【完結】断罪を乞う

弥生

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16.人事天命

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16.人事天命──神崎望かんざきのぞむの場合

 梅雨が終わり、夏の兆しを感じ始める頃。
 雨の気配が消えた風には、からりとした爽やかな空気が含まれていた。

 もうすぐ、夏が訪れる。


「数科目、赤点ギリギリですね」

「あら、まぁ」
「ぐぎゅぅぅ」
 ……その前に、三者面談を乗り越えないといけないけれど。

「神崎君は中間テストでは学年でも上位に入っていたのに、期末テストで一気に順位が下がりましたね。元々学力が高いので理数系や国語はそこそこの点数でしたが、暗記科目が平均点以下が多く、そこが足を引っ張っていますね。……神崎君。なにか、悩み事がありましたか?」
「……いや、ないです……」
「変わった事と言えば、一学期の中頃に美術部に入部していた様ですが、あそこは比較的厳しくない部活動なので勉強時間が削られる事は考えにくいのです。……もしかして寮生活が合わないからとか……」
「あらあら、まぁ」
「いえ、その……」
「もしかして徹夜してゲームをしたりとか」
「あらあら、そうなの?」
「いや、ないです」
 徹夜は合っているけど……。

 夏休みに入る直前、三者面談に合わせて母さんだけ早めに一時帰国してくれたのに、こんな心配を担任からされていて、胸が痛い。
 いや自分で決めたことだけれど、長年手のかからない子をモットーに生きていた為に、精神的にはとても辛い。

 
「それでは、夏休みはしっかりと計画を立ててくださいね」
「ありがとうございます先生。これからもうちの子をよろしくお願いします」
「失礼しました……」
 凹んだまま教室の扉を閉じると、三者面談の次の番の生徒が丁度来ていた。

「お、神崎じゃん。割と絞られてたな」
「次岩瀬だったか」
 岩瀬は母親と廊下に置かれた椅子で待っていた。 
 え、岩瀬の母親滅茶苦茶若く見える。

 一瞬だけ、うちの母親の表情が揺れる。
 でもその揺らぎを悟らせることなく、その後いつもうちの子がお世話になって……と軽く挨拶していた。ちょっとこそばゆい。
 
「神崎の母さんって……」
 岩瀬が何でもない事の様に話し出す。
 少しだけ、空気がピリついた。

「確か大学の教授なんだよな? すげーよな、海外赴任! 神崎の父さんも一緒に行ってるって言ってたけど、両方とも海外で仕事しててすごいよなー!」
「あら、そうなんですか? すごいですね……! うちのテニス馬鹿が赤点引っ掛からなかったのは神崎君にノート借りたからって言ってて、いつかちゃんとお礼言わないとって思ってたのよ~。ありがとうね神崎君」
「いやぁ、はは……」
 岩瀬!! 岩瀬ナイス!! 本当に良い奴だな、岩瀬!
 母親がぱちぱちと瞬きした後、目元の皺を深めて、本当に嬉しそうに笑う。
「こちらこそ、うちの子と仲良くしてくれてありがとうね、岩瀬君」 
「いやいや、こちらこそですよ~。じゃ、先生手招きしてるからまたな~」

 母さんは、俺と同学年の生徒の母親よりも自分が少し年を取っている事を気にしている。
 全然気にしなくていいのに。……って言えるのは息子だからかな。
 無邪気な言葉に傷ついていることもあるから、純粋に救われた。

「望、明日岩瀬君に向こうから持ってきたお土産、分けてあげてね。ふふ、母さん、誉められて嬉しくなっちゃった」
「わかった。あの、母さん……成績の事だけど……」
「友達を助けるなんて、とても誇らしいわ」
「あー、うん。それじゃなくて」
 授業ノート見せるのは全然影響なくて、だな。
 廊下を歩く足を止める。
 
「成績、下げてごめん。多分、夏休み後の実力テストや二学期中間の成績も今よりヤバめかも」
 同じく足を止めた母親は、優しく微笑んでいる。

「貴方の事だから、理由があるのでしょう?」
 先生から成績の事を指摘された時、母親に深刻そうにされたら、きっと覚悟が揺らいでいたと思う。
 でも、一切責めるような事はしなかった。そのぐらい、信頼していてくれた。
 その事に深く感謝する。

「今、俺にしか出来ないことを挑戦しているんだ。毎日……寝るのも本当に惜しいぐらい……最低でも銀賞。いや、願わくば最優秀賞か審査員特別賞。そのぐらいじゃないと届けることが出来ないから……あの、心配かけるけど、ちゃんとやりとげたら勉強するから。その、今だけ成績落ちるけど、許して」
「貴方は、とても手の懸からない“良い子”だったわ」
「……」
「小さな頃に……心の中のお友達の話をしなくなった頃からかしら」
「…………」
「でもね、いつだって我が儘を言っても良かったのよ。頼ってもらいたかったのよ」
「……うん」
「高校に入るときもね、とても聞き分け良く私たちを送り出してくれて、寮のある学校にも受験し直してくれて……嬉しい反面、もう貴方は自分の足で立てるのだとほんの少しだけ寂しくなったわ」
「うん……」
「望、学校は楽しい?」
「…………うん」
 色んな物を飲み込んで、頷く。
 
 山中優の記憶がフラッシュバックすることはもうない。
 
 でも、この学校のあらゆるところで優を思い出す。辛い思い出も一緒に。

 けれど、今自分にしか出来ない事が明確にわかったから。
 自分の教義(といっても生存戦略を第一にってやつだけど)を曲げても叶えたい事。

 
「絵を、描きはじめたんだ。届けたい人達がいて。たぶん、それは俺にしか出来ないこと」

「まぁ、さっき先生が言っていた美術部の事かしら」
「それも、その一つ……かな」
「貴方、本当に絵が上手だったものね」
 その言葉に落としていた視線を母親に向ける。
 なんで……前世に引きずられないように、あえて描いていなかったはずなのに。
「わかるわよ。母親だもの。学校の課題で書いてくれた母の日の似顔絵も、写生大会の絵も。本当に上手だったから」
「……そっか」
「でもいつしか描かなくなっていて、それはそれで貴方の選んだ事ならって少しだけ寂しくなっていたのだけれど、でも……今貴方がやりたいことはそれなのね」
「……うん」

 昔から変わらない笑顔で、母が笑う。
「嬉しいわ。望のやりたい事を応援できて」
「ありがと……」
「でも身体に無茶ばかりはダメよ。ちゃんと寝なきゃ駄目」
「……はぁい」
 ちょっと拗ねた様な声を出してしまった。


 あの日……遠山と雨の日に対峙したあの日から……。

 俺はある目的をもって絵を描いている。
 美術部に入ったのもその一貫だ。
 入部届けを出したら3年生の先輩が嬉しさのあまりに泣き出してしまったりだとか、たまに遠山が美術室に哲学書を15分だけ読みに来る時はモデルにしていい合図だなんて事を教わりながら……。
 
 大きいキャンバスに油絵を描いている。

 遠山から山中優の未完成の絵を譲り受けて、寮の自室に持ち帰ってまで、ずっとずっと、一枚の絵を描き続けている。

 日中はデッサンを鍛えるために模写を。
 部室と寮では油絵を。
 へこたれそうになった時は、優の描いた女神像が部屋の隅で威圧してくるからサボれない。
 こんなときに寮が一人部屋で良かったと本当に思ってしまう。

 あの日、遠山に頼んだのは学生絵画コンクールに参加申し込みをして貰うこと。
 ああいったコンクールは学校からしか参加できないものもあるから、働け美術部顧問! って申請してもらった。

 夏に入れば一日中制作できる。
 油絵は何度も何度も乾いた絵の上に塗り込める事によって、深みを出していく。
 
 ふと、俺と優との関係みたいだと感じた。
 優の上におれが重ねられているけれど、優が消えるわけではない。

 その下地があるから深みが増すだけだ。
 どちらも等しく必要な要素なのだ。

 だから……優の分も含めて、今の俺があるんだなって、少しだけわかりかけてきた。


 夏休みの最後の日。
 絵が完成した。
 ……余りにも集中し過ぎて、遠山から度々寮監経由で生存確認が入ったのはナイショだ。
 
「へへ、転生したらチートでした。ってのは小説や漫画の世界だけで、俺には関係ないって思っていたけれど。……絵の才能だけは、優に感謝しなきゃな」

 優は確かな画力と、そして最期には壮絶な暗闇を描き出していた。
 だから、俺は……それをひっくるめて光を描くよ。

 確かな暗闇があるからこそ、光が写し出せるように。


 絵画コンクールに出した絵が最優秀賞を受賞し、新聞の地域欄に絵とタイトルがしっかりと載っていたのを見て、俺は小さく泣いてしまった。
 

 
 


【人事天命】
読み方:じんじてんめい
人事 を 尽つくして天命を待つ[=に委まかせる]
人間の力としてできる限りのことをして、その結果はただ運命にまかせる。
※南極探険(1958)〈浦松佐美太郎〉大本営発表?「観測隊ならびに宗谷の行動は、全く人事を尽して天命を待った感があり」 〔初学知要‐中〕
(精選版 日本国語大辞典より)
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