上 下
11 / 11

しおりを挟む
「そうか。戸川殿は主の元に戻るのか」
「はい。殿から頼まれまして。今は心を許せる者が一人でも欲しいと」
「それはよかったな」

 関の言葉に、文次朗は笑みを浮かべた。

 初夏の強い日差しが周囲を包みこむ。
 空には雲一つなく、すでに盛夏を思わせる暑さが江戸の町を包みこんでいる。角の商家では、手代が打ち水をしている。

「戸川殿は迷っていたようだったからな。声がかかったのは幸いだった」

 浅草での争いから一月が経った。

 幸い斬り合いの件は、大きな騒ぎにならずにすんだ。浅草の外れで見ている者がほとんどいなかったことに加え、侍が大人数で戦ったという事実が現実離れいて信じる者が少なかったためである。

 由蔵が動いて、呉服問屋の醜聞をばらまいてくれたのも大きかった。彼が先手を打ってくれたおかげで、人目をそらすことができた。

 今回、由蔵は文次朗のためによく働いてくれた。
 敵を人目につかない浅草の北に引っ張り出すことができたのも、彼が噂をばらまいてくれたおかげだ。

 また米倉家の家臣がどのような悪事を働いているか調べたのも、彼だった。例の膨大な書付から必要な事柄を見つけ出し、他のと組み合わせて、何が起きているかあぶり出した。それは正確で、家中の誰と誰が結びついていて、どこで動いているか一目でつかむことができた。

 文次朗だけならば、解決までもっと時間がかかっていたはずで、関や戸川を守ることができなかったかもしれない。その点については素直に感謝している。

「いつか礼を言わんとな」
「何か」
「いや、なんでもない。こちらの話だ」

 文次朗は手を振って、話を戻した。

「これから米倉家は揺れる。事の次第を知っている者が一人でもいるのはよい」
「西国に行くという話もあったんですがね。あれでよかったと私も思っていますよ」
「おぬしは戻らぬのか。声はかかったのであろう」
「断りました。手前は、こうして江戸で生きているのがちょうどいいかと」

 関は小さく笑う。その表情にこれまでのような影はない。明らかに吹っ切れていた。

「この争いで、つくづく侍でいることが嫌になりました。戻っても、また息苦しい日々がつづくだけですからね。なら、無理することはないかと」
「そうか」
「幸い、知り合いが店を出さないかって言ってくれているので、それに乗ろうかと思っています。手伝ってくれる者もいますしね」

 以前、世話になっている女がいると語っていた。そのあたりも江戸から離れたくない理由なのかもしれない。

「まあ、おぬしが幸せであれば、それでいいさ」
「平野様はこの先どうするので」
「さあ、どこぞの養子になるか、それとも御役目をいただくか。そのあたりで何とかしないとな」
「堅苦しい世界ですよ。いろいろと気をつかいますし」
「それでも部屋住みでいるよりはいい。兄上に気をつかわせるわけにもいかぬ」

 生きていくためには、いろいろと気をつかう。思ったようにはいかない。

「まあその前に食い扶持を何とかしなければならぬが」

「でしたら、うちで一つ書いていただけませぬか」
「うわ、なんだ」

 突然の声に振り向くと、老人が彼の隣に腰かけようとしていた。その目は爛々と輝いている。

「おぬし、九郎左衛門か。いつ来た」
「いつでもよいではありませんか。それよりも聞きましたよ。格好のネタを手に入れたとか」

 久右衛門は口元を歪めた。邪悪な鬼のような笑みだ。

「ねじれた敵討ちの末に広がる御家騒動。義をつらぬく家臣や若き姫も巻きこんでの大立ち回り。いいじゃないですか。ぜひ書いてくださいよ」

「何を言っている。そんなことは知らん。知らないぞ。いったい、どこで聞いた」
「親しくしている古本屋からですよ。平野様が大騒動に巻きこまれて、大手柄だったと。詳しく聞いたら、とんでもなくおもしろそうではありませんか。ならば、これを逃す手はないと」
「あ、くそっ。あいつか」

 世話になったので、由蔵には事の次第をすべて話していた。

 聞いている時は、興味なさげであったが、まさかいきなり久右衛門に伝えるとは。しかも、適当に話をふくらませて。

 感謝したこちらが馬鹿だった。あの悪徳古本屋め。

「私は書かん。書かないぞ」
「無論、そのままとは言いません。うまくごまかしてやってくだされば、それで」
「知らぬ知らぬ」

 文次朗はそそくさと屋台を離れる。その後を久右衛門が追う。

 まったくどうしてこうなるのか。

 戯作者さっかになるつもりなんて、まったくないのに。

しおりを挟む
感想 1

この作品の感想を投稿する

みんなの感想(1件)

悠井すみれ
2021.06.22 悠井すみれ

冒頭からの軽妙なやり取りに惹き込まれて楽しく一気に拝読しました。
執筆活動からてっきりインドア派だと思い込まされていた文次郎、まさか剣も遣えるとは気持ちの良い驚きでした!
本作は短編で完結していますが、由蔵の持ち込む厄介ごとにネタを求める久右衛門に振り回されて……という感じで連作ものとしてもっと読みたいと思いました。

最終話の「おぬし、九郎左衛門か。いつ来た」は、九郎左衛門→久右衛門の誤字でしょうか。差し出がましいですが、ご確認くださいますように。

解除

あなたにおすすめの小説

局中法度

夢酔藤山
歴史・時代
局中法度は絶対の掟。 士道に叛く行ないの者が負う責め。 鉄の掟も、バレなきゃいいだろうという甘い考えを持つ者には意味を為さない。 新選組は甘えを決して見逃さぬというのに……。

独裁者・武田信玄

いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます! 平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。 『事実は小説よりも奇なり』 この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに…… 歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。 過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。 【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い 【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形 【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人 【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある 【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。 (前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)

劉縯

橘誠治
歴史・時代
古代中国・後漢王朝の始祖、光武帝の兄・劉縯(りゅうえん)の短編小説です。 もともとは彼の方が皇帝に近い立場でしたが、様々な理由からそれはかなわず…それを正史『後漢書』に肉付けする形で描いていきたいと思っています。 -------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- 歴史小説家では宮城谷昌光さんや司馬遼太郎さんが好きです。 歴史上の人物のことを知るにはやっぱり物語がある方が覚えやすい。 上記のお二人の他にもいろんな作家さんや、大和和紀さんの「あさきゆめみし」に代表される漫画家さんにぼくもたくさんお世話になりました。 ぼくは特に古代中国史が好きなので題材はそこに求めることが多いですが、その恩返しの気持ちも込めて、自分もいろんな人に、あまり詳しく知られていない歴史上の人物について物語を通して伝えてゆきたい。 そんな風に思いながら書いています。

黒の敵娼~あいかた

オボロ・ツキーヨ
歴史・時代
己の色を求めてさまよう旅路。 土方歳三と行く武州多摩。

陣代『諏訪勝頼』――御旗盾無、御照覧あれ!――

黒鯛の刺身♪
歴史・時代
戦国の巨獣と恐れられた『武田信玄』の実質的後継者である『諏訪勝頼』。  一般には武田勝頼と記されることが多い。  ……が、しかし、彼は正統な後継者ではなかった。  信玄の遺言に寄れば、正式な後継者は信玄の孫とあった。  つまり勝頼の子である信勝が後継者であり、勝頼は陣代。  一介の後見人の立場でしかない。  織田信長や徳川家康ら稀代の英雄たちと戦うのに、正式な当主と成れず、一介の後見人として戦わねばならなかった諏訪勝頼。  ……これは、そんな悲運の名将のお話である。 【画像引用】……諏訪勝頼・高野山持明院蔵 【注意】……武田贔屓のお話です。  所説あります。  あくまでも一つのお話としてお楽しみください。

国殤(こくしょう)

松井暁彦
歴史・時代
目前まで迫る秦の天下統一。 秦王政は最大の難敵である強国楚の侵攻を開始する。 楚征伐の指揮を任されたのは若き勇猛な将軍李信。 疾風の如く楚の城郭を次々に降していく李信だったが、彼の前に楚最強の将軍項燕が立ちはだかる。 項燕の出現によって狂い始める秦王政の計画。項燕に対抗するために、秦王政は隠棲した王翦の元へと向かう。 今、項燕と王翦の国の存亡をかけた戦いが幕を開ける。

無影剣 日影兵衛 刀狩り

埴谷台 透
歴史・時代
無影剣 日影残真流免許皆伝、日影兵衛の編み出した我流の必殺剣は、その威力により己の刀も折り飛ばす 技に見合う刀をを求めて 日影兵衛、東海道を京へと旅をする

陸のくじら侍 -元禄の竜-

陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた…… 

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。