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第壱章 《カツフエエ・パリス》の人々
壱. 《カツフエエ・パリス》
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チリゝーン
「いらつしやい」
錆びたベルの澄んだ音に古びて摩り減つたドアの軋む音が重なると、奥からキツネ目の笑顔がのぞいた。
私は、こんちは、と軽く会釈をした。そして、オレンジ色のランプがぼんやり灯る店内へ、つか/\と歩みを進めていつた。
お決まりの、一番奥の二人席で、カウンタア席に近い方に腰掛ける。それと同時にカウンタアへ向かつて、いつもの、お願いします、と声をかける。
「はーい、すぐ淹れるからね」
ニツコリとして、キツネ目の女はカウンタア席のど真ん中に突つ伏してゐた、クマのやうな男の頭を平手でピシヤリと叩いた。そして、カウンタアの向かう側の厨房へ、いそ/\と引つ込んだ。それは瞬きひとつ分のうちに起きたことである。
叩かれた男は、脳天の、毛が薄くなつた部分をさすり/\、
「おや、いらつしやい」
と言つて、あごが外れさうなくらい大きな欠伸をしながら、のそ/\と厨房へ入つていつた。
彼はこの《カツフエエ・パリス》の店主、藤村 修さんである。聞くところによれば、彼は若かりし頃、陸軍下士官であつたらしい。恰幅の良い身体はかつて、細身で引き締まつてゐたとかいふ。もはやさやうな面影は、微塵も感じられない。かと思ふと、時々、上まぶたの垂れ下がつた目に、クマをも射殺すやうな眼光を見る。身体は衰えたやもしれぬが、中身はまだ残つているやうだ。
彼をひつぱたいたキツネ目の女は、彼の妻、知恵子さんだ。彼女は夫より五つ上の姉さん女房で、二人はフランス・パリで偶然出会つたといふ。日本に帰国後、ほとんどすぐに結婚して修さんの夢だつたカフエエを開き、今に至るさうだ。
いかにも夢想家の好みさうな話ではあるが、現実主義者の私でも、かういふロマンスもあるもんだなア、と苦笑する。
ひとりホオルに残された私は、腐りかけたドアを開けたときから鼻孔をくすぐつてゐた芳香を、肺いつぱいに吸い込んだ。やはり、こゝが一番心穏やかにゐられる。何も考えずにゐられるのだ。
ちらり、と近くに置かれてゐる装飾品に目をやつた。見馴れてはゐるものゝ、いつも興味をそゝられる。
ホオルのあちらこちらに珈琲粉砕機や珈琲杯の他、エツフエル塔や凱旋門の置物や写真が、青白赤の三色旗と共に飾られてゐた。どれもこだわりのありさうな置き方である。
これらの装飾も店の名前も、藤村さん夫妻の原点に由来するのだらう。
ただ、店の名前の「カツフエエ」も「パリス」も、どちらも仏語ではなく、独語か英語の発音なのだ。その点がいさゝか不思議なのだが、《カツフエエ・パリス》といふ響きは良いので、まア、良いのだらう。
ところで、世に喫茶店、純喫茶、カフエエなどと呼ばれる、それ/゛\似たやうな店があるが、あらかた、喫茶店は酒を出さず、純喫茶も酒は出さないが女給がゐて、カフエエは酒も出すし女給がゐる、といつた風である。
この《カツフエエ・パリス》はその中のカフエエにあたる。もつとも、この店の「女給」は、他のカフエエにあるやうないかゞはしいサアビスはしてゐないし、たつたひとりしかゐないが。
「あら、いらつしやい!今日は少し遅かつたんぢやない?」
おまちどおさま、と言つて海色の珈琲杯を置いたのは、この店の女給・水原 幸子だつた。
「いらつしやい」
錆びたベルの澄んだ音に古びて摩り減つたドアの軋む音が重なると、奥からキツネ目の笑顔がのぞいた。
私は、こんちは、と軽く会釈をした。そして、オレンジ色のランプがぼんやり灯る店内へ、つか/\と歩みを進めていつた。
お決まりの、一番奥の二人席で、カウンタア席に近い方に腰掛ける。それと同時にカウンタアへ向かつて、いつもの、お願いします、と声をかける。
「はーい、すぐ淹れるからね」
ニツコリとして、キツネ目の女はカウンタア席のど真ん中に突つ伏してゐた、クマのやうな男の頭を平手でピシヤリと叩いた。そして、カウンタアの向かう側の厨房へ、いそ/\と引つ込んだ。それは瞬きひとつ分のうちに起きたことである。
叩かれた男は、脳天の、毛が薄くなつた部分をさすり/\、
「おや、いらつしやい」
と言つて、あごが外れさうなくらい大きな欠伸をしながら、のそ/\と厨房へ入つていつた。
彼はこの《カツフエエ・パリス》の店主、藤村 修さんである。聞くところによれば、彼は若かりし頃、陸軍下士官であつたらしい。恰幅の良い身体はかつて、細身で引き締まつてゐたとかいふ。もはやさやうな面影は、微塵も感じられない。かと思ふと、時々、上まぶたの垂れ下がつた目に、クマをも射殺すやうな眼光を見る。身体は衰えたやもしれぬが、中身はまだ残つているやうだ。
彼をひつぱたいたキツネ目の女は、彼の妻、知恵子さんだ。彼女は夫より五つ上の姉さん女房で、二人はフランス・パリで偶然出会つたといふ。日本に帰国後、ほとんどすぐに結婚して修さんの夢だつたカフエエを開き、今に至るさうだ。
いかにも夢想家の好みさうな話ではあるが、現実主義者の私でも、かういふロマンスもあるもんだなア、と苦笑する。
ひとりホオルに残された私は、腐りかけたドアを開けたときから鼻孔をくすぐつてゐた芳香を、肺いつぱいに吸い込んだ。やはり、こゝが一番心穏やかにゐられる。何も考えずにゐられるのだ。
ちらり、と近くに置かれてゐる装飾品に目をやつた。見馴れてはゐるものゝ、いつも興味をそゝられる。
ホオルのあちらこちらに珈琲粉砕機や珈琲杯の他、エツフエル塔や凱旋門の置物や写真が、青白赤の三色旗と共に飾られてゐた。どれもこだわりのありさうな置き方である。
これらの装飾も店の名前も、藤村さん夫妻の原点に由来するのだらう。
ただ、店の名前の「カツフエエ」も「パリス」も、どちらも仏語ではなく、独語か英語の発音なのだ。その点がいさゝか不思議なのだが、《カツフエエ・パリス》といふ響きは良いので、まア、良いのだらう。
ところで、世に喫茶店、純喫茶、カフエエなどと呼ばれる、それ/゛\似たやうな店があるが、あらかた、喫茶店は酒を出さず、純喫茶も酒は出さないが女給がゐて、カフエエは酒も出すし女給がゐる、といつた風である。
この《カツフエエ・パリス》はその中のカフエエにあたる。もつとも、この店の「女給」は、他のカフエエにあるやうないかゞはしいサアビスはしてゐないし、たつたひとりしかゐないが。
「あら、いらつしやい!今日は少し遅かつたんぢやない?」
おまちどおさま、と言つて海色の珈琲杯を置いたのは、この店の女給・水原 幸子だつた。
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