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戸倉から話を聞くと、文次朗はわざと一日置いて鳥越橋の南詰に向かった。
同じ時刻をねらったこともあって、屋台は同じ場所におり、関も同じように無愛想な表情で鍋の湯加減を確かめていた。
「蕎麦を頼む」
文次朗が縁台に座ると、関は小さく返事をして、蕎麦をゆではじめた。
できあがるまでの時間を使って、文次朗は周囲を見る。
「この間は気がつかなかった。書いたのはおぬしか」
「さようで」
「漢詩か。杜甫だな」
行灯の裏に、漢詩が記してあった。
洛城一別四千里
胡騎長躯五六年
草木変衰行剣外
兵戈阻絶江辺老
「都を追われ、成都で読んだ詩だったな。しかし、これは半分だ。残りはどうした」
「何か書く気がなくなっちまいましてね。途中でやめちまいました」
「なぜだ?」
「さあ。敵討ちで故国を離れた時は、こんな気分だったんですがね。長い間、旅しているうちに気が変わったのかもしれませんね」
前半は都を追われて気落ちする杜甫の心情だ。
一別四千里の表現は心を打つ。
この先は、弟たちのことを思い出しながらも、有利に立った官軍の戦ぶりに思いをはせている。哀切な空気が漂う漢詩であり、文次朗も好きだった。
「それにしてもお詳しい。これだけで杜甫とわかるとは。さすがに戯作を書いているだけのことはありますね」
「待て。その話、どこから聞いた」
「虎之助殿から聞きました。昨日、来たので」
内密にしてくれと言ったのに。どいつもこいつも口が軽い。
文次朗は厳重に口止めしてから、本題に入った。
「話は聞いた。おぬしも武士だったのだな」
「さようで」
「戸倉殿はおぬしの敵だ。なのに、なぜ討ち果たそうとせぬ」
関は答えず、ゆであがった蕎麦を文次朗の前に置いた。めんつゆも並べてくれたので、放っておくのも悪いと思い、ゆっくり文次朗は食べはじめた。
蕎麦をすする音だけが響く。
靄が巻いているせいか、周囲に人気はない。
近くの御蔵からも物音はせず、屋台がこの世ならざる場所に切り離されてしまったかのようだ。
関が話をはじめたのは、文次朗が箸を置いた時だった。
「正直、面倒くさくなっちまったんですよ。敵討ちが」
「五年も追いかけてきたのにか」
「それだけ追いかけてきたからですよ」
戸倉は菜箸を置いて、息をついた。
「最初の頃は、兄が討たれて頭に血がのぼっていましたから、見つけたらすぐに叩き切るつもりでいました。首を取って意気揚々と故国に戻る姿を思い描いていたのですが、二年、三年と過ぎていくうちに、これに何の意味があるのか、討ち果たして何があるのかと思うようになっちまったんですよ。いろいろと変わっていきますからね」
「居場所がなくなってきたか」
「まあ、そんなところで。離れていれば、家中の席は他の誰かによって埋められていく。戻ってきたら新しい役目を用意すると言われても、本当にそれがあるのか疑わしいですから。四年を過ぎる頃には、面倒を見てくれた重役の方々も何も言わぬようになりました。その頃、故国では父母が亡くなり、弟が家の面倒を見るようになったんですよ。それが思いのほかうまくいっているようで」
「世はすべて事もなしか」
「弟は出来がいいから、むしろ手前がいない方がいいんじゃないかって思いましてね。それで何もかもが面倒になっちまったんですよ」
「そこから蕎麦屋の主か」
「長屋でぼさっとしていたら、差配が声をかけてくれました。何ら気にすることなくはじめていましたよ」
長い追っ手の生活に疲れたということなら、やめる理由としては正しい。
だが、それだけで目の前に現れた敵を見逃すものであろうか。どんな理由があっても、兄を殺した人物であることに変わりはないだろう。
きっちり敵を討てば、家中の評価はあがり、役目も与えてもらえるだろう。弟のために別家を立てるぐらいの無理は言えるはずだ。
武家から屋台の主とは、あまりにも転進が過ぎる。
「蕎麦、どうでしたか」
いきなり問われて、文次朗はあわてながら応じた。
「あ、ああ。うまかったぞ」
「世辞ならば結構ですよ」
「いや、本当によかった。屋台の蕎麦にしてはよくできている」
歯応えはよく、するりと口に入っていった。めんつゆにも工夫の跡が見られる。一年でここまで仕上げるには、相当に努力したに違いない。
「どこかで店を借りては……。いや、すまぬ、おぬしは武家であったか」
「かまいませんよ」
関の表情は寂しげだ。
何か引っかかる。いったい何を隠しているのか。
「女がいるのか?」
文次朗が思いきって踏みこむと、関は小さく笑って応じた。
「世話をしてくれるやつはいますよ。されど、それだけです」
「故国に家の者は?」
「いません。嫁を取る前に敵討ちになっちまいましたから」
戻る当てはない。だが、それだけで投げ遣りになるのか。
真意が見えない。何かがあることはわかったが、それが何であるか文次朗には見抜くことはできなかった。
もう一枚、蕎麦を食べた後で、文次朗は戸倉と会い、事の次第を告げた。
敵討ちをする気はなくなっていると告げると、戸倉は顔を真っ赤にして言った。
「それは困る。儂はあやつに討たれなければならないのだ」
理由を尋ねたが、戸倉は答えなかった。
こちらも何かを隠していることは明らかだったが、それが何であるかは同じように見えてこなかった。
同じ時刻をねらったこともあって、屋台は同じ場所におり、関も同じように無愛想な表情で鍋の湯加減を確かめていた。
「蕎麦を頼む」
文次朗が縁台に座ると、関は小さく返事をして、蕎麦をゆではじめた。
できあがるまでの時間を使って、文次朗は周囲を見る。
「この間は気がつかなかった。書いたのはおぬしか」
「さようで」
「漢詩か。杜甫だな」
行灯の裏に、漢詩が記してあった。
洛城一別四千里
胡騎長躯五六年
草木変衰行剣外
兵戈阻絶江辺老
「都を追われ、成都で読んだ詩だったな。しかし、これは半分だ。残りはどうした」
「何か書く気がなくなっちまいましてね。途中でやめちまいました」
「なぜだ?」
「さあ。敵討ちで故国を離れた時は、こんな気分だったんですがね。長い間、旅しているうちに気が変わったのかもしれませんね」
前半は都を追われて気落ちする杜甫の心情だ。
一別四千里の表現は心を打つ。
この先は、弟たちのことを思い出しながらも、有利に立った官軍の戦ぶりに思いをはせている。哀切な空気が漂う漢詩であり、文次朗も好きだった。
「それにしてもお詳しい。これだけで杜甫とわかるとは。さすがに戯作を書いているだけのことはありますね」
「待て。その話、どこから聞いた」
「虎之助殿から聞きました。昨日、来たので」
内密にしてくれと言ったのに。どいつもこいつも口が軽い。
文次朗は厳重に口止めしてから、本題に入った。
「話は聞いた。おぬしも武士だったのだな」
「さようで」
「戸倉殿はおぬしの敵だ。なのに、なぜ討ち果たそうとせぬ」
関は答えず、ゆであがった蕎麦を文次朗の前に置いた。めんつゆも並べてくれたので、放っておくのも悪いと思い、ゆっくり文次朗は食べはじめた。
蕎麦をすする音だけが響く。
靄が巻いているせいか、周囲に人気はない。
近くの御蔵からも物音はせず、屋台がこの世ならざる場所に切り離されてしまったかのようだ。
関が話をはじめたのは、文次朗が箸を置いた時だった。
「正直、面倒くさくなっちまったんですよ。敵討ちが」
「五年も追いかけてきたのにか」
「それだけ追いかけてきたからですよ」
戸倉は菜箸を置いて、息をついた。
「最初の頃は、兄が討たれて頭に血がのぼっていましたから、見つけたらすぐに叩き切るつもりでいました。首を取って意気揚々と故国に戻る姿を思い描いていたのですが、二年、三年と過ぎていくうちに、これに何の意味があるのか、討ち果たして何があるのかと思うようになっちまったんですよ。いろいろと変わっていきますからね」
「居場所がなくなってきたか」
「まあ、そんなところで。離れていれば、家中の席は他の誰かによって埋められていく。戻ってきたら新しい役目を用意すると言われても、本当にそれがあるのか疑わしいですから。四年を過ぎる頃には、面倒を見てくれた重役の方々も何も言わぬようになりました。その頃、故国では父母が亡くなり、弟が家の面倒を見るようになったんですよ。それが思いのほかうまくいっているようで」
「世はすべて事もなしか」
「弟は出来がいいから、むしろ手前がいない方がいいんじゃないかって思いましてね。それで何もかもが面倒になっちまったんですよ」
「そこから蕎麦屋の主か」
「長屋でぼさっとしていたら、差配が声をかけてくれました。何ら気にすることなくはじめていましたよ」
長い追っ手の生活に疲れたということなら、やめる理由としては正しい。
だが、それだけで目の前に現れた敵を見逃すものであろうか。どんな理由があっても、兄を殺した人物であることに変わりはないだろう。
きっちり敵を討てば、家中の評価はあがり、役目も与えてもらえるだろう。弟のために別家を立てるぐらいの無理は言えるはずだ。
武家から屋台の主とは、あまりにも転進が過ぎる。
「蕎麦、どうでしたか」
いきなり問われて、文次朗はあわてながら応じた。
「あ、ああ。うまかったぞ」
「世辞ならば結構ですよ」
「いや、本当によかった。屋台の蕎麦にしてはよくできている」
歯応えはよく、するりと口に入っていった。めんつゆにも工夫の跡が見られる。一年でここまで仕上げるには、相当に努力したに違いない。
「どこかで店を借りては……。いや、すまぬ、おぬしは武家であったか」
「かまいませんよ」
関の表情は寂しげだ。
何か引っかかる。いったい何を隠しているのか。
「女がいるのか?」
文次朗が思いきって踏みこむと、関は小さく笑って応じた。
「世話をしてくれるやつはいますよ。されど、それだけです」
「故国に家の者は?」
「いません。嫁を取る前に敵討ちになっちまいましたから」
戻る当てはない。だが、それだけで投げ遣りになるのか。
真意が見えない。何かがあることはわかったが、それが何であるか文次朗には見抜くことはできなかった。
もう一枚、蕎麦を食べた後で、文次朗は戸倉と会い、事の次第を告げた。
敵討ちをする気はなくなっていると告げると、戸倉は顔を真っ赤にして言った。
「それは困る。儂はあやつに討たれなければならないのだ」
理由を尋ねたが、戸倉は答えなかった。
こちらも何かを隠していることは明らかだったが、それが何であるかは同じように見えてこなかった。
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