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6巻
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ミレーナ王女は、『ジルグスの至宝』として近隣諸国に知れ渡る有名な美姫だ。
また美しいだけでなく、聡明で慈愛に満ち、人を惹き付ける魅力を持つ、まさに女王となるべくして生まれた人、との評価を受けている。
もっとも、王国で起きた本人の暗殺未遂事件でミレーナ王女と関わったカイル達は、そんな彼女の裏の裏とも言うべき顔を知っているのだが。
ともかく、レモナス王が亡くなった今もまだ正式に王位には就いていないが、近いうちに女王になる、カイル達にとっても因縁浅からぬ相手だ。
「えっと……ミレーナ王女って、あのミレーナ王女だよね?」
「他にいたら俺としては嬉しいんだがなあ……」
リーゼの問いに、その事実が起こす問題を想像して頭痛を覚えたカイルは、額に指を当てながら答えた。
「……なあ、何故ミレーナ王女が帝都にいるんだ? 何かの間違いじゃないのか?」
何とか復活したカイルが藁にも縋る思いでミナギに訊くが、彼女は無情にも首を横に振る。
「どうやらエルドランド皇子と会談するために帝都を訪れていたらしいの。目的は両国の親善のようだけど……近衛騎士や兵を最低でも千人単位で引き連れてきたみたいで、彼女達には一区画がまるごとが貸し出されているわ。で、会談当日の朝にエルドランド皇子が急死したものだから、当然会談は中止。本来なら帰国しているはずだけど、安全を確保できないとの理由で足止めを食らっているわ」
「帝国側が帰さないのか? となると……」
「ええ、勿論それはただの名目で……疑っているのでしょうね、暗殺に関与しているかどうかを」
ミナギが少し呆れを込めて言った。
「ほんとに頭が痛くなってきたな」
カイルからしてみれば、馬鹿な、と一蹴するような話だ。
現在の情勢で、ジルグス国からガルガン帝国に争いを仕掛けても何ら得るものはない。万一ジルグス国の仕業だとしても、ミレーナ王女が滞在しているときに仕掛けるなど百害あって一利なし。少し考えれば解る話だが、その少しの考えを持てない者がいるのだろう。
「ジルグス国側もそれが解っているので、ほぼ立て籠ってるような感じね……ちょっと覗いたけど、ジルグスの近衛騎士なんか、本来警備であるはずの帝国兵と目も合わせようとしなかった」
一触即発だったわ、とミナギは肩をすくめる。
「なるほど……確かに火種だ。それもとびっきりのな。扱い方によっては両国間の戦争になりかねん」
今度こそ幻覚でなく本当に頭痛がしてきたカイルは、眉間部分を指で揉みほぐした。
ジルグス国とガルガン帝国の関係は以前からずっと良好とは言えず、約三年前には戦争寸前までいったことがある。現在は何とか小康状態といったところだが、ここから一気に悪化する可能性もあった。
ガルガン帝国は人族の中で最大勢力を誇る国家だが、ジルグス国もそれに負けない有数の大国であり、もし戦争となれば被害は甚大なものとなるだろう。
「帝都の大体の状況は解った。これからどうするかだな」
報告をあらかた聞いたカイルは、腕を組んで考え込んだ。
何よりも避けたいのは、このまま帝国が内戦に突入すること。
本来の歴史では、ベネディクスは死の間際にマイザーを後継者と指名。これを不服としたコンラートとその支援についた勢力が反旗を翻し、内戦になる。これが一年近く続いた後、マイザーが勝利し、帝位に就くのである。
内戦で疲弊した帝国を立て直そうとしたマイザーだったが、国力が充分回復しないうちに魔族の『大侵攻』が始まってしまい、それが人族が滅亡寸前にまで追い込まれる遠因になる。
そして現状はその流れに沿っていて、最悪の場合ジルグス国との戦争にもなりかねない。
(あの歴史を繰り返すわけにはいかない。だが内戦を抑えるにはどうすればいい?)
カイルとしてはマイザーに皇帝になってほしいが、それが叶わなくともとにかく内戦は起こさないようにする。それがカイルの第一目標だった。
「……とにかくもっと詳しくて正確な情報を知りたいな。できれば国の中枢にいる人物から」
どのように動くにしても、まずは各自の立場や思惑、目的を知らなければならない。
「それがいいわね。問題は誰に会うかだけど……」
ミナギも頭を捻るが、思い浮かばないようだ。
当事者であるコンラートやマイザーにいきなり会うのは、おそらく無理だ。誰が味方で誰が敵か解らないこの状況では、一応顔を合わせたことのある当人達はともかく、疑心暗鬼に陥った周りから問答無用で敵とみなされる危険性がある。
「一番妥当なのはまずベアドーラかコロデスに会うことでしょう。お父様もこの二人は公私ともに信頼しております」
アンジェラが名を挙げたどちらも、皇族を除けば帝国の最上位にいる重鎮。長年帝国を支えてきた屋台骨であるこの二人なら、情報にも詳しいはずだ。
「その二人のうち、会うとするならベアドーラだな、面識もあるし……問題はどうやって会うかだ。できれば目立つのはまだ避けたい」
アンジェラの名前を出せば会うことは容易だが、それでは人目を引いて動きにくくなるし、狙われる可能性もある。後々は派手にカイルの存在を示す必要性も出てくるだろうが、どういう状況か解るまでは危険を避けて、秘密裏に接触したい。
だが帝国の重鎮に会うとなるとそう簡単にはいかないし、状況が状況だ。ベアドーラも警戒していることだろう。
「ここで考えていても仕方ないだろ、とりあえずベアドーラの家にでも行ってみないか。運がよければ、出入りしているところで会えるかもしれないだろ?」
考えるよりもまず行動、が信条のセランがそんな提案をする。
「……確かに今はそれくらいしかないかな。このまま籠っていても仕方ない」
目立つのは避けたいが、このまま無為に時間を経過させるのはもっと避けたい。現在他に打つ手はないので、カイル達は帝都の様子見も兼ねて行動を起こすことにしたのだった。
国中に顔が知られていることと本人の安全のために、アンジェラ皇女は留守番として別行動することとなった。
また半年前の武術祭で準優勝し、その後も活躍を続けて顔が売れているカイルも変装しておく。変装といっても、全身を覆う外套を着て頭にもフードを被り、ひと目で誰か解らなくする程度だが。
これも怪しいといえば怪しい姿ながら、この変装で大事なのは剣を持てることにある。不意の戦いに備えることが重要なのだ。
(常在戦場……とまでは言わないが、常に戦う準備はしておかないとな)
カイルの脳裏には、丸腰で魔族のユーリガと突発的な戦いになったときのことが思い出されていた。
「いいか、くれぐれも目立つような真似はしないでくれよ。常に冷静さを心がけてくれ」
商会の建物から出ようというとき、先頭のカイルが振り向いて皆に注意を促した。
「解ってるって、心配性だな」
面倒そうに答えたセランに、本当に解ってるのかとばかりにカイルは更に念を押す。
「特にお前に対して言ってるんだぞ、本当に気を付けろよ」
現在はまだ正式に外出禁止と定められているわけではないので、出歩くこと自体は問題ないものの、自然と外出は控えるようになっており、商会前の目抜き通りにも人通りは少ない。妙に殺気だった見回りの衛兵も多く、そんな中で目立つ真似をしての揉め事は避けねばならない。
「まったく……行くぞ」
カイルがフードを目深に被り直し、店から一歩踏み出した、まさにそのときだった。
「おや? カイルじゃないか?」
店の前を歩いていた通行人の一人から、驚きを含んでいながらも穏やかな声がかけられた。
「うえっ!?」
妙に心に響く聞き覚えのある声に、カイルは思わず注目を浴びてしまうような間の抜けた声を上げた。振り向いたカイルの視線の先にいた男は、親しげな笑みを見せながらカイルに歩み寄ってくる。
「こんなところで会うなんて偶然だな。元気そうで何よりだ」
「え、あ……いや、人違い……じゃなくて、えっと!」
だがカイルの方は咄嗟にまともな返事もできず、慌てふためきながら相手の顔を見ることしかできない。
これといった特徴のない中年男性だが、確かに会った覚えはある。敵意を感じないし、何故か味方だとも思えるが、素性が解らない以上どう反応すればいいのか戸惑ってしまう。
「ロエールおじさん!?」
いつになく混乱しているカイルに代わり、驚きの声を上げたのは背後にいたリーゼだった。
「……………親父?」
その名を聞いて、相手が自分の父であることをようやく思い出すカイルであった。
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「それにしてもリーゼちゃんもセラン君も一緒か。三人とも相変わらず仲がいいなあ」
出されたお茶を飲みながら、朗らかな声をかけてくるロエール。
店先であれ以上目立つわけにもいかなかったので、一行は一度店内に引っ込み、クラウスに頼んで商談用の部屋を空けてもらったのだった。
ロエールは落ち着いているというか、地元にいるのと全く変わらない。対照的に、対面に座るカイルはクッション性のある座り心地のいい椅子に腰掛けているはずなのに、どうにも落ち着かなかった。
(親父って昔っから影薄いんだよなあ……何でだろ?)
カイルは、この父親を母親とは違う意味で苦手に感じていた。別に嫌いではないし、むしろ父子仲はいいと自分でも思うが、時々何を考えているのか解らないことがある。それもあってか、ないがしろにしているつもりはないものの、よく父の存在そのものを忘れてしまうのだ。
故郷を離れて旅に出てから、自発的に思い出すことは一度もなかったなあ、とかなり薄情なことをカイルは考えていた。
「おいおい、何でここにいるんだよ?」
隣に座っているセランが肘で脇腹をつついてくるが、それを誰よりも知りたいのはカイルだ。
同じくカイルの隣に座っているリーゼの方はもう気を取り直したのか、故郷のことを尋ねたりしている。
「じゃあ皆元気なんだ」
「ああ、リマーゼは変わりないよ。君達の活躍を聞いて盛り上がったりしているねえ」
うんうんと頷きながら、ロエールはじっと息子の顔を見る。
「あのカイルがね……僕からしてみれば未だにまだ小さい頃の、それこそ歩くのもおぼつかないような子供の頃の印象が強いんだけど」
「そ、そんなことはないつもりだけど……」
しみじみと昔を懐かしむような顔になるロエールだったが、カイルの方は話の半分も頭に入ってこず、どこかよそよそしい。
「ところで、さっきのあの格好は目立たないようにするためかい? 有名になるのも大変なんだね」
「い、いやちょっと事情が……そ、それにしても、俺だってよく解ったね?」
先ほどの自分の格好を思い出したロエールに、カイルは引きつった表情を返す。まさかひと目で見破られるとは思っておらず、そのおかげで混乱状態になってしまったのだが。
「何を言ってるんだ、親子なんだから当然だろ」
解らない方がおかしい、と当然のようにロエールは言うが、子供が父親の存在そのものを記憶から消去していたとは夢にも思っていないようだ。
そんな父親から微妙に目を逸らしつつ、カイルはわざとらしい咳払いをする。
「こほん……色々と聞きたいことはあるけど、そもそも何で親父がルオスにいるんだよ?」
故郷リマーゼはジルグス国の中のみならず人族領全体でも辺境に位置し、ここルオスからはかなりの距離がある。ロエールの仕事は主に装飾品を作る細工師であるから、時折ジルグス国の王都マラッドに納品に行くことはあっても、このルオスまで来る理由がカイルには思い当たらないのだ。
「僕もセライアも帝国の、このルオスの出身だって言わなかったっけ? それで里帰りというわけでもないけど、二人して来ているんだよ」
「そう言えば聞いたことがあったっけ……ってちょっと待て、じゃあ、まさか母さんも?」
「二人」と聞いたカイルはつい大声を上げ、続けざまにその真意を問い質す。
「だって……母さん、妊娠中なんだろ?」
カイルに続く第二子を妊娠中のセライアが長距離を移動するのは、当然勧められることではない。
ここで、ロエールの朗らかな顔が初めて少し曇った。
「それがここに来た理由なんだ……実はセライアの体調がよくなくてね。難産になりそうなんだ」
ロエールの言葉に、カイルやリーゼ達の顔色が変わる。
「な……か、母さんは、母さんは大丈夫なのか!」
取り乱したカイルが思わず身を乗り出した。出産で命を落とすことは決して珍しくないのだ。
「ああ、問題はないよ。ただ大事をとってね、身重のセライアを動かすのはどうかと思ったけど、ここなら神聖魔法の使い手が多いから」
あくまで念のためだよ、と強調するロエール。
医療が発達していないこの世界で病気や怪我の治療に大きく貢献しているのが、神の力を借りて行使する神聖魔法であり、その中には死すら覆す魔法もあると言われている。出産の際にも大きな助けとなっていて、高位の神官がいればまず命を落とすことはない。
だが神聖魔法を使えるのは神に仕える神官のみ。彼らは大抵は大きな街の神殿におり、リマーゼのような辺境ではほとんどいないか、いても初歩の魔法しか使えないのだ。
「ここなら色々と伝手もある。だから迷ったけどセライアを連れてきたんだ」
「そ、それならいいんだけど……」
カイルは座り直し、落ち着くように呼吸を整える。
「できればカイルにも伝えたかったんだけど、どこにいるか解らなくてね……たまには連絡くらいよこしなさい。僕もセライアも心配していたんだから」
いつも静かに笑っている印象しかないロエールにしては珍しく非難めいた表情になり、カイルは言葉に詰まる。
「う……あ~……その、ごめん」
目を逸らし、指先で頬を掻きながら、カイルはバツが悪そうに言った。
カイルはこの口数が少なく穏やかな性格の父親に怒られたことなど、ほとんどなかった。だからこそたまに言われる苦笑混じりの苦言や忠告は、妙に心に響く。
「まあ、心配はしていなかったよ、噂は伝わっていたし……あまりにも荒唐無稽なのが多いけどね。魔族を倒して街を救ったとか、巨人を十匹まとめて倒したとか、ドラゴンを圧倒して従わせたとか……」
「うん、そこら辺は話半分で」
噂自体はカイルが意図的に流しているものが多いのだが、それに尾ひれがついているのだろう。
「とにかくセライアに会っていきなさい。喜ぶだろうし」
「いや、それは……」
ロエールは当然のように言ったが、カイルは即答できず考え込んでしまう。
今から、帝国の帝位継承問題に首を突っ込もうとしているのだ、万一にもこの両親を、特に身重のセライアを巻き込んでしまうのは避けたかったのだ。
「えっと、セライアさんは今どこにいるんです?」
カイルの悩みを見て取ったリーゼが、誤魔化すように口を挟んだ。
「ああ、今はベアドーラ様の屋敷に厄介になっているよ」
「ベ、ベアドーラ?」
思いがけず出てきた名前に、カイルが大きく反応した。セランとリーゼも思わず顔を見合わせている。
「セライアはベアドーラ様の弟子だからね。さっき言った伝手の一つだよ」
そんな驚くことじゃないよ、とロエールは笑いながら言うが、カイルとしてはそうもいかない。どうにかして会いたいと思っていたベアドーラに、思わぬところから繋がったのだから。
「ああ、何か予定があったのかい? ならその後でもいいけど……」
「えっと実は……そのベアドーラ宮廷魔道士に会いに行こうとしていたところなんだ」
迷った末、カイルは正直に言うことにした。両親がベアドーラの家にいるのなら、いずれ解ってしまう可能性は高い。
「何だ、それなら丁度よかったな。さあ行こう」
いいのかそれで、とカイルから言いたくなるくらいロエールは何も聞かず、急かすように立ち上がる。
こうしてカイルは、全く予想外に家族との再会を果たすことになったのだった。
ベアドーラの屋敷は帝国の重鎮に相応しい規模で、人の背の三倍はあろうかという塀に囲まれていた。
しかし場所は帝国貴族が住まう地区の中でも隅の方にあり、規模の割には人気もない。
「……それでも警備は厳重だな」
塀を見上げたカイルが呟いた。許可のない者は入れないよう、強力な警戒の魔法が張り巡らされていたためだ。
「だから忍び込めなかったのよね」
背後にいたミナギがため息混じりに答えた。ある意味で宮殿よりも警戒が強いこの屋敷に堂々と入れるならば、と付いてきたのだ。
かつて帝国のことを調べた際、魔法的な守りを乗り越えられず、この屋敷には潜入できなかったと彼女は言う。
「私もベアドーラの屋敷には入ったことはありませんでしたわ」
ロエールの話を聞いたアンジェラも、ベアドーラから直接話を聞きたいし、カイルの母親ならば是非会いたい、と付いてきていた。
カイルはできれば一人で来たかったのだが、結局押し切られ、おかげで全員が正体が解らないよう外套とフードという格好をしている。
確かに誰かは解らないものの明らかに怪しい集団である。人目を避けて移動してきたが、ここに来るまで一度も誰何されなかったのは運がよかったに過ぎない。
「こっちだよ」
そんな集団をまるで気にすることなく先導してきたロエールが、目立たない裏口から屋敷内に入り、カイル達もそれに続く。
ロエールはこの屋敷に自由に出入りできるよう、魔法に反応しなくなる護符を渡されており、これは同行者にも作用するとのことだ。
屋敷内に入ると、まず庭に出た。きちんと手入れされているが、遊び心がないとも言えるような簡素な出来で、それが館の主の性格を物語っていた。
本宅ではなく離れを借りているとのことなので、一行はそのまま庭を突っ切っていく。
「なんか……ここってあの書庫に雰囲気が似ているね」
離れを見て、日光に弱い本のために半地下状に造られたカイルの家の書庫を思い出したリーゼに、ロエールが笑いながら説明する。
「というか書庫そのものだよ。かつてセライアが住み込みの弟子だったときも、ここで暮らしていたんだ」
故郷でも書庫で一日の大半を過ごすほど本好きなセライアだ。妊婦にはあまり相応しくない場所かもしれないが、当人が落ち着くということで、ここを借りているらしい。
ロエールは地下への階段を下り、目の前に現れた木製の扉をノックする。そして中から返事があると、ゆっくりと開けた。
とても懐かしい返事の声に心がざわめいて緊張してきたカイルだったが、軽く深呼吸をして心を落ち着かせた後、ロエールに続いて室内に入る。
中にいたのは二人の女性。机を挟んで椅子に腰かけ、談笑していたようだ。
机の上には、乱雑に積まれた大量の本や無造作に並んだ羊皮紙の巻物、子供の頭ほどの大きさの水晶球などが所狭しと並んでおり、その光景はカイルに故郷の書庫の様子を連想させた。
そのうちの一人がこちらに気付くと、大きな声を上げる。
「ああ、お帰りなさ……まあ! カイルじゃない!」
その女性、カイルの母セライアは、驚いた後に満面の笑みで息子の名を呼んだ。
故郷を出てから約十月といったところだが、カイルから見たセライアの印象に大きな変化はない。
ただし、本を読むのに邪魔だからと短くしていた髪は伸びており、そして何より目立つのは、そのはち切れんばかりのお腹だった。
「元気にしていた? 怪我してない? こんなところで出会えるなんて!」
「ああ、動かないでいいから! じっとしてて!」
立ち上がり駆け寄ってきそうなセライアに、カイルの方から慌てて近づく。
「大げさね、すこしくらい動いた方が身体にいいのよ」
苦笑しつつも駆け寄るのをやめたセライアは、傍まで来たカイルにそっと抱き付く。
「……ちょっと背が伸びたみたいね?」
目尻を少し滲ませて、セライアは息子の胸に顔を埋めた。
「あんまり無茶はしないでね?」
「あ~……その……はい……」
色々と言いたいことがあったが、素直に返事をしてしまうカイルだった。
しばらく経った後で我に返ったカイルが振り向くと、皆がこちらを見ていた。
ロエールやリーゼ、ウルザは微笑ましそうでまだよかったが、アンジェラは意外そうな顔で、シルドニアやミナギは明らかに面白がっている。
セランに至っては絶対後でからかってやろうというニヤニヤした笑みを浮かべており、やはり一人で来ればよかったとカイルは悔やんだ。
また美しいだけでなく、聡明で慈愛に満ち、人を惹き付ける魅力を持つ、まさに女王となるべくして生まれた人、との評価を受けている。
もっとも、王国で起きた本人の暗殺未遂事件でミレーナ王女と関わったカイル達は、そんな彼女の裏の裏とも言うべき顔を知っているのだが。
ともかく、レモナス王が亡くなった今もまだ正式に王位には就いていないが、近いうちに女王になる、カイル達にとっても因縁浅からぬ相手だ。
「えっと……ミレーナ王女って、あのミレーナ王女だよね?」
「他にいたら俺としては嬉しいんだがなあ……」
リーゼの問いに、その事実が起こす問題を想像して頭痛を覚えたカイルは、額に指を当てながら答えた。
「……なあ、何故ミレーナ王女が帝都にいるんだ? 何かの間違いじゃないのか?」
何とか復活したカイルが藁にも縋る思いでミナギに訊くが、彼女は無情にも首を横に振る。
「どうやらエルドランド皇子と会談するために帝都を訪れていたらしいの。目的は両国の親善のようだけど……近衛騎士や兵を最低でも千人単位で引き連れてきたみたいで、彼女達には一区画がまるごとが貸し出されているわ。で、会談当日の朝にエルドランド皇子が急死したものだから、当然会談は中止。本来なら帰国しているはずだけど、安全を確保できないとの理由で足止めを食らっているわ」
「帝国側が帰さないのか? となると……」
「ええ、勿論それはただの名目で……疑っているのでしょうね、暗殺に関与しているかどうかを」
ミナギが少し呆れを込めて言った。
「ほんとに頭が痛くなってきたな」
カイルからしてみれば、馬鹿な、と一蹴するような話だ。
現在の情勢で、ジルグス国からガルガン帝国に争いを仕掛けても何ら得るものはない。万一ジルグス国の仕業だとしても、ミレーナ王女が滞在しているときに仕掛けるなど百害あって一利なし。少し考えれば解る話だが、その少しの考えを持てない者がいるのだろう。
「ジルグス国側もそれが解っているので、ほぼ立て籠ってるような感じね……ちょっと覗いたけど、ジルグスの近衛騎士なんか、本来警備であるはずの帝国兵と目も合わせようとしなかった」
一触即発だったわ、とミナギは肩をすくめる。
「なるほど……確かに火種だ。それもとびっきりのな。扱い方によっては両国間の戦争になりかねん」
今度こそ幻覚でなく本当に頭痛がしてきたカイルは、眉間部分を指で揉みほぐした。
ジルグス国とガルガン帝国の関係は以前からずっと良好とは言えず、約三年前には戦争寸前までいったことがある。現在は何とか小康状態といったところだが、ここから一気に悪化する可能性もあった。
ガルガン帝国は人族の中で最大勢力を誇る国家だが、ジルグス国もそれに負けない有数の大国であり、もし戦争となれば被害は甚大なものとなるだろう。
「帝都の大体の状況は解った。これからどうするかだな」
報告をあらかた聞いたカイルは、腕を組んで考え込んだ。
何よりも避けたいのは、このまま帝国が内戦に突入すること。
本来の歴史では、ベネディクスは死の間際にマイザーを後継者と指名。これを不服としたコンラートとその支援についた勢力が反旗を翻し、内戦になる。これが一年近く続いた後、マイザーが勝利し、帝位に就くのである。
内戦で疲弊した帝国を立て直そうとしたマイザーだったが、国力が充分回復しないうちに魔族の『大侵攻』が始まってしまい、それが人族が滅亡寸前にまで追い込まれる遠因になる。
そして現状はその流れに沿っていて、最悪の場合ジルグス国との戦争にもなりかねない。
(あの歴史を繰り返すわけにはいかない。だが内戦を抑えるにはどうすればいい?)
カイルとしてはマイザーに皇帝になってほしいが、それが叶わなくともとにかく内戦は起こさないようにする。それがカイルの第一目標だった。
「……とにかくもっと詳しくて正確な情報を知りたいな。できれば国の中枢にいる人物から」
どのように動くにしても、まずは各自の立場や思惑、目的を知らなければならない。
「それがいいわね。問題は誰に会うかだけど……」
ミナギも頭を捻るが、思い浮かばないようだ。
当事者であるコンラートやマイザーにいきなり会うのは、おそらく無理だ。誰が味方で誰が敵か解らないこの状況では、一応顔を合わせたことのある当人達はともかく、疑心暗鬼に陥った周りから問答無用で敵とみなされる危険性がある。
「一番妥当なのはまずベアドーラかコロデスに会うことでしょう。お父様もこの二人は公私ともに信頼しております」
アンジェラが名を挙げたどちらも、皇族を除けば帝国の最上位にいる重鎮。長年帝国を支えてきた屋台骨であるこの二人なら、情報にも詳しいはずだ。
「その二人のうち、会うとするならベアドーラだな、面識もあるし……問題はどうやって会うかだ。できれば目立つのはまだ避けたい」
アンジェラの名前を出せば会うことは容易だが、それでは人目を引いて動きにくくなるし、狙われる可能性もある。後々は派手にカイルの存在を示す必要性も出てくるだろうが、どういう状況か解るまでは危険を避けて、秘密裏に接触したい。
だが帝国の重鎮に会うとなるとそう簡単にはいかないし、状況が状況だ。ベアドーラも警戒していることだろう。
「ここで考えていても仕方ないだろ、とりあえずベアドーラの家にでも行ってみないか。運がよければ、出入りしているところで会えるかもしれないだろ?」
考えるよりもまず行動、が信条のセランがそんな提案をする。
「……確かに今はそれくらいしかないかな。このまま籠っていても仕方ない」
目立つのは避けたいが、このまま無為に時間を経過させるのはもっと避けたい。現在他に打つ手はないので、カイル達は帝都の様子見も兼ねて行動を起こすことにしたのだった。
国中に顔が知られていることと本人の安全のために、アンジェラ皇女は留守番として別行動することとなった。
また半年前の武術祭で準優勝し、その後も活躍を続けて顔が売れているカイルも変装しておく。変装といっても、全身を覆う外套を着て頭にもフードを被り、ひと目で誰か解らなくする程度だが。
これも怪しいといえば怪しい姿ながら、この変装で大事なのは剣を持てることにある。不意の戦いに備えることが重要なのだ。
(常在戦場……とまでは言わないが、常に戦う準備はしておかないとな)
カイルの脳裏には、丸腰で魔族のユーリガと突発的な戦いになったときのことが思い出されていた。
「いいか、くれぐれも目立つような真似はしないでくれよ。常に冷静さを心がけてくれ」
商会の建物から出ようというとき、先頭のカイルが振り向いて皆に注意を促した。
「解ってるって、心配性だな」
面倒そうに答えたセランに、本当に解ってるのかとばかりにカイルは更に念を押す。
「特にお前に対して言ってるんだぞ、本当に気を付けろよ」
現在はまだ正式に外出禁止と定められているわけではないので、出歩くこと自体は問題ないものの、自然と外出は控えるようになっており、商会前の目抜き通りにも人通りは少ない。妙に殺気だった見回りの衛兵も多く、そんな中で目立つ真似をしての揉め事は避けねばならない。
「まったく……行くぞ」
カイルがフードを目深に被り直し、店から一歩踏み出した、まさにそのときだった。
「おや? カイルじゃないか?」
店の前を歩いていた通行人の一人から、驚きを含んでいながらも穏やかな声がかけられた。
「うえっ!?」
妙に心に響く聞き覚えのある声に、カイルは思わず注目を浴びてしまうような間の抜けた声を上げた。振り向いたカイルの視線の先にいた男は、親しげな笑みを見せながらカイルに歩み寄ってくる。
「こんなところで会うなんて偶然だな。元気そうで何よりだ」
「え、あ……いや、人違い……じゃなくて、えっと!」
だがカイルの方は咄嗟にまともな返事もできず、慌てふためきながら相手の顔を見ることしかできない。
これといった特徴のない中年男性だが、確かに会った覚えはある。敵意を感じないし、何故か味方だとも思えるが、素性が解らない以上どう反応すればいいのか戸惑ってしまう。
「ロエールおじさん!?」
いつになく混乱しているカイルに代わり、驚きの声を上げたのは背後にいたリーゼだった。
「……………親父?」
その名を聞いて、相手が自分の父であることをようやく思い出すカイルであった。
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「それにしてもリーゼちゃんもセラン君も一緒か。三人とも相変わらず仲がいいなあ」
出されたお茶を飲みながら、朗らかな声をかけてくるロエール。
店先であれ以上目立つわけにもいかなかったので、一行は一度店内に引っ込み、クラウスに頼んで商談用の部屋を空けてもらったのだった。
ロエールは落ち着いているというか、地元にいるのと全く変わらない。対照的に、対面に座るカイルはクッション性のある座り心地のいい椅子に腰掛けているはずなのに、どうにも落ち着かなかった。
(親父って昔っから影薄いんだよなあ……何でだろ?)
カイルは、この父親を母親とは違う意味で苦手に感じていた。別に嫌いではないし、むしろ父子仲はいいと自分でも思うが、時々何を考えているのか解らないことがある。それもあってか、ないがしろにしているつもりはないものの、よく父の存在そのものを忘れてしまうのだ。
故郷を離れて旅に出てから、自発的に思い出すことは一度もなかったなあ、とかなり薄情なことをカイルは考えていた。
「おいおい、何でここにいるんだよ?」
隣に座っているセランが肘で脇腹をつついてくるが、それを誰よりも知りたいのはカイルだ。
同じくカイルの隣に座っているリーゼの方はもう気を取り直したのか、故郷のことを尋ねたりしている。
「じゃあ皆元気なんだ」
「ああ、リマーゼは変わりないよ。君達の活躍を聞いて盛り上がったりしているねえ」
うんうんと頷きながら、ロエールはじっと息子の顔を見る。
「あのカイルがね……僕からしてみれば未だにまだ小さい頃の、それこそ歩くのもおぼつかないような子供の頃の印象が強いんだけど」
「そ、そんなことはないつもりだけど……」
しみじみと昔を懐かしむような顔になるロエールだったが、カイルの方は話の半分も頭に入ってこず、どこかよそよそしい。
「ところで、さっきのあの格好は目立たないようにするためかい? 有名になるのも大変なんだね」
「い、いやちょっと事情が……そ、それにしても、俺だってよく解ったね?」
先ほどの自分の格好を思い出したロエールに、カイルは引きつった表情を返す。まさかひと目で見破られるとは思っておらず、そのおかげで混乱状態になってしまったのだが。
「何を言ってるんだ、親子なんだから当然だろ」
解らない方がおかしい、と当然のようにロエールは言うが、子供が父親の存在そのものを記憶から消去していたとは夢にも思っていないようだ。
そんな父親から微妙に目を逸らしつつ、カイルはわざとらしい咳払いをする。
「こほん……色々と聞きたいことはあるけど、そもそも何で親父がルオスにいるんだよ?」
故郷リマーゼはジルグス国の中のみならず人族領全体でも辺境に位置し、ここルオスからはかなりの距離がある。ロエールの仕事は主に装飾品を作る細工師であるから、時折ジルグス国の王都マラッドに納品に行くことはあっても、このルオスまで来る理由がカイルには思い当たらないのだ。
「僕もセライアも帝国の、このルオスの出身だって言わなかったっけ? それで里帰りというわけでもないけど、二人して来ているんだよ」
「そう言えば聞いたことがあったっけ……ってちょっと待て、じゃあ、まさか母さんも?」
「二人」と聞いたカイルはつい大声を上げ、続けざまにその真意を問い質す。
「だって……母さん、妊娠中なんだろ?」
カイルに続く第二子を妊娠中のセライアが長距離を移動するのは、当然勧められることではない。
ここで、ロエールの朗らかな顔が初めて少し曇った。
「それがここに来た理由なんだ……実はセライアの体調がよくなくてね。難産になりそうなんだ」
ロエールの言葉に、カイルやリーゼ達の顔色が変わる。
「な……か、母さんは、母さんは大丈夫なのか!」
取り乱したカイルが思わず身を乗り出した。出産で命を落とすことは決して珍しくないのだ。
「ああ、問題はないよ。ただ大事をとってね、身重のセライアを動かすのはどうかと思ったけど、ここなら神聖魔法の使い手が多いから」
あくまで念のためだよ、と強調するロエール。
医療が発達していないこの世界で病気や怪我の治療に大きく貢献しているのが、神の力を借りて行使する神聖魔法であり、その中には死すら覆す魔法もあると言われている。出産の際にも大きな助けとなっていて、高位の神官がいればまず命を落とすことはない。
だが神聖魔法を使えるのは神に仕える神官のみ。彼らは大抵は大きな街の神殿におり、リマーゼのような辺境ではほとんどいないか、いても初歩の魔法しか使えないのだ。
「ここなら色々と伝手もある。だから迷ったけどセライアを連れてきたんだ」
「そ、それならいいんだけど……」
カイルは座り直し、落ち着くように呼吸を整える。
「できればカイルにも伝えたかったんだけど、どこにいるか解らなくてね……たまには連絡くらいよこしなさい。僕もセライアも心配していたんだから」
いつも静かに笑っている印象しかないロエールにしては珍しく非難めいた表情になり、カイルは言葉に詰まる。
「う……あ~……その、ごめん」
目を逸らし、指先で頬を掻きながら、カイルはバツが悪そうに言った。
カイルはこの口数が少なく穏やかな性格の父親に怒られたことなど、ほとんどなかった。だからこそたまに言われる苦笑混じりの苦言や忠告は、妙に心に響く。
「まあ、心配はしていなかったよ、噂は伝わっていたし……あまりにも荒唐無稽なのが多いけどね。魔族を倒して街を救ったとか、巨人を十匹まとめて倒したとか、ドラゴンを圧倒して従わせたとか……」
「うん、そこら辺は話半分で」
噂自体はカイルが意図的に流しているものが多いのだが、それに尾ひれがついているのだろう。
「とにかくセライアに会っていきなさい。喜ぶだろうし」
「いや、それは……」
ロエールは当然のように言ったが、カイルは即答できず考え込んでしまう。
今から、帝国の帝位継承問題に首を突っ込もうとしているのだ、万一にもこの両親を、特に身重のセライアを巻き込んでしまうのは避けたかったのだ。
「えっと、セライアさんは今どこにいるんです?」
カイルの悩みを見て取ったリーゼが、誤魔化すように口を挟んだ。
「ああ、今はベアドーラ様の屋敷に厄介になっているよ」
「ベ、ベアドーラ?」
思いがけず出てきた名前に、カイルが大きく反応した。セランとリーゼも思わず顔を見合わせている。
「セライアはベアドーラ様の弟子だからね。さっき言った伝手の一つだよ」
そんな驚くことじゃないよ、とロエールは笑いながら言うが、カイルとしてはそうもいかない。どうにかして会いたいと思っていたベアドーラに、思わぬところから繋がったのだから。
「ああ、何か予定があったのかい? ならその後でもいいけど……」
「えっと実は……そのベアドーラ宮廷魔道士に会いに行こうとしていたところなんだ」
迷った末、カイルは正直に言うことにした。両親がベアドーラの家にいるのなら、いずれ解ってしまう可能性は高い。
「何だ、それなら丁度よかったな。さあ行こう」
いいのかそれで、とカイルから言いたくなるくらいロエールは何も聞かず、急かすように立ち上がる。
こうしてカイルは、全く予想外に家族との再会を果たすことになったのだった。
ベアドーラの屋敷は帝国の重鎮に相応しい規模で、人の背の三倍はあろうかという塀に囲まれていた。
しかし場所は帝国貴族が住まう地区の中でも隅の方にあり、規模の割には人気もない。
「……それでも警備は厳重だな」
塀を見上げたカイルが呟いた。許可のない者は入れないよう、強力な警戒の魔法が張り巡らされていたためだ。
「だから忍び込めなかったのよね」
背後にいたミナギがため息混じりに答えた。ある意味で宮殿よりも警戒が強いこの屋敷に堂々と入れるならば、と付いてきたのだ。
かつて帝国のことを調べた際、魔法的な守りを乗り越えられず、この屋敷には潜入できなかったと彼女は言う。
「私もベアドーラの屋敷には入ったことはありませんでしたわ」
ロエールの話を聞いたアンジェラも、ベアドーラから直接話を聞きたいし、カイルの母親ならば是非会いたい、と付いてきていた。
カイルはできれば一人で来たかったのだが、結局押し切られ、おかげで全員が正体が解らないよう外套とフードという格好をしている。
確かに誰かは解らないものの明らかに怪しい集団である。人目を避けて移動してきたが、ここに来るまで一度も誰何されなかったのは運がよかったに過ぎない。
「こっちだよ」
そんな集団をまるで気にすることなく先導してきたロエールが、目立たない裏口から屋敷内に入り、カイル達もそれに続く。
ロエールはこの屋敷に自由に出入りできるよう、魔法に反応しなくなる護符を渡されており、これは同行者にも作用するとのことだ。
屋敷内に入ると、まず庭に出た。きちんと手入れされているが、遊び心がないとも言えるような簡素な出来で、それが館の主の性格を物語っていた。
本宅ではなく離れを借りているとのことなので、一行はそのまま庭を突っ切っていく。
「なんか……ここってあの書庫に雰囲気が似ているね」
離れを見て、日光に弱い本のために半地下状に造られたカイルの家の書庫を思い出したリーゼに、ロエールが笑いながら説明する。
「というか書庫そのものだよ。かつてセライアが住み込みの弟子だったときも、ここで暮らしていたんだ」
故郷でも書庫で一日の大半を過ごすほど本好きなセライアだ。妊婦にはあまり相応しくない場所かもしれないが、当人が落ち着くということで、ここを借りているらしい。
ロエールは地下への階段を下り、目の前に現れた木製の扉をノックする。そして中から返事があると、ゆっくりと開けた。
とても懐かしい返事の声に心がざわめいて緊張してきたカイルだったが、軽く深呼吸をして心を落ち着かせた後、ロエールに続いて室内に入る。
中にいたのは二人の女性。机を挟んで椅子に腰かけ、談笑していたようだ。
机の上には、乱雑に積まれた大量の本や無造作に並んだ羊皮紙の巻物、子供の頭ほどの大きさの水晶球などが所狭しと並んでおり、その光景はカイルに故郷の書庫の様子を連想させた。
そのうちの一人がこちらに気付くと、大きな声を上げる。
「ああ、お帰りなさ……まあ! カイルじゃない!」
その女性、カイルの母セライアは、驚いた後に満面の笑みで息子の名を呼んだ。
故郷を出てから約十月といったところだが、カイルから見たセライアの印象に大きな変化はない。
ただし、本を読むのに邪魔だからと短くしていた髪は伸びており、そして何より目立つのは、そのはち切れんばかりのお腹だった。
「元気にしていた? 怪我してない? こんなところで出会えるなんて!」
「ああ、動かないでいいから! じっとしてて!」
立ち上がり駆け寄ってきそうなセライアに、カイルの方から慌てて近づく。
「大げさね、すこしくらい動いた方が身体にいいのよ」
苦笑しつつも駆け寄るのをやめたセライアは、傍まで来たカイルにそっと抱き付く。
「……ちょっと背が伸びたみたいね?」
目尻を少し滲ませて、セライアは息子の胸に顔を埋めた。
「あんまり無茶はしないでね?」
「あ~……その……はい……」
色々と言いたいことがあったが、素直に返事をしてしまうカイルだった。
しばらく経った後で我に返ったカイルが振り向くと、皆がこちらを見ていた。
ロエールやリーゼ、ウルザは微笑ましそうでまだよかったが、アンジェラは意外そうな顔で、シルドニアやミナギは明らかに面白がっている。
セランに至っては絶対後でからかってやろうというニヤニヤした笑みを浮かべており、やはり一人で来ればよかったとカイルは悔やんだ。
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