人間に棲む狼

平倉義忠

文字の大きさ
上 下
1 / 3

Ⅰ.革靴

しおりを挟む
 暮れ方、僕はいつもの電車のいつもの車両に揺られ、いつもの駅で降りていつもの自販機でいつもの缶ジュースを買い、いつもの通勤路、堤防の上を歩いていた。街の喧騒から離れたこの堤防は、唯一、何も考えなくて済む場所だった。蒲色かばいろの川の濁ったにおいの中に、河川敷で練習する野球少年たちの声。なんとなく懐かしかった。けれども僕はただ、ふらふらと歩いていた。
 この感覚はなぜだ。僕の革靴だけが歩いてゆく。底のつま先のほうだけ擦れていたはずなのに、靴底全部、擦れてきた。
 おいおい、革靴君よ、いったいどこへゆくんだね。そちらにはもう用はないんだよ。
 僕の制止なんか無視して、コンクリートの階段を降り、左に曲がり右に曲がり、左に右に右に曲がってゆく。僕自身に歩く意思がないから、靴の底は大根おろしのように繊維が立ちながらどんどん削れてゆく。仕舞いにはヒール月形芯ヒールカーブが離れて、甲革アッパーから靴底ソールが剥がれ、とうとう靴底がすべて取れて、足跡のように後ろに残された。
 革靴は底を失ってもなお、前へ前へ進んでゆくものだから、靴下の足の裏が擦れてきて、足の裏の皮膚がむけて肉までおろされ、骨も削られはじめた。振り返って見てみると、まるで殺人現場から死体を引きずってきたかのような有様だった。一瞬、地面に敷かれた二本の猩々緋しょうじょうひのベルトが、ぐにゃりと動いたように見えた。
 まさかね、気のせいだろう。
 痛みは感じない。ただ、なんだかふわふわ浮いているかのようだ。もう僕は死んでいるのだろうか、と、茜色に輝くアスファルトを振り返って見ながら思った。
 するとふいに、革靴が足を止めた。俺の足はすでにふくらはぎまでしかなかったから、あやうくバランスを崩してつんのめりそうになった。なんとかバランスを保ち、前を向いてみると、見覚えのある壁の前に立っていた。そこは昨日まで俺が棲み処す かとしていたところだった。
 窓から中の様子が見える。丸みのある滑らかな曲線を描いた影に、角ばった岩のような影が絡みつきながら静かに覆いかぶさる。別の窓から西日が差し込み、知らない卵型と昨日までのベース型の能面が浮かび上がった。その瞬間、後ろから頭と背中を鈍器で殴られたような衝撃が走った。
 頭に血が上っているはずなのに、脳から心臓から、どんどん血が抜かれてゆく。掃除機で血が吸引されているような感じ。
 背後に何かの気配を感じて振り返ると、深紅の狼が唸っていた。光沢のあるたてがみに、血が固まったような色の目でこちらを睨んでいた。
 違う、俺を見ているんじゃない。窓の中…
 薄れゆく意識の中で僕が最後に見たのは、二つの影を切り裂く深紅の影と、元のままの黒いアスファルトだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

アイドルグループの裏の顔 新人アイドルの洗礼

甲乙夫
恋愛
清純な新人アイドルが、先輩アイドルから、強引に性的な責めを受ける話です。

淫らに、咲き乱れる

あるまん
恋愛
軽蔑してた、筈なのに。

【ショートショート】おやすみ

樹(いつき)@作品使用時は作者名明記必須
恋愛
◆こちらは声劇用台本になりますが普通に読んで頂いても癒される作品になっています。 声劇用だと1分半ほど、黙読だと1分ほどで読みきれる作品です。 ⚠動画・音声投稿サイトにご使用になる場合⚠ ・使用許可は不要ですが、自作発言や転載はもちろん禁止です。著作権は放棄しておりません。必ず作者名の樹(いつき)を記載して下さい。(何度注意しても作者名の記載が無い場合には台本使用を禁止します) ・語尾変更や方言などの多少のアレンジはokですが、大幅なアレンジや台本の世界観をぶち壊すようなアレンジやエフェクトなどはご遠慮願います。 その他の詳細は【作品を使用する際の注意点】をご覧下さい。

処理中です...