王女と騎士の逃走劇

弥生

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1.月明かりのない夜に

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「クーちゃん、私を食べるの?」
『うむ。それが契約だからな』
「わかった……それなら、約束してね。あのね……」

 小さな少女が囁く。


『盟約をもって、その言葉守ろう』




 それは、深い闇に包まれた夜のことだった。
 星明かり一つ無い、新月の夜。

「いまだ火の手は挙がっておりませんが、いずれここも……」
「なんてことだ! 奴らが進行を始めてまだ二日しかたっていないというのに……」
「念入りに準備をしてのことでしょう。休戦条約を当てにし過ぎておりましたな」
「城の者を逃がすのに時間が足らぬ! ああ、なんということだ」

 初老の臣下からもたらされる報告に、見目美しい青年は項垂れる。
 青年はくしゃりと前髪に手を差し入れ、どうにもならない事態に深くため息を吐く。
 美しい蜜色の髪に琥珀の瞳はこの国ではよくある色。
 けれども、その相貌はだれもが振り返るような美しさだった。

「妹のリステインの逃げる準備は……」
「とうにできております」
「……リーシャは」
「こちらに向かっているかと」


「アルス殿下!!」
 その時、凛とした剃刀のような声が青年を呼ぶ。

 森の奥から現れたのは、冴えわたる月のような美貌の青年だった。
 その右手には、眠っていたところを起こされたのか、ぼんやりとした少女の小さな手が握られていた。

「ヒスクライヴ、間に合ったか!」
 殿下と呼ばれた青年は暗がりから妹の手を引いてきた護衛騎士に安堵の声を上げた。

「これは……いったい……?」
「バルト帝国が攻めてきた。じきにここも落ちるだろう」
「では、私も戦います」

 ヒスクライヴと呼ばれた25、6の青年は躊躇う事無く前線に出る事を提示した。
「いや、君にはリーシャを守って逃げてもらいたい」
「しかし……っ」
「君の力を借りる事が出来れば、我々にとって心強い。……けれども、リーシャにとっても必要なものだ」
 リーシャと呼ばれた少女はぼんやりと目を向ける。
 どうしてここに連れてこられたのか、理解できていない様子だった。

「お兄様は、逃げないの?」

 アルスはしゃがみこんで目線をリーシャに合わせると、ほほ笑んだ。
「私にはしなければならないことがあるからね」

「でも……」
「リーシャ、生きなさい。生きて、人としての幸せを全うするんだ。それが、お前の役目だよ」
「お兄様……」
「ヒスクライヴ、頼む。妹を、どうか生かしてくれ。そして市勢の中で幸せを掴ませてくれ」
「アルス様……」

 殿下と呼ばれた青年の強い眼差しは死を意識したもの。
 彼は理解していた。小国では攻めて来た帝国に太刀打ちが出来ない事。
 ……そしてここに残る者は生き残れないだろうという事も。

 ヒスクライヴはぐっと奥歯を噛みしめると忠義を誓うように頭を垂れる。

「必ずやリーシャ様をお守りし、幸せにすると誓います」
「お兄様!!」
 リーシャはぽろぽろと涙を流す。
 告げられた兄の言葉で、この別れが今生の別れになると悟っているかのように。

「リーシャ、すまない。私は決していい兄ではなかったね。どうか、どうか幸せにおなり。お前にはその権利がある」
「お兄様……っ」
「ヒスクライヴ、当面の路銀と王家に伝わる琥珀の指輪だ。路銀に困ったら売りなさい。あと、もう一人連れ出してほしい娘がいる。乳母のサラの娘のマリアだ。彼女はよくしつけられているし役立つと思う。正しく使いなさい」
「アルス様……承知いたしました。さぁ、リーシャ様、いきますよ」
「でも、でもヒズ、お兄様が……お姉さまも……」
「大丈夫だ。リステインも別で逃がす予定だ。運命が重なるとき、また彼女と出会えるだろう」

 ヒスクライヴに引きずられるように歩みだすリーシャ。
 その手は兄を求めて差し伸ばされる。

 アルスは堪らなくなったように駆けだすとリーシャを一度だけ抱きしめた。
 そして、「どうか幸せに」と囁くように呟くとリーシャを離した。


 その囁きは祈りにも似ていた。




 その夜、小さいながらも秩序と信仰に厚かった国が地図から姿を消した。


 星明かりひとつない、夜のことだった。

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