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冷たい雪の、その狭間で(中編3)
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伊摘は緊張してハンドルを握っていた。
慣れない道に神経を尖らせながら、車を走らせる。
「どこ行く? 遠出はだめなんだろ?」
行き先が気になる昴に、伊摘は正面から目をそらすことなく言った。
「昴の家に行こう」
「なんで!?」
助手席に乗っている昴が驚いた声をあげる。
「昨夜は嶋さんに電話して昴が泊まることを伝えたけど、やっぱりちゃんと直次郎さんに直接言ったほうがいい」
「いらない! それよりさっさとどっか行こう」
「だめ。未成年を預かってる身としては、挨拶しとかないと。それと昨日買った服を持っていったほうがいいだろ?」
後部座席の上には昨日買った昴の服の袋が所狭しと置かれている。
昴は不機嫌に唇を結ぶ。
車内に立ちこめた沈黙に、伊摘は静かに口を開いた。
「昴は、直次郎さんとちゃんと会話してる?」
「全然。だってあっちは忙しいし、俺となんか話したくもないだろ?」
「どうして?」
「どうしてって……引き取りたくもないガキ引き取って……普通はあんま、かかわりたくないだろ?」
「そんなこと思ってたんだ?」
伊摘が驚くと昴は顔を赤らめた。
それは自分の心境をつい口にしてしまった羞恥心からくるものだと、伊摘はすぐに察した。
「だって……邪魔だろ?」
「邪魔だと思うなら引き取ったりしないと思うよ。人一人預かるってとても大変なことだ」
昴は俯き呟いた。
「俺なんか引き取ったっていいことないじゃん……」
その声は寂しげで、伊摘は胸が締めつけられる思いがした。
昴自身が、直次郎と一緒にいることに遠慮し戸惑いを感じていることがわかる。
思春期という多感な時期、母親はおらず、一人ぼっちの昴が、血の繋がりがない直次郎と一緒に暮らすことに、心細さを感じないはずがない。
強がることで、歯向かうことで、寂しさや苦しさの均衡を保っているのだとしたら……それはとても辛いことだ。
「あの家で直次郎さんと昴と……あと他に誰が暮らしてる?」
「他に護衛している奴はいるけど。暮らしてるのは二人だけ」
「だから……息が詰まる?」
「俺が言ったこと忘れてないんだな。普通あんなでっかい屋敷で二人だけで暮らしてたら息が詰まるだろ」
「昴……」
「もうこの話やめよ」
昴からはこれ以上伊摘に立ち入ってほしくないという拒絶が感じられた。
伊摘がなんとかしてあげたいが、これは昴と直次郎の問題だ。
そこに立ち入るわけにはいかない。
車はやっと昴が暮らす家についた。
伊摘は長い安堵の息をついて、エンジンを切るとハンドルに額をつける。
久しぶりの運転にかなり緊張したが、事故らず無事到着にしたことに安堵した。
昴は伊摘を見て小さく笑ったので、伊摘は言った。
「昴になにかあったら大変だろ」
すると昴は顔を歪める。
「俺が死んだって誰も悲しむ奴なんかいない」
「そんなことない」
「伊摘は死にたくないだろ? 愛されてるから。俺はいつ死んでもいいような気がする」
昴の目には、伊摘が知ることができない虚ろな光が浮かんでいた。
この年で死んでもいいと思うだけの孤独と虚無を感じているのなら、本当に悲しい。
「じゃあ、俺が昴を愛する。それなら昴は死にたいと思わないだろ?」
昴は強く伊摘を睨んだ。
その頬がうっすらと赤らんでいるのは、羞恥より怒りのせいかもしれない。
「簡単に愛するとか言うな。できもしないくせに」
「そんなことない。俺は昴が愛しいと思うよ。不器用で、口も悪いけど……そんなところがなんか可愛い」
伊摘は昴に自分の思いをわからせようとしたが、いらないことを言ってしまったようだ。
昴は目を剥いて怒った。
「また可愛い? 俺は可愛くなんか全然っないんだけど!」
昴はどこかふて腐れた顔をして、口ごもりながら続けた。
「……それに俺を愛したって、なんもいいことないだろ?」
これほど切ない言葉はない。
「愛は見返りじゃない。愛はただ与えるものだと俺は思う」
伊摘が昴の頭に手を置き囁くと、昴は伊摘の手を払いのけた。
「俺にとって愛は消えていくものだ。儚くて、掴もうとしてもすぐ掌からすり抜けていく……」
「昴……」
手を伸ばそうとした伊摘を払いのけて、昴は車を降りる。
伊摘もすぐに車から降りた。
「伊摘は愛されて守られて、そうやって生きてきたんだろ? だからそんな甘ったれたこと言うんだ」
それを言われると、伊摘は何も言い返せない。
甘やかされて育ってきたわけではないが、今伊摘は貴昭と一緒に暮らし愛されている。昴からしてみれば十分贅沢に見えるのだろう。
「俺のこと愛するだって? 馬鹿じゃねえの?」
昴の強がる声が震えている。
抱きしめて強がらなくてもいいと言ってあげたいが、昴はきっと嫌がるに違いない。
「母さんは……俺を残して死んだ。俺には愛する人も愛してくれる人もいない」
昴は伊摘に背を向けて、足早に玄関へと向かった。
その背中が伊摘を拒んでいる。
護衛の者たちがついている玄関の引き戸を開け、中に入ると、乱暴に引き戸を閉めた昴に、伊摘はため息をつき、車に背を凭れて、がっくりと肩を落とした。
もっと理解してあげたい、愛されたいのなら愛してあげたい、そう思っていたのに、昴は拒んだ。
拒む相手にどう手を差し伸べればいいのか、伊摘はわからず困惑する。
本当にいらない世話なら、伊摘も知らん振りをするだろうが、昴を見ていると切なくて堪らないのだ。
しょげていると、ふと視線を感じて伊摘は視線をあげる。
屋敷の廊下の窓から直次郎がじっと伊摘を見つめていた。
今の様子を見られていたことを知り、伊摘は苦笑して、困ったように頭を掻く。
すると直次郎もほんの僅かに口角をあげ……切なげに笑った。
直次郎は顎をしゃくり、伊摘に入ってこいと言っているかのような仕草をする。
伊摘は軽く頷き、玄関へと向かった。
護衛の者たちに軽く頭を下げて、玄関の引き戸を開けると、そこにはスーツ姿の嶋がいた。
日曜日だというのに働いている嶋の姿に、伊摘は驚くと共に、自分だけが休んで申し訳ないような気がした。
嶋は一体いつ休んでいるのだろう。
「昨日は昴に付き合わされて大変だったでしょう」
嶋は微笑み伊摘にねぎらいの言葉をかけてスリッパを差し出した。
「すみません、ありがとうございます」
伊摘は頭を下げてスリッパを履くと、歩き出した嶋の後をついて行く。
「昨日は楽しかったですよ」
「本当に? 迷惑をかけなかったですか?」
嶋はちらと振り返ったので、伊摘は微笑んだ。
「全然大丈夫です。ただ……今ちょっと言い違いがあって怒らせてしまって……」
嶋がため息をついたことから、それが日常茶飯事であることがわかる。
「昴は扱いにくいでしょう?」
「扱いにくいっていうか……多分、繊細なんだと思います」
「繊細というほど弱くはないですよ、昴は。俺にすら立ち向かってきますから」
「嶋さんに?」
「ええ」
ふと気になり尋ねる。
「直次郎さんには?」
「若頭とはないです。話もしないようですから」
「そうですか……」
嶋とは言い争いをするのに、なぜ直次郎とは話もしないのだろう。それが気になる。
嶋は障子が開け放たれた部屋の前に着くと、床に膝をつけ「伊摘さんを連れてきました」と頭を下げた。
座椅子に座っていた直次郎は頷いて「入れ」と一言告げる。
嶋が先に伊摘を促したので「失礼します」と室内に入った。
伊摘は嶋が敷いてくれた座布団の上に座り、直次郎に頭を下げた。
「先ほどはお見苦しいところをお見せしました」
「いやいや、あれの扱いは難しかろう」
嶋は頭を下げ静かに部屋を出て行った。
「それに昴君を勝手にうちに泊めてしまい、ご心配をおかけしました」
伊摘がまた頭を下げると、直次郎は困ったように笑った。
「心配など……逆に伊摘さんには迷惑をかけたんじゃないか? 組長が嫌がったろう」
「ええ、でも大丈夫です。貴昭もそこまで子供じゃありませんから」
「伊摘さんは組長を扱うのがうまい。なんでも首を縦に振らせてしまうんじゃないか?」
伊摘は頬を赤らめて首を横に振る。
「そんなことありません。あまり俺の言うことはききませんよ」
手に盆を持った嶋が現れ、室内に入ってきた。
伊摘と直次郎の前に冷たい茶と水羊羹を置くと、嶋は直次郎の後ろに静かに座った。
伊摘は冷たい茶で喉を潤してから、静かに口を開いた。
「直次郎さんは、どうして昴君を引き取ったんですか?」
伊摘の直球過ぎる質問に直次郎は苦笑する。
直次郎は茶菓子の水羊羹を一口食べ、ゆったりと茶を飲んだ。
「誰も引き取り手がないのは可哀想だ。儂はこのとおりの独り身。一人増えたところで支障はないからな」
昴の立場を考慮して引き取ったことはわかったが、可哀想と言いつつも直次郎の口調が事務的に聞こえてしまうのは伊摘の考えすぎだろうか。
「昴君とはあまり話しもなさらないとか……」
「儂からは言うことがない」
そう言われてしまえば、伊摘も言葉に詰まる。
「ですが……昴君は何か話したいことがあるんじゃないでしょうか?」
「だとしたら、向こうから話せばいい」
直次郎は取りつく島もない。
昴の気持ちを察して自分から話しかけることはしないのだろうか。
「昴君は直次郎さんに対して負い目を感じているようです。引き取りたくもない人を引き取って迷惑なんじゃないかって」
こんなことを伊摘の口から言うのはあまりいいことではないが、ちゃんと口に出さなければ、直次郎はわかってくれないような気がした。
冷たいわけではないのだが、多くを語らない男らしい無骨さが直次郎にはある。
黙って聞いていた嶋が突然口を挟んだ。
「だからってああやって突っぱねていたって、こちらも手に負えません」
嶋はうんざりしているような口調だ。
伊摘は考え、言葉を選びながら慎重に喋った。
「……彼の中に、もやもやっとしたじれったい思いがあって、それをどう伝えればいいのかわからない。それがあんなふうに悪ぶった口調になっているんだと思います」
嶋は重いため息をついた。
「……かつては昴も俺に色々なことを話して頼っていた時期もありました。でも、母親のことで喧嘩してから、あの調子です」
それで昴が嶋に対する行為に納得がいった。
母のことで何を喧嘩したのかは知らないが、未だに溝が埋まっていないことから、相当しこりの残る喧嘩だったのだろう。
「随分伊摘さんに懐いているように見えた」
直次郎がそう言ったので、伊摘は首を傾げた。
「……そうでしょうか?」
「儂たちには言えないようなことを、たくさん話しているんじゃないか?」
確かに昴とは色々なことを話した。
だが、昴の内面に迫るようなことは、あまり話していない。
「もしかしたら、俺が警戒心を持たせない風体だからかもしれません。ひ弱な男と言われました」
伊摘が苦笑すると嶋はあからさまに顔を歪めた。
「貴昭に対しても、かなり言いたいことを言っていました。そんな昴君がどうして直次郎さんに何も言わないのか不思議に思います」
直次郎が視線を畳に落とした。
「もしかしたら、恨んでいるかもしれない」
「恨む?」
「引き取り手がヤクザだということに。学校で孤立していると聞いとる」
伊摘は小さく息を呑んだ。
友達らしい友達はいないと貴昭から聞いていたが、学校で孤立しているとは……かなり問題だ。
もし、それが本当の話なら直次郎を恨んでいる可能性もある。
けれど……昴にとって直次郎は、引き取ってくれた人。
本当は直次郎に感謝しなければならないのに、ヤクザ関係者ということだけで疎外されている、その言いようのない複雑な思いが、昴を反抗的にさせている要因なのかもしれない。
「ヤクザという偏見は思った以上に周囲に影響しているんですね」
悲しい声で呟くと、直次郎が小さく笑った。
「むしろ伊摘さんがなさすぎる」
「俺の中では、貴昭が軸ですから」
その言葉を苦もなくさらりと口にした伊摘に、直次郎は眩しそうに目を細めて見つめる。
伊摘は直次郎に思いきって進言した。
「昴君と少しでもいいので話していただけませんか? どんなことでもいいです」
頼みこむように間合いをつめて話す伊摘に、直次郎は顎を撫で思案するような顔つきになった。
「あれは儂には懐かん。この先もそうだろう。むしろ、伊摘さんを好いているようだ」
「俺は昴君とは近しい間柄ではありません。友人にはなれても、それ以上の存在にはなれない。直次郎さんは血の繋がりはなくても昴君のおじいさんです。ですから……」
伊摘の言葉を遮って、直次郎は落ち着いた口調で告げた。
「その役割は儂ではないような気がする。昴はちゃんと相手を見ておる。あれで人間を見る目があるようだ」
直次郎は言葉を切ると、優しい笑みを湛えて伊摘を見つめる。
直次郎のそんな表情をはじめて目にして、伊摘は胸が切なくなった。
「直次郎さん……」
「儂はあまりにも闇に染まりすぎた。迂闊に近づけない存在になっているのかもしれん。……伊摘さんは大丈夫なようだがな」
直次郎の笑みは陰のある自嘲するような笑みだった。
「俺は貴昭を知っていますから」
「組長の側にいるにしては、伊摘さん、あんたはまったく汚れてない。だから昴が懐くのだろう。どうやら、うちの組のもんはよくよく伊摘さんに懐くらしい」
おもむろに直次郎は伊摘に向き合うと、手をつき深く頭を下げた。
「昴をよろしく頼む」
あまりの出来事に伊摘は驚愕して、伊摘は直次郎に駆け寄った。
「直次郎さん! やめてください!」
「なにかと口の悪い孫だが、頭は悪くない。せめてもう少し成長するまでの間、昴のより所になってはくれないか?」
伊摘は困惑を隠しきれずに、嶋に助けを求めるように目で訴えた。
だが、嶋は静かに目を伏せたまま、伊摘を見ようともしなければ口を挟もうとしない。
嶋は誰よりも直次郎に忠実だと貴昭から聞いたことがある。
今ここで誰も伊摘の言い分に口添えしてくれる人はいないのだと知り、伊摘は焦る。
「俺に頼まれても……」
昴の力になってあげたいと心からそう思うが、伊摘ばかりに頼られても、どこまで自分が受け止めてあげられるのか……それが問題だった。
「では、昴を放り投げると?」
しれっと直次郎が訊き直してきたので、伊摘は慌てて言った。
「そんなこと言ってません。昴君が頼ってきたらもちろん力になりたいです。でも、一緒に暮らしている人が昴君に無関心なのはよくないと思うんです」
意地の悪い言い方をした直次郎に、負けじとばかりにきっぱりと伊摘が告げると、直次郎はやっとわかってくれたのか、短い息をついて観念する。
「まあ……儂も伊摘さんばかりに丸投げするわけではない。努力するようにしよう……嶋」
「承知しました。ですが、昴が俺と和解したいと思えませんが?」
「そこはお前の手腕だろう」
嶋は緩く頭を振る。
嶋にも嫌なことがあるらしい。
廊下から一人の男が現れ、膝をついた。
「失礼します」
男は静々と部屋の中に入ってくると、嶋の側で耳打ちする。
話を聞くと嶋はため息をつき、男を手で追い払った。
男は一礼して部屋を出て行く。
「昴が部屋にいないそうです。どうやら、勝手に外に出て行ったらしい」
「供の者がついているんだろう?」
直次郎が鋭く尋ねると、嶋は首を横に振った。
「いえ、一人です」
「誰も気づかなかったことはなかろう」
嶋は直次郎に対して頭を下げる。
「申し訳ございません。すぐ探します」
立ち上がった嶋に、伊摘も立ち上がった。
「俺も手伝います」
「いえ、伊摘さんはお帰りください」
いつもの穏やかな仕事中の嶋の表情とは違い、裏の顔が現れる。
「でも……」
「今はあまり動かないようにしてください」
「なにかあったんですか?」
嶋があまり言いたくなさそうに口を開いた。
「この間、伊摘さんと組長を襲った男が逃げています。もしかしたらということもありえますので、伊摘さんはお戻りください。誰かに送らせます」
「……わかりました」
ヤクザの世界に足を踏み入れたとはいえ、未だ堅気の伊摘には知らないことのほうが多い。
それに伊摘が無駄に動いても、かえって嶋に迷惑をかけるだけだ。それは貴昭のときと同じだ。
昴のことは気になるが、伊摘は力になれることは少ない。
伊摘は屋敷を出ると嶋に見送られて車に乗った。
車の中で伊摘は妙に胸騒ぎを覚えていた。
慣れない道に神経を尖らせながら、車を走らせる。
「どこ行く? 遠出はだめなんだろ?」
行き先が気になる昴に、伊摘は正面から目をそらすことなく言った。
「昴の家に行こう」
「なんで!?」
助手席に乗っている昴が驚いた声をあげる。
「昨夜は嶋さんに電話して昴が泊まることを伝えたけど、やっぱりちゃんと直次郎さんに直接言ったほうがいい」
「いらない! それよりさっさとどっか行こう」
「だめ。未成年を預かってる身としては、挨拶しとかないと。それと昨日買った服を持っていったほうがいいだろ?」
後部座席の上には昨日買った昴の服の袋が所狭しと置かれている。
昴は不機嫌に唇を結ぶ。
車内に立ちこめた沈黙に、伊摘は静かに口を開いた。
「昴は、直次郎さんとちゃんと会話してる?」
「全然。だってあっちは忙しいし、俺となんか話したくもないだろ?」
「どうして?」
「どうしてって……引き取りたくもないガキ引き取って……普通はあんま、かかわりたくないだろ?」
「そんなこと思ってたんだ?」
伊摘が驚くと昴は顔を赤らめた。
それは自分の心境をつい口にしてしまった羞恥心からくるものだと、伊摘はすぐに察した。
「だって……邪魔だろ?」
「邪魔だと思うなら引き取ったりしないと思うよ。人一人預かるってとても大変なことだ」
昴は俯き呟いた。
「俺なんか引き取ったっていいことないじゃん……」
その声は寂しげで、伊摘は胸が締めつけられる思いがした。
昴自身が、直次郎と一緒にいることに遠慮し戸惑いを感じていることがわかる。
思春期という多感な時期、母親はおらず、一人ぼっちの昴が、血の繋がりがない直次郎と一緒に暮らすことに、心細さを感じないはずがない。
強がることで、歯向かうことで、寂しさや苦しさの均衡を保っているのだとしたら……それはとても辛いことだ。
「あの家で直次郎さんと昴と……あと他に誰が暮らしてる?」
「他に護衛している奴はいるけど。暮らしてるのは二人だけ」
「だから……息が詰まる?」
「俺が言ったこと忘れてないんだな。普通あんなでっかい屋敷で二人だけで暮らしてたら息が詰まるだろ」
「昴……」
「もうこの話やめよ」
昴からはこれ以上伊摘に立ち入ってほしくないという拒絶が感じられた。
伊摘がなんとかしてあげたいが、これは昴と直次郎の問題だ。
そこに立ち入るわけにはいかない。
車はやっと昴が暮らす家についた。
伊摘は長い安堵の息をついて、エンジンを切るとハンドルに額をつける。
久しぶりの運転にかなり緊張したが、事故らず無事到着にしたことに安堵した。
昴は伊摘を見て小さく笑ったので、伊摘は言った。
「昴になにかあったら大変だろ」
すると昴は顔を歪める。
「俺が死んだって誰も悲しむ奴なんかいない」
「そんなことない」
「伊摘は死にたくないだろ? 愛されてるから。俺はいつ死んでもいいような気がする」
昴の目には、伊摘が知ることができない虚ろな光が浮かんでいた。
この年で死んでもいいと思うだけの孤独と虚無を感じているのなら、本当に悲しい。
「じゃあ、俺が昴を愛する。それなら昴は死にたいと思わないだろ?」
昴は強く伊摘を睨んだ。
その頬がうっすらと赤らんでいるのは、羞恥より怒りのせいかもしれない。
「簡単に愛するとか言うな。できもしないくせに」
「そんなことない。俺は昴が愛しいと思うよ。不器用で、口も悪いけど……そんなところがなんか可愛い」
伊摘は昴に自分の思いをわからせようとしたが、いらないことを言ってしまったようだ。
昴は目を剥いて怒った。
「また可愛い? 俺は可愛くなんか全然っないんだけど!」
昴はどこかふて腐れた顔をして、口ごもりながら続けた。
「……それに俺を愛したって、なんもいいことないだろ?」
これほど切ない言葉はない。
「愛は見返りじゃない。愛はただ与えるものだと俺は思う」
伊摘が昴の頭に手を置き囁くと、昴は伊摘の手を払いのけた。
「俺にとって愛は消えていくものだ。儚くて、掴もうとしてもすぐ掌からすり抜けていく……」
「昴……」
手を伸ばそうとした伊摘を払いのけて、昴は車を降りる。
伊摘もすぐに車から降りた。
「伊摘は愛されて守られて、そうやって生きてきたんだろ? だからそんな甘ったれたこと言うんだ」
それを言われると、伊摘は何も言い返せない。
甘やかされて育ってきたわけではないが、今伊摘は貴昭と一緒に暮らし愛されている。昴からしてみれば十分贅沢に見えるのだろう。
「俺のこと愛するだって? 馬鹿じゃねえの?」
昴の強がる声が震えている。
抱きしめて強がらなくてもいいと言ってあげたいが、昴はきっと嫌がるに違いない。
「母さんは……俺を残して死んだ。俺には愛する人も愛してくれる人もいない」
昴は伊摘に背を向けて、足早に玄関へと向かった。
その背中が伊摘を拒んでいる。
護衛の者たちがついている玄関の引き戸を開け、中に入ると、乱暴に引き戸を閉めた昴に、伊摘はため息をつき、車に背を凭れて、がっくりと肩を落とした。
もっと理解してあげたい、愛されたいのなら愛してあげたい、そう思っていたのに、昴は拒んだ。
拒む相手にどう手を差し伸べればいいのか、伊摘はわからず困惑する。
本当にいらない世話なら、伊摘も知らん振りをするだろうが、昴を見ていると切なくて堪らないのだ。
しょげていると、ふと視線を感じて伊摘は視線をあげる。
屋敷の廊下の窓から直次郎がじっと伊摘を見つめていた。
今の様子を見られていたことを知り、伊摘は苦笑して、困ったように頭を掻く。
すると直次郎もほんの僅かに口角をあげ……切なげに笑った。
直次郎は顎をしゃくり、伊摘に入ってこいと言っているかのような仕草をする。
伊摘は軽く頷き、玄関へと向かった。
護衛の者たちに軽く頭を下げて、玄関の引き戸を開けると、そこにはスーツ姿の嶋がいた。
日曜日だというのに働いている嶋の姿に、伊摘は驚くと共に、自分だけが休んで申し訳ないような気がした。
嶋は一体いつ休んでいるのだろう。
「昨日は昴に付き合わされて大変だったでしょう」
嶋は微笑み伊摘にねぎらいの言葉をかけてスリッパを差し出した。
「すみません、ありがとうございます」
伊摘は頭を下げてスリッパを履くと、歩き出した嶋の後をついて行く。
「昨日は楽しかったですよ」
「本当に? 迷惑をかけなかったですか?」
嶋はちらと振り返ったので、伊摘は微笑んだ。
「全然大丈夫です。ただ……今ちょっと言い違いがあって怒らせてしまって……」
嶋がため息をついたことから、それが日常茶飯事であることがわかる。
「昴は扱いにくいでしょう?」
「扱いにくいっていうか……多分、繊細なんだと思います」
「繊細というほど弱くはないですよ、昴は。俺にすら立ち向かってきますから」
「嶋さんに?」
「ええ」
ふと気になり尋ねる。
「直次郎さんには?」
「若頭とはないです。話もしないようですから」
「そうですか……」
嶋とは言い争いをするのに、なぜ直次郎とは話もしないのだろう。それが気になる。
嶋は障子が開け放たれた部屋の前に着くと、床に膝をつけ「伊摘さんを連れてきました」と頭を下げた。
座椅子に座っていた直次郎は頷いて「入れ」と一言告げる。
嶋が先に伊摘を促したので「失礼します」と室内に入った。
伊摘は嶋が敷いてくれた座布団の上に座り、直次郎に頭を下げた。
「先ほどはお見苦しいところをお見せしました」
「いやいや、あれの扱いは難しかろう」
嶋は頭を下げ静かに部屋を出て行った。
「それに昴君を勝手にうちに泊めてしまい、ご心配をおかけしました」
伊摘がまた頭を下げると、直次郎は困ったように笑った。
「心配など……逆に伊摘さんには迷惑をかけたんじゃないか? 組長が嫌がったろう」
「ええ、でも大丈夫です。貴昭もそこまで子供じゃありませんから」
「伊摘さんは組長を扱うのがうまい。なんでも首を縦に振らせてしまうんじゃないか?」
伊摘は頬を赤らめて首を横に振る。
「そんなことありません。あまり俺の言うことはききませんよ」
手に盆を持った嶋が現れ、室内に入ってきた。
伊摘と直次郎の前に冷たい茶と水羊羹を置くと、嶋は直次郎の後ろに静かに座った。
伊摘は冷たい茶で喉を潤してから、静かに口を開いた。
「直次郎さんは、どうして昴君を引き取ったんですか?」
伊摘の直球過ぎる質問に直次郎は苦笑する。
直次郎は茶菓子の水羊羹を一口食べ、ゆったりと茶を飲んだ。
「誰も引き取り手がないのは可哀想だ。儂はこのとおりの独り身。一人増えたところで支障はないからな」
昴の立場を考慮して引き取ったことはわかったが、可哀想と言いつつも直次郎の口調が事務的に聞こえてしまうのは伊摘の考えすぎだろうか。
「昴君とはあまり話しもなさらないとか……」
「儂からは言うことがない」
そう言われてしまえば、伊摘も言葉に詰まる。
「ですが……昴君は何か話したいことがあるんじゃないでしょうか?」
「だとしたら、向こうから話せばいい」
直次郎は取りつく島もない。
昴の気持ちを察して自分から話しかけることはしないのだろうか。
「昴君は直次郎さんに対して負い目を感じているようです。引き取りたくもない人を引き取って迷惑なんじゃないかって」
こんなことを伊摘の口から言うのはあまりいいことではないが、ちゃんと口に出さなければ、直次郎はわかってくれないような気がした。
冷たいわけではないのだが、多くを語らない男らしい無骨さが直次郎にはある。
黙って聞いていた嶋が突然口を挟んだ。
「だからってああやって突っぱねていたって、こちらも手に負えません」
嶋はうんざりしているような口調だ。
伊摘は考え、言葉を選びながら慎重に喋った。
「……彼の中に、もやもやっとしたじれったい思いがあって、それをどう伝えればいいのかわからない。それがあんなふうに悪ぶった口調になっているんだと思います」
嶋は重いため息をついた。
「……かつては昴も俺に色々なことを話して頼っていた時期もありました。でも、母親のことで喧嘩してから、あの調子です」
それで昴が嶋に対する行為に納得がいった。
母のことで何を喧嘩したのかは知らないが、未だに溝が埋まっていないことから、相当しこりの残る喧嘩だったのだろう。
「随分伊摘さんに懐いているように見えた」
直次郎がそう言ったので、伊摘は首を傾げた。
「……そうでしょうか?」
「儂たちには言えないようなことを、たくさん話しているんじゃないか?」
確かに昴とは色々なことを話した。
だが、昴の内面に迫るようなことは、あまり話していない。
「もしかしたら、俺が警戒心を持たせない風体だからかもしれません。ひ弱な男と言われました」
伊摘が苦笑すると嶋はあからさまに顔を歪めた。
「貴昭に対しても、かなり言いたいことを言っていました。そんな昴君がどうして直次郎さんに何も言わないのか不思議に思います」
直次郎が視線を畳に落とした。
「もしかしたら、恨んでいるかもしれない」
「恨む?」
「引き取り手がヤクザだということに。学校で孤立していると聞いとる」
伊摘は小さく息を呑んだ。
友達らしい友達はいないと貴昭から聞いていたが、学校で孤立しているとは……かなり問題だ。
もし、それが本当の話なら直次郎を恨んでいる可能性もある。
けれど……昴にとって直次郎は、引き取ってくれた人。
本当は直次郎に感謝しなければならないのに、ヤクザ関係者ということだけで疎外されている、その言いようのない複雑な思いが、昴を反抗的にさせている要因なのかもしれない。
「ヤクザという偏見は思った以上に周囲に影響しているんですね」
悲しい声で呟くと、直次郎が小さく笑った。
「むしろ伊摘さんがなさすぎる」
「俺の中では、貴昭が軸ですから」
その言葉を苦もなくさらりと口にした伊摘に、直次郎は眩しそうに目を細めて見つめる。
伊摘は直次郎に思いきって進言した。
「昴君と少しでもいいので話していただけませんか? どんなことでもいいです」
頼みこむように間合いをつめて話す伊摘に、直次郎は顎を撫で思案するような顔つきになった。
「あれは儂には懐かん。この先もそうだろう。むしろ、伊摘さんを好いているようだ」
「俺は昴君とは近しい間柄ではありません。友人にはなれても、それ以上の存在にはなれない。直次郎さんは血の繋がりはなくても昴君のおじいさんです。ですから……」
伊摘の言葉を遮って、直次郎は落ち着いた口調で告げた。
「その役割は儂ではないような気がする。昴はちゃんと相手を見ておる。あれで人間を見る目があるようだ」
直次郎は言葉を切ると、優しい笑みを湛えて伊摘を見つめる。
直次郎のそんな表情をはじめて目にして、伊摘は胸が切なくなった。
「直次郎さん……」
「儂はあまりにも闇に染まりすぎた。迂闊に近づけない存在になっているのかもしれん。……伊摘さんは大丈夫なようだがな」
直次郎の笑みは陰のある自嘲するような笑みだった。
「俺は貴昭を知っていますから」
「組長の側にいるにしては、伊摘さん、あんたはまったく汚れてない。だから昴が懐くのだろう。どうやら、うちの組のもんはよくよく伊摘さんに懐くらしい」
おもむろに直次郎は伊摘に向き合うと、手をつき深く頭を下げた。
「昴をよろしく頼む」
あまりの出来事に伊摘は驚愕して、伊摘は直次郎に駆け寄った。
「直次郎さん! やめてください!」
「なにかと口の悪い孫だが、頭は悪くない。せめてもう少し成長するまでの間、昴のより所になってはくれないか?」
伊摘は困惑を隠しきれずに、嶋に助けを求めるように目で訴えた。
だが、嶋は静かに目を伏せたまま、伊摘を見ようともしなければ口を挟もうとしない。
嶋は誰よりも直次郎に忠実だと貴昭から聞いたことがある。
今ここで誰も伊摘の言い分に口添えしてくれる人はいないのだと知り、伊摘は焦る。
「俺に頼まれても……」
昴の力になってあげたいと心からそう思うが、伊摘ばかりに頼られても、どこまで自分が受け止めてあげられるのか……それが問題だった。
「では、昴を放り投げると?」
しれっと直次郎が訊き直してきたので、伊摘は慌てて言った。
「そんなこと言ってません。昴君が頼ってきたらもちろん力になりたいです。でも、一緒に暮らしている人が昴君に無関心なのはよくないと思うんです」
意地の悪い言い方をした直次郎に、負けじとばかりにきっぱりと伊摘が告げると、直次郎はやっとわかってくれたのか、短い息をついて観念する。
「まあ……儂も伊摘さんばかりに丸投げするわけではない。努力するようにしよう……嶋」
「承知しました。ですが、昴が俺と和解したいと思えませんが?」
「そこはお前の手腕だろう」
嶋は緩く頭を振る。
嶋にも嫌なことがあるらしい。
廊下から一人の男が現れ、膝をついた。
「失礼します」
男は静々と部屋の中に入ってくると、嶋の側で耳打ちする。
話を聞くと嶋はため息をつき、男を手で追い払った。
男は一礼して部屋を出て行く。
「昴が部屋にいないそうです。どうやら、勝手に外に出て行ったらしい」
「供の者がついているんだろう?」
直次郎が鋭く尋ねると、嶋は首を横に振った。
「いえ、一人です」
「誰も気づかなかったことはなかろう」
嶋は直次郎に対して頭を下げる。
「申し訳ございません。すぐ探します」
立ち上がった嶋に、伊摘も立ち上がった。
「俺も手伝います」
「いえ、伊摘さんはお帰りください」
いつもの穏やかな仕事中の嶋の表情とは違い、裏の顔が現れる。
「でも……」
「今はあまり動かないようにしてください」
「なにかあったんですか?」
嶋があまり言いたくなさそうに口を開いた。
「この間、伊摘さんと組長を襲った男が逃げています。もしかしたらということもありえますので、伊摘さんはお戻りください。誰かに送らせます」
「……わかりました」
ヤクザの世界に足を踏み入れたとはいえ、未だ堅気の伊摘には知らないことのほうが多い。
それに伊摘が無駄に動いても、かえって嶋に迷惑をかけるだけだ。それは貴昭のときと同じだ。
昴のことは気になるが、伊摘は力になれることは少ない。
伊摘は屋敷を出ると嶋に見送られて車に乗った。
車の中で伊摘は妙に胸騒ぎを覚えていた。
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