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第20話 風の精霊
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それは、逃げ?
それとも、怠り?
まあ、どちらでもいいか。
その正体なんて誰にも分からないし、この俺自身もよく分かっていないのだから。それをどうこう言われるつもりはない。森の中をこうして歩いている事も、周りの人達からとやかく言われる事ではないだろう。今の自分は、疲れているのだ。自分の両手に持っているカメラを握りしめなければ、その心がどうにかなってしまいそうな程にね。とにかく色々な事に疲れている。頭の中にある意思にも、それを見せる表情にも。自分の足下に落ちていた枝を避け、木々の間から見える木漏れ日にホッとする事以外は、何もかもに疲れ、何もかもに苛立っていた。川の前でふと立ちどまったのも、「目の前の川に驚いた」と言うよりは、その流れに思わず魅せられて、「そこに飛びこもう」とした衝動にただ動かされただけだった。
この中に飛びこめば、きっと楽になれる。せっかく買ったカメラが壊れるのは癪だったが、それでも「そうしたい」と思ったのは確かだった。この世には、多くの苦しみが潜んでいる。自分は自分の趣味でそれを誤魔化そうとしたが、結局はそれも一時しのぎにしかすぎず、それが過ぎればまた、自分の目の前にそれが現れてしまうのだ。それがまるで、自分の宿命であるかのように。その縛りからは、決して逃れられないように。俺の魂や運命、挙げ句は影すらも使って、その後を追い掛けてくるのである。
「本当に厄介な相手だ」
それさえなければ、自分はもっと自由でいられるのに。自分の好きな趣味に打ちこんでいられるのに。「運命」とはやはり、何処までも残酷だった。自分の気持ちなどまったく無視して、俺にこの世の理不尽を見せてくる。「お前も所詮、ただの人間である」とね。「ただの人間が、この世の理不尽から逃げられるわけがない」と、そう得意げに教えさとすのだ。まるで自分の家庭教師のように、そう……。まあ、いいや。どんなに考えたって、この状況が変わるわけではないし。この縁談をたとえ断っても、次の相手を探されるだけだ。それがずっと、繰りかえされる。断っても、断っても、次の相手がまた現れる。そうしている内に歳を取り、俺も今の俺でなくなってしまうのだ。今まではできていた趣味も、いつかはできなくなってしまう。そうなったら……。「考えただけでも、憂鬱になるね」
俺は、両目の端に涙を感じた。どうやら、今の気持ちに耐えられなくなったらしい。俺は両目の涙を拭った後も、しばらくは川の流れを眺めていたが、それもだんだんに耐えられなくなって、川の流れから視線を逸らした数分後には、真面目な顔で自分のカメラを弄くっていた。カメラの操作性は、最高だった。今までも様々な道具を触ってきたが、「これはその中でも一、二を争う物」と言えるかもしれない。それだけ素晴らしい物だったのである。「シャッター」と呼ばれる部分を押す感覚は、その独特の「カチャ」と相まって、何とも言えない高揚感を覚えてしまった。
俺はその高揚感に酔いしれながらも、内心では自分の未来をチラつかせて、それが少しでも薄れるように動きつづけた。ここで少しでも止まれば、あの感覚がまた蘇ってしまう。あの感覚が蘇れば、自分の心が今度こそ壊れてしまうに違いない。自分の心が壊れれば、その後に待っているのは発狂だ。それも、今までにない程の発狂。周りの景色がすっかり死んで、木々の木漏れ日が闇に、川の全体が汚水に、小鳥達の囀りが悲鳴に、蝶の羽ばたきが業火に変わる発狂である。
それをもし、今の俺が起してしまったら? 無事では、まずいられない。身体の方は何ともなくても、気持ちの方が砕けてしまう。一度砕けてしまった気持ちは、もう二度と戻らない。それをたとえ組みなおせたとしても、それは元の姿に似た模造品でしかないのだ。模造品は決して、本物にはなりえない。だからこそ、この気持ちは守らなければならないのだ。本物が模倣に負けないように。模倣が本物に勝らないように。俺がカメラのシャッターを切りつづけたのも、それが楽しかった事もあったが、その気持ちを何より忘れたかったからである。
俺は森の中を歩き、自分の気に入った風景があったらそれを、たまたま目に入った虫が美しかったらそれを、雑草の間に生えていた花が綺麗だったそれを、自分の目の前に鷹がふわりと舞いおりたらそれを、ほとんど無我夢中で撮りつづけた。それに驚く被写体も多かったが、大抵は俺の様子を窺うか、あるいは、軽い威嚇を見せるだけで、俺がカメラのシャッターをなおも切ろうとすると、そこからすぐに逃げだして、俺の視界からすっかりいなくなってしまった。
俺は、その光景が少し淋しかった。
「なんだよ、もう少し止まっていればいいのに? もう少し止まっていれば」
そうは言ったが、それは俺のワガママだった。周りの連中にも、それぞれの調子がある。自分の生きていくための調べがある。それを乱す資格は、俺にはない。俺がそいつらの世界に踏みいって、世界の内容を書きかえる資格も。俺が俺としてそこに入るためには、俺の方からそれに合わさなければならないのだ。森の小径を曲がって、その真ん中に立ちどまった時も。周りの景色を見わたしてはいいが、それ自体を損なってはならないのである。
俺はカメラの覗き穴(「ファインダー」と言うらしい)を覗いて、自分の気に入った風景を撮ろうとしたが……。俺の身体が止まったのは、正にその時だった。
「え?」
俺はカメラのファインダーから左目を離して、その場に思わず立ちつづけてしまった。視線の先には一人、俺と同い年くらいの少女が立っている。不思議な雰囲気と、艶やかな髪をなびかせて、俺の姿に目を見開いていた。どうやら、俺との出会いに驚いているらしい。彼女の正確な心情は推しはかれないが、その何度も瞬いている目や、少しだけ開いている口には、恐怖に近い感情が見えかくれしていた。
俺は(ほとんど無意識だったが)彼女の前にゆっくりと歩みよって、それから彼女の緊張を何とか解こうとした。「そうするのが何故か、自然だ」と思ってしまったからである。
「あ、あの?」
そう話しかけるが、彼女の表情は変わらない。だから、その口調をもっと和らげる事にした。
「だ、大丈夫だから。俺はその、変な奴じゃないし。君にも、危害を」
少女は何故か、その言葉に微笑んだ。表情の方も少し柔らかくなって、俺の質問にも「わかった」と答えてくれた。どうやら、俺が自分の敵でない事を察したらしい。俺の接近を拒まなかった態度からも、その雰囲気が何となく察せられた。彼女は「クスッ」と微笑んだまま、穏やかな顔で俺の頬に触れた。
「あたたかい」
「え?」
「でも、その奥には」
「お、奥には?」
「こわがっている。あなたは、あなたの不安を。自分のこれからを。あなたは、『それらの怖さから逃げだしたい』と思っている」
俺は、その言葉に目を見開いた。その言葉があまりに正確だったからである。俺は彼女の前から少し下げって、その顔をまじまじと見はじめた。
「君は、一体?」
「わたしは」
彼女はまた笑って、頭上の空を指さした。
「風の精霊」
衝撃の言葉だった。電子器の掲示板に書かれていた精霊が今、自分の目の前に立っている。噂通りの容姿と、噂通りの声とを備えて、俺の前に立っていた。これには、流石に驚かざるをえない。精霊は人の心を読めるらしいが、今の会話から察する以上、それも嘘っぱちには思えなかった。現に俺の心を言いあてていたしね。彼女には、相手の心がすべて分かるようだ。
「う、ううう」
俺は真面目な顔で、彼女の顔を見かえした。彼女の顔は今も、俺の事を見つめている。
「俺の事を嫌がっている?」
変な質問だ。だが、そう出てしまったのだから仕方ない。人間の醜さを嫌う精霊にとっては、俺のような人間は一番に忌むべき存在だろう。今は感情の読めない表情を浮かべているが、その裏では神々しい嫌悪感を抱いている筈だ。俺は不安な顔で、相手の目から視線を逸らした。
「消えた方がいいよ」
その返事はない。でも、それを止めるつもりはなかった。
「ここもたぶん、君の落ちつく場所じゃないから。きっと」
「そんなことは、ない」
「え?」
「ここの空気は、今までの町はとちがう。この町の空気は、好き」
「そ、そう? それは」
よかったね、と言うべきか? それとも、「ふうん」と受けながすべきか。今の俺には、その正解が分からなかった。俺は彼女の顔から視線をなお逸らしながらも、不安な顔で周りの景色を眺めつづけた。周りの景色は、その自然を変わらずに保ちつづけている。
「君はどうして、この世界をさまよっているの?」
「あなたと同じ理由。それが、わたしの趣味だから」
「え?」
「そして、それが役目でもある」
「この世界をさまようのが、君の趣味? そして、役目?」
「そう、それがわたしのすべて」
俺は、その言葉に戸惑った。言葉の意味がますます分からなくなってしまったからである。
「仮にそうだとしても」
「うん?」
「君には、どんな利点があるの? 特に何かを得られるわけでもないのに?」
精霊は、その言葉に微笑んだ。その言葉がどうやら、余程におかしかったらしい。
「風が止まれば、自然も止まる。自然が止まれば、世界も終わる。わたしが旅をつづけるのは、その環を壊さないため」
「な、なるほど。それじゃ、同じところにずっといないのは」
「そういう事。でも」
「でも?」
「今回は、少し寄り道したい」
「え?」
それは、一体?
「どう言う事?」
精霊はまた、俺の言葉に微笑んだ。俺の言葉がそんなに面白いのだろうか?
「あなたの事が気に入った」
「え?」
彼女は一体、何を言っているのだろう?
「『俺の事が気に入った』って?」
「うん、気に入った。だから、しばらく一緒にいる」
「ふぇ?」
俺は、今までに発した事のない声を発してしまった。それ程の衝撃を覚えてしまったからである。俺は自分でも「マヌケ」と思える顔で、彼女の顔をしばらく見つづけた。
「『お、俺と一緒に暮らす』って事?」
「そう。あなたは、ここの領主。領主の館には、空き部屋もたくさんある筈」
「ま、まあ。それは、たくさんあるけども。いきなりそんな」
「だめ?」
それに思わずときめいてしまったのは、内緒だ。彼女の「ダメ」は、文字通りの凶器に等しい。一撃で俺のような男を仕留める短剣。俺は今、その短剣に胸を刺されてしまったのだ。
「ダメ、じゃないよ? 俺も丁度、色々な事にモヤモヤしていたし。これはたぶん、いい機会かもしれない」
「よかった」
また、さっきの笑顔。その笑顔は、本当に卑怯だ。
「それじゃ、あなたの館に連れていって」
「え? 今から?」
「うん。陽が沈めば、今日も野宿になってしまうから」
「な、なるほど。それは、嫌だね。『どんなに旅慣れている』と言っても、女の子にとってそれは……。分かったよ。それじゃ、俺の後についてきて」
「うん」
精霊は「ニコッ」と笑って、俺の後ろを歩きはじめた。
「楽しみ」
「そ、そう? まあ」
彼女がそう言うのなら、そうなのだろう。俺の方は、自分の館にただ帰るだけだったが。俺は自分の館に帰って、その中に彼女を通し、世話係の召使いにそれらしい嘘をついて(彼女が精霊だとは、流石に言えないだろう。言ったら、大変な事になる)、自分の部屋に彼女を連れていった。部屋の中はいつも通りだったが、彼女にはそれが面白かったらしく、周りの道具類をぐるりと見わたしては、満足げな顔で俺の方に振りかえった。
精霊は、俺の右手を指さした。俺の右手には、例のカメラが握られている。
「それが一番すてき」
「このカメラが?」
「うん。二番目は、あの絵」
「あの絵って? ああ、あの風景画?」
「そう、あの絵もすてき」
「そっか。あの絵は、『そんなに上手くない』と思っていたけど。そう言ってもらえたら嬉しい」
俺は穏やかな気持ちで、自分の絵を眺めはじめた。他人に自分の作品を褒められるのは、やはり嬉しいからね。彼女が他の道具類に興味を示しはじめた時も、楽しげな気持ちで自分の絵を眺めていた。「他にも、よさそうな物はあった?」
精霊は、その質問にうなずいた。
「みんな、いい。みんな、おもしろそう」
「そ、そうか。ならさ」
「うん?」
「これをすべて、俺と」
この誘いは、逃げだ。「自分の結婚から逃げたい」と言う、俺の逃げ。
「一緒に楽しまない?」
精霊はその質問に驚いたが、やがて「うん」とうなずいた。
「楽しみたい」
俺は、その返事が嬉しかった。それがたとえ、「ずっとはつづかない」と分かっていても。彼女の「楽しみたい」から感じた雰囲気には、最高の慈悲が漂っていた。俺は自分の鼻先を掻いて、明日からの日々に胸を躍らせた。
それとも、怠り?
まあ、どちらでもいいか。
その正体なんて誰にも分からないし、この俺自身もよく分かっていないのだから。それをどうこう言われるつもりはない。森の中をこうして歩いている事も、周りの人達からとやかく言われる事ではないだろう。今の自分は、疲れているのだ。自分の両手に持っているカメラを握りしめなければ、その心がどうにかなってしまいそうな程にね。とにかく色々な事に疲れている。頭の中にある意思にも、それを見せる表情にも。自分の足下に落ちていた枝を避け、木々の間から見える木漏れ日にホッとする事以外は、何もかもに疲れ、何もかもに苛立っていた。川の前でふと立ちどまったのも、「目の前の川に驚いた」と言うよりは、その流れに思わず魅せられて、「そこに飛びこもう」とした衝動にただ動かされただけだった。
この中に飛びこめば、きっと楽になれる。せっかく買ったカメラが壊れるのは癪だったが、それでも「そうしたい」と思ったのは確かだった。この世には、多くの苦しみが潜んでいる。自分は自分の趣味でそれを誤魔化そうとしたが、結局はそれも一時しのぎにしかすぎず、それが過ぎればまた、自分の目の前にそれが現れてしまうのだ。それがまるで、自分の宿命であるかのように。その縛りからは、決して逃れられないように。俺の魂や運命、挙げ句は影すらも使って、その後を追い掛けてくるのである。
「本当に厄介な相手だ」
それさえなければ、自分はもっと自由でいられるのに。自分の好きな趣味に打ちこんでいられるのに。「運命」とはやはり、何処までも残酷だった。自分の気持ちなどまったく無視して、俺にこの世の理不尽を見せてくる。「お前も所詮、ただの人間である」とね。「ただの人間が、この世の理不尽から逃げられるわけがない」と、そう得意げに教えさとすのだ。まるで自分の家庭教師のように、そう……。まあ、いいや。どんなに考えたって、この状況が変わるわけではないし。この縁談をたとえ断っても、次の相手を探されるだけだ。それがずっと、繰りかえされる。断っても、断っても、次の相手がまた現れる。そうしている内に歳を取り、俺も今の俺でなくなってしまうのだ。今まではできていた趣味も、いつかはできなくなってしまう。そうなったら……。「考えただけでも、憂鬱になるね」
俺は、両目の端に涙を感じた。どうやら、今の気持ちに耐えられなくなったらしい。俺は両目の涙を拭った後も、しばらくは川の流れを眺めていたが、それもだんだんに耐えられなくなって、川の流れから視線を逸らした数分後には、真面目な顔で自分のカメラを弄くっていた。カメラの操作性は、最高だった。今までも様々な道具を触ってきたが、「これはその中でも一、二を争う物」と言えるかもしれない。それだけ素晴らしい物だったのである。「シャッター」と呼ばれる部分を押す感覚は、その独特の「カチャ」と相まって、何とも言えない高揚感を覚えてしまった。
俺はその高揚感に酔いしれながらも、内心では自分の未来をチラつかせて、それが少しでも薄れるように動きつづけた。ここで少しでも止まれば、あの感覚がまた蘇ってしまう。あの感覚が蘇れば、自分の心が今度こそ壊れてしまうに違いない。自分の心が壊れれば、その後に待っているのは発狂だ。それも、今までにない程の発狂。周りの景色がすっかり死んで、木々の木漏れ日が闇に、川の全体が汚水に、小鳥達の囀りが悲鳴に、蝶の羽ばたきが業火に変わる発狂である。
それをもし、今の俺が起してしまったら? 無事では、まずいられない。身体の方は何ともなくても、気持ちの方が砕けてしまう。一度砕けてしまった気持ちは、もう二度と戻らない。それをたとえ組みなおせたとしても、それは元の姿に似た模造品でしかないのだ。模造品は決して、本物にはなりえない。だからこそ、この気持ちは守らなければならないのだ。本物が模倣に負けないように。模倣が本物に勝らないように。俺がカメラのシャッターを切りつづけたのも、それが楽しかった事もあったが、その気持ちを何より忘れたかったからである。
俺は森の中を歩き、自分の気に入った風景があったらそれを、たまたま目に入った虫が美しかったらそれを、雑草の間に生えていた花が綺麗だったそれを、自分の目の前に鷹がふわりと舞いおりたらそれを、ほとんど無我夢中で撮りつづけた。それに驚く被写体も多かったが、大抵は俺の様子を窺うか、あるいは、軽い威嚇を見せるだけで、俺がカメラのシャッターをなおも切ろうとすると、そこからすぐに逃げだして、俺の視界からすっかりいなくなってしまった。
俺は、その光景が少し淋しかった。
「なんだよ、もう少し止まっていればいいのに? もう少し止まっていれば」
そうは言ったが、それは俺のワガママだった。周りの連中にも、それぞれの調子がある。自分の生きていくための調べがある。それを乱す資格は、俺にはない。俺がそいつらの世界に踏みいって、世界の内容を書きかえる資格も。俺が俺としてそこに入るためには、俺の方からそれに合わさなければならないのだ。森の小径を曲がって、その真ん中に立ちどまった時も。周りの景色を見わたしてはいいが、それ自体を損なってはならないのである。
俺はカメラの覗き穴(「ファインダー」と言うらしい)を覗いて、自分の気に入った風景を撮ろうとしたが……。俺の身体が止まったのは、正にその時だった。
「え?」
俺はカメラのファインダーから左目を離して、その場に思わず立ちつづけてしまった。視線の先には一人、俺と同い年くらいの少女が立っている。不思議な雰囲気と、艶やかな髪をなびかせて、俺の姿に目を見開いていた。どうやら、俺との出会いに驚いているらしい。彼女の正確な心情は推しはかれないが、その何度も瞬いている目や、少しだけ開いている口には、恐怖に近い感情が見えかくれしていた。
俺は(ほとんど無意識だったが)彼女の前にゆっくりと歩みよって、それから彼女の緊張を何とか解こうとした。「そうするのが何故か、自然だ」と思ってしまったからである。
「あ、あの?」
そう話しかけるが、彼女の表情は変わらない。だから、その口調をもっと和らげる事にした。
「だ、大丈夫だから。俺はその、変な奴じゃないし。君にも、危害を」
少女は何故か、その言葉に微笑んだ。表情の方も少し柔らかくなって、俺の質問にも「わかった」と答えてくれた。どうやら、俺が自分の敵でない事を察したらしい。俺の接近を拒まなかった態度からも、その雰囲気が何となく察せられた。彼女は「クスッ」と微笑んだまま、穏やかな顔で俺の頬に触れた。
「あたたかい」
「え?」
「でも、その奥には」
「お、奥には?」
「こわがっている。あなたは、あなたの不安を。自分のこれからを。あなたは、『それらの怖さから逃げだしたい』と思っている」
俺は、その言葉に目を見開いた。その言葉があまりに正確だったからである。俺は彼女の前から少し下げって、その顔をまじまじと見はじめた。
「君は、一体?」
「わたしは」
彼女はまた笑って、頭上の空を指さした。
「風の精霊」
衝撃の言葉だった。電子器の掲示板に書かれていた精霊が今、自分の目の前に立っている。噂通りの容姿と、噂通りの声とを備えて、俺の前に立っていた。これには、流石に驚かざるをえない。精霊は人の心を読めるらしいが、今の会話から察する以上、それも嘘っぱちには思えなかった。現に俺の心を言いあてていたしね。彼女には、相手の心がすべて分かるようだ。
「う、ううう」
俺は真面目な顔で、彼女の顔を見かえした。彼女の顔は今も、俺の事を見つめている。
「俺の事を嫌がっている?」
変な質問だ。だが、そう出てしまったのだから仕方ない。人間の醜さを嫌う精霊にとっては、俺のような人間は一番に忌むべき存在だろう。今は感情の読めない表情を浮かべているが、その裏では神々しい嫌悪感を抱いている筈だ。俺は不安な顔で、相手の目から視線を逸らした。
「消えた方がいいよ」
その返事はない。でも、それを止めるつもりはなかった。
「ここもたぶん、君の落ちつく場所じゃないから。きっと」
「そんなことは、ない」
「え?」
「ここの空気は、今までの町はとちがう。この町の空気は、好き」
「そ、そう? それは」
よかったね、と言うべきか? それとも、「ふうん」と受けながすべきか。今の俺には、その正解が分からなかった。俺は彼女の顔から視線をなお逸らしながらも、不安な顔で周りの景色を眺めつづけた。周りの景色は、その自然を変わらずに保ちつづけている。
「君はどうして、この世界をさまよっているの?」
「あなたと同じ理由。それが、わたしの趣味だから」
「え?」
「そして、それが役目でもある」
「この世界をさまようのが、君の趣味? そして、役目?」
「そう、それがわたしのすべて」
俺は、その言葉に戸惑った。言葉の意味がますます分からなくなってしまったからである。
「仮にそうだとしても」
「うん?」
「君には、どんな利点があるの? 特に何かを得られるわけでもないのに?」
精霊は、その言葉に微笑んだ。その言葉がどうやら、余程におかしかったらしい。
「風が止まれば、自然も止まる。自然が止まれば、世界も終わる。わたしが旅をつづけるのは、その環を壊さないため」
「な、なるほど。それじゃ、同じところにずっといないのは」
「そういう事。でも」
「でも?」
「今回は、少し寄り道したい」
「え?」
それは、一体?
「どう言う事?」
精霊はまた、俺の言葉に微笑んだ。俺の言葉がそんなに面白いのだろうか?
「あなたの事が気に入った」
「え?」
彼女は一体、何を言っているのだろう?
「『俺の事が気に入った』って?」
「うん、気に入った。だから、しばらく一緒にいる」
「ふぇ?」
俺は、今までに発した事のない声を発してしまった。それ程の衝撃を覚えてしまったからである。俺は自分でも「マヌケ」と思える顔で、彼女の顔をしばらく見つづけた。
「『お、俺と一緒に暮らす』って事?」
「そう。あなたは、ここの領主。領主の館には、空き部屋もたくさんある筈」
「ま、まあ。それは、たくさんあるけども。いきなりそんな」
「だめ?」
それに思わずときめいてしまったのは、内緒だ。彼女の「ダメ」は、文字通りの凶器に等しい。一撃で俺のような男を仕留める短剣。俺は今、その短剣に胸を刺されてしまったのだ。
「ダメ、じゃないよ? 俺も丁度、色々な事にモヤモヤしていたし。これはたぶん、いい機会かもしれない」
「よかった」
また、さっきの笑顔。その笑顔は、本当に卑怯だ。
「それじゃ、あなたの館に連れていって」
「え? 今から?」
「うん。陽が沈めば、今日も野宿になってしまうから」
「な、なるほど。それは、嫌だね。『どんなに旅慣れている』と言っても、女の子にとってそれは……。分かったよ。それじゃ、俺の後についてきて」
「うん」
精霊は「ニコッ」と笑って、俺の後ろを歩きはじめた。
「楽しみ」
「そ、そう? まあ」
彼女がそう言うのなら、そうなのだろう。俺の方は、自分の館にただ帰るだけだったが。俺は自分の館に帰って、その中に彼女を通し、世話係の召使いにそれらしい嘘をついて(彼女が精霊だとは、流石に言えないだろう。言ったら、大変な事になる)、自分の部屋に彼女を連れていった。部屋の中はいつも通りだったが、彼女にはそれが面白かったらしく、周りの道具類をぐるりと見わたしては、満足げな顔で俺の方に振りかえった。
精霊は、俺の右手を指さした。俺の右手には、例のカメラが握られている。
「それが一番すてき」
「このカメラが?」
「うん。二番目は、あの絵」
「あの絵って? ああ、あの風景画?」
「そう、あの絵もすてき」
「そっか。あの絵は、『そんなに上手くない』と思っていたけど。そう言ってもらえたら嬉しい」
俺は穏やかな気持ちで、自分の絵を眺めはじめた。他人に自分の作品を褒められるのは、やはり嬉しいからね。彼女が他の道具類に興味を示しはじめた時も、楽しげな気持ちで自分の絵を眺めていた。「他にも、よさそうな物はあった?」
精霊は、その質問にうなずいた。
「みんな、いい。みんな、おもしろそう」
「そ、そうか。ならさ」
「うん?」
「これをすべて、俺と」
この誘いは、逃げだ。「自分の結婚から逃げたい」と言う、俺の逃げ。
「一緒に楽しまない?」
精霊はその質問に驚いたが、やがて「うん」とうなずいた。
「楽しみたい」
俺は、その返事が嬉しかった。それがたとえ、「ずっとはつづかない」と分かっていても。彼女の「楽しみたい」から感じた雰囲気には、最高の慈悲が漂っていた。俺は自分の鼻先を掻いて、明日からの日々に胸を躍らせた。
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サビオ・パッツィーニは、魔術師の家系である名門侯爵家の次男に生まれながら魔力鑑定で『魔力無し』の判定を受けてしまう。魔力がない代わりにずば抜けて優れた頭脳を持つサビオに家族は温かく見守っていた。そんなある日、サビオが侯爵家の人間でない事が判明した。妖精の取り換えっ子だと神官は告げる。本物は家族によく似た天使のような美少年。こうしてサビオは「王家と侯爵家を謀った罪人」として国外追放されてしまった。
隣国でギルド登録したサビオは「黒曜」というギルド名で第二の人生を歩んでいく。
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【完結】神スキル拡大解釈で底辺パーティから成り上がります!
まにゅまにゅ
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平均レベルの低い底辺パーティ『龍炎光牙《りゅうえんこうが》』はオーク一匹倒すのにも命懸けで注目もされていないどこにでもでもいる冒険者たちのチームだった。
そんなある日ようやく資金も貯まり、神殿でお金を払って恩恵《ギフト》を授かるとその恩恵《ギフト》スキルは『拡大解釈』というもの。
その効果は魔法やスキルの内容を拡大解釈し、別の効果を引き起こせる、という神スキルだった。その拡大解釈により色んなものを回復《ヒール》で治したり強化《ブースト》で獲得経験値を増やしたりととんでもない効果を発揮する!
底辺パーティ『龍炎光牙』の大躍進が始まる!
第16回ファンタジー大賞奨励賞受賞作です。
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