蝉と木

川本 薫

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蝉と木

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『3月半ばから解体工事をはじめます。それまでに大切なものはすべて撤去しておいてください』
 ずっと放置していた祖父の家を壊すことに決めたのは県道を広くするために立ち退きの話がきたからだった。
 私の記憶の中の祖母は眼鏡をかけて当時、スマートフォンと呼ばれていた携帯を見ながら何かを筆ペンでノートに書いていた。そのノートの束をなぜか母は玄関においたまま捨てようとしなかった。
「もう解体も決まったんだし、こんなものゴミなんだから、さっさと捨ててしまえばいいのに!! 紙ダニだっているのよ、捨てれないなら私が捨ててあげる。ちょうどゴミステーションの燃えるゴミの日は明日でしょ? 持って帰らずにステーションに捨てればちょうどいい」
 私は母が自宅から持ってきていた新聞と雑誌を捨てるリサイクルの袋をエコバッグの中から取り出した。
「ねぇ、真夜(まよ)、捨てる前に1度、私も真夜も読んだほうがいいと思うの。おばあちゃんが書いた小説」
「なに? 小説って? 」
「小説は小説よ」
「時間かかることはしたくない。しかもいちいちめくるんでしょ? なんで捨てればいいことなのに!! 」
 私は手を止めることなくダンボールからリサイクル袋にノートをうつした。
 母は私のその姿を見て新聞は毎日ではなくなったこと、雑誌は季刊誌になったこと、図書館の休館日が増えたことを独り言のように嘆いていた。
「そんなの当たり前でしょ? 今や保育園児からQ(端末)を持たされて管理されてるんだから。ただのノートなのに祖母の魂が宿ってるなんてそんな昔話みたいなこと言わないでよね!! 」
 私の言葉に母は珍しく腕を掴んだ。
「これは娘として私が捨てるから真夜、ほっといてちょうだい。あなたには迷惑かけないように私が死ぬまでに処分するから」
「そんなに言うなら勝手にどうぞ!! でも、お母さんにもしものことがあったから私は捨てるからね」
 母は段ボールごとそのノートを車のトランクに乗せた。 

 
 ──お母さんにもしものことがあったら捨てるからね、そういった日からどれぐらいの年月が流れたのだろう? 母の49日の法要が終って親戚が帰っていった後、私は父と母の部屋にいた。
「お父さん、このダンボールの中のノート、月曜日のゴミの日に捨てようと思う」
「真夜は読む気はなさそうだな? いいよ。捨てても」
 父は母みたいに反対はしなかった。
 もうノートは黄ばんでいるし触るのも嫌だった。
「ねぇ、お父さんがリサイクル袋にまとめてくれない? 」
「ああ、わかった」
 
 父のわかったはあてにならない。母の一周忌の法要の後も母の部屋にそのダンボールがあって私は呆れた。
「おじいちゃん家みたいに立ち退きならお金が出るけど、お父さんがちゃんとしてくれてないと一人娘の私が困るだけだからね。ゴミは貯めないで!! これは私が捨てるから。私の部屋に運んどく」
 私は母の部屋から一階の自分の部屋にダンボールを運んだ。
 その夜、なぜか眠れなかった。
 ティッシュを1枚手にして恐る恐るダンボールの中のノートを開いてみた。

『蝉と木』今どき、こんなタイトル、誰が読むんだろう? 私はすぐにノートを閉じた。
 ──ごめんね、おばあちゃん、明日、ノートはゴミに出すから。

 そう思ったとき、私の手からノートが床に落ちた。そして、私はノートに書かれた文字を端末でスキャンした。ノートは燃やしてしまうけれど言葉は燃やしてはいけない気がした。
 だから、ここにただそれを残しておこうと思う。



 ──蝉と木──

 許されない恋があるとするなら、許される恋ってどんな恋なんだろう? そんなことを呆れるほど考えてみたけど──、私はやっぱりその夜も公園へと走って行った。

 その人とはじめて話したのは5月の終わり。私はいつものようにお風呂に入っていた。
「ミャーミャー」
 まただ、甲高い仔猫の鳴き声が目の前の公園から聞こえてきた。
 どうせ捕まるわけない、そう思うのに、私は髪も乾かさずに目の前の公園へ走った。
「出ておいで~猫ちゃん」
なんて叫んだって出てくるわけもなく、きっとこの垣根の茂みに震えながら隠れているんだ、そう思ったとき
「何? 猫がいるの? 」
 その人はセブンスターのタバコを左手に持っていた。多分、部屋着だろう、黒のスウェットを着て。
「仔猫」
「君、保護したいの? 」 
「捕まるわけないけど、捕まったら飼います」
「じゃあ、これ持ってて」
その人は腕まくりをして私にタバコを渡すと垣根の茂みの中に手を入れた。
「ああ、いるいる、黒猫だよ、生後1ヶ月ぐらいかな? じっと俺を見てるよ」
 その人の背後から茂みを除くと子猫の目が光ってるのだけが見えた。一生懸命、奥に手を入れようとしてくれたけど、子猫には届かず、その人の腕だけが土で汚れた。

「なんだかすみません。タバコ吸いに来ただけでしょ? 」
「うん、まあ。でも、役に立てなくてごめん」
「いいえ。野良を保護するのって簡単じゃないことぐらいわかってますから」
 私がそういうとその人はベンチに座って持ち歩きの簡易の灰皿をポケットから取り出してタバコを吸い始めた。私が帰ろうとすると
「ちょっと待って。俺、雨の日以外はここに来てるんだ。もし仮に猫が捕まえられたら、君に連絡するけど? 」
「じゃあ、私、あの窓です。あの窓の部屋にいるんで、窓に向かって叫んでください」
「えっ、窓に叫ぶの? 」
「はい、だって奥さんも子供さんもいる人に如何なる理由でも連絡先教えるのって変でしょ? 」
「えっ? なんで妻も息子もいるってわかった? 」
「たいてい、この時間にタバコをここで吸う人はあのファミリーマンションに住んでる人だから」
「俺みたいな奴がいるんだな。まあ、とにかく捕まりそうだったら、叫ぶわ」
「じゃあ、ありがとうございました。おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
 私は階段を登りながら、鼻にかすかに残ったその人の煙草の匂いをすっていた。

 次の日からしばらく雨が続いた。こんな雨の日、あの仔猫はどこで雨宿りしてるんだろうか? 仕事に行く朝も、帰ってきた夜も仔猫の鳴き声はしなかった。
 そして、あの人も見ることはない。カーテンレールに干した洗濯物もいっぱいになって、雨の夜だというのに、コンビニの隣りにあるコインランドリーまで歩いた。こういうとき、彼や旦那さんがいてくれたら、半分持ってもらえるのだろうか? 
 乾燥が終わると夜9時を過ぎていた。降り続いた雨はやんで、濡れたベンチがほんの少しだけ街灯で光っていた。猫もあの人もいるわけない。

「重たいでしょ? 」
 突然、後ろからランドリーバッグを引っ張られた。
「仔猫が心配でさ、来てみたんだ。嫁さんにも話したら、『飼う人が決まってるんなら、見てきたら? 』って」
「もう、びっくりした!! ちゃんと目の前から声かけてくださいよ。いきなりバッグが引っ張られるからひったくりかと思って怖かったじゃないですか!! 」
 本当に怖かった。だから私は少しキツい口調になった。
「ごめん、ごめん。でもさ、ほらっ、ちゅ~るも持ってきた」
「雨のせいか、誰かが保護したのか、あれから全然、鳴き声はしません」
「そっかぁ、残念。じゃあ、とりあえず部屋の前までその荷物運ぶの手伝うよ」
 何も考えずその人はさっとバッグをとって部屋の前まで運んでくれた。
「じゃあ、またね」
 迷いのない階段を降りる音にどこかホッとして私はしばらく玄関で立ち尽くしていた。
 いつの間にか、蝉の声がするような季節になって、公園の垣根も整備された。猫の鳴き声はあれから聞こえてこない。ただ、夜になると私は公園へ行って、タバコを吸うその人と話をした。あくまでも猫を探すという口実で。
「あ~、もうしばらくは駄目かな。俺、蚊が駄目なんだ」
 腕を掻きながら、その人はそう言って、
「もう猫もきっといないですよね」
私も諦める返事をした。
「俺さ、蚊が出てる間はここへはこないけど、なにか、本当に困ったことがあったら、言いなよ」
 その人は、そう言って、用意してあったメモを私に手渡した。私はそれを目の前で破った。
「困ったことがあったらいいなよって言うのは、私が、絶対に頼らないって思うからでしょ? 連絡できない人の番号教えてもらっても私は嬉しくもありません」
「あっ」
 私が怒ったタイミングで公園の入り口を横切る黒猫がいた。
「ちょっと待ってて」
ポケットからちゅ~るを出して
「クロちゃん、おいで」
 その人は猫と同じ視線になるようにしゃがんだ。でも、猫は『シャアーシャアー』と威嚇するだけだ。
「とりあえず、ちゅ~るをさ、あの草のところに出してきた。どっかでご飯もらってるんだろ、痩せてないし、とりあえず大丈夫だ」
「ありがとうございます。じゃあ」
「まあでも、本当に何かあれば俺を見たときぐらいは言ってな」
 私が破ったメモを拾いながら、その人は言った。
「さよなら」
「おやすみ」
 許される恋ってどんな恋なんだろう? 部屋に戻ってしばらく真っ暗な中で考えていた。

 日曜日の朝、カーテンを開けて見えた景色は、その人と奥さんと息子さんが公園の鉄棒の前で笑ってる姿だった。許された恋の形──、その後ろをあの猫が歩いている。その人は懐かせたのだろうか? 足元にスリスリしている。

 私は洗面所から洗濯ネットをとって朝の公園へと走った。
「その猫、捕まえてください!! 」
 抱きしめることのできないその人の代わりに私は洗濯ネットに入れられた黒猫を抱きしめた。
 名前はもう決めている、──スター。あの人の吸うセブンスターからとった。

「ありがとうございます。これからこの子を病院へ連れていきますから」
「よかったね、クロちゃん、優しいお姉さんに保護されて」
「おねえちゃん、バイバイ」
「せっかく俺に懐いたのになぁ──」

 当たり前だけど朝は眩しかった。許される恋の形を見せられた気がした。私はとにかく腕の中で暴れるスターを必死で抱きしめた。
 私もいつか朝の公園であんなふうに誰かと笑っていたい。
 とりあえず、今の行き先は動物病院。
 「スター、これからよろしくね」
 暴れるスターを抱きしめながら私は許さなかった私の気持ちに手をふった。

 ──さようなら、ニジュウヨンブンノイチの恋よ──


***


「はじめまして、僕は先日、大学を卒業したばかりの小池です」
 夜の公園にやってきたのは、どう考えても私が思うお爺ちゃんには見えない小池さんだった。
「花木さんですよね? 」
「はい、いつもツイッターでやり取りさせてもらってる花木です」
「まあ立ったまんまでもなんですから腰掛けましょうか? 」
 小池さんは鞄の中からハンカチを出して、ベンチをふいたあと、私に『どうぞ』と言って手招きした。
「いや、若い人にもいい歌はささるんですよね」
 ──そうだ、小池さんと繋がったきっかけは、小池さんが何気なく呟いた、
『年に何回か必ず聴きたくなるんです』
というツィートだった。なんでかわからないけど、タイムラインに流れてきた小池さんのツィートを見て私は暇つぶしに小池さんが紹介していた曲をYou Tubeで聴いてみた。確かに音源も映像も昭和だ、古っ。でもな30歳手前の私にはそれが刺さった。 
『いい曲を教えてくださってありがとうございます』
 そんなありきたりなコメントから小池さんと私ははじまった。それから時々、小池さんのツイッターをのぞいては、小池さんがおすすめしてる本や映画、音楽を聴くようになった。何もかもが古いのに、心が震える。それはいつしか小池さん自身に投影された。

 恋愛とかじゃない、友達でもない、もはや両親の年齢よりも上の小池さんなのに、なぜか隣にいてほしいなんて思うようになってきた。何回かダイレクトメッセージでやり取りして、偶然とはいえ、ものすごい近所だということがわかって、こうして夜の公園で待ち合わせすることになった。

 私が住んでるアパートの目の前には、ミモザが咲き誇る珍しい公園がある。小池さんももちろん知っていた。 
『じゃあ、今度、その公園に僕のおすすめする本やCDを持っていきますね。花木さんに気に入ってもらえるといいんだけど』
 その言葉通り、小池さんは無印の紙袋いっぱいに本とCDを入れていた。

「小池さん、どうしてまた勉強する気になったんですか? 」
「まあ、よくある話だよ。妻がね、55歳で亡くなって僕たちには子供がいなかった。60歳で定年になって退職金をもらったとき、特にこの先、生活に困ることもなかったし、じゃあ、前から書きたかった小説を書こうと思ったんだ。でも僕は勉強してこなかったから、言葉を知らない。それでね、通信制だけど大学で勉強することに決めたんだよ」
「私から見たら、すごいとしか言えません、本当に凄いです」
「それで、今は昔みたいに原稿用紙に書く時代じゃないみたいだから、思い切って投稿サイトやツイッターなんかもはじめてみたわけで、花木さんのような若い人とのやり取りでまた何かを吸収できてるような気がするよ」
「私なんて、仕事と猫のスターのことしか考えてません、というか、流されて生きてるようなものです。自分の人生も考えてみたことないかも、考えてるふりばかりで、とにかく人と争わないように、なるべく口角あげて笑顔で──って心がけてるだけです」
 そういうと小池さんは無言になった後で
「考えてごらんよ。例えばこの公園に他の公園には植えられてないミモザがこんなにも植えられているのか? とか、なんで歳が離れてるのに僕と会ってるんだろうとか? 毎日ひとつでもいい、考えて、考えたことをメモしてると自分が見えてくるよ」
 それを聞いて、今度は私が無言になった。説教くさいことは苦手だ。考えたって答えは出ないから、できれば吹いてくる風には抗わないほうがいいなんて思っていた。会社でもできるだけ目立たないように、私が抱きしめるのは黒猫のスターだけで充分だ──、そんな風に。

「花木さん、今、うるさい説教爺!! って思ったでしょ? 僕は嫌われることは全然怖くないよ。ただ、忘れないでいてほしいんだ、疑問に持つこと、考えることを」
「ごめんなさい。私は深く考えることがしんどくて、多分、楽な方を選んでいます。長いものには巻かれていたい、なんて思いますし」
「そっかぁ、残念だね。でも、それはそれでひとつの生き方だからね。じゃあ、これはもう返さなくていいから、気に入らなかったら捨ててね」
 そう言って腰を上げたと思ったら、振り向かずに、公園を出た。怒らせてしまったかもしれないと思ったら、ソワソワして、私は紙袋を持ったまんま、小池さんを追っかけた。

「ごめんなさい、怒らせましたよね? 」
「僕が花木さんに対して怒るわけはないよ。ただ、花木さんにとって僕は多分、面倒な人なんだろうなぁ……と思ったから。僕は恋人にはなれないし、友達とも違う。ただね、話をするだけだ。でも話をするなら理解してほしいし、花木さんをちゃんと理解したいと思う。それが『楽に生きたい』なら僕はきっと必要ないんだよ」

 こんな風に今まで誰かに言われたことはなかった。いつだって、どこだって、花木=冷静だった。その冷静さはいつだって、もう一人の私が指図してした。『他人』にどう思われるか? そればっかりを。

「我慢する美学もあるけど、僕は──、まあ死が近くなった人間が思うには、好きなものは好きと言ってちゃんと握りしめるぐらいでいいと思うよ。花木さんはいい子になりすぎだ」

 夜の公園の入り口で、お父さんよりも年上の小池さんに私は頭から水をかけられたような気持ちになった。

「なんで、私は小池さんなんだろう──」

 気がつくと、私は小池さんの腕を掴んでいた。あの夜、ランドリーバッグを後ろから掴まれたみたいに。

「花木さん、僕が教えてあげれることは、『考えてごらん』それだけだ」

『考えてごらん』あれから小池さんに何度その言葉を言われただろうか? 気がつけば10年が過ぎて、仔猫だった黒猫のスターも小池さんも亡くなってしまった。このビルも取り壊しが決まって私は久しぶりに不動産屋に行って引っ越し先を探している。部屋の壁には小池さんから譲り受けた本とCDが山積みになっていた。

 ──花木さんへ──
 私は小池さんが5年前、最後に病室でノートに書いてくれた物語を朝と夜に読みながら、今日も生きてる。公園が見えるようにスターと小池さんの写真を窓側にむけて。

 ──考えてごらん──

 小池さんは亡くなったというのに、今日も私の心をそうやって覗きにきてる気がする。

「花木さん、この公園に咲くミモザの花言葉はね、『秘密の恋』だよ」

 ──小池さん、あなたとのことは、誰にも言えなかった『秘密の愛』だよ──。

 私はノートの最後にそう万年筆で記した。


***
 

「花木さん、何探してるんですか? 」
「いや、うさぎがいないかな? と思って」
「うさぎ? ここは街中の神社ですよ? うさぎなんているわけないでしょ? 」

 1月の半ば、後輩の影山と返し忘れていた破魔矢を持って神社に来ていた。確か、小池さんとここに来たとき、桜の木の下にうさぎが数羽いたんだ。

「花木さん、また小池さんのこと考えてたんですか? 男女の関係でも、内縁の妻でもなかったんでしょ? ただ本や音楽の情報のやりとりしてただけのお爺ちゃんなんでしょ? 僕のほうが何倍もイケてて、なんなら今すぐホテルに行って抱くことだってできるのに、小池さんは死んでから何年経っても花木さんの心からは消えないですね」
「影山くんこそ、私みたいなババアと過ごしてないで、結婚を前提にお付き合いできる可愛い彼女を早く作りなさいよ」
「花木さんとだって結婚前提に付き合えますよ」
 鳥居の下でそんな不謹慎な話をしながら、私は目の前を通り過ぎようとする巫女さんに紙袋にいれた破魔矢を手渡した。

「不思議ですね。これから2月で冬本番なのに空見てるともう春がそこで地団駄踏んでるような気がします」
「影山には空が地団駄踏んでる音が聞こえるわけ? 」
「そんなわけないでしょ? ただ花木さんがよく本を読んでるから、ちょっとそれっぽく言っただけです。僕には文学とかさっぱりですから」

 さっきの巫女さんは私達のことをどう見ただろう? 姉弟? それとも親子? ひと回り歳が離れていても恋人に見えるだろうか? 実際、恋人でもなんでもなく、ただ私の暇つぶしに影山は付き合ってくれてるだけ。

「影山、おみくじ引いてみる? 」
「あっ、僕はひかないです。あんま興味ないんで、なんか嫌いなんです。遠回しに説教されるのが。大吉だけど、【発言には注意しなさい!! 】みたいなのが。そんな遠回しに言われるぐらいなら、【お前のその言葉が悪い。だから嫌われる】ってそれぐらいのインパクトがほしいんです。そうだ、花木さん、甘酒飲みますか? 僕、買ってきますよ」
「じゃあ、お願い」
 
 うさぎのような猿のような、体の重さなんか感じないぐらいの軽快さで影山は鳥居のすぐそばの茶屋の中へと入っていった。まだ1月なのに影山のいうように空はもう冬の終わりを告げてるみたいな青だった。

 甘酒が入った紙コップを抱えて茶屋から出てきた影山。ふと見ると三日月型のショルダーバッグから文庫本が落ちそうになっていた。
「影山、チャックが開いてる!! 」
「えっ、チャックですか? 」
 勘違いした影山は自分のデニムのチャックを見た。
「違う、違う、ショルダーバッグのチャック!! 」
「花木さん、言い方!! ほんま、焦りました」
 影山は私に甘酒を手渡して、慌ててショルダーバッグのチャックを閉めた。

「ねぇ、文庫本が見えたけど? 」
「今日、花木さんに会う前に本屋で買ったんです。どんな本を読めば花木さんに興味持ってもらえるかな? って思って。書店員さんが推してたんで、西東三鬼って僕は聞いたこともない人の本をとりあえず買いました。まだ1ページも読んでません、ハハッ」
「影山って本当に思った瞬間に口から言葉になるんだね。良く言えば嘘がつけない」
「嫌なんです。試したり、試されたり、ちょっとした意地悪や嫉妬したりする自分が。きっとそういうのが恋愛の醍醐味なんだろうけど、僕は──、曖昧が嫌で、だから、今日こうして二人で神社に来ても、なんにもなかったんなら、神様にも味方されてないって諦めます、花木さんを」
「影山は自信があるんだね、自分に」
「もちろん。僕は花木さんに甘えたいなんて微塵も思いません。しっかりしてるようでよろよろの花木さんの隣でちゃんと支えてやる!! って思ってます。ライバルがもうこの世にはいない小池さんっていうお爺ちゃんなのが腹立たしいですけど──」
 影山はそう言いながら一気に甘酒を飲んだ。

 しっかりしてるようで、よろよろかぁ──、紙コップの底に残った酒粕。この先、影山であろうと、誰であろうとこの底はきれいに拭えない。拭う気もない。だけど小池さんには、もう触れることさえできない。

「影山、これからどうする? 」
「花木さんはどうしたいですか? 」
「──花見しよっか? 」
「花見? 花木さん、まだ1月ですよ? 」
「今年は少し暖かいから、河津桜が咲いてるかも? 」
「河津桜? 」
「少し早咲きの桜」

 私達はそのまま神社から歩いて庭園に行った。
「花木さん、僕、ここよく来てましたよ。母がまだ元気なとき、夏休みなんて池の近くに置かれてあった簡易プールで一人がパンツ一丁ではしゃいでました。僕が元気すぎて母親が家にいるよりか、ってここへ連れて来てくれたみたいで、遊んだ後は鯉にえさあげて、ざるうどん食べて帰ってましたね」
「そっかぁ、影山もここには思い出があるんだ」
「花木さん、母のこと口にしたから言いますけど、花木さんが小池さんに付き添って市民病院にいたとき、僕は母に付き添っていたんです。何度か一階のカフェで見たんです。小池さんも花木さんも。母が僕の目線に気づいて『ヒロト? 知り合いなら声かけたら? 歳が離れてるけど素敵なご夫婦ね』って二人を見て言って、その後で
『でも、ここにいるってことは、病気なのかしら? ヒロト、もし、あの女性と知り合いなら、後々、力になってあげなさいよ』って。母が何を思ってそれを言ったかはわからないけど、それから花木さんが僕の中で膨らんで」
「じゃあ影山は小池さんを見たことあったんだ」
「はい。あの頃は花木さんにもまだそこまで興味なくて、ただ不思議でした。二人の空気感みたいなものが、僕には辿りつけそうもないような深いところで繋がってるみたいな──、それからです。僕が会社で花木さんを定点観測しはじめたのは」
「定点観測? 」
「はい、花木さんがいつも僕の軸です」
「凄いね、影山はちゃんと考えてるんだ」
「母の口癖だったんです。『ヒロトならどう? 』って。いじめのニュースとか戦争のニュースがテレビから流れてくるたびにどう思うか? ってしつこいぐらい聞かれてました。『生きてゆくって考えることだから』って」

 影山に小池さんが憑依したのか? と思うほどドキッとした。もしかして、あの世で小池さんと影山のお母さんが話をしてるなんてことがあるんだろうか? 今日で私を諦めると言った影山。その後ろには、きっと誰かが待ってるのかもしれない。今はまだ蕾でも。

「影山、そろそろ帰ろっか。今日はありがとう。たくさん話せて、ちょっと嬉しかったよ」
「なんですか? それ? そんな台詞みたいな言葉──」

 吐き捨てるように言うと影山は一人で庭園の門を抜けた。怒らせたんだ、私は。

 ほんの少し途方に暮れてその足で市民病院の一階のカフェへと向かった。病院の入口に入れば空気が変わる。普段はあまり感じない死がぐっと近くなる。そして珈琲の匂いの隅っこに独特の生の匂いがしてくる。ここのカフェには他の店舗にはないゼリーが置いてあった。小池さんが弱っていく中で、『ゼリーってこんなに生き返る美味しさだったんだね』といつも嬉しそうに口に含んでいた。
 珈琲が出るのをカウンターの前で待っていると
「ホットコーヒーとはっさくゼリーをひとつお願いします」
 ゼリーを注文する声が聞こえた。その声の方を見ると
「影山? 」
「やっぱり同じですね。花木さんに話してたら、ここに来たくなったというかようやく来れた」
「とりあえず、影山、ここカウンターだし、席につこうか」
 多分、ここに座る人は普段は掴みもしないような気持ちをぎゅっと掴んでる人だ。自分があるいは家族に終わりが近いと知ったとき、できることなんて限られてる。むしろ支える自分のほうもフラフラになる。小池さんの見舞いに来てくれた同僚だった方が『もうね、何回も来てるとわかるんだよ。部屋を聞くだけで余命が近いな、とかたいしたことはないんだな、とかね』そう言ってたのを思い出した。

「悔しいですね、生きてる僕を見てもらえないのは。でも全力で支えます。それしかできないから」
 あまりにも真顔で言われたので珈琲を吹き出しそうになった。
「いいよ、じゃあ私の全体重をかけて、影山を潰す」
「なんですか? それ? プロレスじゃああるまいし。でもいいですよ、潰せるもんなら潰してみてください」
 そう言うとなぜか私に腕相撲のポーズをしてきた。


***


「春も秋もいい加減にしなさい。そんなに覗いてたら池に落ちるでしょ!! 」
「だって、お母さん、鯉がパクパクしてるからお口の中みたいもん、虫歯がないか!!」
「私も春が言うから、虫歯が見たい」

 ヒロトのお母さんが手におえないからとここへ連れてきたように、私とヒロトはエネルギーをもてあます双子の春江と秋江を庭園に連れてきていた。

「ヒロト、鯉に虫歯だって」
「凄いな、何年前だっけ? 花見しようって誘われてきたとき、その時はこんな未来があるなんて思いもしなかった」
「覚えてる? 全体重かけて、ヒロトを潰すって言ったのに、春と秋に私の胸が潰されそうになった」
「凄いよな、生きてるって」
「そうだね」
「パパ、写真、撮ってぇ、ここのお花の下で」
「パパ、春もいっちょに」 
 
 桜よりも濃いピンク色の河津桜の下で春と秋が花を見上げていた。桜を見上げてる春と秋をスマホで撮るヒロトの後ろ姿。

 もしかしたら、生きている今が殻なのかもしれない。そして、死とはこの体から脱皮することなのかもしれない。

「なぁ、河津桜の花言葉、知ってる? 思いを託すだってさ」

【我慢する美学もあるけど、僕はまあ死が近くなった人間が思うには、好きなものは好きと言ってちゃんと握りしめて、あとはね、全部手放してもいいんだよ。花木さんはいい子になりすぎて、いろんなものを抱えすぎだ。僕のこともね、忘れていいんだから。ただ考えていてほしいんだ、自分ならどうだろうって? 僕のことはね、氷が溶けてゆくみたいにいつか水になって流れてゆく。だけど、そのことだけは忘れてないで繋げてほしいんだよ】
 
 もう随分と前になるミモザの木のある公園で小池さんから言われた言葉を思い出した。私に託された思いはヒロトと重なってきっとこれから少しずつ春と秋に流れてゆく、そうだよね? 小池さん?
 『ひゅるん』
 突然、風が吹いて河津桜の花びらが私の唇に一枚だけさっと触れてスニーカーへと落ちていった。




 

 

 


 



 





 

 

 

 


 











 






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