箱庭物語

晴羽照尊

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ヤップ編

沈む。息を吸う。

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 さて、今回の『異本』蒐集に至るまでの経緯――どうしてこのようなメンバーになったのか、なぜ優先的にこの場所へ赴いたのか――を、少しだけ、語ろう。
 そもそも少女は焦っていたはずだ。とある『異本』が、とある人物の手に渡ってしまう可能性を危惧して。では、今回の蒐集対象が件の『異本』であるのか? いや、実のところそれが、のだ。

 もはや彼らが蒐集した『異本』の数は、全体776冊の内、722冊に到達した。これは、男たちが地下世界シャンバラから帰還したときに、少女が「蒐集した」と言って提示した715冊、ここから女が持って行った『嵐雲らんうん』、若者が持っているはずだと期待していた『太虚転記たいきょてんき』をマイナスした713冊に、EBNAで手に入れた6冊と、狂人ネロから奪った3冊を足した数字である。つまり、残りは54冊だ。

 このうち、少女の把握している限りにおいて所在を掴めているのが51冊。暫定的に、WBOに22冊、『本の虫シミ』に12冊、残りは、個人所有が6冊、いまだ所有者が定まらず存在しているものが11冊。この11冊のうち10冊は、ワンガヌイにある『Te waiワイ ma』のように、無形に存在する『異本』であり、蒐集するという物理的な措置が取れない。であるので、それはいったん保留として扱い、無所有の最後の1冊を、今回は回収に来たのだ。

 それこそが、ミクロネシア連邦、ヤップの海に沈む、『啓筆けいひつ』序列十五位、引力の『異本』、『Stoneストーン 〝BULKバルク〟』だ。

 これは名の通り、石の形をした『異本』。しかも、巨大なの形をした一冊。

 そう、『石貨』だ。ヤップ島にて先住民が用いる貨幣、『フェイ』。『大きく、硬く、厚い石からできた、車輪の形をした貨幣』。一般的に30センチから4メートルもの大きさが存在するとされているが、今回の蒐集対象『Stone 〝BULK〟』は、全長約6メートルにもなるという規格外の大きさだ。もちろんその分、重量もすさまじい。サルベージするにも相応の設備が必要となり、その点は、男の財産を思えば十分可能ではあるのだが、やや時間がかかる。だから今回は、『箱庭図書館』の蒐集機能を用いて、引き上げるまでもなく直接に回収しようという試みなのである。
 しかし、直接回収すると言っても、そう、ことは容易ではない。『箱庭図書館』の特性上、『異本』をその内に回収するには、『箱庭図書館』を持った状態でその者が、直接に蒐集対象に触れる必要がある。であるのに、『BULK』はヤップ島西方沖数キロ、その海底、の位置に沈んでしまっているのだ。

 深海は、いまだに探索され尽くしていない。その環境、生物、あるいは、沈没した過去の遺産。それらを完全に研究するには、いまだ技術が足りないのだ。

 深く、深くへ潜るごとに、生物には抗えない『重み』が加算されていく――水圧だ。潜水深度を10センチ増すごとに、水圧は一気圧ずつ増加する。と言われてもよく解らないが、ともあれ、深く潜るほどにその物体にかかる力は増していく、ということである。これは、減圧症や肺圧外傷、空気塞栓症などを引き起こす原因となる。この問題のせいで、人間が生身で活動できる深度は、せいぜいが700メートルとされている。実際の記録としては500メートルそこそこだ。

 つまり、今回の蒐集対象、『Stone 〝BULK〟』が沈んだ、深海1000メートルには、現状、人体にて到達するにはあまりに危険なのである。

「だから、可愛いわたしがひとりで行くって言ってるでしょうが! わたしなら深海1000メートルでも余裕で耐えられるわよ! たぶん!」

「だから、おまえひとりを行かせられるわけないだろうが! 人体の限界まで到達できようがおまえは人間だ! 前人未到の危険地帯にまで行かせるわけにはいかねえ!」

 男と少女は、いつも通りだった。

「ああ、もうっ! 聞き分け悪いわね! 子どもじゃないんだから論理的に、効率的になりなさいよ!」

「知るか! 俺は確かにガキじゃねえが、おまえの父親だ! どこの世界に大事な娘をひとり、危険なところに行かせる父親がいるってんだ!」

「んなっ!」

 少女は白い肌を紅潮させて、言葉を失った。自らの言葉をだんだんと把握して、男も紅潮する。

 で、まあいろいろあって、深海1000メートルにふたりで到達するために、ある者の力を借りることとなった。それが、『本の虫シミ』に所属する幹部のひとり、アリス・L・シャルウィッチなのである。

        *

 メンバーについては、他、幼女と男の子、そして女の子という組み合わせである。これにも少し理由があった。

 ひとつ。幼女に関してはせっかくなので、いろんな世界を見る一環で連れて行きたかった。そしてふたつめ。一度、ワンガヌイの家に彼らは帰ったのだが、そこにいたのは、女の子、シロと、淑女、ルシアのふたりだけだったのである。

 そうだ。若者、稲雷いならいじんが死亡したことはもう、ローマからワンガヌイまでの道中で周知したが、他の者、特に、自宅警備員すらいないという驚愕の事態に陥っていたのだ。

「あーしも最初は、ローマの、おじいさんのお屋敷にお世話になっていたんですけど、ある日、カナタから連絡があって――」

 ごめん。どうしても少し出なくちゃいけなくて、シロのお世話をお願いできない? そう、麗人は言ったそうだ。どうにも焦ったような様子で。

 それを聞いて、少女は嫌な予感がした。たぶんとうぶんは大丈夫だけれど、無茶をしなければいいが。と。自宅警備員――を、もうやめた彼女と、麗人を思う。

 が、それもいまは、構っていられる時間がない。

「悪かったわね、ルシア。シロの世話は大変だったでしょう?」

「ううん。あーしはシロちゃんとは仲良いから――ハルカもカナタも、仲が悪いことはないだろうけど、あーしの方がよく遊んであげてたと思うし、そんな大変じゃなかったよ?」

 とは言いつつも、さすがに家事全般をしつつの女の子の世話だ、やや憔悴が見て取れる。
 だから、少女もそれ以上を求めるには気が引けた。

「……ともあれ、ありがとう。ここからはわたしが引き受けるわ。すぐ次の『異本』蒐集に向かうけれど、シロと、クロも連れて行くから、あなたはとうぶん、くつろいでなさい」

 安堵したように、淑女は頷き、肩を降ろす。しかし、別の問題について彼女はすぐ思い至り、また緊張を増した。

「あ、でもノラねえ、にぃにのことは――」

 言いかけて、言葉を飲み込んだ。なぜなら、目の前にいる、いつも優しい少女が、なぜだかものすごく不機嫌そうに苛立って、なんならやつあたりに誰彼かまわず、ぶん殴りそうな圧を放っていたから。

「は? 誰それ?」

 少女は笑顔で、そして吐き捨てるように、そう言った。

        *

 そして、どうして今回、優先的にヤップを訪れ、『Stone 〝BULK〟』を蒐集に赴いたのかを説明しておこう。

 少女は焦っていた。ある人物が、ある『異本』を手に入れようとしている。それは、の流れだった。すなわち、偶然その人物は、その『異本』を手にしそうな状況だった、と、そう言いかえるべきなのである。だが問題は、その人物とは誰で、その『異本』とはなんなのか。それが少女をもってしてもいまだ、ということだ。

 つまり少女は、起きるかどうかも解らない事態に焦っているのだ。ある人物がある『異本』を手にしてしまうと、取り返しがつかなくなる、と。少なくとも、相当に面倒なことにはなる、と。それはまさしく、『月が落ちてくるのではないか?』と悩むほどの杞憂ではあるのだが、身体も頭脳も、極限まで高めた少女の――自分自身の感じた直観だ、完全に無視できるほど信憑性が薄いとも言い切れない。そう、少女は思うから、特段にはっきりとした確信がなくとも、焦っていたのである。

 そもそも、少し周囲の環境を観察するだけで、数か月、数年の、かなり広大な世界の情報を把握できる少女である。その少女をもってして、詳細どころか輪郭すら掴めない存在とはどのようなものなのか? 当然と少女には解らない。

 あるとしたら、認識を操るもの。『異本』にも、他者の認識に関与するものはいくつか存在する。そしてあるいは、そういう『人間』も、いるのかもしれない。徹頭徹尾、いついかなるときでも、不特定多数を相手取って、自らを認識させないように生き続ける人間。――考えるだにそんな存在、いるとは思われないが、それでも、そんな人間がいたなら、世界に、その者の存在は、残り香すらとどまらない。
 そうだな。たとえば――少女が思うレベルには遠く及ばないが、稲雷塵はそういう人間ではあった。特段の意味もなく人とは違うことをやり通し、無為に他者を翻弄するような。そういうふうに無意味に徹底して、自らを世界から隠し続ける人間がいたとしたら――少女の感じる焦りにも、一定の説明ができるのかもしれない。

 ともあれ、少女はそんな不確定な焦りに従い、『異本』集めを急いでいた。では、今回の蒐集対象がその、ある者の手に渡ってはいけない『異本』なのだろうか?
 それについても、解らないと言う他ない。そもそもその者自体が不鮮明なのだ。『異本』の力は、誰が扱うかで大きく変貌するものである。特に、『適性』ではなく『適応』となれば、なおさら。だから、誰を危険視しているかすら解らない現状、どの『異本』に関しても警戒はすべきである。とはいえ、現地に赴いて現状、少女は『この『異本』じゃない』と感じ始めているが。

 というのは、現地についてからの話。まだいくつか選択肢を残した状況であえて、『BULK』を選んだ理由は、単純に、少女の把握しているうちで唯一、所有者の定まっていない『異本』で、かつ、有形に存在していたから、というだけである。

        *

 この退屈な前日譚の最後に、もうひとつ、かの狂人ネロのその後について語っておきたい。……いや、本当ならばそれよりも、女や青年のことについて言及すべきではあるのだが――それはもう少しあとに譲ろうと思う。
 結論から言うと、狂人のことは無傷で解放した。いや、そもそも大重傷を負っていた狂人ではあるのだが、それ以上、男たちからの危害はまったくなく、解放した、という意味である。

「いいのかァ? 俺を野放しにするってこたァ、人間はこれからも殺され続けるってことだぜぇ?」

 拘束を解き、面と向かっても暴力に打って出ず、狂人はただ、言葉を向けた。まあもちろん、対面する男のそばには少女を筆頭に、その場の最大戦力が揃い踏みであったので、『異本』を失った狂人相手であるから、さすがに負けはないと思われたけれど。

「知ったこっちゃねえな。俺は別に、人間が死のうが生きようが興味ねえ。ただ今回は、お互いに運悪く、すれ違っただけのことさ」

 EBNAでの――エディンバラでの出会いを思い出す。いまだにそれだけで、身も震えるような恐怖を思い起こすけれど、しかし、殺したいとまでは、もう、少なくとも男は思っていなかった。

 炎を操り、炎球を落とす『異本』、『噴炎ふんえん』。彼がその使い手であるということは、つまり、でもあるのだろうけれど、それも、もう、過ぎたことだ。少女の気持ちまでは解らないけれど、男としてはもう、それはいい、と、思えた。

 殺すほどのことじゃない。いや、彼は死んでしかるべきだとは思う。しかし、自らや、自らの大切な家族たちの手を汚させることの方がよっぽど、男としては怖かった。血の汚れは、そう易々とは落ちないのだから。

「ンじゃあ、まあ、行くわ」

 狂人は言って、歩き出す。その背を見ているとなぜだろう? 男はなんだか、もの悲しさを感じてしまった。
 ぎゅっ、と、不意に少女が、そんな男の手を握る。

「これでよかったのよ」

 そう言った。ああ、そうだな。と、男は思う。

 狂人が言っていた、「おまえは俺とは対極の存在だ」という言葉は、つまり、同族だということ。一歩間違えれば男も、ああなっていたかもしれないという、ひとつの形だ。人間は、なんて醜いのだろう。こんな生物、滅べばいい。そう思ったことは、一度や二度ではない。かつての男にとっては、しごく当然な思考。それをずっと引きずっていくと、ああなっていたのかもしれない。
 もちろん、天性の才能が足りず、あれほどまでに戦闘において強くはなれなかったろう。それでも、世を恨む気持ちは増幅し続け、ただただ暗い世界で、果て無く憤慨の中で暴れ、死んでいったに違いない。

 そんな自分の影を見た気がして、男は、震えた。その振動を少女が半分、引き受けてくれたから、一緒に悲しむことができた。少女が感じた、両親や故郷を蝕まれた痛みも、それでも、これからの自分たちのために、狂人を赦そうと思った、葛藤も、一緒に。



 新しいお父さんがいるから、だいじょうぶ。

 大切な娘がいるから、大丈夫。



 そう、互いに思って、だからほとんど関係はないのだけれど、男と少女は少しだけ、人間を、好きになった。


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