ムスカリの、隣

川本 薫

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ムスカリの、隣

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「これとこれとこれのどれか」
 相変わらずだった。私は4月から高校生になるのに幼稚園の頃から変わらず父親はメニュー表をめくって頼んでいいメニューの写真を指差した。 3ヶ月に一度だけ母と離婚した父と食事をする。母から『昔は格好良くて偉くてとてもモテた』と聞いていた父。今は太って私から見るとただのおじさんだった。会話もほぼない。私も父も、無言でランチを食べるだけのこの時間が無駄だと思っていた。そして、この義務のような時間も今日が最後だった。私が高校へ通うのに今の団地だと遠くて不便だからと母の実家へ引っ越すことが決まっていた。私が高校を選んだのは父と離れた場所で祖父たちと暮らしたかったことも理由の一つだった。だから、今日こそは聞こうと思っていた。

「ハンバーグ海老フライランチと唐揚げ丼ランチ」 
 父が店員にオーダーしたあと、私は自分の中で一度、深呼吸をして言葉を吐き出した。
「お母さんに悪いと思わないの? 」
「急に何だ? 今更」
「今更? 今更じゃないじゃん。養育費も払わないで、お父さんはおばあちゃんの年金で養ってもらってるんでしょ? 今日のランチ代だって。そのくせ、パチンコには行ってるよね? 時々、見たんだ。お父さんが入ってゆくのも。あの人を時々、この店の前で待ってることも」
「それがお前に関係あるか? そもそも俺は無理に会ってやってんだ」
「あなたの娘だよ? 会ってやってんだ? 昔は凄かったんでしょ? 神童って騒がれてもてて優秀だったんでしょ? 雑誌のコンテストだって最終選考まで残ったってお母さんが言ってた。なのに、どうして今はそうなの? カッコ悪いよ」 
 私の声に一瞬、店員さんが躊躇して
「お待たせしました。ハンバーグ海老フライランチと唐揚げ丼ランチになります」 
 丼とランチプレートをテーブルの上に置いた。父は店員を無視して、
「俺のことをわかったように言うな!! 」 私に怒鳴った。
「娘にもそんなんだから、あんたが社会で通用するわけないじゃん!! 」 
 私にも半分かどうかはわからないけど、父の血がこの身体に流れている。父の言葉にカッとなって思わずギーギーと音を立ててハンバーグにナイフをいれた。

 父は無言でご飯の上にのっけられた唐揚げを頬張った。丼をからにしたあとで、
「とにかく、今日で最後だ。もし次に会うとしたら俺が死んだとき、お前に連絡がいくぐらいだ」
「それだけ? 合格おめでとう、とかお祝いもないわけ? お母さんに伝えることもお父さんにはないわけ? 」
「お前はそもそも俺に何を求めてるんだ? 世の中の父親像を勝手に押し付けないでくれ」
「じゃあ、簡単に若い女にいくような不甲斐ない男が子供つくるなよ!! 」 
 ナイフとフォークを皿に置いた音が冷たく響いた。この人はきっと自分のことしか見えてない。父も私も乗り気でないのに、こうやって定期的に会っていたのは、きっと母が父と繋がっていたかったからだ。そのことに気づいたのは中学生になってからだった。 父も多分、こうして嫌嫌ながら私と会っていたのはどこかでまだ母のことだけは思っているかもしれない、と淡い期待みたいなものを私もしていたかもしれない。 父とあの人が暮らす街から離れればいいものを母は私と共にずっと近くにいたんだ。いつでも父が帰ってこれるように、と。 私が食べ終わったのを見ると父は伝票を持って席を立った。私も慌ててレジへ向かった。 「ハンバーグ海老フライランチ、699円と唐揚げ丼ランチ649円で合計1348円になります」 
 父は10000円札を店員に渡して、そのおつりをレシートごと後ろを振り向いて私の手のひらにのせた。
「なにこれ? 」
「俺の人生のおつり。つまりはお前だ」 
 私はおつりを握りしめたまま、父と外に出た。店の前の花壇には紫色のこんもりしたヒアシンスみたいな花の隣に菊が小さくなったような花が咲いていた。

「ムスカリの隣にハルジオンか……」
 私にむけてなのか、父はぼそっと呟いた。
「じゃあ、父さん、元気で」
 私の声に返事はなかった。
 一瞬だけ顔を上げて私の目を睨んで団地とは反対の坂道をくだっていった。

 帰宅して、私はマットレスに寝転がってもうバラバラになる友達のグループラインに父のことを愚痴った。気がつくとそのまま熟睡していて帰宅した母がドアを開ける音で目が覚めた。

 美紀─最低だね、なんなん? それでも父親? 幸─えっ? 働いてもないの? 穂乃果(ほのか)に好きなものも食べさせることができないの? 夏美─毒親じゃん!! 優子─最低なゲスだね、ありえん。

 スマホのラインアプリを開くとメッセージが届いていた。不思議な気持ちだった。自分が火種をまいたのに、とてつもなく嫌な気持ちになった。自分が言うのはアリなのに、他人から言われるとこんなにも不快なことにはじめて気がついた。
「お父さん、どうだった? 」
「喧嘩した……、どういうつもりかわからないけど8652円くれた」
「8652円? もしかして、ランチのおつり? 」
「さすが母さん、よくわかってるね」
「わからないわよ。わかりたいけど、わからないの。お父さんのことも、お父さんに対しての自分の気持ちも。あ──、こんなことは穂乃果にはまだ言うべきじゃないわね」 
 そういうとエコバッグから買ってきたものをテーブルの上に取り出して仕分けしはじめた。 母は苦しくないんだろうか? 働いて一人が私を育てて、その横で父のことを思って──。
「お母さん、これでなんか食べに行こっか? 」 
 私は父からもらった8652円をテーブルの上に置いた。
「なんで? 」
「だってお母さん、可哀想じゃん。私のために働いて、その横であんな父のことを思って楽しいことがないじゃん」
「……」
「何? 私、お母さんに何かへんなこと言った? 」
「穂乃果、可哀想なんて口にしたら駄目。誰もそんな言葉は言われたくないし、もちろん、お母さんも言われたくない。お母さんは幸せよ。こうして穂乃果がいて仕事ができてお父さんのことだって想えることがね。まだ、あなたにはわからないかもしれないけど、記憶っていうのは支えにもなる」

 ついこの間までは夕方6時になると真っ暗だったのに窓の外はまだ明るかった。まだ私にはわからない、父のことも母のことも、いつか今日の日が記憶になって私にくっついて共に生きるとしたら、友達の言葉で腹立ったように、記憶の中から何かが滲み出てくるのだろうか?

「穂乃果、ごめん!! 海老フライ食べたんだ? バナメイエビが安かったから、晩ごはんも海老フライ」 
 母はお金の隣に置いたくしゃくしゃになったレシートを広げて私に言った。

「母さん、持っていってあげたら? お父さんにも。私がラインしようか? 引っ越すと本当に会えなくなるよ」
「きっと無理だと思うけど、じゃあ団地の前まで取りに来れるか、ラインしてみて」  母はそういうとエプロンをかけて、爪楊枝を取り出してまた板の上にパックから取り出したバナメイエビを並べた。

『ムスカリの隣にハルジオンか……』 まだ耳元に残る父の声。私は今日、そうだ、ふたつ花の名前を覚えたんだ。父に教えてもらって──。

 父が来るかどうかわからないけど、多分、私はこの日を忘れないな、と暗くなりかけた外を見ながらカーテンを閉めた。

*****

「お母さん、ただいま」
「穂乃果(ほのか)、お帰りなさい。おばあちゃんが梨、買ってくれたから冷蔵庫で冷やしてるから」
「ありがとう」
「それとね、もうすぐお父さんがここに話に来るから」
「お母さん? 」
「お父さんがね、話があるって」
「なんで、この家にお父さんを入れるの? おかしいでしょ? 若い女と付き合いたいからってお母さんと離婚して、私が高校に合格したっておめでとうの連絡もなかったし、ここに引っ越すときだって顔も見せなかった。なにより私と最後にファミレスで食事した夜、お母さんがわざわざ海老フライ揚げてお父さんに連絡したのに来なかったでしょ? お母さん、バカなの? なんでお父さんと今更話すの? 」 
 私は母の顔も見ずに自分の部屋に入った。もうすぐ? 奴がくる? クローゼットの引き出しから適当にTシャツとパンツをとって大急ぎで着替えた。椅子にかけてあったショルダーバッグにスマホと財布、ハンカチをいれて、台所にいる母を無視して私は帰宅して5分後にまた外に出た。父は多分、駅から歩いてくる。なら私は──、反対側の高速道路へと続く道の方を歩いた。まだ外は明るかった。明日から夏休みだというのについてない。

 とりあえず、ドラッグストアーの外のベンチに座った。ショルダーバッグからスマホを取り出したところで着信音がなった。母からだと思ったら、画面に表示されたのはクラスメートのタクミだった。
「穂乃果さん? 」
「はい」
「タクミです」 
「わかってるよ、登録してるし、それより何? 」
「クラスメートで海に行く件なんだけど、穂乃果さんはどうする? 」
「ごめん、私は不参加」
「わかった。ところでなんか機嫌悪い? 」
「ごめん。今、家出したところだから」
「家出? 」
「そう」
「なんで? 」
「父親がくるから。私と母親を捨てて若い女を選んだ父親が今更何? って感じで」「そっかぁ──、ねぇ? 今から穂乃果さんのところに僕が行ってもいい? 」
「なんで彼でもないのに、タクミがくるわけ? 」
「ふへっ、キツ──!! 」
「優しくされたいなら、まどかに連絡したら? 」
「いや、とにかく危ないし、行くよ。どこにいんの? 」 
「高速のインター近くのドラッグストアー」   私がそういうと通話は終了した。今頃、父親は母に何を言ってるんだろう? よりを戻したいとか? お金を貸して欲しいとか? それともあの人と再婚することになったとか? 目の前を朝顔の鉢を持って歩く親子が通り過ぎた。そうだ、物心ついたときから、全部、母1人だった。母だけで私を育ててくれた。イヤホンから、『どんなに好きでも自分を愛してくれない人からは離れる強さを』UVERworldのタクヤの声が聴こえていた。 日が完全に落ちるまであと1時間ぐらいだろうか? それまでに父は帰ってるだろうか? 目の前の道路を歩く人を、通り過ぎてゆく車を、変わってゆく夕暮れの色を、ただ見ていた。

「穂乃果さん!! 」 
 制服じゃないからわからなかった。ママチャリに乗ったタクミだった。ブカブカのロックTシャツに黒のピタピタのデニムをはいていた。
「あまりにも制服とイメージが違うから全然、気づかなかった」
「それより隣、座ってもいい? 」
「いいよ」
「よかったぁ──、家出って聞いたから、コロコロする大きなキャリーケースとか持ってるのかと思ってた」
「そこまでの家出じゃないよ。ただ、どうしても父に会いたくないだけ」
「でも、穂乃果さんのお父さんなんでしょ? 」
「だから、余計に」
「ごめん、ずっと思ってたこと言っていい? 」
「何? 」
「唾を吐きそうな子だなぁって思ってた。生意気と言うか、一人で生きていけます!! みたいな」
「だから? 」
「いや、そう思っただけ」 
「帰ってもいいよ。大丈夫だから。本当に情けとか同情とかいらないから。日が落ちる前にはちゃんと帰宅するし」
「じゃあ、僕が日が落ちる前に家まで送るよ」
「ママチャリなのに? 」
「ママチャリだから」 
 タクミがクシュと鼻ぺちゃの犬のような顔で笑うから、つい頭を撫でたくなった。いや、今はそんなことよりも、あの父のことだ。
「僕の個人的な意見だけど、大人だからってきっと大人じゃないんだよ。大人になったからってすべてが解決できるわけじゃない。当たり前とか普通とかって案外、一番むずかしいんじゃないかな? って思う」「タクミ? 何? 急に私を諭すわけ? 」
「いやそうじゃなくて、やっぱり16歳の僕たちには理解できないことがあるって思うだけ」
「ふにゃふにゃした人かと思ってたら違うんだね」
「面倒なことに巻き込まれたくないだけ。ヘラヘラしてふにゃふにゃして、どうでもいい奴って思われてたほうが楽でしょ? 穂乃果さんみたいだと敵が増えるばっかりだし」 
 なんとなくうまいことタクミのペースに巻き込まれそうで私はベンチから立ち上がった。
「タクミ、ありがとう。もう大丈夫だから」
「だから、ここからが危ないんだって!! 家まで本当に送るから」 
 タクミはそう言ってママチャリを押しながら私の隣を歩いた。
「タクミは夏休みどうすんの? 」
「決めてない。決められなくなった」
「なんで? 」
「危なっかしいのが隣りにいるから」
「私のこと、好きなんじゃないの? 」
 そこからの会話はなかった。家の門が見えたところで
「ありがとう。あの門の家だから、もう大丈夫。タクミ、気をつけて帰ってね」
「うん」 
 タクミは自転車に乗ってあっさりと帰っていった。 玄関の引き戸を開けた時、父の靴は見当たらなかった。 母が慌てて玄関へやってきた。
「どこに行ってたの? 」
「それより、あいつは? もう帰ったの? 」
「帰ったわよ」
「何の話? 」
「お金」
「まさか貸したの? 」
「違う!! ようやく社員として働けるようになってボーナスが出たからってお金を持ってきたの。両親にも頭を下げてた」 「あいつが? 」
「穂乃果に、って入学のお祝いや夏休みの小遣いももらってる」
「母さんはそれで許せるの? 簡単じゃないでしょ? 」 
「簡単にしないと生きて行けないの!! 憎んで恨んでそれだけで生きて行けるほどたやすくはないの!! 」 
 今度は母が外へ出ようとした。
「穂乃果もいつか、今日のことがわかる日がくるから!! 」 
 私を睨んで。

 私は外に出る母を止めずに家に入った。台所から祖母が 
「穂乃果、先に夕飯、食べんさい」
 私に声をかけた。テーブルの上にあの夜と同じように海老フライに塩ダレで和えたキャベツ、レトルトの小さなハンバーグを焼いたものがお皿に盛り付けられていた。「お母さんは? 」
「玄関で喧嘩して今度はお母さんが出て行った」 
 私が言うと祖母は冷蔵庫から麦茶を出しながら笑っていた。
「穂乃果、いつか全部、夏の匂いに変わるけんね。景色も今日の気持ちも全部」 
 私にはまだわからなかった。 夏の匂いに変わる日がくることが。 ただいつもと同じように座った椅子に父の重みがあった。 テーブルの上に置かれた折がついた封筒には鉛筆で穂乃果へと書いてあった。

「おばあちゃん、じゃあ、いただきます」「どうぞ──」 
 夏休みの前日、少し遅めの晩御飯を食べた日だった。 タクミが自転車を押す音と母が玄関の引き戸を開ける音、久しぶりに見た父の文字、いつか全部が夏の匂いに変わる時、全てが幸せだったいいのに、と台所へ戻ってきた母の涙を見て思った夜だった。

*引用 『EN 』UVERworld

***** 

 年金支給日の夕暮れになると隣の部屋の前に自転車が止まっていた。 母が亡くなってこのアパートに引っ越して2年、隣に住むおばあさんと俺だけしか住民がいないこのアパートもそろそろ駐車場になるから3年ぐらいを目処に引っ越しをお願いします。家賃を払いにいくと大家はそう言った。

「先が見えない付き合いにもう疲れたよ。それになんかもう格好良くない」 
 離婚させてまで俺と一緒にいたいと言っていた遥(はるか)も、俺と毎週会っていたのが月に2回になり、1回になり、別れを云うつもりでファミレスに呼び出すと店には入らず窓の外から手招きして俺にそう言った。
「ああ、わかってる。俺から別れを言うつもりだった。これで最後だな、お元気で」「そういうところよ。本当にあなたは変わらない。若い頃はそれが格好良く思えたけど30過ぎた私にはもう全然響かない。残ったのは奥さんと娘さんに対する罪悪感だけだよ」 
 他の客が入口のドアを開けようとしてるいるのに、彼女はよけようともせず、おれに言い放った。「邪魔!! 」「ごめんなさい」 彼女は俺ではなくドアを開けようとした他人に言った後、目の前の横断歩道で信号が変わるのを待っていた。

 店内に戻って彼女が歩いてゆく姿を見ていた。

『簡単に若い女にいくような不甲斐ない男が子供つくるなよ!! 』 ここで半ば義務的に会わされていた娘の穂乃果に言われた言葉が今更のように彼女の姿に重なる。それでもまだ自分の中には罪悪感というものがなかった。なるべくしてきっと俺は何度生まれ変わってもこんな感じなのだと思う。「金がない」 などと1度も俺に言わなかった母の通帳には最後、残高は10265円しかなかった。その前に社員になって働いていた自分に心底安堵した。

「もう穂乃果もひとり暮らししているし、お金もいいよ。それにわざわざ電車に乗ってこなくても振り込んでくれてもいいし」   罪悪感がないくせに、社員になって毎月定額のお金が入るようになってその少しばかりの金を数ヶ月に1回、元嫁の暮らす実家まで電車に乗って渡しに行った。あわよくば、この家に自分も住めたら、と思う最低な考えを見抜いていてもそれを絶対に口にしないのが元嫁の香乃(かの)だった。  穂乃果と最後に会った夜も『もう引っ越すし海老フライを揚げてるから食べに来ない? 』ちんぷんかんなメールをよこして、俺は『なんで? アホか。行くわけないだろう? 』優しさのかけらもない返信をした。 だから、何度かこうしてお金を持っていっても穂乃果と会うことはなくもちろん、連絡もこなかった。

「じゃあ、また」 
 最初の日だけだった。あがって料理を食べたのは。その次からは玄関で金が入った封筒を手渡してほんの1言、2言会話をするだけだった。 俺が言うとすぐにドアが閉まる。 閉まったドアに頭を下げて俺は門を抜ける。抜けるときにいつも思う。その時々でそこには地植えされた花が咲いていた。その日はムスカリだった。穂乃果と最後に食事をした日、ファミレスの目の前の花壇にはムスカリとハルジオンが植えられていた。「ハンバーグと海老フライランチ」 確かそうだ、穂乃果が頼んだのはそれで、その夜、香乃は海老フライを揚げたからってメールをくれたんだ。 もう一度、振り返って門をくぐり玄関のブザーを押す。「何? 」 泣いたあとのように目をこすりながら出てきた。 
「今日の晩飯は? 」
「ひとりだから適当」
「ファミレス行かないか? 」
「行かない」
「奢るし」
「そういう問題じゃないから。穂乃果に言われたの。お母さんは馬鹿だって。まだ恋ができるのにあんなクズに期待してって。婚活アプリでもなんでもいいから、もう自分のために人生楽しんでよって。こんなふうにあなたがいつか振り向いたとき、『行かない』って言うんだって決めていた。もうずっとずっとあの女のところへ出ていった日から」 
 そこまで深い意味で誘ったつもりではなかった。だけどそれは香乃にとって号泣するほどの時間が流れていたのだろう。 こういう空気が苦手だ。俺だけが悪者みたいに見える空気が。
「別にそこまで深い意味で誘ったわけじゃない。わかった。もう来ない。今後一切と関わらない」
「はじめから関わろうとしなかったくせに」 そう言うとドアはバンと音を立てて閉まった。  
 来たときと電車の窓から見える景色は何一つ変わってはいなかった。それでもさっきは目にとまらなかった病院の看板が、目に止まり、優先性に座っていた妊婦がお腹を撫でる姿に殴られたような気持ちになった。反省も後悔もしていない。その俺がたどり着いて今見ている景色がこれだ。

 駅についてバス停まで歩いていた。
 「父と最後に会った日に食べたのは海老フライなんだけどね」 すれ違う若い2人の会話が耳に入ってきて思わず振り向いた。 女の方だけが同じように振り向いた。
「ちょうどよかった!! 」 
 穂乃果だった。
「こんなお金、今更いらないから。もうお父さんでもないし、とにかくお母さんの目の前に現れないで!! 」 
 手渡されたのは俺が今まで渡していたお金が入った封筒だった。
「いつか会ったとき、全部返そうと思ってずっと持ち歩いていたの!! 」
「穂乃果、駄目だって、お父さんなんだろう? 」 
 見たことのない男が穂乃果の手を握っていた。その瞬間に香乃と付き合い始めた頃、こんなふうにここを歩いていたことを思い出した。
「どうやったら妊娠できるんだろう? 」
と真顔で聞いてこられてアホみたいに笑ったことを思い出した。
「悪かった、香乃にも穂乃果にも。悪かった、と今、気づいた」
「ふざけるな!! 変えれるもんならお前の血なんて身体から全部排除してしまいたい、どんだけ母さんが苦しんだのか、お前にはわからないだろ? 今更、気付いたなんて簡単に終わらすなよ」
「穂乃果、落ち着け」 
 穂乃果は繋がれた手を弾くようにして俺の足を蹴った。

 晩御飯の買い物もせずに帰宅してただ煙草を吸っていた。1円たりとも使わず、ただ封筒だけが色褪せ、しわがつき、オレに返されることを鞄の中で待っていたのだろう。
「おかえり」 
 金に言ったところで返事はなかった。
 『どんどん どんどん』 
 日が落ちる前、ドアを叩く音がした。開けると隣のおばあさんだった。

「来る予定だったんだけどね、息子が来ないから、これ食べてくれる? 」 
 差し出されたのは359円の値札シールがついたカツオのタタキだった。
「あっ、どうも、じゃあいただきます」
「なんか、元気ないけど、これ食べて元気だしてね」 
 おばあさんはそう言って自らドアを閉めた。 とりあえず冷蔵庫にカツオのタタキを入れてもう日が暮れるのに俺はそのまままた畳の上に寝そべっていた。

『どんどん どんどん』 
 またおばあさんかよ? ドアを開けてみると香乃だった。
「穂乃果の彼から電話があって話を聞いて──」 
 差し出されたのは弁当だった。
「ご飯は冷たくなってるけど、海老フライ揚げたから」
「カツオ、カツオのタタキ食べるか? 」  
 俺はまた冷蔵庫を開けた。 
 そして来たこともなかったはずなのに、香乃は畳の部屋のちゃぶ台に弁当を取り出し、橋を並べ鞄の中から水筒を取り出した。まるで、はじめから一緒に食べるみたいに。 そして言ったんだ、
「穂乃果が返したお金で旅行行きましょうか? どこがいいかな? 鰹のたたきが美味しいのは高知だよね? 」
「アホかっ。これはもうパチンコで使う」  
 シンクの上に置きっぱなしにしていた100円の小皿にタレをいれながら、その日、はじめて聴こえた音があった。

 それは川の水が流れる音にも似た水洗トイレの水が流れる音だった。 

 

 

 

  
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