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Ⅰ.革靴
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暮れ方、僕はいつもの電車のいつもの車両に揺られ、いつもの駅で降りていつもの自販機でいつもの缶ジュースを買い、いつもの通勤路、堤防の上を歩いていた。街の喧騒から離れたこの堤防は、唯一、何も考えなくて済む場所だった。蒲色の川の濁ったにおいの中に、河川敷で練習する野球少年たちの声。なんとなく懐かしかった。けれども僕はただ、ふらふらと歩いていた。
この感覚はなぜだ。僕の革靴だけが歩いてゆく。底のつま先のほうだけ擦れていたはずなのに、靴底全部、擦れてきた。
おいおい、革靴君よ、いったいどこへゆくんだね。そちらにはもう用はないんだよ。
僕の制止なんか無視して、コンクリートの階段を降り、左に曲がり右に曲がり、左に右に右に曲がってゆく。僕自身に歩く意思がないから、靴の底は大根おろしのように繊維が立ちながらどんどん削れてゆく。仕舞いには踵と月形芯が離れて、甲革から靴底が剥がれ、とうとう靴底がすべて取れて、足跡のように後ろに残された。
革靴は底を失ってもなお、前へ前へ進んでゆくものだから、靴下の足の裏が擦れてきて、足の裏の皮膚がむけて肉までおろされ、骨も削られはじめた。振り返って見てみると、まるで殺人現場から死体を引きずってきたかのような有様だった。一瞬、地面に敷かれた二本の猩々緋のベルトが、ぐにゃりと動いたように見えた。
まさかね、気のせいだろう。
痛みは感じない。ただ、なんだかふわふわ浮いているかのようだ。もう僕は死んでいるのだろうか、と、茜色に輝くアスファルトを振り返って見ながら思った。
するとふいに、革靴が足を止めた。俺の足はすでにふくらはぎまでしかなかったから、あやうくバランスを崩してつんのめりそうになった。なんとかバランスを保ち、前を向いてみると、見覚えのある壁の前に立っていた。そこは昨日まで俺が棲み処としていたところだった。
窓から中の様子が見える。丸みのある滑らかな曲線を描いた影に、角ばった岩のような影が絡みつきながら静かに覆いかぶさる。別の窓から西日が差し込み、知らない卵型と昨日までのベース型の能面が浮かび上がった。その瞬間、後ろから頭と背中を鈍器で殴られたような衝撃が走った。
頭に血が上っているはずなのに、脳から心臓から、どんどん血が抜かれてゆく。掃除機で血が吸引されているような感じ。
背後に何かの気配を感じて振り返ると、深紅の狼が唸っていた。光沢のある鬣に、血が固まったような色の目でこちらを睨んでいた。
違う、俺を見ているんじゃない。窓の中…
薄れゆく意識の中で僕が最後に見たのは、二つの影を切り裂く深紅の影と、元のままの黒いアスファルトだった。
この感覚はなぜだ。僕の革靴だけが歩いてゆく。底のつま先のほうだけ擦れていたはずなのに、靴底全部、擦れてきた。
おいおい、革靴君よ、いったいどこへゆくんだね。そちらにはもう用はないんだよ。
僕の制止なんか無視して、コンクリートの階段を降り、左に曲がり右に曲がり、左に右に右に曲がってゆく。僕自身に歩く意思がないから、靴の底は大根おろしのように繊維が立ちながらどんどん削れてゆく。仕舞いには踵と月形芯が離れて、甲革から靴底が剥がれ、とうとう靴底がすべて取れて、足跡のように後ろに残された。
革靴は底を失ってもなお、前へ前へ進んでゆくものだから、靴下の足の裏が擦れてきて、足の裏の皮膚がむけて肉までおろされ、骨も削られはじめた。振り返って見てみると、まるで殺人現場から死体を引きずってきたかのような有様だった。一瞬、地面に敷かれた二本の猩々緋のベルトが、ぐにゃりと動いたように見えた。
まさかね、気のせいだろう。
痛みは感じない。ただ、なんだかふわふわ浮いているかのようだ。もう僕は死んでいるのだろうか、と、茜色に輝くアスファルトを振り返って見ながら思った。
するとふいに、革靴が足を止めた。俺の足はすでにふくらはぎまでしかなかったから、あやうくバランスを崩してつんのめりそうになった。なんとかバランスを保ち、前を向いてみると、見覚えのある壁の前に立っていた。そこは昨日まで俺が棲み処としていたところだった。
窓から中の様子が見える。丸みのある滑らかな曲線を描いた影に、角ばった岩のような影が絡みつきながら静かに覆いかぶさる。別の窓から西日が差し込み、知らない卵型と昨日までのベース型の能面が浮かび上がった。その瞬間、後ろから頭と背中を鈍器で殴られたような衝撃が走った。
頭に血が上っているはずなのに、脳から心臓から、どんどん血が抜かれてゆく。掃除機で血が吸引されているような感じ。
背後に何かの気配を感じて振り返ると、深紅の狼が唸っていた。光沢のある鬣に、血が固まったような色の目でこちらを睨んでいた。
違う、俺を見ているんじゃない。窓の中…
薄れゆく意識の中で僕が最後に見たのは、二つの影を切り裂く深紅の影と、元のままの黒いアスファルトだった。
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