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九
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「そうか。戸川殿は主の元に戻るのか」
「はい。殿から頼まれまして。今は心を許せる者が一人でも欲しいと」
「それはよかったな」
関の言葉に、文次朗は笑みを浮かべた。
初夏の強い日差しが周囲を包みこむ。
空には雲一つなく、すでに盛夏を思わせる暑さが江戸の町を包みこんでいる。角の商家では、手代が打ち水をしている。
「戸川殿は迷っていたようだったからな。声がかかったのは幸いだった」
浅草での争いから一月が経った。
幸い斬り合いの件は、大きな騒ぎにならずにすんだ。浅草の外れで見ている者がほとんどいなかったことに加え、侍が大人数で戦ったという事実が現実離れいて信じる者が少なかったためである。
由蔵が動いて、呉服問屋の醜聞をばらまいてくれたのも大きかった。彼が先手を打ってくれたおかげで、人目をそらすことができた。
今回、由蔵は文次朗のためによく働いてくれた。
敵を人目につかない浅草の北に引っ張り出すことができたのも、彼が噂をばらまいてくれたおかげだ。
また米倉家の家臣がどのような悪事を働いているか調べたのも、彼だった。例の膨大な書付から必要な事柄を見つけ出し、他のと組み合わせて、何が起きているかあぶり出した。それは正確で、家中の誰と誰が結びついていて、どこで動いているか一目でつかむことができた。
文次朗だけならば、解決までもっと時間がかかっていたはずで、関や戸川を守ることができなかったかもしれない。その点については素直に感謝している。
「いつか礼を言わんとな」
「何か」
「いや、なんでもない。こちらの話だ」
文次朗は手を振って、話を戻した。
「これから米倉家は揺れる。事の次第を知っている者が一人でもいるのはよい」
「西国に行くという話もあったんですがね。あれでよかったと私も思っていますよ」
「おぬしは戻らぬのか。声はかかったのであろう」
「断りました。手前は、こうして江戸で生きているのがちょうどいいかと」
関は小さく笑う。その表情にこれまでのような影はない。明らかに吹っ切れていた。
「この争いで、つくづく侍でいることが嫌になりました。戻っても、また息苦しい日々がつづくだけですからね。なら、無理することはないかと」
「そうか」
「幸い、知り合いが店を出さないかって言ってくれているので、それに乗ろうかと思っています。手伝ってくれる者もいますしね」
以前、世話になっている女がいると語っていた。そのあたりも江戸から離れたくない理由なのかもしれない。
「まあ、おぬしが幸せであれば、それでいいさ」
「平野様はこの先どうするので」
「さあ、どこぞの養子になるか、それとも御役目をいただくか。そのあたりで何とかしないとな」
「堅苦しい世界ですよ。いろいろと気をつかいますし」
「それでも部屋住みでいるよりはいい。兄上に気をつかわせるわけにもいかぬ」
生きていくためには、いろいろと気をつかう。思ったようにはいかない。
「まあその前に食い扶持を何とかしなければならぬが」
「でしたら、うちで一つ書いていただけませぬか」
「うわ、なんだ」
突然の声に振り向くと、老人が彼の隣に腰かけようとしていた。その目は爛々と輝いている。
「おぬし、九郎左衛門か。いつ来た」
「いつでもよいではありませんか。それよりも聞きましたよ。格好のネタを手に入れたとか」
久右衛門は口元を歪めた。邪悪な鬼のような笑みだ。
「ねじれた敵討ちの末に広がる御家騒動。義をつらぬく家臣や若き姫も巻きこんでの大立ち回り。いいじゃないですか。ぜひ書いてくださいよ」
「何を言っている。そんなことは知らん。知らないぞ。いったい、どこで聞いた」
「親しくしている古本屋からですよ。平野様が大騒動に巻きこまれて、大手柄だったと。詳しく聞いたら、とんでもなくおもしろそうではありませんか。ならば、これを逃す手はないと」
「あ、くそっ。あいつか」
世話になったので、由蔵には事の次第をすべて話していた。
聞いている時は、興味なさげであったが、まさかいきなり久右衛門に伝えるとは。しかも、適当に話をふくらませて。
感謝したこちらが馬鹿だった。あの悪徳古本屋め。
「私は書かん。書かないぞ」
「無論、そのままとは言いません。うまくごまかしてやってくだされば、それで」
「知らぬ知らぬ」
文次朗はそそくさと屋台を離れる。その後を久右衛門が追う。
まったくどうしてこうなるのか。
戯作者になるつもりなんて、まったくないのに。
「はい。殿から頼まれまして。今は心を許せる者が一人でも欲しいと」
「それはよかったな」
関の言葉に、文次朗は笑みを浮かべた。
初夏の強い日差しが周囲を包みこむ。
空には雲一つなく、すでに盛夏を思わせる暑さが江戸の町を包みこんでいる。角の商家では、手代が打ち水をしている。
「戸川殿は迷っていたようだったからな。声がかかったのは幸いだった」
浅草での争いから一月が経った。
幸い斬り合いの件は、大きな騒ぎにならずにすんだ。浅草の外れで見ている者がほとんどいなかったことに加え、侍が大人数で戦ったという事実が現実離れいて信じる者が少なかったためである。
由蔵が動いて、呉服問屋の醜聞をばらまいてくれたのも大きかった。彼が先手を打ってくれたおかげで、人目をそらすことができた。
今回、由蔵は文次朗のためによく働いてくれた。
敵を人目につかない浅草の北に引っ張り出すことができたのも、彼が噂をばらまいてくれたおかげだ。
また米倉家の家臣がどのような悪事を働いているか調べたのも、彼だった。例の膨大な書付から必要な事柄を見つけ出し、他のと組み合わせて、何が起きているかあぶり出した。それは正確で、家中の誰と誰が結びついていて、どこで動いているか一目でつかむことができた。
文次朗だけならば、解決までもっと時間がかかっていたはずで、関や戸川を守ることができなかったかもしれない。その点については素直に感謝している。
「いつか礼を言わんとな」
「何か」
「いや、なんでもない。こちらの話だ」
文次朗は手を振って、話を戻した。
「これから米倉家は揺れる。事の次第を知っている者が一人でもいるのはよい」
「西国に行くという話もあったんですがね。あれでよかったと私も思っていますよ」
「おぬしは戻らぬのか。声はかかったのであろう」
「断りました。手前は、こうして江戸で生きているのがちょうどいいかと」
関は小さく笑う。その表情にこれまでのような影はない。明らかに吹っ切れていた。
「この争いで、つくづく侍でいることが嫌になりました。戻っても、また息苦しい日々がつづくだけですからね。なら、無理することはないかと」
「そうか」
「幸い、知り合いが店を出さないかって言ってくれているので、それに乗ろうかと思っています。手伝ってくれる者もいますしね」
以前、世話になっている女がいると語っていた。そのあたりも江戸から離れたくない理由なのかもしれない。
「まあ、おぬしが幸せであれば、それでいいさ」
「平野様はこの先どうするので」
「さあ、どこぞの養子になるか、それとも御役目をいただくか。そのあたりで何とかしないとな」
「堅苦しい世界ですよ。いろいろと気をつかいますし」
「それでも部屋住みでいるよりはいい。兄上に気をつかわせるわけにもいかぬ」
生きていくためには、いろいろと気をつかう。思ったようにはいかない。
「まあその前に食い扶持を何とかしなければならぬが」
「でしたら、うちで一つ書いていただけませぬか」
「うわ、なんだ」
突然の声に振り向くと、老人が彼の隣に腰かけようとしていた。その目は爛々と輝いている。
「おぬし、九郎左衛門か。いつ来た」
「いつでもよいではありませんか。それよりも聞きましたよ。格好のネタを手に入れたとか」
久右衛門は口元を歪めた。邪悪な鬼のような笑みだ。
「ねじれた敵討ちの末に広がる御家騒動。義をつらぬく家臣や若き姫も巻きこんでの大立ち回り。いいじゃないですか。ぜひ書いてくださいよ」
「何を言っている。そんなことは知らん。知らないぞ。いったい、どこで聞いた」
「親しくしている古本屋からですよ。平野様が大騒動に巻きこまれて、大手柄だったと。詳しく聞いたら、とんでもなくおもしろそうではありませんか。ならば、これを逃す手はないと」
「あ、くそっ。あいつか」
世話になったので、由蔵には事の次第をすべて話していた。
聞いている時は、興味なさげであったが、まさかいきなり久右衛門に伝えるとは。しかも、適当に話をふくらませて。
感謝したこちらが馬鹿だった。あの悪徳古本屋め。
「私は書かん。書かないぞ」
「無論、そのままとは言いません。うまくごまかしてやってくだされば、それで」
「知らぬ知らぬ」
文次朗はそそくさと屋台を離れる。その後を久右衛門が追う。
まったくどうしてこうなるのか。
戯作者になるつもりなんて、まったくないのに。
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