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冷たい雪の、その狭間で(中編4)
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マンションの部屋の前につくと、伊摘はもやもやとした思いを抱えながらドアを開けた。
昴のことが気になる。
友人もいないというから、遊びに行く場所も限られているとは思うが……繁華街やゲームセンターなどにいるのだろうか?
しらみつぶしに一軒一軒探しに行くのも一苦労だ。
怪我もなく無事でいればいいが……。
ぼんやりと考えながら部屋の中へ入ろうとして……不意に背後に人の気配を感じ、振り向いた。
「昴!」
そこにありえない人の姿を見つけ、伊摘は驚いた。
昴は伊摘と言い争いになってしまったことに罪悪感を覚えているのか、気まずげに視線を床に落とす。
「いつからここにいたんだ!?」
「ついさっき」
勝手に家から出たことを悪いと思っていないのか、昴は肩を竦めると悪びれない口調で言い、視線を伊摘に向けた。
伊摘は顔を曇らせて、優しさをこめた口調で言った。
「皆心配して昴を探しているんだぞ」
「……だって、うざったいんだもん」
口を尖らせて喋る昴の言い分は、理解できない単なる子供じみた我がままだった。
伊摘はすぐに携帯電話をズボンのポケットから取り出した。
嶋に知らせるためだ。
だが、伊摘がボタンを押す前に、昴が素早く携帯電話を手から取り上げた。
「昴」
「嶋に連絡するんだろ?」
「当たり前だ」
「そんなのしなくていい。誰も俺のことなんか心配してない」
「嶋さんも直次郎さんも心配してる」
「そんなの嘘だ!」
昴はこれ以上聞きたくないとばかりに顔を真っ赤にして声を張り上げる。
おもむろに昴は伊摘の腕を掴むと、足早に歩き出した。
「昴」
名前を呼んでも昴は振り向きもせずに、エレベーターのあるほうではなく、非常口の階段のあるほうへと向かった。
「嶋さんに連絡したほうがいい。昴がどこにいるのかわからずにずっと心配してるんだ」
「もう言うな!」
昴はくるりと振り向くと、敵意をむき出しにして伊摘に怒鳴りつけた。
「これ以上言うと、あんたも敵だ」
昴は持っていた伊摘の携帯電話を床に叩きつけ、足で踏みにじった。
「昴……」
「もういい、伊摘はいらない」
「昴!」
昴を引きとめようとしたが、腕を掴む前に手がすり抜けていく。
ドアを開け非常口から出て行った昴の後を、伊摘はすかさず追いかけた。
螺旋階段をものすごいスピードで下りていく昴に、ついていこうとしても足が追いつかない。
瞬く間に昴が路上に着き、左側の細い通路へと走っていった。
「昴!!」
ここで見失ったら大変なことになる。
階段を下りきった伊摘は、肩で息をつきながら休む暇もなく昴の後を追った。
「昴、待ってくれ!」
昴は一瞬振り返って伊摘を見たが、走る足を緩めなかった。
細い路地を出ると昴が右に曲がる。
伊摘はたったこれだけのことで息があがる己の体に苛々しながら、路地をやっと出た。
すぐ右側を向いて昴の姿を探したが、なかなか見当たらない。
伊摘は再び小走りになり、人の流れに揉まれるように昴の後姿を探す。
ほどなくして、遠くの方で必死に車の流れを見ている昴の姿を発見した。
伊摘は全速力で昴の元へと走っていく。
昴が手を上げてタクシーを停めたのを見て、これはまずいと思った。
タクシーに乗られでもしたら最悪だ。
行き先が全くわからなくなる。
「昴!」
昴がタクシーに乗りこんだと同時に追いつき、ドアが閉まる前に後部座席に体を滑りこませた。
「伊摘!」
「こ、昴……げほっ、げほっ……」
あまりにも必死に走りすぎて、声が出ない伊摘は体をくの字に折り曲げてひどく咳きこんだ。
「お客さん、どちらに行きます?」
運転手が呑気な声で尋ねる。
「……どこでもいいから出して」
「お客さん」
「やべっ、見つかった。早く出せ!」
伊摘が顔を上げると、走ってくる男たちの姿が見えた。
運転手は事情を察して車を出してくれたが、ひっきりなしにルームミラーで昴と伊摘の姿を窺っている。
わけありの客を乗せてしまったと思っているのだろう。
「どこまで行きましょう」
運転手の声に、昴はいい加減に答える。
「海に行って。どの場所でもいいから」
運転手は困惑した様子だったが、それ以上何も言わず大人しく車を走らせた。
「昴」
呼吸が楽になると、伊摘は昴の腕を掴み、強い目で昴を見つめる。
「なんでついてきたんだよ」
昴は怒っているようだったが、ばつの悪さも感じているようだった。
睨む目が微妙に泳いでいる。
「心配だったから。勝手にこんなことしちゃだめだろ?」
「別にどこに行ったっていいじゃん」
昴の子供じみた拗ねた顔に、伊摘は深くため息をついた。
大人のような物言いをしても、やはりまだまだ子供だ。
屁理屈をこねて自分を正当化しようとしている。
皆が心配しているから帰ろうと言いたいが、そう言おうものなら、きっと車から押し出されるに違いない。
「どうして俺のところに来たんだ?」
伊摘はなるべく昴を刺激しないように静かに訊いた。
「伊摘なら……俺のこと裏切らないと思った……けど、もういい」
昴は伊摘が掴んでいる腕を離そうとする。
伊摘はすぐに手を離したが、今度は昴の膝に手をつき、諭すように話した。
「裏切るとかそういう問題じゃない。人に迷惑をかけることが昴の考えなら、俺は従うことはできないし賛成できない」
伊摘は厳しい声で、道筋の通った自分の考えを話した。
昴にはその意味をわかっているはずだ。
案の定、昴は唇をかみ締めて押し黙った。
「昴が俺を頼ってくれるのはとても嬉しいと思う。力になりたい。けど、こんなことしてちゃ、俺は昴のことを守れない」
「俺は……誰かに守ってもらわなくてもいい」
強がりを言っていても、逡巡している気持ちが見ていてわかる。
「昴。子供は大人の庇護にある。責任を持って子供を育てて守っていくのが大人の責任だ。昴がちゃんと俺を信頼して甘えてくれるなら、俺はその責任を負ってもいいと思ってる」
真摯な言葉で告げると、昴は不意に泣きそうな表情になり、ぎゅっと拳を握り締めた。
伊摘は優しい笑みを浮かべて見つめ、痛ましげに握り締めている拳に触れた。
「直次郎さんや嶋さんと少し話をしたよ。直次郎さんは昴にどう接したらいいのかわからないような感じがしたな。でも、ぶっきらぼうな所とか昴に似てるって思った。あまり自分から話したがらない人だけど、話しかければちゃんと答えてくれる人だ。遠慮しないで声をかけてみればいい」
昴が何も言わないので伊摘は続けた。
「嶋さんは……あの人はとても面倒見がいい人だ。それは昴もわかっていると思う。仲よかったんだろ?」
「前は」
「喧嘩したって聞いたけど……」
「嶋とは口も利きたくない」
「昴はそう思っていても、あっちは昴のこと気にかけてる。必死に昴の居場所を探そうとしてたよ」
言い聞かせるように喋る伊摘に、昴は迷子のような顔で見つめる。
「……伊摘はなんで俺のこと構うんだよ。普通なら、俺のことほっとくだろ」
「昴のことが気になって仕方がないから。昴は嫌がるけど、やっぱ可愛いし」
昴は大げさに顔を顰めた。
「……また可愛いだ。ほんとあんたって呑気って言うか、疑うことを知らないんだな」
「知らないんじゃない。信用している相手を疑いたくないだけ」
「そういう優等生な発言、マジムカつく。所詮キレイゴトだ」
「そうかもしれない」
あっさりと認めた伊摘に、昴は虚を突かれた顔をする。
「でも、信じることからはじめないと先に進めない。昴は臆病になって一歩もそこから動いていないだろ? 気に食わないことがあっても、その場でただ喚いているだけだ」
昴は不機嫌な表情で黙って伊摘を見つめている。
その表情が何か言いたそうにも見えたので、伊摘は微笑み右手を差し出した。
「……なんだよ」
待っても何も言わない伊摘に、昴はぶっきらぼうに訊いた。
「俺と仲直り」
伊摘は笑みを浮かべ、自分から和解を申し出た。
素直でない昴は、いくら待っても、自分から和解することも謝ることもしないだろう。
昴は伊摘の差し出した手を戸惑うように見つめ、ぼそっと呟いた。
「ほんと変な奴。そういうこと言える時点で、おかしいって」
伊摘は首を傾げて笑うと、昴は諦めたようにため息をつき、手を差し出して握り締めた。
「帰ろう、昴」
伊摘は請うように言った。
だが、昴は首を横に振る。
「……嫌だ」
先ほどの頑なな態度とは違い、躊躇いがちに、少し怯えた様子で拒否する。
「どうして?」
「俺……怒られるに決まってる」
素直に自分の愚行を認めた昴に、伊摘は勇気づけるように笑った。
「それはちゃんと謝らなきゃならない。昴はできるだろ?」
昴は少し考えてから唇をきゅっと結び、決意した表情で頷いた。
「……わかった。けど……ここまで来たんだし、海ちょっとだけ見て行ってもいい?」
外を見てみると、いつの間にか海が見える場所まで来ていた。
しょうがないと伊摘は頷き、砂浜の近くまでタクシーに行ってもらうことにした。
料金を払い、タクシーから降りると、穏やかな潮風が髪を揺らした。
磯の香りが鼻腔を満たし、心地よい潮風に、伊摘は大きく息を吸う。
隣に立つ昴も、眩しそうに目を細めて海を見つめている。穏やかな表情だ。
二人は歩道から斜面になった草むらを歩き、浜辺へと足を向けた。
凪いだ海は二人の足元を静かな波で濡らしている。
砂を踏みしめる音と波が打ち寄せる音に耳を傾けながら、ゆったりと歩いていると、隣に並んだ昴が落ち着いた声で話し出した。
「……母さんは、両親に大反対されて再婚したんだ」
「重忠さんのこと?」
「うん。ヤクザってことが知れ渡って、結婚するなら縁を切るって大騒動だった」
「そうなんだ」
「それでも母さんは結婚することを選んだ」
そこまで反対されても、好きな相手と結婚することを選んだ昴の母親の気持ちが、伊摘にはなんとなくわかるような気がした。
「お母さんは重忠さんのことが本当に好きだったんだね」
「多分。でも……俺は……」
言葉を詰まらせて、顔を皺くちゃに歪めた昴は、不意に怒りを露に乱暴に喋る。
「言葉では祝福してやったけど……母さんは俺のことなんか全く考えてなかった。自分だけの幸せのために結婚したんだ」
伊摘はそうとは思えなくて、昴の母親の気持ちを代弁するかのように言った。
「違うと思う。昴のことを考えて、お父さんが必要だと思って結婚したんじゃないかな」
昴は足を止め、伊摘を睨みつけた。
「父親なんて必要ない。いらないじゃん、そんな存在」
「昴はそう思っていても、お母さんには片親だけの家族で不憫に思っていたのかもしれない」
伊摘がそう話しても、昴は怒りを溜めこんだ表情で拳を握り締める。
「父親なんて……別れた父親、すごかったんだ。暴力が」
伊摘は驚いて息を呑む。
まさか暴力を振るわれていたのだろうか。
「母さん、いつも殴られて泣いてた」
泣きそうな顔で話す昴が切なくて、伊摘は思わず昴の細い体を抱きしめた。
「昴」
昴は今までどれほど辛い経験をしてきたのだろう。
まだ十三歳だというのに運命は残酷で、しかも今だってその状況は変わっていない。
「やっと別れたのに……なんで結婚なんかしたんだろ。俺は必要なかったのに」
昴は伊摘に抱かれじっとしていた。
「昴は、その気持ちをお母さんに言ってみた?」
伊摘が優しく尋ねると、昴は伊摘から少し離れる。
「できないに決まってるだろ。シングルマザーで子供を育てるって大変なんだぞ」
昴は物分りのよすぎる子供だったのだろう。
母親を思うばかりに、自分の感情をも押し殺してしまう大人びた子供だった。
「昴は優しいんだな」
「俺は全然優しくない。だってずっと母さんを恨んでた。俺のことなんか考えもせずに結婚して男を取ったことを」
「昴は優しい子だからお母さんに迷惑をかけないようにって無理したんだ。我がままを言ってもよかったのに」
「伊摘は……そう思ってくれるんだ?」
「うん……なんか切ないな。無理して言葉を飲みこんでしまう昴の姿を想像しただけで悲しくなる」
「母さんはそんな俺の気持ち、知らなかった」
母親というものは子供が思っている以上にたくさんのことを知っているものだ。
たとえ取り繕っていても、見抜く目を持っている。
「もしかしたら、知ってたかもしれない。でも自分の気持ちを止められないことってあるんだ。誰かを捨てることになっても選びたいものが」
伊摘は昴の気持ちもよくわかるが、それ以上に昴の母親の気持ちが痛いほどよくわかった。
今の伊摘の姿が、なんとなく昴の母親の姿を重なるものがある。
そしてそれは昴も感じていたのだろう。
「伊摘も……貴昭を取るのか?」
そんなことを訊いてきた昴に、伊摘はゆっくりと歩き出して遠くまで海を眺める。
「俺は……もう選び取った」
「選び取った……? もしかして誰かに言って反対とか……」
昴も伊摘の後ろからゆっくりと歩いてくる。
「ううん、俺は卑怯だから両親にも誰にも言ってない。ただ……」
そこまで言い、伊摘は口を噤んだ。
伊摘はヤクザである貴昭の存在を恥とも罪とも思ったことは一度もなく、たとえ世間に後ろ指を指されたとしても、両親に、兄弟にそれで絶縁されても、構わないとすら考えていた。
伊摘の中に貴昭以外の選択肢は含まれていない。
貴昭の側にいると決めた時点で、伊摘はその他の選択をすべて捨てた。
胸を張れることは決してないけれど、貴昭の生き様を見つめ、共に歩んでいくだけの覚悟を持って側にいるのだから、誰に何を言われも曲げないだけの誇りを伊摘は常に持っている。
伊摘にとって貴昭がすべてだから。
「知られたら、絶縁されるだけの覚悟はできている。そうじゃないと貴昭の側にはいられない。誰かを愛することって、それなりの覚悟が必要なんだよ、昴。お母さんも生半可な思いで結婚したんじゃない」
昴は考えこむように視線を落とした。
恋をしたことがない昴がいくら考えたところで、わかるはずがない。
これは大人になって恋をしたときに、はじめてわかることだ。
「伊摘は……」
言いかけて、顔を上げた昴が大きく目を瞠った瞬間だった。
伊摘の首に腕が巻きつき、瞬く間に砂浜に倒される。
「伊摘!」
首を絞められ、伊摘は砂まみれになりながらも、抵抗し、背後から襲ってきた男の顔を見つめた。
殴られ青痣だらけの歪んだ顔の醜い男は見たことがない。
ただ、男の顔つきは貴昭の生きている世界と馴染みがあるような冷酷な目つきをしていた。
誰なのかはわからないが、男の纏う殺気を感じる限り伊摘を殺そうとしているのは確かだった
男は伊摘の頭を激しく砂の中に叩きつけた。
口の中に砂が入り、叩きつけられた頭が朦朧としてくる。
「やめろ!」
昴が叫び声をあげて男に体当たりした。
伊摘の体から男が離れていったのは助かったが、今度は昴に殴りかかっていった。
伊摘はふらつく体で立ち上がると、鼻からつーと液体が流れていくのを感じ、手で乱暴に拭う。鼻血が出ていた。
男の拳が躊躇いもなく昴の頬を殴りつけていたのを見て、伊摘は男の背後から腕を掴んだ。
だが、伊摘はあっけなく男に振り払われ、砂に倒れる。
男は伊摘を蹴り上げた。
「やめろって言ってんだろ!!」
昴が男の体を羽交い絞めにしようとしたが、男は難なく昴の手を振り払った。
そしておもむろにズボンのポケットから、鈍く光るナイフを取り出した。
伊摘と昴の二人が相手でも男は怯まない。
喧嘩すらしたことがない堅気の伊摘とまだ子供の昴では、たいした戦力にはならないとわかっているからだろう。
男は素早い動きで昴と伊摘にナイフを振り立てる。
そのたびに二人は寸前のところでかわしていたが、反撃する暇もなく逃げ切るのは時間の問題だった。
男が昴に向きを変えた瞬間、伊摘はチャンスに賭けて男に向かい殴りかかっていく。
すぐに気づいた男がそれをかわし、今度は伊摘に向かってナイフを突き出した。
そのときだった。
「撃つぞ!!」
見れば昴がモデルガンを手に男に狙いを定めていた。
男は伊摘と向かい合ったまま、ちらと昴を見つめる。
「ガキに撃てるのか?」
男がはじめて口を開いた。
「撃てるに決まってんだろ!」
昴は男に向かい銃をスライドさせて引き金を引いた。
モデルガンではたかが威力は知れていると思ったが、前に一度耳にしたことがあるパンという乾いた音と銃口からかすかに立ち上った煙を見て、まさかと思った。
男は一瞬驚いた顔をしていたが、五体満足な自分の体を見下ろして、にやりと笑う。
そして昴に向かい、ナイフを手に突き進んでいった。
まさか本物の銃を持っていたとは思わず、一瞬反応が遅れた伊摘は慌てて男の背後にしがみつく。
「昴、逃げろ!」
このままだと昴と伊摘が殺されてしまうのは目に見えている。
なにも二人で一緒に死ぬことはない。
伊摘が男をひきつけておいて、そのうちに昴を逃がせばいいのだ。
自分の命は……ここで尽きるならそれもしょうがないと思った。
貴昭とずっと一緒にいたかったが、昴を救うために背に腹はかえられない。
死ぬことは正直怖いが、それは貴昭の側にいると決めたときから覚悟していた。
伊摘がしがみついた状態で、男は身を捩るように昴にナイフを振るった。
その乱暴な動きに、伊摘の腕の力が緩み、背後に倒れる。
昴は慌てて飛びのき……そのとき手から銃が離れ、砂の上に落ちた。
しまったという顔をした昴に男は銃を拾う隙を与えずに、昴に殴りかかっていく。
殴られた昴は砂の上に倒れたが、すぐに体を起こし、逃げることはせずに立ち向かっていこうとしていた。
「逃げろ!」
伊摘の言葉など聞かずに、昴は男と取っ組み合いになった。
殴られて砂の上に倒れた昴の首を、男は左手で絞めて、ナイフを首に翳した。
伊摘は素早く銃を拾い、背後から男の頭に押し当てる。
ナイフの動きが昴の首に突き刺さる寸前でぴたりと止まった。
間一髪で間に合った。
「昴を離せ! でないと撃つ!」
「そんなに震えた手で俺が殺せるのか?」
はじめて銃を持つ伊摘の手が小刻みに震えているのを、男は見ていなくても感じ取っていた。
伊摘に殺せるわけがないと、男は思っているのだ。
男が持つナイフの先端は昴の首筋に当たっている。
少しでも力を加えると、簡単に肌へと突き刺さってしまうほど鋭利だ。
伊摘は震える手で引き金に人差し指をかけた。
昴を助けるために人を殺せるのか。
だが、それは伊摘が貴昭の世界へ飛び込んだときから、心に決めていたことだった。
そう……守りたい人がいるなら、誰かを殺すことになっても構わないと。
男は昴を離そうとしない。
伊摘は覚悟し、手に力をこめた。
そのとき、伊摘の背後に影が差し、ふわりと大きな体で包まれる。
「お前の綺麗な手は、こんなもんを持つためにあるんじゃねえ」
伊摘の銃を持つ手に、大きな手が添えられた。
愛しい男の汗の匂いと、包まれた体のぬくもりに、伊摘の腕から力が抜けた。
「貴昭……」
貴昭は伊摘の手から銃を取りあげ……だが、すぐに男の頭に突き刺さるほどぐりぐりと銃口を押しつけて言った。
「あのとき殺しとけばよかったな」
低い貴昭の声に、男の肩がびくりと震える。
「昴を離せ。俺に脅しはきかねえことぐらいわかるだろ」
伊摘のときは動かなかった男が、貴昭の言葉にゆっくりと腕の力を緩めていく。
昴が腕から抜けた瞬間、伊摘は昴に駆け寄り抱きしめた。
貴昭は男に銃を定めたまま、男の腹部を強く蹴り上げる。
男は腹部を押さえ、悶え苦しみ吐瀉物を吐き出した。
伊摘は顔を背け、また昴にも見せないようにしながら、男と貴昭の姿を体で隠した。
路肩に止められた三台の車から次々と男たちが降りて、こちらに向かってくる。
その中に嶋を見つけ、伊摘はほっと安堵の息をついた。
嶋が砂に足を囚われながら伊摘と昴の側に走ってくる。
伊摘と昴の歩くことも覚束ないぼろぼろの姿を見るなり、嶋は顔色を変え、二人を優しく支えた。
「こんなことなら医者を連れてくればよかった」
嶋の小さな呟きに昴がすぐ反応する。
「たいしたことない」
昴は平気な顔をして嘯いた。
昴の顔は殴られて唇が切れ、腫れている。
伊摘も顔や体が痛み砂まみれでひどい有様だった。
医者が必要なことは一目瞭然だった。
疲れたように歩く昴と、腹を抱え前かがみになって歩く伊摘を、嶋が素早く支え、側にいたもう一人の男に目配せした。
すると、側にいたその大きな男が昴の体を支える。嶋は伊摘を支えた。
「少し座っててください」
嶋がそう言って伊摘を草むらに座らせると、車へと走っていく。
昴を支えていた男が、慎重に昴を座らせた。
「昴、怪我は?」
伊摘は同じように砂まみれになっている昴の体を見て尋ねる。
「平気、殴られた顔が痛いけど、怪我は……」
昴のシャツの腹の部分が真横に裂けているのを見て、伊摘は息を呑み、すぐその部分に手を当てて確かめた。
切られたのはシャツのみだと知り、伊摘は安堵のあまり体が震える。
二人とも、よく無事で生きていた。
「伊摘こそ、怪我は?」
口を開くと痛いのか昴は顔を顰め、血に染まった唾を吐く。
「顔と腹が痛いけど……切られてないし大丈夫」
「ほんと顔が痛え」
嶋が救急箱とペットボトルに入った水を持って戻ってきた。
昴は嶋からペットボトルを受け取ると、キャップを捻り口に水を入れ、すぐさま水を吐き出し、口の中を濯いだ。
伊摘も砂でじゃりじゃりとした口の中を水で注ぎ、それから水を飲んだ。
嶋はタオルに水をかけて、伊摘に差し出したので、伊摘は礼を言って受け取り、血がついた顔を拭いていく。
昴にも水を含ませたタオルを渡した後、嶋は伊摘の体に触れて、折れているところがないか、傷がないかどうか確かめた。
「なんつーか……すっげー悔しい。なんで俺はこんなにも非力なんだろ。強かったら伊摘を守れたのに、強かったらあんな奴一撃で倒せたのに」
昴がそう言った瞬間だった。
嶋が昴の頬を平手で叩いた。
「なっ……なにすんだよ!」
「皆を心配させた罰だ。それと伊摘さんをも危険に晒した」
嶋は激怒していた。
言葉にはその素振りもみせないが、眦が今まで見たこともないほどつりあがっている。
「どうして勝手に屋敷を出た。あれほど出るなと言ったはずだ」
嶋の怒りに立ち向かうように、昴は顔を上げて睨みつけた。
「俺がどこに行こうと勝手だろ!」
また嶋が昴に手を上げた。
「その勝手が、こんな事態を引き起こした。それがわからないのか。命が危なかったんだぞ」
昴は殴られた頬に手を当て、唇をかみ締めると、目に涙を溜めて肩を落とした。
伊摘はその姿を見てたまらなくなり抱きしめようと手を伸ばした。すると、嶋が伊摘を制する。
甘やかすなとばかりに、嶋は伊摘を強く見つめた。
小さな声で昴は言った。
「ごめん……」
「聞こえない」
嶋の言葉は厳しく、躾以上の厳格さがあった。
「ごめんって言っただろ!」
顔をあげた昴はぽろぽろと涙を流していた。
「嶋さん……」
伊摘が可哀想に思い、嶋を許してあげるように見つめると、嶋は大きなため息をついた。
それが許しだと感じて、伊摘は昴の肩を抱き寄せる。
「ごめん、伊摘」
昴は大人しく伊摘に肩を抱かれながら謝った。
「ううん、俺も悪かった。あのまま帰るように言ってたら、こんなことにならなかった」
「違う。俺が海に行きたいって言ったんだ」
「だとしても、俺が止めるべきだった。……ごめんなさい。嶋さん」
伊摘も嶋に謝ると、嶋はなんとも言えない複雑な表情になった。
まさか、伊摘から謝られるとは思ってもみなかったのだろう。
「伊摘さんに謝られたら許すしかありません。無事だったのでよしとします」
嶋に言われてほっとし、伊摘は笑みを浮かべようとしたが、頬が引き攣ってうまく笑えない。
「伊摘」
貴昭に名前を呼ばれて伊摘は顔を上げる。
歩み寄り目の前にしゃがんだ貴昭は、伊摘の頬に優しく手をかけてつぶさに顔を見つめた。
「なんて酷えツラだ」
貴昭の顔に煮えたぎる怒りがよぎる。
「このくらい数日も経てば治る」
軽く伊摘は言ったが、貴昭は視線を昴に移して睨みつけた。
昴の肩がびくりと震える。
「昴、自分のしでかしたことがわかってんだろうな?」
「わかってる」
その言い方が気に入らなかったのか、突如貴昭は立ち上がると昴の襟を掴み持ち上げた。
「貴昭!」
まさか、殴るつもりかと伊摘が慌てて止めに入るも、貴昭は軽く膝を曲げ、そこに昴の体をうつ伏せにすると昴の尻を思いっきり叩き始めた。
「い、痛て! やめろ!」
「ガキが大人を振り回した罰だ」
手加減なしに数回叩くと、貴昭は昴を乱暴に下ろした。
あまりにも痛かったのだろう。昴は痛みに呻いて泣いていた。
「手間かけさせやがって、しかも伊摘の命まで危険に晒した」
昴は尻を摩り涙を流しながら口答えする。
「ごめんって謝った」
「俺には謝ってねえだろ」
昴は唇をきつくかみ締めた。
貴昭にその言葉を使うのが屈辱だとばかりに、しばらく昴は口を開かずだんまりを続けていたが、やがて昴は意を決して、貴昭を見上げ、その瞳に怯えたような色を見せて謝った。
「……ごめんなさい」
貴昭は顔色ひとつ変えずに静かに言った。
「……直さんが心配してる。帰ったら、たっぷりと怒られろ」
またなにか怒られるとびくびくしている昴は小さく頷く。
「体は大丈夫なんだろうな」
ぶっきらぼうな訊き方だが、どことなく優しさがこめられていたので、伊摘は思わず貴昭を見つめた。
貴昭も昴のことを心配していたのだとわかる。
再度昴が頷くと、貴昭はそっけなく言った。
「ならいい」
貴昭は伊摘の前にしゃがむと、腰に手をかけて引き寄せる。
そして、軽々と持ち上げて立ち上がった。
「大丈夫、歩ける」
伊摘がそう言っても、貴昭は聞く耳を持たない。
「腹抱えて歩いてただろ。殴られたんじゃねえのか?」
相変わらず伊摘のことに関して貴昭はよく見ていた。
「少し、蹴られただけ」
「だけだって? 痛みは? 吐き気や目眩は?」
「痛みはあるけど、吐き気や目眩はない」
「一応医者に診てもらったほうがいい」
心配性な貴昭は顔を曇らせて、顔色が悪い伊摘の顔をつぶさに見つめる。
そこまで言うなら従ったほうがいいだろう。
「なら、昴と一緒に病院に行く」
「組の関係者に医者がいます。その病院に行きましょう。昴、立てるか?」
嶋が昴に手を貸し立ち上がらせた。
貴昭は伊摘を抱えたまま、ゆっくりと車へと向かって歩き出した。
その後から嶋に支えられて昴がついてくる。
車の方を見上げると、組の男たちが伊摘と昴を襲った男を無理やり車に乗せていた。
「あの人は?」
伊摘が尋ねると、貴昭は言葉を濁さずに教えてくれた。
「前に俺を襲った男だ」
「なんで、俺と昴が狙われたんだろ?」
ふと疑問がわきあがり、伊摘は呟く。
まさか見ず知らずの他人が、伊摘や昴に恨みを抱いている人とは考えにくい。
男は明らかにヤクザ者だ。組の部外者である伊摘や昴をなぜ襲ったのか、まったくわからない。
いきなり背後にいた昴が言った。
「明らかに弱っちい伊摘を狙ってくる奴なんて絶対いないと思ったのにな。そんなやつらの方が弱虫の卑怯者だ」
「お前、自分のことを棚に上げて、伊摘だけ弱いとか言うんじゃねえ」
貴昭が呆れた声をあげる。
黙って聞いていた嶋が静かに口を開いた。
「多分、組長に対する恨みが、伊摘さんと昴に向かったのではないでしょうか?」
「貴昭は強くて手も足も出せないから? やっぱ卑怯者じゃん」
昴はそう結論づけて言ったが、明らかに面白くないようだった。
「あの男をどうするんだ?」
伊摘は興味があって貴昭に尋ねる。
だが、それには貴昭は答えなかった。
「俺の銃!」
昴が突然声を張り上げた。
「あ?」
貴昭は後ろを振り向く。
「それ、俺のM9だ。返せ」
昴は貴昭の腰の辺りを指差した。
「俺の銃だ? このベレッタをどっから手に入れた?」
貴昭の眉間に皺が寄り、声が低くなる。
それは貴昭が怒っている証拠だった。
昴は自分の言動を悔やむような表情を見せて、聞こえないような小さな声で告げた。
「……ネット」
「没収。ガキがチャカ持っていいはずねえだろ。遊び道具には危険すぎる」
昴は口を尖らせて、貴昭の背後に腕を伸ばした。
「やっと手に入れたのに。それずっと欲しかったんだ」
貴昭は、昴の手から体をかわして、手を叩いた。
「お前にはチャカより水鉄砲だ」
「水鉄砲!? どこのガキだよ」
先ほどまで泣いていた昴が、今は生き生きとした表情で貴昭に立ち向かっていく。
貴昭に怒られたことなど忘れてしまったかのような、元気な様子に、伊摘は安堵すると同時に立ち直りの早さに驚いた。
これならば貴昭との間に禍根を残さないだろう。
そして、嶋や直次郎との間の溝も、早く埋まって欲しいと思わずにはいられなかった。
昴のことが気になる。
友人もいないというから、遊びに行く場所も限られているとは思うが……繁華街やゲームセンターなどにいるのだろうか?
しらみつぶしに一軒一軒探しに行くのも一苦労だ。
怪我もなく無事でいればいいが……。
ぼんやりと考えながら部屋の中へ入ろうとして……不意に背後に人の気配を感じ、振り向いた。
「昴!」
そこにありえない人の姿を見つけ、伊摘は驚いた。
昴は伊摘と言い争いになってしまったことに罪悪感を覚えているのか、気まずげに視線を床に落とす。
「いつからここにいたんだ!?」
「ついさっき」
勝手に家から出たことを悪いと思っていないのか、昴は肩を竦めると悪びれない口調で言い、視線を伊摘に向けた。
伊摘は顔を曇らせて、優しさをこめた口調で言った。
「皆心配して昴を探しているんだぞ」
「……だって、うざったいんだもん」
口を尖らせて喋る昴の言い分は、理解できない単なる子供じみた我がままだった。
伊摘はすぐに携帯電話をズボンのポケットから取り出した。
嶋に知らせるためだ。
だが、伊摘がボタンを押す前に、昴が素早く携帯電話を手から取り上げた。
「昴」
「嶋に連絡するんだろ?」
「当たり前だ」
「そんなのしなくていい。誰も俺のことなんか心配してない」
「嶋さんも直次郎さんも心配してる」
「そんなの嘘だ!」
昴はこれ以上聞きたくないとばかりに顔を真っ赤にして声を張り上げる。
おもむろに昴は伊摘の腕を掴むと、足早に歩き出した。
「昴」
名前を呼んでも昴は振り向きもせずに、エレベーターのあるほうではなく、非常口の階段のあるほうへと向かった。
「嶋さんに連絡したほうがいい。昴がどこにいるのかわからずにずっと心配してるんだ」
「もう言うな!」
昴はくるりと振り向くと、敵意をむき出しにして伊摘に怒鳴りつけた。
「これ以上言うと、あんたも敵だ」
昴は持っていた伊摘の携帯電話を床に叩きつけ、足で踏みにじった。
「昴……」
「もういい、伊摘はいらない」
「昴!」
昴を引きとめようとしたが、腕を掴む前に手がすり抜けていく。
ドアを開け非常口から出て行った昴の後を、伊摘はすかさず追いかけた。
螺旋階段をものすごいスピードで下りていく昴に、ついていこうとしても足が追いつかない。
瞬く間に昴が路上に着き、左側の細い通路へと走っていった。
「昴!!」
ここで見失ったら大変なことになる。
階段を下りきった伊摘は、肩で息をつきながら休む暇もなく昴の後を追った。
「昴、待ってくれ!」
昴は一瞬振り返って伊摘を見たが、走る足を緩めなかった。
細い路地を出ると昴が右に曲がる。
伊摘はたったこれだけのことで息があがる己の体に苛々しながら、路地をやっと出た。
すぐ右側を向いて昴の姿を探したが、なかなか見当たらない。
伊摘は再び小走りになり、人の流れに揉まれるように昴の後姿を探す。
ほどなくして、遠くの方で必死に車の流れを見ている昴の姿を発見した。
伊摘は全速力で昴の元へと走っていく。
昴が手を上げてタクシーを停めたのを見て、これはまずいと思った。
タクシーに乗られでもしたら最悪だ。
行き先が全くわからなくなる。
「昴!」
昴がタクシーに乗りこんだと同時に追いつき、ドアが閉まる前に後部座席に体を滑りこませた。
「伊摘!」
「こ、昴……げほっ、げほっ……」
あまりにも必死に走りすぎて、声が出ない伊摘は体をくの字に折り曲げてひどく咳きこんだ。
「お客さん、どちらに行きます?」
運転手が呑気な声で尋ねる。
「……どこでもいいから出して」
「お客さん」
「やべっ、見つかった。早く出せ!」
伊摘が顔を上げると、走ってくる男たちの姿が見えた。
運転手は事情を察して車を出してくれたが、ひっきりなしにルームミラーで昴と伊摘の姿を窺っている。
わけありの客を乗せてしまったと思っているのだろう。
「どこまで行きましょう」
運転手の声に、昴はいい加減に答える。
「海に行って。どの場所でもいいから」
運転手は困惑した様子だったが、それ以上何も言わず大人しく車を走らせた。
「昴」
呼吸が楽になると、伊摘は昴の腕を掴み、強い目で昴を見つめる。
「なんでついてきたんだよ」
昴は怒っているようだったが、ばつの悪さも感じているようだった。
睨む目が微妙に泳いでいる。
「心配だったから。勝手にこんなことしちゃだめだろ?」
「別にどこに行ったっていいじゃん」
昴の子供じみた拗ねた顔に、伊摘は深くため息をついた。
大人のような物言いをしても、やはりまだまだ子供だ。
屁理屈をこねて自分を正当化しようとしている。
皆が心配しているから帰ろうと言いたいが、そう言おうものなら、きっと車から押し出されるに違いない。
「どうして俺のところに来たんだ?」
伊摘はなるべく昴を刺激しないように静かに訊いた。
「伊摘なら……俺のこと裏切らないと思った……けど、もういい」
昴は伊摘が掴んでいる腕を離そうとする。
伊摘はすぐに手を離したが、今度は昴の膝に手をつき、諭すように話した。
「裏切るとかそういう問題じゃない。人に迷惑をかけることが昴の考えなら、俺は従うことはできないし賛成できない」
伊摘は厳しい声で、道筋の通った自分の考えを話した。
昴にはその意味をわかっているはずだ。
案の定、昴は唇をかみ締めて押し黙った。
「昴が俺を頼ってくれるのはとても嬉しいと思う。力になりたい。けど、こんなことしてちゃ、俺は昴のことを守れない」
「俺は……誰かに守ってもらわなくてもいい」
強がりを言っていても、逡巡している気持ちが見ていてわかる。
「昴。子供は大人の庇護にある。責任を持って子供を育てて守っていくのが大人の責任だ。昴がちゃんと俺を信頼して甘えてくれるなら、俺はその責任を負ってもいいと思ってる」
真摯な言葉で告げると、昴は不意に泣きそうな表情になり、ぎゅっと拳を握り締めた。
伊摘は優しい笑みを浮かべて見つめ、痛ましげに握り締めている拳に触れた。
「直次郎さんや嶋さんと少し話をしたよ。直次郎さんは昴にどう接したらいいのかわからないような感じがしたな。でも、ぶっきらぼうな所とか昴に似てるって思った。あまり自分から話したがらない人だけど、話しかければちゃんと答えてくれる人だ。遠慮しないで声をかけてみればいい」
昴が何も言わないので伊摘は続けた。
「嶋さんは……あの人はとても面倒見がいい人だ。それは昴もわかっていると思う。仲よかったんだろ?」
「前は」
「喧嘩したって聞いたけど……」
「嶋とは口も利きたくない」
「昴はそう思っていても、あっちは昴のこと気にかけてる。必死に昴の居場所を探そうとしてたよ」
言い聞かせるように喋る伊摘に、昴は迷子のような顔で見つめる。
「……伊摘はなんで俺のこと構うんだよ。普通なら、俺のことほっとくだろ」
「昴のことが気になって仕方がないから。昴は嫌がるけど、やっぱ可愛いし」
昴は大げさに顔を顰めた。
「……また可愛いだ。ほんとあんたって呑気って言うか、疑うことを知らないんだな」
「知らないんじゃない。信用している相手を疑いたくないだけ」
「そういう優等生な発言、マジムカつく。所詮キレイゴトだ」
「そうかもしれない」
あっさりと認めた伊摘に、昴は虚を突かれた顔をする。
「でも、信じることからはじめないと先に進めない。昴は臆病になって一歩もそこから動いていないだろ? 気に食わないことがあっても、その場でただ喚いているだけだ」
昴は不機嫌な表情で黙って伊摘を見つめている。
その表情が何か言いたそうにも見えたので、伊摘は微笑み右手を差し出した。
「……なんだよ」
待っても何も言わない伊摘に、昴はぶっきらぼうに訊いた。
「俺と仲直り」
伊摘は笑みを浮かべ、自分から和解を申し出た。
素直でない昴は、いくら待っても、自分から和解することも謝ることもしないだろう。
昴は伊摘の差し出した手を戸惑うように見つめ、ぼそっと呟いた。
「ほんと変な奴。そういうこと言える時点で、おかしいって」
伊摘は首を傾げて笑うと、昴は諦めたようにため息をつき、手を差し出して握り締めた。
「帰ろう、昴」
伊摘は請うように言った。
だが、昴は首を横に振る。
「……嫌だ」
先ほどの頑なな態度とは違い、躊躇いがちに、少し怯えた様子で拒否する。
「どうして?」
「俺……怒られるに決まってる」
素直に自分の愚行を認めた昴に、伊摘は勇気づけるように笑った。
「それはちゃんと謝らなきゃならない。昴はできるだろ?」
昴は少し考えてから唇をきゅっと結び、決意した表情で頷いた。
「……わかった。けど……ここまで来たんだし、海ちょっとだけ見て行ってもいい?」
外を見てみると、いつの間にか海が見える場所まで来ていた。
しょうがないと伊摘は頷き、砂浜の近くまでタクシーに行ってもらうことにした。
料金を払い、タクシーから降りると、穏やかな潮風が髪を揺らした。
磯の香りが鼻腔を満たし、心地よい潮風に、伊摘は大きく息を吸う。
隣に立つ昴も、眩しそうに目を細めて海を見つめている。穏やかな表情だ。
二人は歩道から斜面になった草むらを歩き、浜辺へと足を向けた。
凪いだ海は二人の足元を静かな波で濡らしている。
砂を踏みしめる音と波が打ち寄せる音に耳を傾けながら、ゆったりと歩いていると、隣に並んだ昴が落ち着いた声で話し出した。
「……母さんは、両親に大反対されて再婚したんだ」
「重忠さんのこと?」
「うん。ヤクザってことが知れ渡って、結婚するなら縁を切るって大騒動だった」
「そうなんだ」
「それでも母さんは結婚することを選んだ」
そこまで反対されても、好きな相手と結婚することを選んだ昴の母親の気持ちが、伊摘にはなんとなくわかるような気がした。
「お母さんは重忠さんのことが本当に好きだったんだね」
「多分。でも……俺は……」
言葉を詰まらせて、顔を皺くちゃに歪めた昴は、不意に怒りを露に乱暴に喋る。
「言葉では祝福してやったけど……母さんは俺のことなんか全く考えてなかった。自分だけの幸せのために結婚したんだ」
伊摘はそうとは思えなくて、昴の母親の気持ちを代弁するかのように言った。
「違うと思う。昴のことを考えて、お父さんが必要だと思って結婚したんじゃないかな」
昴は足を止め、伊摘を睨みつけた。
「父親なんて必要ない。いらないじゃん、そんな存在」
「昴はそう思っていても、お母さんには片親だけの家族で不憫に思っていたのかもしれない」
伊摘がそう話しても、昴は怒りを溜めこんだ表情で拳を握り締める。
「父親なんて……別れた父親、すごかったんだ。暴力が」
伊摘は驚いて息を呑む。
まさか暴力を振るわれていたのだろうか。
「母さん、いつも殴られて泣いてた」
泣きそうな顔で話す昴が切なくて、伊摘は思わず昴の細い体を抱きしめた。
「昴」
昴は今までどれほど辛い経験をしてきたのだろう。
まだ十三歳だというのに運命は残酷で、しかも今だってその状況は変わっていない。
「やっと別れたのに……なんで結婚なんかしたんだろ。俺は必要なかったのに」
昴は伊摘に抱かれじっとしていた。
「昴は、その気持ちをお母さんに言ってみた?」
伊摘が優しく尋ねると、昴は伊摘から少し離れる。
「できないに決まってるだろ。シングルマザーで子供を育てるって大変なんだぞ」
昴は物分りのよすぎる子供だったのだろう。
母親を思うばかりに、自分の感情をも押し殺してしまう大人びた子供だった。
「昴は優しいんだな」
「俺は全然優しくない。だってずっと母さんを恨んでた。俺のことなんか考えもせずに結婚して男を取ったことを」
「昴は優しい子だからお母さんに迷惑をかけないようにって無理したんだ。我がままを言ってもよかったのに」
「伊摘は……そう思ってくれるんだ?」
「うん……なんか切ないな。無理して言葉を飲みこんでしまう昴の姿を想像しただけで悲しくなる」
「母さんはそんな俺の気持ち、知らなかった」
母親というものは子供が思っている以上にたくさんのことを知っているものだ。
たとえ取り繕っていても、見抜く目を持っている。
「もしかしたら、知ってたかもしれない。でも自分の気持ちを止められないことってあるんだ。誰かを捨てることになっても選びたいものが」
伊摘は昴の気持ちもよくわかるが、それ以上に昴の母親の気持ちが痛いほどよくわかった。
今の伊摘の姿が、なんとなく昴の母親の姿を重なるものがある。
そしてそれは昴も感じていたのだろう。
「伊摘も……貴昭を取るのか?」
そんなことを訊いてきた昴に、伊摘はゆっくりと歩き出して遠くまで海を眺める。
「俺は……もう選び取った」
「選び取った……? もしかして誰かに言って反対とか……」
昴も伊摘の後ろからゆっくりと歩いてくる。
「ううん、俺は卑怯だから両親にも誰にも言ってない。ただ……」
そこまで言い、伊摘は口を噤んだ。
伊摘はヤクザである貴昭の存在を恥とも罪とも思ったことは一度もなく、たとえ世間に後ろ指を指されたとしても、両親に、兄弟にそれで絶縁されても、構わないとすら考えていた。
伊摘の中に貴昭以外の選択肢は含まれていない。
貴昭の側にいると決めた時点で、伊摘はその他の選択をすべて捨てた。
胸を張れることは決してないけれど、貴昭の生き様を見つめ、共に歩んでいくだけの覚悟を持って側にいるのだから、誰に何を言われも曲げないだけの誇りを伊摘は常に持っている。
伊摘にとって貴昭がすべてだから。
「知られたら、絶縁されるだけの覚悟はできている。そうじゃないと貴昭の側にはいられない。誰かを愛することって、それなりの覚悟が必要なんだよ、昴。お母さんも生半可な思いで結婚したんじゃない」
昴は考えこむように視線を落とした。
恋をしたことがない昴がいくら考えたところで、わかるはずがない。
これは大人になって恋をしたときに、はじめてわかることだ。
「伊摘は……」
言いかけて、顔を上げた昴が大きく目を瞠った瞬間だった。
伊摘の首に腕が巻きつき、瞬く間に砂浜に倒される。
「伊摘!」
首を絞められ、伊摘は砂まみれになりながらも、抵抗し、背後から襲ってきた男の顔を見つめた。
殴られ青痣だらけの歪んだ顔の醜い男は見たことがない。
ただ、男の顔つきは貴昭の生きている世界と馴染みがあるような冷酷な目つきをしていた。
誰なのかはわからないが、男の纏う殺気を感じる限り伊摘を殺そうとしているのは確かだった
男は伊摘の頭を激しく砂の中に叩きつけた。
口の中に砂が入り、叩きつけられた頭が朦朧としてくる。
「やめろ!」
昴が叫び声をあげて男に体当たりした。
伊摘の体から男が離れていったのは助かったが、今度は昴に殴りかかっていった。
伊摘はふらつく体で立ち上がると、鼻からつーと液体が流れていくのを感じ、手で乱暴に拭う。鼻血が出ていた。
男の拳が躊躇いもなく昴の頬を殴りつけていたのを見て、伊摘は男の背後から腕を掴んだ。
だが、伊摘はあっけなく男に振り払われ、砂に倒れる。
男は伊摘を蹴り上げた。
「やめろって言ってんだろ!!」
昴が男の体を羽交い絞めにしようとしたが、男は難なく昴の手を振り払った。
そしておもむろにズボンのポケットから、鈍く光るナイフを取り出した。
伊摘と昴の二人が相手でも男は怯まない。
喧嘩すらしたことがない堅気の伊摘とまだ子供の昴では、たいした戦力にはならないとわかっているからだろう。
男は素早い動きで昴と伊摘にナイフを振り立てる。
そのたびに二人は寸前のところでかわしていたが、反撃する暇もなく逃げ切るのは時間の問題だった。
男が昴に向きを変えた瞬間、伊摘はチャンスに賭けて男に向かい殴りかかっていく。
すぐに気づいた男がそれをかわし、今度は伊摘に向かってナイフを突き出した。
そのときだった。
「撃つぞ!!」
見れば昴がモデルガンを手に男に狙いを定めていた。
男は伊摘と向かい合ったまま、ちらと昴を見つめる。
「ガキに撃てるのか?」
男がはじめて口を開いた。
「撃てるに決まってんだろ!」
昴は男に向かい銃をスライドさせて引き金を引いた。
モデルガンではたかが威力は知れていると思ったが、前に一度耳にしたことがあるパンという乾いた音と銃口からかすかに立ち上った煙を見て、まさかと思った。
男は一瞬驚いた顔をしていたが、五体満足な自分の体を見下ろして、にやりと笑う。
そして昴に向かい、ナイフを手に突き進んでいった。
まさか本物の銃を持っていたとは思わず、一瞬反応が遅れた伊摘は慌てて男の背後にしがみつく。
「昴、逃げろ!」
このままだと昴と伊摘が殺されてしまうのは目に見えている。
なにも二人で一緒に死ぬことはない。
伊摘が男をひきつけておいて、そのうちに昴を逃がせばいいのだ。
自分の命は……ここで尽きるならそれもしょうがないと思った。
貴昭とずっと一緒にいたかったが、昴を救うために背に腹はかえられない。
死ぬことは正直怖いが、それは貴昭の側にいると決めたときから覚悟していた。
伊摘がしがみついた状態で、男は身を捩るように昴にナイフを振るった。
その乱暴な動きに、伊摘の腕の力が緩み、背後に倒れる。
昴は慌てて飛びのき……そのとき手から銃が離れ、砂の上に落ちた。
しまったという顔をした昴に男は銃を拾う隙を与えずに、昴に殴りかかっていく。
殴られた昴は砂の上に倒れたが、すぐに体を起こし、逃げることはせずに立ち向かっていこうとしていた。
「逃げろ!」
伊摘の言葉など聞かずに、昴は男と取っ組み合いになった。
殴られて砂の上に倒れた昴の首を、男は左手で絞めて、ナイフを首に翳した。
伊摘は素早く銃を拾い、背後から男の頭に押し当てる。
ナイフの動きが昴の首に突き刺さる寸前でぴたりと止まった。
間一髪で間に合った。
「昴を離せ! でないと撃つ!」
「そんなに震えた手で俺が殺せるのか?」
はじめて銃を持つ伊摘の手が小刻みに震えているのを、男は見ていなくても感じ取っていた。
伊摘に殺せるわけがないと、男は思っているのだ。
男が持つナイフの先端は昴の首筋に当たっている。
少しでも力を加えると、簡単に肌へと突き刺さってしまうほど鋭利だ。
伊摘は震える手で引き金に人差し指をかけた。
昴を助けるために人を殺せるのか。
だが、それは伊摘が貴昭の世界へ飛び込んだときから、心に決めていたことだった。
そう……守りたい人がいるなら、誰かを殺すことになっても構わないと。
男は昴を離そうとしない。
伊摘は覚悟し、手に力をこめた。
そのとき、伊摘の背後に影が差し、ふわりと大きな体で包まれる。
「お前の綺麗な手は、こんなもんを持つためにあるんじゃねえ」
伊摘の銃を持つ手に、大きな手が添えられた。
愛しい男の汗の匂いと、包まれた体のぬくもりに、伊摘の腕から力が抜けた。
「貴昭……」
貴昭は伊摘の手から銃を取りあげ……だが、すぐに男の頭に突き刺さるほどぐりぐりと銃口を押しつけて言った。
「あのとき殺しとけばよかったな」
低い貴昭の声に、男の肩がびくりと震える。
「昴を離せ。俺に脅しはきかねえことぐらいわかるだろ」
伊摘のときは動かなかった男が、貴昭の言葉にゆっくりと腕の力を緩めていく。
昴が腕から抜けた瞬間、伊摘は昴に駆け寄り抱きしめた。
貴昭は男に銃を定めたまま、男の腹部を強く蹴り上げる。
男は腹部を押さえ、悶え苦しみ吐瀉物を吐き出した。
伊摘は顔を背け、また昴にも見せないようにしながら、男と貴昭の姿を体で隠した。
路肩に止められた三台の車から次々と男たちが降りて、こちらに向かってくる。
その中に嶋を見つけ、伊摘はほっと安堵の息をついた。
嶋が砂に足を囚われながら伊摘と昴の側に走ってくる。
伊摘と昴の歩くことも覚束ないぼろぼろの姿を見るなり、嶋は顔色を変え、二人を優しく支えた。
「こんなことなら医者を連れてくればよかった」
嶋の小さな呟きに昴がすぐ反応する。
「たいしたことない」
昴は平気な顔をして嘯いた。
昴の顔は殴られて唇が切れ、腫れている。
伊摘も顔や体が痛み砂まみれでひどい有様だった。
医者が必要なことは一目瞭然だった。
疲れたように歩く昴と、腹を抱え前かがみになって歩く伊摘を、嶋が素早く支え、側にいたもう一人の男に目配せした。
すると、側にいたその大きな男が昴の体を支える。嶋は伊摘を支えた。
「少し座っててください」
嶋がそう言って伊摘を草むらに座らせると、車へと走っていく。
昴を支えていた男が、慎重に昴を座らせた。
「昴、怪我は?」
伊摘は同じように砂まみれになっている昴の体を見て尋ねる。
「平気、殴られた顔が痛いけど、怪我は……」
昴のシャツの腹の部分が真横に裂けているのを見て、伊摘は息を呑み、すぐその部分に手を当てて確かめた。
切られたのはシャツのみだと知り、伊摘は安堵のあまり体が震える。
二人とも、よく無事で生きていた。
「伊摘こそ、怪我は?」
口を開くと痛いのか昴は顔を顰め、血に染まった唾を吐く。
「顔と腹が痛いけど……切られてないし大丈夫」
「ほんと顔が痛え」
嶋が救急箱とペットボトルに入った水を持って戻ってきた。
昴は嶋からペットボトルを受け取ると、キャップを捻り口に水を入れ、すぐさま水を吐き出し、口の中を濯いだ。
伊摘も砂でじゃりじゃりとした口の中を水で注ぎ、それから水を飲んだ。
嶋はタオルに水をかけて、伊摘に差し出したので、伊摘は礼を言って受け取り、血がついた顔を拭いていく。
昴にも水を含ませたタオルを渡した後、嶋は伊摘の体に触れて、折れているところがないか、傷がないかどうか確かめた。
「なんつーか……すっげー悔しい。なんで俺はこんなにも非力なんだろ。強かったら伊摘を守れたのに、強かったらあんな奴一撃で倒せたのに」
昴がそう言った瞬間だった。
嶋が昴の頬を平手で叩いた。
「なっ……なにすんだよ!」
「皆を心配させた罰だ。それと伊摘さんをも危険に晒した」
嶋は激怒していた。
言葉にはその素振りもみせないが、眦が今まで見たこともないほどつりあがっている。
「どうして勝手に屋敷を出た。あれほど出るなと言ったはずだ」
嶋の怒りに立ち向かうように、昴は顔を上げて睨みつけた。
「俺がどこに行こうと勝手だろ!」
また嶋が昴に手を上げた。
「その勝手が、こんな事態を引き起こした。それがわからないのか。命が危なかったんだぞ」
昴は殴られた頬に手を当て、唇をかみ締めると、目に涙を溜めて肩を落とした。
伊摘はその姿を見てたまらなくなり抱きしめようと手を伸ばした。すると、嶋が伊摘を制する。
甘やかすなとばかりに、嶋は伊摘を強く見つめた。
小さな声で昴は言った。
「ごめん……」
「聞こえない」
嶋の言葉は厳しく、躾以上の厳格さがあった。
「ごめんって言っただろ!」
顔をあげた昴はぽろぽろと涙を流していた。
「嶋さん……」
伊摘が可哀想に思い、嶋を許してあげるように見つめると、嶋は大きなため息をついた。
それが許しだと感じて、伊摘は昴の肩を抱き寄せる。
「ごめん、伊摘」
昴は大人しく伊摘に肩を抱かれながら謝った。
「ううん、俺も悪かった。あのまま帰るように言ってたら、こんなことにならなかった」
「違う。俺が海に行きたいって言ったんだ」
「だとしても、俺が止めるべきだった。……ごめんなさい。嶋さん」
伊摘も嶋に謝ると、嶋はなんとも言えない複雑な表情になった。
まさか、伊摘から謝られるとは思ってもみなかったのだろう。
「伊摘さんに謝られたら許すしかありません。無事だったのでよしとします」
嶋に言われてほっとし、伊摘は笑みを浮かべようとしたが、頬が引き攣ってうまく笑えない。
「伊摘」
貴昭に名前を呼ばれて伊摘は顔を上げる。
歩み寄り目の前にしゃがんだ貴昭は、伊摘の頬に優しく手をかけてつぶさに顔を見つめた。
「なんて酷えツラだ」
貴昭の顔に煮えたぎる怒りがよぎる。
「このくらい数日も経てば治る」
軽く伊摘は言ったが、貴昭は視線を昴に移して睨みつけた。
昴の肩がびくりと震える。
「昴、自分のしでかしたことがわかってんだろうな?」
「わかってる」
その言い方が気に入らなかったのか、突如貴昭は立ち上がると昴の襟を掴み持ち上げた。
「貴昭!」
まさか、殴るつもりかと伊摘が慌てて止めに入るも、貴昭は軽く膝を曲げ、そこに昴の体をうつ伏せにすると昴の尻を思いっきり叩き始めた。
「い、痛て! やめろ!」
「ガキが大人を振り回した罰だ」
手加減なしに数回叩くと、貴昭は昴を乱暴に下ろした。
あまりにも痛かったのだろう。昴は痛みに呻いて泣いていた。
「手間かけさせやがって、しかも伊摘の命まで危険に晒した」
昴は尻を摩り涙を流しながら口答えする。
「ごめんって謝った」
「俺には謝ってねえだろ」
昴は唇をきつくかみ締めた。
貴昭にその言葉を使うのが屈辱だとばかりに、しばらく昴は口を開かずだんまりを続けていたが、やがて昴は意を決して、貴昭を見上げ、その瞳に怯えたような色を見せて謝った。
「……ごめんなさい」
貴昭は顔色ひとつ変えずに静かに言った。
「……直さんが心配してる。帰ったら、たっぷりと怒られろ」
またなにか怒られるとびくびくしている昴は小さく頷く。
「体は大丈夫なんだろうな」
ぶっきらぼうな訊き方だが、どことなく優しさがこめられていたので、伊摘は思わず貴昭を見つめた。
貴昭も昴のことを心配していたのだとわかる。
再度昴が頷くと、貴昭はそっけなく言った。
「ならいい」
貴昭は伊摘の前にしゃがむと、腰に手をかけて引き寄せる。
そして、軽々と持ち上げて立ち上がった。
「大丈夫、歩ける」
伊摘がそう言っても、貴昭は聞く耳を持たない。
「腹抱えて歩いてただろ。殴られたんじゃねえのか?」
相変わらず伊摘のことに関して貴昭はよく見ていた。
「少し、蹴られただけ」
「だけだって? 痛みは? 吐き気や目眩は?」
「痛みはあるけど、吐き気や目眩はない」
「一応医者に診てもらったほうがいい」
心配性な貴昭は顔を曇らせて、顔色が悪い伊摘の顔をつぶさに見つめる。
そこまで言うなら従ったほうがいいだろう。
「なら、昴と一緒に病院に行く」
「組の関係者に医者がいます。その病院に行きましょう。昴、立てるか?」
嶋が昴に手を貸し立ち上がらせた。
貴昭は伊摘を抱えたまま、ゆっくりと車へと向かって歩き出した。
その後から嶋に支えられて昴がついてくる。
車の方を見上げると、組の男たちが伊摘と昴を襲った男を無理やり車に乗せていた。
「あの人は?」
伊摘が尋ねると、貴昭は言葉を濁さずに教えてくれた。
「前に俺を襲った男だ」
「なんで、俺と昴が狙われたんだろ?」
ふと疑問がわきあがり、伊摘は呟く。
まさか見ず知らずの他人が、伊摘や昴に恨みを抱いている人とは考えにくい。
男は明らかにヤクザ者だ。組の部外者である伊摘や昴をなぜ襲ったのか、まったくわからない。
いきなり背後にいた昴が言った。
「明らかに弱っちい伊摘を狙ってくる奴なんて絶対いないと思ったのにな。そんなやつらの方が弱虫の卑怯者だ」
「お前、自分のことを棚に上げて、伊摘だけ弱いとか言うんじゃねえ」
貴昭が呆れた声をあげる。
黙って聞いていた嶋が静かに口を開いた。
「多分、組長に対する恨みが、伊摘さんと昴に向かったのではないでしょうか?」
「貴昭は強くて手も足も出せないから? やっぱ卑怯者じゃん」
昴はそう結論づけて言ったが、明らかに面白くないようだった。
「あの男をどうするんだ?」
伊摘は興味があって貴昭に尋ねる。
だが、それには貴昭は答えなかった。
「俺の銃!」
昴が突然声を張り上げた。
「あ?」
貴昭は後ろを振り向く。
「それ、俺のM9だ。返せ」
昴は貴昭の腰の辺りを指差した。
「俺の銃だ? このベレッタをどっから手に入れた?」
貴昭の眉間に皺が寄り、声が低くなる。
それは貴昭が怒っている証拠だった。
昴は自分の言動を悔やむような表情を見せて、聞こえないような小さな声で告げた。
「……ネット」
「没収。ガキがチャカ持っていいはずねえだろ。遊び道具には危険すぎる」
昴は口を尖らせて、貴昭の背後に腕を伸ばした。
「やっと手に入れたのに。それずっと欲しかったんだ」
貴昭は、昴の手から体をかわして、手を叩いた。
「お前にはチャカより水鉄砲だ」
「水鉄砲!? どこのガキだよ」
先ほどまで泣いていた昴が、今は生き生きとした表情で貴昭に立ち向かっていく。
貴昭に怒られたことなど忘れてしまったかのような、元気な様子に、伊摘は安堵すると同時に立ち直りの早さに驚いた。
これならば貴昭との間に禍根を残さないだろう。
そして、嶋や直次郎との間の溝も、早く埋まって欲しいと思わずにはいられなかった。
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世界的にはレアなオメガ、アルファ以上の神に選別されたと言われる特異種。
バランサー。
アルファ、ベータ、オメガになるかを自らの意思で選択でき、バランサーの状態ならどのようなフェロモンですら影響を受けない、むしろ自身のフェロモンにより周囲を調伏できる最強の性別。
これは、バランサーであることを隠した少年の少し不運で不思議な出会いの物語。
裏社会のトップにして最強のアルファ攻め
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最強種バランサーであることをそれとなく隠して生活する兄弟想いな受け
※オメガバース特殊設定、追加性別有り
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サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
君のことなんてもう知らない
ぽぽ
BL
早乙女琥珀は幼馴染の佐伯慶也に毎日のように告白しては振られてしまう。
告白をOKする素振りも見せず、軽く琥珀をあしらう慶也に憤りを覚えていた。
だがある日、琥珀は記憶喪失になってしまい、慶也の記憶を失ってしまう。
今まで自分のことをあしらってきた慶也のことを忘れて、他の人と恋を始めようとするが…
「お前なんて知らないから」
ヤクザと捨て子
幕間ささめ
BL
執着溺愛ヤクザ幹部×箱入り義理息子
ヤクザの事務所前に捨てられた子どもを自分好みに育てるヤクザ幹部とそんな保護者に育てられてる箱入り男子のお話。
ヤクザは頭の切れる爽やかな風貌の腹黒紳士。息子は細身の美男子の空回り全力少年。
組長と俺の話
性癖詰め込みおばけ
BL
その名の通り、組長と主人公の話
え、主人公のキャラ変が激しい?誤字がある?
( ᵒ̴̶̷᷄꒳ᵒ̴̶̷᷅ )それはホントにごめんなさい
1日1話かけたらいいな〜(他人事)
面白かったら、是非コメントをお願いします!
執着攻めと平凡受けの短編集
松本いさ
BL
執着攻めが平凡受けに執着し溺愛する、似たり寄ったりな話ばかり。
疲れたときに、さくっと読める安心安全のハッピーエンド設計です。
基本的に一話完結で、しばらくは毎週金曜の夜または土曜の朝に更新を予定しています(全20作)
傷だらけの僕は空をみる
猫谷 一禾
BL
傷を負った少年は日々をただ淡々と暮らしていく。
生を終えるまで、時を過ぎるのを暗い瞳で過ごす。
諦めた雰囲気の少年に声をかける男は軽い雰囲気の騎士団副団長。
身体と心に傷を負った少年が愛を知り、愛に満たされた幸せを掴むまでの物語。
ハッピーエンドです。
若干の胸くそが出てきます。
ちょっと痛い表現出てくるかもです。
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