箱庭物語

晴羽照尊

文字の大きさ
上 下
273 / 385
台湾編 序章 ルート1

蠱惑の泉

しおりを挟む
 台北最北部、北投ほくとう区。

 日本と同じく、環太平洋火山帯に位置する台湾は、それゆえに、温泉大国でもある。島内に百ヶ所以上もある温泉地。その中でも、最も早く発見された老舗温泉宿。それこそが北投にある『北投日勝生にっしょうせい加賀屋かがや』だ。
 この名に、違和感を覚えた読者もいるかもしれない。、と。ご明察である。

 この温泉宿――当時は『天狗庵』という名称だったが、一世紀少し前に、日本人により発見され、開業された宿なのだ。というのも、当時の台湾は、日本による統治時代。人も文化も、多くが、日本から台湾に流入した時代なのである。

 こうして、温泉という文化も、台湾に流れ入った。その始まりがいまでは、日本の、石川県にある有名温泉旅館、『和倉わくら温泉加賀屋』の唯一の海外系列店として、台湾屈指の高級温泉宿へと成長したのである。

 ゆえに、その接客は、『おもてなし』の精神を体現した日本式だ。接客に限らず、繊細優美な和食。客室も、畳を敷き、ゆったりとくつろげる日本風のものが多くある。日本庭園を模した宴会場すらあり、日本に生まれ育った者であれば、外国に来ていることすら忘れるのではないかというほどの、和風旅館であった。

「あ、あ、あ、ああああぁぁぁぁ――――」

 思わず漏れる声が抑えられないように、男は、腹の底からの唸りを上げた。長旅の疲れと汗を流し、至福のときである。煙幕のような湯気に満たされた浴場では、夢も現も混然としたような、まどろみのようでもあった。

 とはいえ、気を抜いてばかりもいられない。そんなことは解り切っているのだが、それでも、的確にツボをついてくる攻勢に、男はなすすべもなく悶えていた。

「ああああぁぁ――そこそこそこそこ――――」

 むず痒いような、痛気持ちいいような感覚が、全身を巡る。ほぐれていく。というのは、まさに言い得て妙だ。この快楽の中では、緊張することすら許されない。いくら相手が、特段に親しくなく、乱暴に言ってしまえば敵のような存在だとしても、うまく警戒が働かない。

「気持ちいいですか? ハク様」

 腰に体重をかけるついでとばかりに、彼女は男の耳元にささやきかけた。その声音がまた、絶妙に心地よい。

「あ、ああああああぁぁ……」

 肯定なのか、喘ぎ声なのか解らない声を、男は唸る。どちらにしたところで、ネガティブな感情ではなかった。
 だから男にささやきかけたあるじは、くすり、と、笑う。

「はい。全身マッサージの完了です、ハク様。お疲れさまでした」

 最後にやや強めに男の肩を叩き、そばかすメイドは男の背から退く。「ああぁぁ――ああぁ――――」と、名残惜しそうに男は唸り、少しの間そのまま、動かなかった。

        *

 一般的な台湾での温泉地では、多くが、混浴を基本にしている。男女ともに水着を着用し、同じ湯につかる。日本人の感覚としては、温泉というより、温水プールに近いかもしれない。日本よりよほど気候が温暖な台湾の湯はぬるめで、その点においてもそのように感じるだろう。

 だが、この『北投日勝生加賀屋』は、日本風の温泉宿だ。つまるところ元来、男女別の浴場となっている。しかし、この日はそばかすメイド――あるいはWBOの計らいで、宿を貸し切っていた。それにより、男とそばかすメイド、そして女傑は、ともに入浴しているという構図となっているのである。
 もちろん、水着は要着用だ。

「ああぁ……すげえ……。すげえってかやべえ。ぜんぜん体に力が入らねえ」

 マッサージからややあって、男はずるずると、四足歩行で湯船に戻ってきた。そのまま、なだれ込むように入浴する。

「なにを腑抜けとんねん、ハク。解っとるはずやけど、いちおう、あいつは敵やねんで」

 長い前髪を湯につけた女傑が、その隻眼で、男を侮蔑するように見下した。『あいつ』は男のマッサージを終えたのち、体を洗いに隣の浴場へ行ってしまった。おそらく体を洗うために水着を脱ぐからだろう。

「解ってるよ、警戒はしてる」

 ほんまかいな。と、女傑は内心突っ込むが、たしかにどうやら、警戒を怠ってはいけない、という意識自体は感じたので、言葉は飲み込んだ。あくまで意識のみで、結果は出せていない様子ではあったが。

「だが、おまえもいちおう解っとけよ。あくまで『異本』の件については、平和的な交渉として来てるんだ」

「やけど、今回ばかりは、実力行使もやむを得えへん。そうやろ?」

 女傑の言葉に、男は瞬間、口を噤む。そして念のため、周囲を――隣の浴場の様子を、窺った。いや、この会話の傍聴に関する警戒は、女傑がしているだろうとは、解ってはいるのだが。

「ここまで、776冊、そのすべての『異本』蒐集に肉薄してる時点で奇跡だ。そして、ここにWBOの持つすべてを加えれば、本当にほぼすべての『異本』が集うことになる。ノラの話だと、たしか――」

「行方不明の『異本』が、あと、二冊や」

 女傑が話を引き継いだ。それはどこか、少女の名を忌避するような、そんな口の挟み方だった。

「俺の持ってねえ『異本』の、ほぼすべてがWBOここにある。『無形異本』は『先生』が完成させ、現状、個人所有になっている『異本』も、WBOここに集いつつある。……だよな?」

「ああ。……うちの感覚からすると、個人所有やった三冊の『異本』。そのうち二冊は、現状でもう、集っとる。最後の一冊も、そろそろやろ」

 個人所有、最後の一冊。その言葉に、男は、思いを馳せる。

織紙おりがみ四季しき、か。あいつもここに来んのか?」

 それは、幸であるか不幸であるか、いまいち決めきれない情報だった。かの青年は、女を追っている。それはつまり、男たちとも敵対していると言っても、そうおかしな表現ではないだろう。いや、それ以前に、生きていたとはいえ、彼は、老人の仇だった。それはやはり、男から見れば、敵に違いない。『太虚転記たいきょてんき』をわざわざ持ってきてくれるのは、手間が省けるというものだ。しかし、とはいえ、彼の強さを聞く限り、必ずしも打倒し得るとは限らない。そのうえ、話が通じる相手だとも、思えなかった。

「微妙なんやよなぁ。ぶっちゃけ、あいつの行動原理が、うちにはよう解らん」

 女傑は、両手を後頭部で組み、天井を見上げるようにして、言った。水着を着用しているとはいえ、その豊満――というよりもはや、巨大すぎる胸の脂肪が湯船に浮かぶので、男は目のやり場に困る。

「そりゃ、面識ねえだろ。解らねえほうが普通だ」

 女傑の洞察眼が、幼少のころと比べれば天と地ほどに卓越したことは、男も理解している。だが、どれだけ、世界に溢れる情報や、誰かからの外聞、これまでの行動の流れを見知っていても、やはり、本人に会っているかどうかは、その者を理解するのに重要なファクターだろう。百聞は一見に如かずともいう。

「せやな」

 端的に言うと、女傑はふと、ぶくぶくと、湯船に潜ってしまった。……そしてそのまま、出てこない。

「おい、パララ?」

 彼女のいたあたりを手探りするが、なににも触れられなかった。滅多なことはないだろうが、どうしたのだろう? そもそも彼女ほどの高身長な女性が、素潜りできるほど深くもないはずなのだが。

「あら、なんの悪だくみですか、ハク様」

 不意に後ろから、彼女は声をかけた。だから男は反射的に姿勢を正し、緊張した。

 声の主は、もちろんそばかすメイド……だろう。まだ振り向いていないので、確認はできていないが、確信はできる。
 ぽちゃん。と、静かに湯に入る音が、男の背後で波打った。

 ともすれば、彼女の姿を確認し、女傑はどこかへ移動するため、素潜りしたのだろうか。周囲を軽く見渡してみるが、どこにも顔を出した様子はないけれど。まあ、女傑なら、長時間の素潜りも可能なのだろうし、とうぶん、そのへんに潜り続ける気かもしれない。

「べつに、なんでもねえ。詮索すんな」

 そばかすメイドは、広い大浴場であるのに、男のすぐ背後に入浴したらしいので、男はやや距離を取り、さきほどまで女傑がいたあたりに移動した。それからようやく振り向くと、たしかにそこにはそばかすメイドがいた。女傑とは違い、しっかと長い髪を上で纏めて、湯船につけないようにしている。印象的な丸眼鏡も、もちろん外しており、だいぶ雰囲気が変わっていた。

「そう言われますと、逆に気になってしまいますね。ねえ、ハク様?」

 せっかく距離を取ったというのに、そばかすメイドは寄ってきた。男の横にすり寄り、湯船の中で、その腕に、自らの腕を絡めた。あるいは、決して大きくはない、胸部をも。

 その感触に、男は狼狽する。けっして、女性の胸部に欲情したわけではない。いや、ある意味ではそれも正しいのだけれど、問題は、その、肌触りだ。

 こいつ、水着、着てるか? そう疑問を持つ。腕に触れる感覚は、肉体の肌の感触しか感じられなかった。だからといって、確認するのに視線を向けるわけにもいかない。男は改めて、頭がぼうっとしてきた。

 そもそも、目的地が温泉ということで、男はやや、安堵していたのだ。当然と、男女の分かれた大浴場を想像していたから。ようやくそばかすメイドからの監視を、ひとときでも躱せると。その隙に、軽くまどろんでおこうと思っていたのだ。そろそろ、男の眠気も限界なのである。

「ね、わっちにだけ、こっそり、教えて?」

 身を寄せ、女性の柔らかい肌を絡ませ、男の耳元に、囁く。くらくらとするほど濃い、女性の匂い。もちろんそんなことで、男は口を割る気もなかったが、こうやって主導権を握られ続けるのもまずい気がした。

 なにか、言い返さねばならない。なんでもない、と、強く拒絶しなければならない。そう思うが、眠気も相まって、強く感情を荒立てることが、できない。ほぐされた体が、まだ引き締まってもいない。気を抜けばこのまま、なにもかもしゃべってしまいそうだ。

「フルううぅぅアあぁ! おんどれぇ! いい加減にせえよぉ!!」

 潜ったまま、どこにいたのか、唐突に女傑は、水中から勢いよく現れ、叫んだ。その声に、さすがの男も、覚醒し、気を――体を引き締める。

「なぁんや、パラちゃん。おったん?」

「おるに決まっとるやろぉが! いてこますでほんまぁ!」

 男を挟んで、女子ふたりが取っ組み合う。その狭間で、男の頭は押さえられ、沈められ――。彼の意識はとうとう、虚空へ旅立って行った。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

もふもふ相棒と異世界で新生活!! 神の愛し子? そんなことは知りません!!

ありぽん
ファンタジー
[第3回次世代ファンタジーカップエントリー] 特別賞受賞 書籍化決定!! 応援くださった皆様、ありがとうございます!! 望月奏(中学1年生)は、ある日車に撥ねられそうになっていた子犬を庇い、命を落としてしまう。 そして気づけば奏の前には白く輝く玉がふわふわと浮いていて。光り輝く玉は何と神様。 神様によれば、今回奏が死んだのは、神様のせいだったらしく。 そこで奏は神様のお詫びとして、新しい世界で生きることに。 これは自分では規格外ではないと思っている奏が、規格外の力でもふもふ相棒と、 たくさんのもふもふ達と楽しく幸せに暮らす物語。

夜遊び大好きショタ皇子は転生者。乙女ゲームでの出番はまだまだ先なのでレベル上げに精を出します

ma-no
ファンタジー
【カクヨムだけ何故か九千人もフォロワーがいる作品w】  ブラック企業で働いていた松田圭吾(32)は、プラットホームで意識を失いそのまま線路に落ちて電車に……  気付いたら乙女ゲームの第二皇子に転生していたけど、この第二皇子は乙女ゲームでは、ストーリーの中盤に出て来る新キャラだ。  ただ、ヒロインとゴールインさえすれば皇帝になれるキャラなのだから、主人公はその時に対応できるように力を蓄える。  かのように見えたが、昼は仮病で引きこもり、夜は城を出て遊んでばっかり……  いったい主人公は何がしたいんでしょうか…… ☆アルファポリス、小説家になろう、カクヨムで連載中です。  一日置きに更新中です。

18禁NTR鬱ゲーの裏ボス最強悪役貴族に転生したのでスローライフを楽しんでいたら、ヒロイン達が奴隷としてやって来たので幸せにすることにした

田中又雄
ファンタジー
『異世界少女を歪ませたい』はエロゲー+MMORPGの要素も入った神ゲーであった。 しかし、NTR鬱ゲーであるためENDはいつも目を覆いたくなるものばかりであった。 そんなある日、裏ボスの悪役貴族として転生したわけだが...俺は悪役貴族として動く気はない。 そう思っていたのに、そこに奴隷として現れたのは今作のヒロイン達。 なので、酷い目にあってきた彼女達を精一杯愛し、幸せなトゥルーエンドに導くことに決めた。 あらすじを読んでいただきありがとうございます。 併せて、本作品についてはYouTubeで動画を投稿しております。 より、作品に没入できるようつくっているものですので、よければ見ていただければ幸いです!

婚約破棄されたので暗殺される前に国を出ます。

なつめ猫
ファンタジー
公爵家令嬢のアリーシャは、我儘で傲慢な妹のアンネに婚約者であるカイル王太子を寝取られ学院卒業パーティの席で婚約破棄されてしまう。 そして失意の内に王都を去ったアリーシャは行方不明になってしまう。 そんなアリーシャをラッセル王国は、総力を挙げて捜索するが何の成果も得られずに頓挫してしまうのであった。 彼女――、アリーシャには王国の重鎮しか知らない才能があった。 それは、世界でも稀な大魔導士と、世界で唯一の聖女としての力が備わっていた事であった。

【完結】魔物をテイムしたので忌み子と呼ばれ一族から追放された最弱テイマー~今頃、お前の力が必要だと言われても魔王の息子になったのでもう遅い~

柊彼方
ファンタジー
「一族から出ていけ!」「お前は忌み子だ! 俺たちの子じゃない!」  テイマーのエリート一族に生まれた俺は一族の中で最弱だった。  この一族は十二歳になると獣と契約を交わさないといけない。  誰にも期待されていなかった俺は自分で獣を見つけて契約を交わすことに成功した。  しかし、一族のみんなに見せるとそれは『獣』ではなく『魔物』だった。  その瞬間俺は全ての関係を失い、一族、そして村から追放され、野原に捨てられてしまう。  だが、急な展開過ぎて追いつけなくなった俺は最初は夢だと思って行動することに。 「やっと来たか勇者! …………ん、子供?」 「貴方がマオウさんですね! これからお世話になります!」  これは魔物、魔族、そして魔王と一緒に暮らし、いずれ世界最強のテイマー、冒険者として名をとどろかせる俺の物語 2月28日HOTランキング9位! 3月1日HOTランキング6位! 本当にありがとうございます!

親友に彼女を寝取られて死のうとしてたら、異世界の森に飛ばされました。~集団転移からはぐれたけど、最高のエルフ嫁が出来たので平気です~

くろの
ファンタジー
毎日更新! 葛西鷗外(かさい おうがい)20歳。 職業 : 引きこもりニート。 親友に彼女を寝取られ、絶賛死に場所探し中の彼は突然深い森の中で目覚める。 異常な状況過ぎて、なんだ夢かと意気揚々とサバイバルを満喫する主人公。 しかもそこは魔法のある異世界で、更に大興奮で魔法を使いまくる。 だが、段々と本当に異世界に来てしまった事を自覚し青ざめる。 そんな時、突然全裸エルフの美少女と出会い―― 果たして死にたがりの彼は救われるのか。森に転移してしまったのは彼だけなのか。 サバイバル、魔法無双、復讐、甘々のヒロインと、要素だけはてんこ盛りの作品です。

妾の子だった転生勇者~魔力ゼロだと冷遇され悪役貴族の兄弟から虐められたので前世の知識を活かして努力していたら、回復魔術がぶっ壊れ性能になった

SOU 5月17日10作同時連載開始❗❗
ファンタジー
◆2024/05/31   HOTランキングで2位 ファンタジーランキング4位になりました! 第四回ファンタジーカップで21位になりました。皆様の応援のおかげです!ありがとうございます!! 『公爵の子供なのに魔力なし』 『正妻や兄弟姉妹からも虐められる出来損ない』 『公爵になれない無能』 公爵と平民の間に生まれた主人公は、魔力がゼロだからという理由で無能と呼ばれ冷遇される。 だが実は子供の中身は転生者それもこの世界を救った勇者であり、自分と母親の身を守るために、主人公は魔法と剣術を極めることに。 『魔力ゼロのハズなのになぜ魔法を!?』 『ただの剣で魔法を斬っただと!?』 『どうやってあの年齢であの強さを手に入れたんだ……?』 『あいつを無能と呼んだ奴の目は節穴か?』 やがて周囲を畏怖させるほどの貴公子として成長していく……元勇者の物語。

伯爵夫人のお気に入り

つくも茄子
ファンタジー
プライド伯爵令嬢、ユースティティアは僅か二歳で大病を患い入院を余儀なくされた。悲しみにくれる伯爵夫人は、遠縁の少女を娘代わりに可愛がっていた。 数年後、全快した娘が屋敷に戻ってきた時。 喜ぶ伯爵夫人。 伯爵夫人を慕う少女。 静観する伯爵。 三者三様の想いが交差する。 歪な家族の形。 「この家族ごっこはいつまで続けるおつもりですか?お父様」 「お人形遊びはいい加減卒業なさってください、お母様」 「家族?いいえ、貴方は他所の子です」 ユースティティアは、そんな家族の形に呆れていた。 「可愛いあの子は、伯爵夫人のお気に入り」から「伯爵夫人のお気に入り」にタイトルを変更します。

処理中です...