5 / 42
【勝色】(カツイロ)の初恋
しおりを挟む 火曜日の朝。
慧一は早めに家を出て、会社の駐車場で峰子を待つことにした。
電話やメールより、直接会って話がしたい。
会社は明日から夏季休業に入る。彼女をデートに誘って、その時に話してもいいのだが、一日でも早く伝えたかった。
峰子は普段、慧一より十五分ほど早く出勤している。今朝も、いつもと同じ時間に彼女は現れた。
慧一は駐車場前の坂道に立ち、歩いてくる彼女をじっと見つめた。
お下げに眼鏡。白いブラウスと紺のタイトスカート。真面目な会社員として、隙のない通勤スタイルだ。
峰子はまだ慧一に気付かない。
トートバッグの持ち手をぎゅっと握りしめ、俯きかげんで歩く彼女は、どこか緊張しているように見える。
かなり近付いてきたところで、峰子が顔を上げた。坂道で待つ慧一を見つけると、たちまち笑顔になる。
「慧一さん、おはようございます!」
元気よく挨拶し、駆け寄ってくる。さっきとは打って変わって、明るい印象だ。
「そんなに慌てるなよ。転ぶぞ」
思わず微笑み、慧一も彼女のほうへと歩き出した。
「体調はよさそうだな」
「はい。あの、絶好調です」
峰子はガッツポーズを作った。ユーモラスな仕草に慧一は目を細め、彼女の顔をあらためて見つめる。
今日も唇が紅い。
よく見ると、メイクもいつもより丁寧にほどこされていた。
慧一は反射的に若い営業マンを思い出すが、すぐに打ち消す。
二人は並んで歩き出した。
「今朝は早いんですね」
「ああ。君に言っておきたいことがあって、待ってたんだ」
「私に?」
峰子が不思議そうな顔で、慧一を見上げる。
「あのな、峰子」
「はい」
「俺、転勤するかもしれん」
「え……」
峰子のパンプスが止まった。
「遠くですか」
「うん」
少し時間が早いと、出勤してくる社員もまばらである。今、ここは二人きりの坂道だった。
静かな空気を震わせ、峰子が訊ねる。
「国内、ですよね」
「……いや」
慧一はイギリス工場の所在地を教えた。
峰子は声を上げそうになったのか、口元を抑える。
「まだ本決まりじゃないけど、多分、行くことになると思う。状況が変わらない限り」
駐車場から会社の正門まで、徒歩五分。
こんな短い距離で伝えるのは、無理があったかな。
慧一は少し後悔するが、こうなっては仕方ない。かえって自分に発破をかけることが出来て幸いだ。と、ポジティブに考える。
立ちすくむ峰子に一歩近付き、昨夜からずっと考えていた言葉を口にした。
「一緒に来ないか」
「……」
彼女は驚きのあまり、ものも言えずに固まっている。瞬きもせず、彼女の周りだけ時が止まったかのよう。
予想を上回る反応だった。
「よく考えて、返事をしてくれ。待ってるから」
慧一は峰子の肩に手を置いてから、先に歩き出した。
正門に着くまでの途中、何度か振り向こうと思った。
だが出来なかった。
峰子がどんな表情でいるのか、確認するのが怖い。昨夜はあれほど意気込んで、この申し込みを計画したのに、いざとなると自信がなくなる。
あんな反応をされると、自分の思いどおりに事を運ぶなど、とても無理な話ではないかと、怯んでしまう。
しかし、慧一は考える。
あんな峰子だから俺は好きになったのだ。惚れてしまったのだ。
もうあとは彼女の判断に任せるしかない。どんな答えでも受け入れよう。
慧一は心を決めると、真っ直ぐに前を向いて門を潜った。
◇ ◇ ◇
峰子はいつのまにか更衣室にいた。
自分のロッカーの前でぼんやり考えている。
(私は、両親……特に母親に対して、一度だけ自分の意思を通した。高校卒業後は就職するという進路選択。学校という枠が苦しくて、中学の頃から、早く外に出て働こうと思っていたから)
念願かなって勤めることが出来たこの会社は、峰子にとって大切な居場所である。そして、就職して最も幸運に思ったのは、滝口慧一と出会えたことだ。
親の言うなりに進学していたら、彼との接点は失われ、一生彼を知らずに過ごしただろう。そんな恐ろしくて悲しい人生、想像したくもない。
ぼんやりと制服に着替え、更衣室を出た。
組合事務所のカウンター内にある自分の席に、無意識に座った。いつもの流れ、いつもどおりの動作。
(何も考えなくても、この場所に、当然のようにたどり着くことが出来る。これが私の安定した日常。さっきまでずっと幸せで、いつまでもこの生活が続くと思っていたのに……)
大切な居場所と、大好きな人。
その二つが離れ離れになるなんて、峰子の考えにまるでなかった。
峰子はデスクに置かれた広報誌を、何となく開いた。ある社員がハネムーンに出かけたという記事に目が留まる。
若い男女が幸せそうに寄り添っている。
背景は外国の風景。
遠い、海の向こうの国……
峰子は海外旅行をしたことが無い。でも、いつか行ってみたいと思う。世界中の博物館や図書館を巡りたいという夢がある。
――そんな一人旅が夢です。
朝礼でのスピーチを思い出す。あの時は、本当にそう思っていた。
一人旅が気楽で、望ましいと。
でも、今は……
峰子は広報誌を閉じると、デスクに突っ伏した。
そろそろ朝の掃除を始めなければ。でも、体が動かない。
頭の中は、あの人のことでいっぱいだ。このところずっとそう。何をしていても、あの人のことが頭に浮かぶ。胸を締め付ける。
ついさっきも、坂道で私を待つ彼を見つけた時の、嬉しさ、幸せな気持ち。
あの人に伝わっただろうか。
一緒に来ないか――
耳に心地よい温かな声。
峰子は顔を上げる。泣きそうだった。
どうして「はい」と言えないのだろう。
自分の意気地のなさに、彼女は再びくじけて顔を伏せてしまった。
慧一は早めに家を出て、会社の駐車場で峰子を待つことにした。
電話やメールより、直接会って話がしたい。
会社は明日から夏季休業に入る。彼女をデートに誘って、その時に話してもいいのだが、一日でも早く伝えたかった。
峰子は普段、慧一より十五分ほど早く出勤している。今朝も、いつもと同じ時間に彼女は現れた。
慧一は駐車場前の坂道に立ち、歩いてくる彼女をじっと見つめた。
お下げに眼鏡。白いブラウスと紺のタイトスカート。真面目な会社員として、隙のない通勤スタイルだ。
峰子はまだ慧一に気付かない。
トートバッグの持ち手をぎゅっと握りしめ、俯きかげんで歩く彼女は、どこか緊張しているように見える。
かなり近付いてきたところで、峰子が顔を上げた。坂道で待つ慧一を見つけると、たちまち笑顔になる。
「慧一さん、おはようございます!」
元気よく挨拶し、駆け寄ってくる。さっきとは打って変わって、明るい印象だ。
「そんなに慌てるなよ。転ぶぞ」
思わず微笑み、慧一も彼女のほうへと歩き出した。
「体調はよさそうだな」
「はい。あの、絶好調です」
峰子はガッツポーズを作った。ユーモラスな仕草に慧一は目を細め、彼女の顔をあらためて見つめる。
今日も唇が紅い。
よく見ると、メイクもいつもより丁寧にほどこされていた。
慧一は反射的に若い営業マンを思い出すが、すぐに打ち消す。
二人は並んで歩き出した。
「今朝は早いんですね」
「ああ。君に言っておきたいことがあって、待ってたんだ」
「私に?」
峰子が不思議そうな顔で、慧一を見上げる。
「あのな、峰子」
「はい」
「俺、転勤するかもしれん」
「え……」
峰子のパンプスが止まった。
「遠くですか」
「うん」
少し時間が早いと、出勤してくる社員もまばらである。今、ここは二人きりの坂道だった。
静かな空気を震わせ、峰子が訊ねる。
「国内、ですよね」
「……いや」
慧一はイギリス工場の所在地を教えた。
峰子は声を上げそうになったのか、口元を抑える。
「まだ本決まりじゃないけど、多分、行くことになると思う。状況が変わらない限り」
駐車場から会社の正門まで、徒歩五分。
こんな短い距離で伝えるのは、無理があったかな。
慧一は少し後悔するが、こうなっては仕方ない。かえって自分に発破をかけることが出来て幸いだ。と、ポジティブに考える。
立ちすくむ峰子に一歩近付き、昨夜からずっと考えていた言葉を口にした。
「一緒に来ないか」
「……」
彼女は驚きのあまり、ものも言えずに固まっている。瞬きもせず、彼女の周りだけ時が止まったかのよう。
予想を上回る反応だった。
「よく考えて、返事をしてくれ。待ってるから」
慧一は峰子の肩に手を置いてから、先に歩き出した。
正門に着くまでの途中、何度か振り向こうと思った。
だが出来なかった。
峰子がどんな表情でいるのか、確認するのが怖い。昨夜はあれほど意気込んで、この申し込みを計画したのに、いざとなると自信がなくなる。
あんな反応をされると、自分の思いどおりに事を運ぶなど、とても無理な話ではないかと、怯んでしまう。
しかし、慧一は考える。
あんな峰子だから俺は好きになったのだ。惚れてしまったのだ。
もうあとは彼女の判断に任せるしかない。どんな答えでも受け入れよう。
慧一は心を決めると、真っ直ぐに前を向いて門を潜った。
◇ ◇ ◇
峰子はいつのまにか更衣室にいた。
自分のロッカーの前でぼんやり考えている。
(私は、両親……特に母親に対して、一度だけ自分の意思を通した。高校卒業後は就職するという進路選択。学校という枠が苦しくて、中学の頃から、早く外に出て働こうと思っていたから)
念願かなって勤めることが出来たこの会社は、峰子にとって大切な居場所である。そして、就職して最も幸運に思ったのは、滝口慧一と出会えたことだ。
親の言うなりに進学していたら、彼との接点は失われ、一生彼を知らずに過ごしただろう。そんな恐ろしくて悲しい人生、想像したくもない。
ぼんやりと制服に着替え、更衣室を出た。
組合事務所のカウンター内にある自分の席に、無意識に座った。いつもの流れ、いつもどおりの動作。
(何も考えなくても、この場所に、当然のようにたどり着くことが出来る。これが私の安定した日常。さっきまでずっと幸せで、いつまでもこの生活が続くと思っていたのに……)
大切な居場所と、大好きな人。
その二つが離れ離れになるなんて、峰子の考えにまるでなかった。
峰子はデスクに置かれた広報誌を、何となく開いた。ある社員がハネムーンに出かけたという記事に目が留まる。
若い男女が幸せそうに寄り添っている。
背景は外国の風景。
遠い、海の向こうの国……
峰子は海外旅行をしたことが無い。でも、いつか行ってみたいと思う。世界中の博物館や図書館を巡りたいという夢がある。
――そんな一人旅が夢です。
朝礼でのスピーチを思い出す。あの時は、本当にそう思っていた。
一人旅が気楽で、望ましいと。
でも、今は……
峰子は広報誌を閉じると、デスクに突っ伏した。
そろそろ朝の掃除を始めなければ。でも、体が動かない。
頭の中は、あの人のことでいっぱいだ。このところずっとそう。何をしていても、あの人のことが頭に浮かぶ。胸を締め付ける。
ついさっきも、坂道で私を待つ彼を見つけた時の、嬉しさ、幸せな気持ち。
あの人に伝わっただろうか。
一緒に来ないか――
耳に心地よい温かな声。
峰子は顔を上げる。泣きそうだった。
どうして「はい」と言えないのだろう。
自分の意気地のなさに、彼女は再びくじけて顔を伏せてしまった。
0
お気に入りに追加
23
あなたにおすすめの小説





【完結】ぎゅって抱っこして
かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。
でも、頼れる者は誰もいない。
自分で頑張らなきゃ。
本気なら何でもできるはず。
でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。



ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる