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第19話 変化の兆し?
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「仕事、終了」
ううん、健康がやはり一番だ。身体が健やかならば、領主の仕事もはかどる。気持ちの方も晴々して、あらゆる事が気持ちよくなる。ずっと寝たきりでいるのは、かなりの苦痛が伴うからね。今までも病気にはいくらかかかったが、あの病気を通して、それが痛い程に分かってしまった。健康は、最大の財産である。自分の財産をどんなに蓄えても、自分が病気なら意味がない。健やかな身体と、穏やかな気持ちが保たれる事で、「人生」って言うのは何よりも輝くのだ。自分が生きてさえいれば、楽しい事はいくらでも味わえる。財産はそれを助ける、便利道具でしかない。道具は自分の背中に背負い、時には他者を生かして、みんなの幸せを満たすからこそ意味があるのだ。自分だけで財産を独り占めし、他人からもそれを奪うようでは、一定期間は幸せになれたとしても、やがては没落を生み、破滅を呼びこんで、自分も含めたあらゆるモノを損なってしまうのである。
俺がずっと前に見た社交界の光景も、その前兆をほのめかす壮大な序章だった。自分は、あんなふうになってはいけない。富と虚栄と保身に魅せられてはならない。人間の人生に必要な物は、「自分がこの世に生きている」と言う実感、「生まれてきてよかった」と思える幸福感なのだ。社交界の中で見たそれには、その幸福感を損なう地獄が流れていたばかりではない。それを否めるすべてが潜んでいた。人間が人間としての幸せを感じられなくなれば、その人はきっと誰よりも不幸になってしまう。自分は、そんな不幸には陥りたくなかった。
「生きている内は、幸せでありたい。幸せに生きて、周りの人達も幸せにしたい」
それを叶えるのは大変だろうが、それでも「やってやる」と言う気持ちは変わらなかった。俺が自分の趣味に打ちこむのも、それを「叶えたい」と思っているからである。一度きりの人生を、「俺」と言う存在を、魂の欠片まで大事にしたかった。俺が今日、封土の教会に行った理由もまた、その意識からきたモノだった。教会の中には墓が、両親の十字架が建っている。十字架の前には墓誌が刻まれ、そこには両親の名前と死亡日が彫られていた。墓誌の近くには……誰かが墓に添えてくれたのだろう、二つの小さな花が添えられていた。
俺は、その花に思わず泣いてしまった。花の色が美しかった事もあったが、それが風に動く姿からも、何とも言えない哀愁を覚えてしまったからである。俺は花の位置を少しずらし、風の当たらないところに置いて、それから両親の墓に十字を切ろうとした。だが、教会の司祭にそれを妨げられてしまった。司祭は俺の顔をまじまじと見たが、やがて来訪の意図を彼なりに察すると、俺の代わりに十字を切って、俺の両親に祈りを捧げはじめた。
「人間の魂は」
「うん?」
「決して滅びません。神のご加護がある限り、どんな魂もいずれ蘇る。今はただ、その時を待っているだけです」
俺はその言葉に胸を打たれたが、表情の方はあくまで冷静を装いつづけた。こう言う感情を悟られるのは、やはり恥ずかしい。
「異国の宗教では」
「はい?」
「そう言うのは、『輪廻転生』と言うらしい。『何かの姿で生まれた魂は、この世で生命が亡くなると、別の姿になって、この世界にまた戻ってくる』と言う考えだ。生前の行いに沿った姿や身分、種族や性別になってね。生命の環をいつまでも回りつづける」
「それは、面白い世界観ですね。私達の死生観では、魂はひたすらに昇っていくだけですが。そちらの世界では、同じところをぐるぐると回っているわけですね?」
「うん。だから、『死』と言う概念もない。死は、生の一部だからね。そこを通りすぎればまだ、新しい生命に生まれかわる。今の自分とは違う、まったく新しい自分に」
「貴方のご両親も、その新しい自分になっているかもしれませんね」
俺はまた、司祭の言葉に俯いてしまった。彼の言葉には、不思議な哀愁が漂っている。
「そうだといいな。もし、そうなっていれば……この世でまた、会えるからね。もう慣れてはいるけれど、やっぱり悲しいモノは悲しいよ」
司祭は、その言葉に押しだまった。その言葉がどうやら、司祭の心に刺さったらしい。彼は十字架の周りをしばらく歩き、頭上の空を時折見あげたが、俺の方にまた視線を戻すと、何処か寂しげな顔で、その場にゆっくりと立ちどまった。
「領主様にこれからも幸があらん事を」
意外な言葉だった。でも、うん、悪い気はしない。こう言う人に自分の幸せを祈られるのは、恥ずかしくもやはり嬉しかった。俺は自分の鼻先をポリポリと掻いて、目の前の司祭に「クスッ」と笑いかえした。
「ありがとう。俺も、貴方の幸せを祈らせてもらいます。この封土を治める者として。領民の幸せは、俺の幸せでもありますから。みんなが幸せになってくれたら、俺も」
「領主様」
司祭は俺の前に歩みよろうとしたが、その足をピタリと止めてしまった。彼がその場から歩きだそうとした瞬間、世話係の召使いがここに突然現れたからである。司祭は俺の顔をしばらく見て、それから世話係の顔に視線を移した。
「どうなされました?」
召使いは、その質問になかなか答えなかった。自分の息が上がっている事もあったが、その内側に何かを秘めているようで、司祭の質問にも上手く答えられなかったようである。俺が召使いの前に歩みより、彼にまた同じ質問を投げかけた時も、俺の目を何度か見わしたが、それ以上の反応はほとんど見せなかった。召使いは自分の息を整え、それがようやく落ちついたところで、俺の目をじっと見つめはじめた。
「決まりましたよ」
「え?」
何が?
「決まったんだ?」
「結婚の相手が、です。今まで様々な家を駆けまわりましたが、それをようやく見つけました。結婚の相手は、その家柄もよいお嬢様です」
俺は最初、彼が何を言っているのか分からなかった。「結婚」の意味は分かっても、そこからの思考がまったく働かない。まるで思考の時間が止まったようだった。あらゆる反論や反対意見が止まって、その場から一歩も動けなくなるように。頭の回転がすっかり止まってしまったのである。俺は回転の持ち手を何とか動かして、召使いの顔をじっと見かえした。
「どうして?」
「はい?」
「どうして、そんな事をしたんだ? どうして、そんな余計な事を?」
そうは言ったが、そんな事はずっと前から何となく察していた。察していたが、それが現実になるなんて思ってもいなかった。自分の結婚相手は、自分の手で見つけだす。領主の俺には叶わない夢かもしれないが、それでも一つくらい、身分の鎖を超えた願いは叶えたかった。そうでなければ、俺の存在意義がなくなる。俺が俺としての尊厳もなくなる。俺は自分では何もせず、どんな婚姻も叶うような貴族には、何があってもなりたくなかった。
「ふざけるな! 貴方の事は、家族のように思っていたけれど。今回ばかりは、許せない。貴方は、俺の大事な人生を勝手に決めてしまったんだ!」
召使いは、その言葉に怒らなかった。怒らなかったが、一種の不快感は覚えたらしい。俺が鋭い目で彼の顔を睨んだ時も、それに臆するどころか、俺の目を反対に睨みかえしてきた。
「貴方の人生は、貴方だけの物ではありません。貴方自身が、それをどう思っていようとも。貴方は、ここの領主です。領主には、領主の責任がある。『自分の血を繋げる』と言う責任が。私はただ、そのお手伝いをしただけです」
俺は、その言葉にふらついた。その言葉自体は、嬉しい。嬉しいが、それでもやはりふらついてしまった。自分の未来に影を感じて、その影が自分に迫ってくるような恐怖を覚えて。司祭が俺に「大丈夫ですか?」と訊いた時も、その質問に「ああうん、何とか」と答える事はできたが、それ以外の反応はできず、挙げ句は「ちょっと気持ちわるくなって」と苦笑いしてしまった。
俺は虚ろな視界にふらつきながらも、ある時は司祭の、またある時は両親の墓に目をやって、それに無言の救いを求めつづけた。自分はまだ、自分の自由を失いたくない。
「そのお嬢様は」
それに答えたのはもちろん、俺の目の前に立っている召使いだ。
「はい?」
「何歳くらい?」
「貴方と同い年ですよ。亜麻色の髪がとてもお綺麗な、見目麗しいお嬢様です。中身の方は、今どきの感じですが。話していて、とても気持ちいいお嬢様でした」
そうだとしても、やはり腑に落ちない。その子の事が嫌いなわけではないが、「強制」の二文字が俺をどうしても苛立たせてしまった。自分はこれから、会った事もない少女と結ばれなければならない。その少女と結ばれて、次の命を作らなければならない。女性の身体には(俺も男だからね)年相応な興味があった俺だが、今ばかりは「それ」が妙に腹立たしく、また一種の嫌悪感すらも覚えてしまった。
そいつは、俺の未来を阻む魔物。趣味の世界に攻めこもうとする破壊者だった。破壊者のやる事は、往々にしてろくでもない。今までの生活が、すっかり変わってしまう可能性もある。俺の大事な趣味が、壊されてしまうかもしれない可能性が。その可能性は、何としても防がなければならない。俺が俺として、これからも生きていくためにもね。その可能性だけは、絶対に壊したかった。
俺は鋭い目で、召使いの顔を睨んだ。それに怯まない召使いだったが、今はそんな事などどうでもいい。
「話は、どこまで進んでいるの?」
「詳しいところは、まだ。でも、だいたいの事は決まっています。式の打ち合わせが、来月の」
「ら、来月!」
「はい。相手に貴方の人柄をお話ししたら、相手がその気になってしまいましたね。本当は、明日にでも会いたいようです。打ち合わせが来月に延びた理由も、相手方にどうしても断れない約束があるからのようで」
「そ、そうか」
召使いは、その返事に押しだまった。その返事に苛立ったわけではなく、俺の態度にいらついてしまったらしい。彼の内心は推しはかれないが、「ゴホン」と咳払いした態度からは、その苛立ちが感じられた。召使いは真面目な顔で、俺の目を見かえした。
「相手方のお嬢様は」
「うん?」
「貴方の事をえらく気に入ったようです。『今までの男性とは、かなり違うようですね』と言って。彼女は……世俗な表現を使えば、とても好かれるようですから。それも同年代の男性にね。正に薔薇だらけの(※国のことわざで、「一人の女性が多くの男性に好かれている状態」を例えた言葉)状態です。彼女を嫁にしたい男性は、山ほどいる。貴方は、そんなご令嬢に好意を抱かれたのです」
「ふうん。それは、名誉な事だね。名誉な事だけど」
「はい?」
「それがどうして、こんなに嬉しくないんだろう?」
召使いは、その言葉に目を細めた、マズイ、これは相当に怒っている。
「領主様」
「な、なに?」
「子どもの時間は、終わりです」
俺は、その言葉にうつむいた。その言葉は、文字通りの死刑宣告に等しい。召使いは「今の生活を変える必要はない」と言ったが、それもただの誤魔化しにしか聞こえなかった。
「そ、そうか。なら、これからは?」
「ええ、大人の時間です。貴方も、女性の肌をしらなければなりません。いつまでも、清らかな身体でいるわけにはいかない。貴方にも、その時が訪れたのです」
そんな時は、いらない。そう言いかけたが、それを言うだけの気力が残っていなかった。召使いの言葉に言いかえす気力も。今の俺にできるのは、召使いに「気分が悪い」と言って、彼の前から歩きだす事だけだった。俺は真っ黒な気持ちで、地面の上を歩きつづけた。だが、奴はそれでも許さない。俺がどんなに離れようとしても、その背中に「待ってください」と話しかけてきた。「もう一つ、貴方に伝えなければならない事があります」
俺は、その言葉に振りかえった。これ以上、一体何を言うのだろう?
「なんだ?」
「貴方が前に『頼んだ』と言う道具……確か、『記録器』と言いましたか? それがさっき、貴方の館に届きました」
「カメラが館に届いた?」
「ええ、綺麗な箱に入れられてね。庭番の男が、その道具を預かっています。貴方が自分の館に戻られたら、すぐに渡せるように」
「そ、そうか。それは」
悪い時宜だね。あんなに楽しみにしていたのに……。
「今は」
「はい?」
「うんう、何でもない」
「そうですか。では、気をつけてお帰りください。私は、司祭と式の打ち合わせがありますので」
「分かった」
俺は憂鬱な顔で、自分の館に帰った。館の庭では召使いが言った通り、庭番が件の箱を持って、俺の帰りを待っていた。俺は彼の前に歩みより、彼に「悪かったね」と言って、彼から件の箱を受けとった。
「ありがとう」
「いえ」
返事は、それだけ。俺が館の中に入った時も、その様子をただ眺めていただけだった。彼は俺が玄関の戸を閉めると、あらゆる興味を忘れて、自分の仕事にまた戻りはじめた。
俺は、自分の部屋に戻った。そうする事以外、何の考えもなかったからだ。俺は部屋の中に入ると、ベッドの上に腰かけて、箱の中からカメラを取りだした。カメラの形は、格好良かった。詳しいところは分からないが、「レンズ」と呼ばれる部品はもちろん、その本体も見事な形に仕上がっていて、触れば触る程に愛着が、見れば見る程に興奮が湧きあがってしまった。
俺はその興奮にしばらく酔いしれたが、現実の事象にはやはり抗えないらしく、興奮の波が静まった頃には、その現実から逃れようとする意思、つまりは現実逃避を考えていた。
「明日は、コイツで遊ぼう」
コイツを使って、嫌な事を忘れよう。
「今の俺には、そうする事しかできないんだから」
俺は悲しげな顔で、手元のカメラを眺めつづけた。
ううん、健康がやはり一番だ。身体が健やかならば、領主の仕事もはかどる。気持ちの方も晴々して、あらゆる事が気持ちよくなる。ずっと寝たきりでいるのは、かなりの苦痛が伴うからね。今までも病気にはいくらかかかったが、あの病気を通して、それが痛い程に分かってしまった。健康は、最大の財産である。自分の財産をどんなに蓄えても、自分が病気なら意味がない。健やかな身体と、穏やかな気持ちが保たれる事で、「人生」って言うのは何よりも輝くのだ。自分が生きてさえいれば、楽しい事はいくらでも味わえる。財産はそれを助ける、便利道具でしかない。道具は自分の背中に背負い、時には他者を生かして、みんなの幸せを満たすからこそ意味があるのだ。自分だけで財産を独り占めし、他人からもそれを奪うようでは、一定期間は幸せになれたとしても、やがては没落を生み、破滅を呼びこんで、自分も含めたあらゆるモノを損なってしまうのである。
俺がずっと前に見た社交界の光景も、その前兆をほのめかす壮大な序章だった。自分は、あんなふうになってはいけない。富と虚栄と保身に魅せられてはならない。人間の人生に必要な物は、「自分がこの世に生きている」と言う実感、「生まれてきてよかった」と思える幸福感なのだ。社交界の中で見たそれには、その幸福感を損なう地獄が流れていたばかりではない。それを否めるすべてが潜んでいた。人間が人間としての幸せを感じられなくなれば、その人はきっと誰よりも不幸になってしまう。自分は、そんな不幸には陥りたくなかった。
「生きている内は、幸せでありたい。幸せに生きて、周りの人達も幸せにしたい」
それを叶えるのは大変だろうが、それでも「やってやる」と言う気持ちは変わらなかった。俺が自分の趣味に打ちこむのも、それを「叶えたい」と思っているからである。一度きりの人生を、「俺」と言う存在を、魂の欠片まで大事にしたかった。俺が今日、封土の教会に行った理由もまた、その意識からきたモノだった。教会の中には墓が、両親の十字架が建っている。十字架の前には墓誌が刻まれ、そこには両親の名前と死亡日が彫られていた。墓誌の近くには……誰かが墓に添えてくれたのだろう、二つの小さな花が添えられていた。
俺は、その花に思わず泣いてしまった。花の色が美しかった事もあったが、それが風に動く姿からも、何とも言えない哀愁を覚えてしまったからである。俺は花の位置を少しずらし、風の当たらないところに置いて、それから両親の墓に十字を切ろうとした。だが、教会の司祭にそれを妨げられてしまった。司祭は俺の顔をまじまじと見たが、やがて来訪の意図を彼なりに察すると、俺の代わりに十字を切って、俺の両親に祈りを捧げはじめた。
「人間の魂は」
「うん?」
「決して滅びません。神のご加護がある限り、どんな魂もいずれ蘇る。今はただ、その時を待っているだけです」
俺はその言葉に胸を打たれたが、表情の方はあくまで冷静を装いつづけた。こう言う感情を悟られるのは、やはり恥ずかしい。
「異国の宗教では」
「はい?」
「そう言うのは、『輪廻転生』と言うらしい。『何かの姿で生まれた魂は、この世で生命が亡くなると、別の姿になって、この世界にまた戻ってくる』と言う考えだ。生前の行いに沿った姿や身分、種族や性別になってね。生命の環をいつまでも回りつづける」
「それは、面白い世界観ですね。私達の死生観では、魂はひたすらに昇っていくだけですが。そちらの世界では、同じところをぐるぐると回っているわけですね?」
「うん。だから、『死』と言う概念もない。死は、生の一部だからね。そこを通りすぎればまだ、新しい生命に生まれかわる。今の自分とは違う、まったく新しい自分に」
「貴方のご両親も、その新しい自分になっているかもしれませんね」
俺はまた、司祭の言葉に俯いてしまった。彼の言葉には、不思議な哀愁が漂っている。
「そうだといいな。もし、そうなっていれば……この世でまた、会えるからね。もう慣れてはいるけれど、やっぱり悲しいモノは悲しいよ」
司祭は、その言葉に押しだまった。その言葉がどうやら、司祭の心に刺さったらしい。彼は十字架の周りをしばらく歩き、頭上の空を時折見あげたが、俺の方にまた視線を戻すと、何処か寂しげな顔で、その場にゆっくりと立ちどまった。
「領主様にこれからも幸があらん事を」
意外な言葉だった。でも、うん、悪い気はしない。こう言う人に自分の幸せを祈られるのは、恥ずかしくもやはり嬉しかった。俺は自分の鼻先をポリポリと掻いて、目の前の司祭に「クスッ」と笑いかえした。
「ありがとう。俺も、貴方の幸せを祈らせてもらいます。この封土を治める者として。領民の幸せは、俺の幸せでもありますから。みんなが幸せになってくれたら、俺も」
「領主様」
司祭は俺の前に歩みよろうとしたが、その足をピタリと止めてしまった。彼がその場から歩きだそうとした瞬間、世話係の召使いがここに突然現れたからである。司祭は俺の顔をしばらく見て、それから世話係の顔に視線を移した。
「どうなされました?」
召使いは、その質問になかなか答えなかった。自分の息が上がっている事もあったが、その内側に何かを秘めているようで、司祭の質問にも上手く答えられなかったようである。俺が召使いの前に歩みより、彼にまた同じ質問を投げかけた時も、俺の目を何度か見わしたが、それ以上の反応はほとんど見せなかった。召使いは自分の息を整え、それがようやく落ちついたところで、俺の目をじっと見つめはじめた。
「決まりましたよ」
「え?」
何が?
「決まったんだ?」
「結婚の相手が、です。今まで様々な家を駆けまわりましたが、それをようやく見つけました。結婚の相手は、その家柄もよいお嬢様です」
俺は最初、彼が何を言っているのか分からなかった。「結婚」の意味は分かっても、そこからの思考がまったく働かない。まるで思考の時間が止まったようだった。あらゆる反論や反対意見が止まって、その場から一歩も動けなくなるように。頭の回転がすっかり止まってしまったのである。俺は回転の持ち手を何とか動かして、召使いの顔をじっと見かえした。
「どうして?」
「はい?」
「どうして、そんな事をしたんだ? どうして、そんな余計な事を?」
そうは言ったが、そんな事はずっと前から何となく察していた。察していたが、それが現実になるなんて思ってもいなかった。自分の結婚相手は、自分の手で見つけだす。領主の俺には叶わない夢かもしれないが、それでも一つくらい、身分の鎖を超えた願いは叶えたかった。そうでなければ、俺の存在意義がなくなる。俺が俺としての尊厳もなくなる。俺は自分では何もせず、どんな婚姻も叶うような貴族には、何があってもなりたくなかった。
「ふざけるな! 貴方の事は、家族のように思っていたけれど。今回ばかりは、許せない。貴方は、俺の大事な人生を勝手に決めてしまったんだ!」
召使いは、その言葉に怒らなかった。怒らなかったが、一種の不快感は覚えたらしい。俺が鋭い目で彼の顔を睨んだ時も、それに臆するどころか、俺の目を反対に睨みかえしてきた。
「貴方の人生は、貴方だけの物ではありません。貴方自身が、それをどう思っていようとも。貴方は、ここの領主です。領主には、領主の責任がある。『自分の血を繋げる』と言う責任が。私はただ、そのお手伝いをしただけです」
俺は、その言葉にふらついた。その言葉自体は、嬉しい。嬉しいが、それでもやはりふらついてしまった。自分の未来に影を感じて、その影が自分に迫ってくるような恐怖を覚えて。司祭が俺に「大丈夫ですか?」と訊いた時も、その質問に「ああうん、何とか」と答える事はできたが、それ以外の反応はできず、挙げ句は「ちょっと気持ちわるくなって」と苦笑いしてしまった。
俺は虚ろな視界にふらつきながらも、ある時は司祭の、またある時は両親の墓に目をやって、それに無言の救いを求めつづけた。自分はまだ、自分の自由を失いたくない。
「そのお嬢様は」
それに答えたのはもちろん、俺の目の前に立っている召使いだ。
「はい?」
「何歳くらい?」
「貴方と同い年ですよ。亜麻色の髪がとてもお綺麗な、見目麗しいお嬢様です。中身の方は、今どきの感じですが。話していて、とても気持ちいいお嬢様でした」
そうだとしても、やはり腑に落ちない。その子の事が嫌いなわけではないが、「強制」の二文字が俺をどうしても苛立たせてしまった。自分はこれから、会った事もない少女と結ばれなければならない。その少女と結ばれて、次の命を作らなければならない。女性の身体には(俺も男だからね)年相応な興味があった俺だが、今ばかりは「それ」が妙に腹立たしく、また一種の嫌悪感すらも覚えてしまった。
そいつは、俺の未来を阻む魔物。趣味の世界に攻めこもうとする破壊者だった。破壊者のやる事は、往々にしてろくでもない。今までの生活が、すっかり変わってしまう可能性もある。俺の大事な趣味が、壊されてしまうかもしれない可能性が。その可能性は、何としても防がなければならない。俺が俺として、これからも生きていくためにもね。その可能性だけは、絶対に壊したかった。
俺は鋭い目で、召使いの顔を睨んだ。それに怯まない召使いだったが、今はそんな事などどうでもいい。
「話は、どこまで進んでいるの?」
「詳しいところは、まだ。でも、だいたいの事は決まっています。式の打ち合わせが、来月の」
「ら、来月!」
「はい。相手に貴方の人柄をお話ししたら、相手がその気になってしまいましたね。本当は、明日にでも会いたいようです。打ち合わせが来月に延びた理由も、相手方にどうしても断れない約束があるからのようで」
「そ、そうか」
召使いは、その返事に押しだまった。その返事に苛立ったわけではなく、俺の態度にいらついてしまったらしい。彼の内心は推しはかれないが、「ゴホン」と咳払いした態度からは、その苛立ちが感じられた。召使いは真面目な顔で、俺の目を見かえした。
「相手方のお嬢様は」
「うん?」
「貴方の事をえらく気に入ったようです。『今までの男性とは、かなり違うようですね』と言って。彼女は……世俗な表現を使えば、とても好かれるようですから。それも同年代の男性にね。正に薔薇だらけの(※国のことわざで、「一人の女性が多くの男性に好かれている状態」を例えた言葉)状態です。彼女を嫁にしたい男性は、山ほどいる。貴方は、そんなご令嬢に好意を抱かれたのです」
「ふうん。それは、名誉な事だね。名誉な事だけど」
「はい?」
「それがどうして、こんなに嬉しくないんだろう?」
召使いは、その言葉に目を細めた、マズイ、これは相当に怒っている。
「領主様」
「な、なに?」
「子どもの時間は、終わりです」
俺は、その言葉にうつむいた。その言葉は、文字通りの死刑宣告に等しい。召使いは「今の生活を変える必要はない」と言ったが、それもただの誤魔化しにしか聞こえなかった。
「そ、そうか。なら、これからは?」
「ええ、大人の時間です。貴方も、女性の肌をしらなければなりません。いつまでも、清らかな身体でいるわけにはいかない。貴方にも、その時が訪れたのです」
そんな時は、いらない。そう言いかけたが、それを言うだけの気力が残っていなかった。召使いの言葉に言いかえす気力も。今の俺にできるのは、召使いに「気分が悪い」と言って、彼の前から歩きだす事だけだった。俺は真っ黒な気持ちで、地面の上を歩きつづけた。だが、奴はそれでも許さない。俺がどんなに離れようとしても、その背中に「待ってください」と話しかけてきた。「もう一つ、貴方に伝えなければならない事があります」
俺は、その言葉に振りかえった。これ以上、一体何を言うのだろう?
「なんだ?」
「貴方が前に『頼んだ』と言う道具……確か、『記録器』と言いましたか? それがさっき、貴方の館に届きました」
「カメラが館に届いた?」
「ええ、綺麗な箱に入れられてね。庭番の男が、その道具を預かっています。貴方が自分の館に戻られたら、すぐに渡せるように」
「そ、そうか。それは」
悪い時宜だね。あんなに楽しみにしていたのに……。
「今は」
「はい?」
「うんう、何でもない」
「そうですか。では、気をつけてお帰りください。私は、司祭と式の打ち合わせがありますので」
「分かった」
俺は憂鬱な顔で、自分の館に帰った。館の庭では召使いが言った通り、庭番が件の箱を持って、俺の帰りを待っていた。俺は彼の前に歩みより、彼に「悪かったね」と言って、彼から件の箱を受けとった。
「ありがとう」
「いえ」
返事は、それだけ。俺が館の中に入った時も、その様子をただ眺めていただけだった。彼は俺が玄関の戸を閉めると、あらゆる興味を忘れて、自分の仕事にまた戻りはじめた。
俺は、自分の部屋に戻った。そうする事以外、何の考えもなかったからだ。俺は部屋の中に入ると、ベッドの上に腰かけて、箱の中からカメラを取りだした。カメラの形は、格好良かった。詳しいところは分からないが、「レンズ」と呼ばれる部品はもちろん、その本体も見事な形に仕上がっていて、触れば触る程に愛着が、見れば見る程に興奮が湧きあがってしまった。
俺はその興奮にしばらく酔いしれたが、現実の事象にはやはり抗えないらしく、興奮の波が静まった頃には、その現実から逃れようとする意思、つまりは現実逃避を考えていた。
「明日は、コイツで遊ぼう」
コイツを使って、嫌な事を忘れよう。
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これは真の実力者であるロザリーが、ソロ冒険者としての地位を確立していきながら、残念ながら追いかけてきた魔法使いや女剣士を「虫が良すぎるわ!」と追っ払い、入り浸っている魔道具屋の店主が実は憧れの大魔法使いさまだが、どうしても本人が気づかない話。
※11話以降から勇者パーティの没落シーンがあります。
※40話に鬱展開あり。苦手な方は読み飛ばし推奨します。
※表紙はAIイラストを使用。
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