※他サイトでも掲載します。

処理中です...