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第17話 最高の宿
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「仕事、終了」
そう言って自分の馬車を走らせている俺だったが、実は自分の館にまだ戻っていなかった。いつもなら既に見えている筈の風景も、今日は仕事の関係でまったく見えていない。今も、封土の外を進んでいた。封土の外は少し不気味で、その風景自体はとても自然だったが、風が地面の草木を揺らす度、馬が自分の蹄を鳴らす度に何とも言えない空気、普段では味わえない不思議な雰囲気を感じてしまった。俺の馬も「それ」と同じ事を感じているのか、普段なら黙々と歩いている筈が、今日は少し急ぎ足で走っている。馬は俺の手綱に従い、ある時には道の曲がり角を、またある時には草原の一本道を進んで、自分の役目を黙々と果たしていた。
俺は、馬の首をそっと撫でた。
「そうか。お前も、疲れたのか?」
その返事はもちろん、ない。ただ、馬の鳴き声が返ってくるだけだ。馬の鳴き声は何処か虚しく、俺がまた同じところを撫でてやっても、一応は喜んでくれたが、それ以外の反応はまったく見せなかった。馬もどうやら、今回の小旅行に疲れていたらしい。自分の息を荒らげて、林の中を進んでいく姿は、「血気盛んな若者」と言うよりも、「終わらない戦争に疲れきった老兵」と言った感じだった。「こんな長旅はもう、勘弁してほしい」と、そう俺に訴えている感じだったのである。自分の息や態度、その足どりなんかを通してね。今も、俺に「それ」を訴えつづけていた。だが、それは俺も同じである。馬がそうであるように、俺もまた馬にそう訴えつづけていたのだ。「お前が疲れているのは分かる。だが俺も、それ以上に疲れているのだ」と言うふうにね。「まあ、言っても伝わらない」とは思うけど。
今回は、とにかく疲れたのだ。自分の封土から逃げだした領民、正確には「封土の外に出てみたい」と思った領民だが、そいつらが封土の外に出ていってから数週間後、俺が今回行った自由都市に辿りついたらしく、そこで「農奴の生活ともおさらばできたし、これからは自由に生きてやる。俺達は、絶対に偉くなってやるんだ!」と意気込んだものの、それもやはり長続きしなかったようで(農奴の仕事をほっぽり出すような連中だからな。そうなるのも、何となく分かる)、そいつらの事をせっかく雇ってくれた職人頭と一悶着起してしまったのである。「俺達の金をもっと上げろ」ってね。
つまりは、賃金の底上げを求めたわけだ。その工場に入って間もない、それも見習い職人の身分で。彼等は仕事の中身を覚えるよりも、その対価を上げる方に意識が向いてしまったのである。こうなっては、流石の職人頭もお手上げた。一応は「お前達はまだ、見習いの身分だ。それが辛いのは充分に分かるが、お前らの飯代はこっちが出しているし、家の方もあてがっている。周りの連中も、それに耐えてもあっているし。お前達だけを特別扱いするわけにはいかないんだ」と言いきかせたようだが、それも徒労に終わってしまったらしく、挙げ句は「そんな事、知った事じゃない。俺達の要求が飲めないなら、この街で一暴れしてやる!」と言いかえされてしまったので、彼等から彼等の出身地を聞き、その情報をしっかりと書きとめて、俺の封土に早馬を走らせたのである。「私にはもう、手に負えません。町の市長とも話しあってみましたが、ここは元主人の貴方にお任せしたい」と言う感じにね。
平たく言えば、丸投げだ。自分達の手で罰するのはたやすいが、「面倒な事には、できるだけ関わりたくない」と言う精神なのか、通常なら都市の刑罰に服する筈が、今回は元主人の俺に後処理を投げられてしまったのである。これには、流石に参ってしまった。自分の馬がたとえ速くても、俺の封土からそこまでは結構な距離がある。一日や二日で、行ける距離ではない。その途中にはどうしても、宿屋が必要になる。宿屋の宿泊費はもちろん、自分の金だ。封土の公金を使うわけにはいかない。封土の公金は「それ」を動かすために使う物であって、こんな例外のために使う物ではないのだ。それがたとえ、元領民のためであっても。公金は、自分の領民に使わなければならないのである。その意味では、今回は予想外の出費だった。本当なら、「これで美味い物でも食べよう」と思っていたのに……。
「はぁ」
俺は暗い顔で、頭上の空を見あげた。「そうすれば、この悲しみも少しは和らぐだろう」と思ったからである。「今の気持ちが、ちょっとでも晴れれば」と。だが、そんなのは無意味。文字通りの無駄な抵抗である。頭上の空がどんなに晴れていても、自分の気持ちが晴れるわけではない。ただ、少しの安らぎを得るだけだ。元領民達のところに赴き、彼等の事を説きふせて、職人頭とも仲なおりさせる。そう言葉で表せばたやすく見えるが、それはあくまで結果論であり、その過程を振りかえれば、決してたやすい事ではなかった。馬鹿な人間を説きふせるのは、利口な人間に頭を下げるよりも難しい。
今回の場合もまた、その例に漏れなかった。彼等はしかめ面で俺の言葉を聞いていたが、最後は流石に諦めたらしく、不満タラタラであったものの、雇い主の職人頭とも何とか仲なおりする事ができた。それはよかったのだが、職人頭も今回の事に負い目を感じていたらしく、自分の前から歩きだそうとした俺を呼びとめて、俺に「今回は、本当に申し訳ございませんでした」と言いつつ、今回の費用を「少ないですが、どうかお納めください」と渡してきたので、その厚意を「お気持ちは嬉しいですが、ご心配には及びません。彼等はもう、俺の領民ではないけれど。それでも、元は同郷の仲間でしたから」と断った。「だから、気にしないでください」
俺は目の前の職人に頭を下げて、元領民達にも「辛い事も、たくさんあるだろうけど。お前らはもう、自由なんだから。自由には、相応の責任を持たなきゃならない」と言いそえた。
「俺も、その責任を果たしていくよ」
元領民達は、その言葉に泣きくずれた。特に右側の青年(彼がどうやら、今回の首謀者らしい)は余程に悔やんでいるらしく、俺が彼等の前から歩きだした後も、俺の背中に向かって「領主様、申し訳ございませんでした」と謝り、自分の非行を何度も詫びつづけた。彼等は(たぶん)自分の気持ちを改めて、職人頭の元にまた戻っていった。
「親方、この度は本当にすいませんでした!」
俺は、その言葉に微笑んだ。「今回の問題も片づいたし、これで自分の館にも帰れる」と思ったからである。俺は自分の馬に跨がって、自由都市の中から出ていった。だが、そこからが問題。今まで忘れていた疲れが、一気に押しよせてきてしまった。それも周りの景色をぼうっと眺めている時にふと現れてしまったのである。今の場所まで着く道中も、そんな疲れをずっと感じつづけていた。道の向こうにある宿屋を見つけた時だって、それに一瞬の安らぎを覚えた以外は、今までと同じ疲れを感じつづけていたのである。
「はぁ……」
俺は自分の所持金を確かめ、そこから宿屋の費用を推しはかって、馬の手綱を操りつつ、その宿まで馬を走らせた。宿の前には、一頭の馬も停まっていなかった。厩の中にも数頭しか見られなかったし、それらも餌箱の干し草を黙々と食べているだけだった。俺は馬の上から降り、宿屋の前に馬を繋いで、その玄関にゆっくりと向かった。玄関の中もまた、同じくらいに静かだった。そこから見える景色も、宿屋の受付らしい女性も、それぞれに必要な音を発しているだけで、俺が女性の質問に「空いている部屋なら、どこでもいいので」と答えなければ、夕方の静けさにすっかり飲まれているところ……は言いすぎか? 何であれ、それ程に静かだったのである。
俺は女性に今夜の宿泊代を払い、彼女の案内に従って、今日の部屋に向かった。今日の部屋も静かだったが、それが妙に華やかだった。普段は地味を装っているが、本当は物凄い美人である。そんな雰囲気が、部屋のあらゆる物から伝わってきたのだ。今の場所から見て右手に置かれている衣服箪笥からも、その上に美しい燭台が置かれた書き物台からも、それと同じ雰囲気が伝わってくる。それらは時間の芸術を使って、自分が最も光る世界を創りだしていた。
俺は、その世界に思わず魅せられてしまった。
「す、凄い」
女性は、その言葉に微笑んだ。その言葉がどうやら、とても嬉しかったらしい。
「そうでしょう? 私も、この部屋を気に入っています。この部屋は、我が宿で一番綺麗な部屋ですからね。そこにいるだけでも癒されます。その意味では、お客様はとても幸運ですよ? この部屋はいつも、誰かしらがお泊まりになっていますからね。今日は、たまたま空いていましたが」
「『普通なら、絶対に泊まれない』と?」
女性は、その質問に答えなかった。たぶん、「答える必要がない」と思ったのだろう。正確なところは分からないが、彼女の見せた微笑みからは、その意図が何となく察せられた。彼女は口元の笑みを和らげると、今度は真面目な顔で、俺に宿の決まりや食事の時間などを教えた。
「この宿には、浴場もありますので」
「へぇ、そうなんですか」
風呂場のある宿は、珍しい。こう言うところには大抵、水浴び場しかないからだ。お湯の出る風呂場には、それなりの費用が掛かるようだからね。最近は旅人が増えた事でそう言う宿も増えてきたが、それでも数としてはまだまだ少なかった。
「楽しみですね。夕食の後にぜひ入らせて頂きます」
「ありがとうございます」
女性は「ニコッ」と笑って、俺の前から歩きだした。
「それでは、ごゆっくり」
俺も「ニコッ」と笑って、その言葉に応えた。
「はい」
俺は部屋の中から出ていく女性を見送ると、ソファーの上に寝そべって、頭の上に両手を回し、部屋の天井をぼうっと眺めはじめたが、それがだんだん辛くなってしまって、自分が気づいた時にはもう、今の場所ですっかり眠りこんでしまった。その眠りから覚めたのはたぶん、女性がまたこの部屋にやってきた時だろう。彼女は俺の両肩を揺らし、俺がそれに目を覚ましたところで、その両肩から手をゆっくりと放した。
「お休みのところを申し訳ありません。夕食のご用意ができましたので」
「そうですか。分かりました」
俺はソファーの上から起きあがり、彼女の案内にまた従って、宿の食堂に向かった。そこに出されていた料理はもちろん、少しの食休みを入れてから入った風呂も、最高に素晴らしかった。特に風呂は極上も極上で、今までの疲れをすっかり忘れてしまった。
俺は極上のお湯を味わいつつ、満足げな顔で頭上の空を見あげた。頭上の空ももちろん、綺麗だった。湯気の影響で少しぼやけてはいるものの、星々の力が「それ」を超えているおかげで、湯気越しからも夜の天蓋を楽しむ事ができた。
俺は、その天蓋をしばらく観つづけた。
「まあ、今回も大変だったけど」
そのおかげで、こんなにも素晴らしい思い出ができた。「最高の宿屋で、最高の夜を過ごす」と言う思い出がね。これはきっと、神様からのご褒美だろう。今までの頑張りに対するご褒美。そう考えれば、「今回の小旅行も案外悪くなかったかも」と思った。その小旅行がなければ、この宿だって見つけられなかった筈だしね。現実の世界には辛い事が多いが、時にはこう言う事も起こる。理不尽な現実を和らげてくる宿屋が、見つかる時もある。「人生」とはたぶん、その繰りかえしなのだ。辛い事の後には嬉しい事が、嬉しい事の後には悲しい事がやってくる。今回の場合もまた、それが起こっただけなのだ。
「でも、そう考えると」
次にくるのは、切ない事か??
「まあいい。俺は、予言者じゃないからね」
先の事は分からない。
「だから、今日を生きよう。今日の幸せを噛みしめて、明日の不幸せを耐えしのぼう」
俺は「ニコッ」と笑って、思いきり背伸びした。
「さて、仕事の疲れも取れたし。封土に帰ったら、何をしようかな?」
そう言って自分の馬車を走らせている俺だったが、実は自分の館にまだ戻っていなかった。いつもなら既に見えている筈の風景も、今日は仕事の関係でまったく見えていない。今も、封土の外を進んでいた。封土の外は少し不気味で、その風景自体はとても自然だったが、風が地面の草木を揺らす度、馬が自分の蹄を鳴らす度に何とも言えない空気、普段では味わえない不思議な雰囲気を感じてしまった。俺の馬も「それ」と同じ事を感じているのか、普段なら黙々と歩いている筈が、今日は少し急ぎ足で走っている。馬は俺の手綱に従い、ある時には道の曲がり角を、またある時には草原の一本道を進んで、自分の役目を黙々と果たしていた。
俺は、馬の首をそっと撫でた。
「そうか。お前も、疲れたのか?」
その返事はもちろん、ない。ただ、馬の鳴き声が返ってくるだけだ。馬の鳴き声は何処か虚しく、俺がまた同じところを撫でてやっても、一応は喜んでくれたが、それ以外の反応はまったく見せなかった。馬もどうやら、今回の小旅行に疲れていたらしい。自分の息を荒らげて、林の中を進んでいく姿は、「血気盛んな若者」と言うよりも、「終わらない戦争に疲れきった老兵」と言った感じだった。「こんな長旅はもう、勘弁してほしい」と、そう俺に訴えている感じだったのである。自分の息や態度、その足どりなんかを通してね。今も、俺に「それ」を訴えつづけていた。だが、それは俺も同じである。馬がそうであるように、俺もまた馬にそう訴えつづけていたのだ。「お前が疲れているのは分かる。だが俺も、それ以上に疲れているのだ」と言うふうにね。「まあ、言っても伝わらない」とは思うけど。
今回は、とにかく疲れたのだ。自分の封土から逃げだした領民、正確には「封土の外に出てみたい」と思った領民だが、そいつらが封土の外に出ていってから数週間後、俺が今回行った自由都市に辿りついたらしく、そこで「農奴の生活ともおさらばできたし、これからは自由に生きてやる。俺達は、絶対に偉くなってやるんだ!」と意気込んだものの、それもやはり長続きしなかったようで(農奴の仕事をほっぽり出すような連中だからな。そうなるのも、何となく分かる)、そいつらの事をせっかく雇ってくれた職人頭と一悶着起してしまったのである。「俺達の金をもっと上げろ」ってね。
つまりは、賃金の底上げを求めたわけだ。その工場に入って間もない、それも見習い職人の身分で。彼等は仕事の中身を覚えるよりも、その対価を上げる方に意識が向いてしまったのである。こうなっては、流石の職人頭もお手上げた。一応は「お前達はまだ、見習いの身分だ。それが辛いのは充分に分かるが、お前らの飯代はこっちが出しているし、家の方もあてがっている。周りの連中も、それに耐えてもあっているし。お前達だけを特別扱いするわけにはいかないんだ」と言いきかせたようだが、それも徒労に終わってしまったらしく、挙げ句は「そんな事、知った事じゃない。俺達の要求が飲めないなら、この街で一暴れしてやる!」と言いかえされてしまったので、彼等から彼等の出身地を聞き、その情報をしっかりと書きとめて、俺の封土に早馬を走らせたのである。「私にはもう、手に負えません。町の市長とも話しあってみましたが、ここは元主人の貴方にお任せしたい」と言う感じにね。
平たく言えば、丸投げだ。自分達の手で罰するのはたやすいが、「面倒な事には、できるだけ関わりたくない」と言う精神なのか、通常なら都市の刑罰に服する筈が、今回は元主人の俺に後処理を投げられてしまったのである。これには、流石に参ってしまった。自分の馬がたとえ速くても、俺の封土からそこまでは結構な距離がある。一日や二日で、行ける距離ではない。その途中にはどうしても、宿屋が必要になる。宿屋の宿泊費はもちろん、自分の金だ。封土の公金を使うわけにはいかない。封土の公金は「それ」を動かすために使う物であって、こんな例外のために使う物ではないのだ。それがたとえ、元領民のためであっても。公金は、自分の領民に使わなければならないのである。その意味では、今回は予想外の出費だった。本当なら、「これで美味い物でも食べよう」と思っていたのに……。
「はぁ」
俺は暗い顔で、頭上の空を見あげた。「そうすれば、この悲しみも少しは和らぐだろう」と思ったからである。「今の気持ちが、ちょっとでも晴れれば」と。だが、そんなのは無意味。文字通りの無駄な抵抗である。頭上の空がどんなに晴れていても、自分の気持ちが晴れるわけではない。ただ、少しの安らぎを得るだけだ。元領民達のところに赴き、彼等の事を説きふせて、職人頭とも仲なおりさせる。そう言葉で表せばたやすく見えるが、それはあくまで結果論であり、その過程を振りかえれば、決してたやすい事ではなかった。馬鹿な人間を説きふせるのは、利口な人間に頭を下げるよりも難しい。
今回の場合もまた、その例に漏れなかった。彼等はしかめ面で俺の言葉を聞いていたが、最後は流石に諦めたらしく、不満タラタラであったものの、雇い主の職人頭とも何とか仲なおりする事ができた。それはよかったのだが、職人頭も今回の事に負い目を感じていたらしく、自分の前から歩きだそうとした俺を呼びとめて、俺に「今回は、本当に申し訳ございませんでした」と言いつつ、今回の費用を「少ないですが、どうかお納めください」と渡してきたので、その厚意を「お気持ちは嬉しいですが、ご心配には及びません。彼等はもう、俺の領民ではないけれど。それでも、元は同郷の仲間でしたから」と断った。「だから、気にしないでください」
俺は目の前の職人に頭を下げて、元領民達にも「辛い事も、たくさんあるだろうけど。お前らはもう、自由なんだから。自由には、相応の責任を持たなきゃならない」と言いそえた。
「俺も、その責任を果たしていくよ」
元領民達は、その言葉に泣きくずれた。特に右側の青年(彼がどうやら、今回の首謀者らしい)は余程に悔やんでいるらしく、俺が彼等の前から歩きだした後も、俺の背中に向かって「領主様、申し訳ございませんでした」と謝り、自分の非行を何度も詫びつづけた。彼等は(たぶん)自分の気持ちを改めて、職人頭の元にまた戻っていった。
「親方、この度は本当にすいませんでした!」
俺は、その言葉に微笑んだ。「今回の問題も片づいたし、これで自分の館にも帰れる」と思ったからである。俺は自分の馬に跨がって、自由都市の中から出ていった。だが、そこからが問題。今まで忘れていた疲れが、一気に押しよせてきてしまった。それも周りの景色をぼうっと眺めている時にふと現れてしまったのである。今の場所まで着く道中も、そんな疲れをずっと感じつづけていた。道の向こうにある宿屋を見つけた時だって、それに一瞬の安らぎを覚えた以外は、今までと同じ疲れを感じつづけていたのである。
「はぁ……」
俺は自分の所持金を確かめ、そこから宿屋の費用を推しはかって、馬の手綱を操りつつ、その宿まで馬を走らせた。宿の前には、一頭の馬も停まっていなかった。厩の中にも数頭しか見られなかったし、それらも餌箱の干し草を黙々と食べているだけだった。俺は馬の上から降り、宿屋の前に馬を繋いで、その玄関にゆっくりと向かった。玄関の中もまた、同じくらいに静かだった。そこから見える景色も、宿屋の受付らしい女性も、それぞれに必要な音を発しているだけで、俺が女性の質問に「空いている部屋なら、どこでもいいので」と答えなければ、夕方の静けさにすっかり飲まれているところ……は言いすぎか? 何であれ、それ程に静かだったのである。
俺は女性に今夜の宿泊代を払い、彼女の案内に従って、今日の部屋に向かった。今日の部屋も静かだったが、それが妙に華やかだった。普段は地味を装っているが、本当は物凄い美人である。そんな雰囲気が、部屋のあらゆる物から伝わってきたのだ。今の場所から見て右手に置かれている衣服箪笥からも、その上に美しい燭台が置かれた書き物台からも、それと同じ雰囲気が伝わってくる。それらは時間の芸術を使って、自分が最も光る世界を創りだしていた。
俺は、その世界に思わず魅せられてしまった。
「す、凄い」
女性は、その言葉に微笑んだ。その言葉がどうやら、とても嬉しかったらしい。
「そうでしょう? 私も、この部屋を気に入っています。この部屋は、我が宿で一番綺麗な部屋ですからね。そこにいるだけでも癒されます。その意味では、お客様はとても幸運ですよ? この部屋はいつも、誰かしらがお泊まりになっていますからね。今日は、たまたま空いていましたが」
「『普通なら、絶対に泊まれない』と?」
女性は、その質問に答えなかった。たぶん、「答える必要がない」と思ったのだろう。正確なところは分からないが、彼女の見せた微笑みからは、その意図が何となく察せられた。彼女は口元の笑みを和らげると、今度は真面目な顔で、俺に宿の決まりや食事の時間などを教えた。
「この宿には、浴場もありますので」
「へぇ、そうなんですか」
風呂場のある宿は、珍しい。こう言うところには大抵、水浴び場しかないからだ。お湯の出る風呂場には、それなりの費用が掛かるようだからね。最近は旅人が増えた事でそう言う宿も増えてきたが、それでも数としてはまだまだ少なかった。
「楽しみですね。夕食の後にぜひ入らせて頂きます」
「ありがとうございます」
女性は「ニコッ」と笑って、俺の前から歩きだした。
「それでは、ごゆっくり」
俺も「ニコッ」と笑って、その言葉に応えた。
「はい」
俺は部屋の中から出ていく女性を見送ると、ソファーの上に寝そべって、頭の上に両手を回し、部屋の天井をぼうっと眺めはじめたが、それがだんだん辛くなってしまって、自分が気づいた時にはもう、今の場所ですっかり眠りこんでしまった。その眠りから覚めたのはたぶん、女性がまたこの部屋にやってきた時だろう。彼女は俺の両肩を揺らし、俺がそれに目を覚ましたところで、その両肩から手をゆっくりと放した。
「お休みのところを申し訳ありません。夕食のご用意ができましたので」
「そうですか。分かりました」
俺はソファーの上から起きあがり、彼女の案内にまた従って、宿の食堂に向かった。そこに出されていた料理はもちろん、少しの食休みを入れてから入った風呂も、最高に素晴らしかった。特に風呂は極上も極上で、今までの疲れをすっかり忘れてしまった。
俺は極上のお湯を味わいつつ、満足げな顔で頭上の空を見あげた。頭上の空ももちろん、綺麗だった。湯気の影響で少しぼやけてはいるものの、星々の力が「それ」を超えているおかげで、湯気越しからも夜の天蓋を楽しむ事ができた。
俺は、その天蓋をしばらく観つづけた。
「まあ、今回も大変だったけど」
そのおかげで、こんなにも素晴らしい思い出ができた。「最高の宿屋で、最高の夜を過ごす」と言う思い出がね。これはきっと、神様からのご褒美だろう。今までの頑張りに対するご褒美。そう考えれば、「今回の小旅行も案外悪くなかったかも」と思った。その小旅行がなければ、この宿だって見つけられなかった筈だしね。現実の世界には辛い事が多いが、時にはこう言う事も起こる。理不尽な現実を和らげてくる宿屋が、見つかる時もある。「人生」とはたぶん、その繰りかえしなのだ。辛い事の後には嬉しい事が、嬉しい事の後には悲しい事がやってくる。今回の場合もまた、それが起こっただけなのだ。
「でも、そう考えると」
次にくるのは、切ない事か??
「まあいい。俺は、予言者じゃないからね」
先の事は分からない。
「だから、今日を生きよう。今日の幸せを噛みしめて、明日の不幸せを耐えしのぼう」
俺は「ニコッ」と笑って、思いきり背伸びした。
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