雪のように、とけていく

山吹レイ

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冷たい雪の、その狭間で(中編1)

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「すみませんが、この書類を纏めてください。今日中に。少し出てきます。もし笹倉という人から電話があったら、言われた内容をメモしておいてください。戻り次第こちらから折り返し電話します」
「わかりました」
 伊摘はパソコンの画面から目をあげて、渡された書類を受け取った。
 伊摘の机の周りには書類が山のように積み重なっていたが、今日中にということは今の仕事を中断させて、そちらを優先しなければならない。
 嶋の下で働くようになって数ヶ月が経ち、日々忙しさは増していた。
 嶋が伊摘の仕事のこなす量を見極めて、徐々に仕事量を増やしていったからだ。
 今では嶋に信頼されて多くの仕事を任されているが、伊摘はまだまだ自分は未熟だと思っている。
 嶋の仕事が一向に減らないからだ。
 嶋は毎日が多忙だった。
「何時ごろに戻られますか?」
 伊摘が時計を見て尋ねると、嶋は少し考える。
「そうですね……五時前には戻ってきたいです」
 嶋がスーツの上着を羽織り、他にも伊摘に言い残して鞄を手に出て行った。
 伊摘は目元を押さえ、痙攣しそうな瞼をゆっくりと解きほぐしてから、今渡された書類を読みはじめた。
 今は午後三時、定時までには多分終るだろう。
 頭を悩ますようなものでもなく、要点を纏めて打ちこめばいいだけだ。
 貴昭の会社は、建設、不動産、金融業、風俗、遊行飲食店、宿泊業、北海道にも支店がある物流や食品といった事業や、IT関係まで、幅広い職種の会社を経営している。
 ヤクザというより、ここまで多岐に渡ると普通の会社といっても過言ではない。
 それには貴昭一人の力ではなしえなかっただろう。
 嶋のような優秀な人が他にも沢山いるに違いない。
 伊摘は書類を読み終わるとパソコンに向かい文字を打ち始めた。
 伊摘にはまだこのぐらいの仕事しか手伝えないのがもどかしい。
 嶋は前よりもずっと動きやすくなったと言っているが、嶋の忙しさは相変わらずなので、あまり役に立っている気がしない。
 順調に打ち終わり、誤字脱字や変換ミスがないか確認していると嶋が戻ってきた。
 時計は五時五分前、もっと遅くなると思っていた。
「お帰りなさい」
「ただいま。思った以上に早く終りました」
 嶋が上着を脱いで椅子に腰かけると、伊摘は氷の浮かんだ麦茶を出した。
 天気がいいので暑かったはずだ。
「ありがとうございます。電話はありましたか?」
「はい。四時過ぎ頃、電話がありました」
 伊摘は電話の内容を書き留めていたメモを嶋に渡した。
 嶋は読み終わると、メモを机の上に置き、再び尋ねる。
「書類は終りましたか?」
 伊摘はプリントアウトして嶋に書類を渡した。
 嶋は出された麦茶を一気に飲み干してから、書類を手に取り、丹念に目を通していく。
「よくできています」
 ふっと顔を綻ばせて言った嶋に伊摘も思わず笑顔になる。
「よかった」
「これを三十部コピーお願いします」
「はい」
「それが終ったらあがってください」
 書類を持ち部屋を出て行こうとしたら、嶋がそう言ったので伊摘は振り向いた。
「少し残業していってもいいですか?」
 嶋はちらりと伊摘の机の上に目を向ける。
「残業はしなくていいですよ。俺がやっておきます」
 嶋は伊摘が手が回らなかった仕事までやろうとしていたので、慌てて言った。
「いえ、俺がやります。自分の仕事ですから。貴昭は今日遅いって言っていたし、やっていきたいんです」
 嶋は小さな笑みを浮かべ頷いた。
「わかりました。許可しましょう」
「コピー取ってきます」
 伊摘は階段を使い二階に行くと、コピーを取り、それを壁際にある長方形のテーブルに一枚一枚並べていく。
 そして束ねたものをホッチキスで留め、三階に持っていった。
 ドアを開けると、嶋は椅子に腰かけたまま、疲れたように目頭を押さえて携帯電話で話をしていた。
 伊摘は静かにドアを閉めて、今コピーし終わった書類を机の上に置く。
「まったく……どうして逃がしたのか説明がつかない。易々と逃げられたなど……組長は激怒するぞ」
 嶋の話している内容が耳に入り、伊摘は思わず顔を上げた。
 嶋と目が合い、慌てて椅子に座り聞いていない振りをしたが、耳はしっかりとそばだてていた。
 だが嶋は二言三言で電話を終え、ぐったりと背もたれに背をつけてため息と共に天井を仰いだ。
「伊摘さん、残業はこの次でいいですか?」
 急に言われた言葉に、伊摘は目を瞬かせる。
「え? あ、はい」
「俺はまた出かけなければなりません。そのついでに送っていきます」
 忙しい嶋にそんなことをさせられないと、伊摘は首を横に振った。
「一人で帰れ……」
「いけません。送ります」
 有無を言わせない口調で嶋は伊摘の言葉を遮った。
 昨日の一件以来、伊摘の外出には目について護衛がつくようになった。
 今朝もわざわざ強面の男が伊摘を車に乗せての出勤だった。
「帰る支度をして下さい」
 嶋に言われ、伊摘は机の上を片付けはじめる。
 どことなく嶋の表情がきついのと、言葉に強引な響きがこもるのは、さっきの電話に関係があるからだろうか。
 いつも伊摘といるときは穏やかに接する嶋が、今は苛々した様子だ。
 無駄口を叩かず素早く支度を済ませた伊摘に、嶋はふーっと息をつき「すみません」といきなり謝った。
 謝られる意味がわからず、伊摘は不思議な顔をして見つめると、嶋は苦笑して「少し苛ついてました」と正直に自分の気持ちを吐露した。
 伊摘はおずおずと訊いた。
「あの……なにか大変なことでも起こったんですか?」
 嶋は軽く微笑んだだけで何も言わない。
「さ、帰りましょう」
 かわすようにそれだけを言って促したので、伊摘は訊いてはいけないことを訊いてしまったのだと咄嗟に悟った。
 嶋と共にビルを出ると、むっとした空気が体を包み、伊摘は手を翳して空を見上げる。
 空には雲ひとつなく、晴天の今日は夏を思わせるような強い日差しがアスファルトを照りつけていた。
 瞬く間に体が汗ばんだ。
 すぐ目の前に車が停まり、運転席から男が出てきて後部座席のドアを開ける。
 嶋は「どうぞ」と先に伊摘を促したので、伊摘は恐縮しながら先に車に乗った。
 車内はよく冷やされていて、乗った瞬間肌から汗が引いていく。
 嶋も隣に乗り、ドアが閉められると、車は静かに進んだ。
 赤信号に引っかかったところですぐ嶋の携帯電話が鳴った。
「嶋です」
 座席に深く腰掛けて落ち着いた様子で話をする嶋を、伊摘はちらりと見る。
 嶋は窓の外に目を向け、あまり伊摘に話を聞かせたくないのか、短い返事だけで答えていた。
 伊摘は貴昭と共に生きると決めている。
 それなのに、貴昭は絶対に組の内部のことまでは伊摘に知らせないし、嶋もどこか過保護なところがあって、あまり深い事情まで話してくれない。
 嶋なりの考えがあって、話す話さないの線引きをしているのだろうが、伊摘にしてみれば少しもどかしい。
「車を停めろ」
 電話で話していたと思っていた嶋がいきなり声を張り上げた。
 何事かと思っていれば、嶋は電話を切るなり、いきなり路肩に停止した車から降りた。
 嶋は小走りで歩道の人の流れに入っていくと、前を歩いていた制服姿の少年を、突然肩を掴み振り向かせる。
 少年は振り返り、驚いたように口を開いて何か言ったが、相手が嶋であることがわかると、すぐさま逃げようとする。
 間髪をいれずに嶋が腕を掴んで引き止めた。
 少年は叫んで振り払おうとするが、嶋は掴んだ手を離さない。
 人目も憚らずに二人は言い争いをしていたが、やがて少年はふて腐れた顔で俯いた。
 どこか恥じ入ったような後悔の滲んだ顔つきからして、嶋がうまく宥めたか説得したのだろう。
 二人がこちらに向かって歩いてきたので、伊摘は見ていた窓から体を離した。
 嶋が後部座席のドアを開けると少年に向かい「乗れ」と命令する。
 少年はぶつぶつ文句を言っていたが、諦めたように身を屈め、車に乗ろうとして……ふと伊摘の存在に気づいた。
 目が合うと少年は怪訝な顔をしたので、伊摘は居心地の悪さを覚えながら曖昧な笑みを浮かべた。
 少年は胡散臭そうな表情で伊摘から離れた場所に座った。
 後部座席のドアが閉まり、嶋は助手席に乗る。
 静かに動き出した車内には気詰まりな沈黙が立ちこめた。
 伊摘はちらっと横目で少年を窺う。
 白いシャツの半袖とスラックスの制服姿、まだ幼い顔つきからして中学生だろうか。
 こうやって少年を車に乗せたということは、組関係者の子供か、それとも……そこまで考えて伊摘ははっとした。
 まさか嶋の子供?
 嶋は独身だと言っていたが、子供がいる可能性もあるかもしれない。
 嶋の年齢からして、少年のような年頃の子供がいてもおかしくはない。
 少年は見られたことを感じたのか、伊摘に顔を向けた。
 好奇心というより、少しだけ悪意を感じるのは、強い眼光ときゅっと結んだ唇を目に怒りを見たからだ。
 伊摘を上から下までまじまじと見つめ、少年はぞんざいな口調で訊いた。
「あんたさ、一人暮らし?」
 唐突な問いかけに一瞬驚いたものの、伊摘は笑みを浮かべて答える。
「パートナーと暮らしてる」
「なんだ一人暮らしじゃないんだ」
 がっかりした様子で、少年は伊摘から視線をそらし、窓にひじをかけ外を眺めた。
 少年はどんな理由があって、伊摘が一人暮らしか訊いたのか、説明しようとしない。
 接ぎ穂を失った会話に、またもや沈黙が車内を包んだ。
 だが少年は、不意になにか閃いたように急に振り返り、伊摘を凝視した。
「もしかして……貴昭がゾッコンのオンナってあんたのこと?」
こう
 助手席から嶋が鋭い声で少年の名前を呼んだ。
 窘めるような声音に少年は嶋を一瞥したがなにも言わず、確信を持った眼差しで伊摘を見ている。
 伊摘はオンナ呼ばわりされたことより、少年が貴昭と呼び捨てたことに驚いた。
 貴昭と近しい立場にいるのだろうか?
 少年は反応のない伊摘に苛々した様子で爪を噛んだ。
 そこで伊摘は落ち着いた声で訊いた。
「貴昭とは一緒に暮らしてる仲だけど? 君は貴昭とどんな関係?」
「赤の他人」
 あまりにも短い素っ気ない言葉に、伊摘は困ったように眉を顰める。
 それを見て少年はぶっきらぼうにつけ加えた。
「ヤクザとはなんの関係ない一般人」
 少年の言葉にははき捨てるような辛辣さがあった。
 てっきり組関係者の誰かの子供かと思っていたのだが……違うのだろうか?
 もしかしたら、少年はヤクザ関係者と思われるのが嫌で、一般人などと言ったのかもしれない。
 今まで口をはさまずにいた嶋が、ルームミラー越しに伊摘を見て言った。
「彼は片山昴かたやまこう、若頭の孫です」
「直次郎さんのお孫さん?」
 伊摘は呟くように少年……昴に尋ねたが、昴は鼻で笑った。
「血の繋がりはないから赤の他人だ」
「そう言ってれば、若頭となんの関係もないと思っているのか?」
 嶋の声は驚くほど冷たく厳しかった。
 こんな声をはじめて聞いた伊摘は、思わず息を呑んだ。
「本当のことだろ?」
 昴は無理をして虚勢を保とうとしていたが、その頬は強張っている。
「世話になっている人に、赤の他人と言う神経を俺は疑う」
 昴は鼻を鳴らし嶋を睨んだ。
「ヤクザがなに言ってんだ? 感謝の気持ちを持てとか言うのかよ」
 嶋はじっと前を見据えたまま言った。
「少なくとも、面倒を見てもらっている恩を感じろ。お前は若頭がいいと言わなければ、ここにはいられなかった」
 昴は唇をかみ締め、押し黙り、俯いた。
 言い返さないところを見れば、嶋に言われたことを自分でもよくわかっているらしい。
 部外者の伊摘にはよくわからないが、複雑な事情があるようだ。
 それに、嶋の躾を思わせる厳しい態度と、反抗的な昴の態度を見れば、二人は言いたいことを言い合う近しい間柄ながら、同時に互いに不満を持っていて、仲があまりよくないのだとわかる。
 車は静かにマンションの駐車場に着いた。
 停まった車から伊摘が降りようとすると、嶋は「待ってください」と一言声をかけて伊摘を車内に留めさせる。
 運転している男が、辺りを警戒しながら車から降り、後部座席のドアを開けた。
 伊摘は「すみません」と恐縮し、降りようとしたが、その手をいきなり昴が掴んだ。
 驚いて振り向くと、眦を吊り上げた昴がなにか言いたそうに見つめている。
「あんた……」
 呟いて言いあぐねている昴を目にして、伊摘はふっと顔を綻ばせて自己紹介した。
「水江伊摘です」
 手を差し出すと、昴は躊躇いがちに手を握り返してくる。
 そっと触れるだけの握手に、他人に対する繊細さを感じたような気がした。
「じゃあ、伊摘。明日は仕事?」
 昴は堂々と伊摘を呼び捨てにして訊いた。
「明日は休みだけど……」
 答えると、昴は一瞬目を輝かせて……だが、次には喜びを隠すように俯き言った。
「明日服を買いに行きたいから俺に付き合ってよ」
「昴」
 助手席の嶋がやめさせるように名前を呼ぶ。
 だが、昴は嶋の声を無視して、伊摘を見上げる。
 伊摘はどうすればいいのか迷ったが、とりあえず昴に向けて訊いた。
「俺で……いいの?」
「いいから言ってんの」
 昴は呆れたように言い返した。
「昴、伊摘さんは忙しいんだ」
 嶋は言い聞かせるように言ったが、昴は取り合わない。
「嶋には訊いてない。明日伊摘が俺の家に迎えに来てよ、そうだな、十時か十一時」
 伊摘はこの誘いを承諾してもいいのか悩んだが、嶋がなにも言わないので頷いた。
「わかった」
 嶋はあからさまにため息をついた。
「そんなスーツとか着てくんなよ」
 昴に言われて、伊摘は自らの格好を見て苦笑する。
「それじゃあ……十一時頃でいい? 迎えに行くの」
 伊摘が訊くと、昴は少年らしい無垢な笑顔を見せて頷く。
 ぶっきらぼうな態度とあまり礼儀に適った言葉遣いではない昴の純粋な一面を見たような気がして、伊摘は目を瞠った。
「待ってる」
 昴の目に期待に満ちた輝きが宿る。
 伊摘は軽く頷き車から降りた。
 明日は仕事が休みの土曜日、部屋の掃除を丁寧にやろうと思っていたが、予定変更だ。
 たまには外出するのもいいだろう。
 そこまで考え、伊摘はふとあることに気づき、首を傾げた。
 なぜはじめて会った伊摘を買い物に誘ったのか……しかも一回り以上年が離れた男を気安く誘うなど普通はしない。
 伊摘に近づきたい訳でもあるのだろうか。
 貴昭の恋人だと知り興味がわいたというならわかるが、それにしても親しくもない人を安易に買い物に誘えるという行為が驚きだ。
 もしかしたらもっと他に訳があるのかもしれない。
 伊摘が察することができない深い訳が。


 夜中に目が覚めた伊摘は、しっかりと腰に絡みついた逞しい腕と張りついた背中に感じる人肌の温もりに、貴昭が一緒に寝ていることを知った。
「貴昭……?」
 名前を呼ぶと、貴昭は不埒な塊を伊摘の尻に擦りつけるように身じろぎする。
「いつ帰ってきた?」
 寝ぼけ眼のまま伊摘が貴昭の腕を緩ませて体を回転させると、暗い闇の中で動く気配がした。
 熱い唇が伊摘の首筋に落ちてくる。
「ついさっきだ」
 伊摘は目を瞬かせて、暗闇の中で貴昭の顔の輪郭を手で探った。
 貴昭の髪は濡れていて、体からも石鹸の匂いが立ち上っていたので、シャワーを浴びてすぐベッドに入ったのだとわかる。
 伊摘は貴昭の唇を見つけてそっと口づけた。
 すると貴昭は伊摘の上にのしかかってくる。
 貴昭の逞しい胸が伊摘の胸に触れるが、重みはない。貴昭が気をつけて伊摘を押しつぶさないようにしているのだ。
 伊摘は腕を太い首に巻きつけ、貴昭のキスを待つと、ほどなくして熱い唇が重なった。
 舌を絡ませ、探り合うように確かめるように角度を変えて何度も口づける。
 伊摘の足が無意識のうちに開き、いつでも迎え入れるような体制になった。
 それを貴昭がすぐに感じ取り、そっと唇を離す。
「やらねえぞ」
 したくないのだろうかと訝しんだが、怒張したものが伊摘の太股を突いている。
 貴昭がしたくない、というのなら、それは伊摘のことが好きでなくなったか、それとも性欲をよそで発散しているかだ。
 だが今にも爆発しそうな気配は、滾る欲望で張りつめ、発情した雄そのもので、他で吐き出しているとは思えない。
 だとしたら、我慢しているのだ。
 昨夜も一度だけ、しかも挿入なしの口と手の愛撫で達しただけなので、溜まっているに違いない。
 週末が休みの伊摘にとって、明日が土曜の今夜は伊摘も文句を言わないため貴昭が際限までベッドで励める夜だ。
 ただ、前にも言ったが、今週はもうする機会を失っている。
「我慢する」
 苦渋に満ちた貴昭の声に、思わず伊摘はぷっと吹き出して笑った。
 セックスを我慢などしたことのない男の言葉とは思えなかった。
「笑うな。これでも俺は約束を守ってんだぞ」
 うなり声のような言いかたで貴昭が言ったので、伊摘は堪えようとしたが、くすくす笑いが漏れる。
「わかってる。こんな状態なのに、我慢する貴昭に感謝してるよ」
 優しい声で告げて、貴昭の下半身をあやすように撫でると、貴昭はそっと腰を引いた。
「俺の理性を揺らすような真似すんじゃねえぞ」
「ありがとう、貴昭」
 伊摘はずっと貴昭の性生活に不満を持っていた。
 体の相性や体位の問題ではなく、連日に及ぶ過度な回数が問題なのだ。
 それを貴昭はやっと理解してくれて、己の欲望を制御している。
 辛いだろうが、伊摘を思えばこその行動なので、とても愛しく思えた。
「これ、どうする?」
 伊摘が貴昭の勃起したものに触れて訊くと、貴昭は憮然とした声で言った。
「後で伊摘の寝顔を見ながらシコる」
 なんとなく嫌だとは言えない伊摘は、複雑な表情で貴昭を見つめる。
 暗闇の中では貴昭の表情は見えないが、情けない顔をしているのかもしれない。
 張り詰めた貴昭の胸の筋肉をゆったりと撫でて、胸の突起を優しく摘んだ。
 貴昭は再びキスをして……その口づけは激しさよりも優しさがこめられていたので、伊摘の目がとろんとしてきた。
 胸を撫でていた手を広い肩へ移し、貴昭の逞しい体を抱きしめるように背中に腕を回した。
「明日、昴と出かけんだろ?」
 唇を離した貴昭が隣に横になり、腕に伊摘を抱きこんだ。
 腕の中に包まれて安堵し、伊摘は欠伸をかみ殺して目を閉じる。
「知ってんだ?」
「お前のことに関しては、どこからでも情報が入る」
 貴昭の手は伊摘の尻を優しく揉んでいた。
「服……買いたいんだって。なんで俺のような男と行きたいんだろ? 友達のほうがいいのに」
「ダチらしいダチはいないって話だ」
 伊摘ははっとして目を開けた。
「……苛められているのか?」
「それはない」
「もしかして……ヤクザ関係者だから?」
「だろうな」
 伊摘はヤクザである貴昭に偏見を持ったことはなかったが、世間からは必ず偏った見方をされ、恐れられる。
「話してみて複雑な子だと思った。境遇も性格も」
「子供がいる女を見初めて、無理やり結婚したって話だからな」
 うまく話が飲みこめない伊摘は目を瞬かせて考えた。
「それは……えっと……」
「直さんの息子の重忠だ。今はもういない」
「その重忠さんが、昴君のお母さんを見初めて結婚したってこと?」
「そうだ。だから血の繋がりはない」
 伊摘は納得する。
「それで昴君がそんなことを言ってたんだ。あ……昴君のお母さんも一緒に暮らしてるんだよな?」
 ふと気になり尋ねると、貴昭は欠伸をして伊摘の頭に擦り寄る。
「病気で亡くなった」
「そうなんだ……」
 だとすれば昴は一人ぼっちということになる。
「昴は母方の親族の元に行く選択もあった。だが、本人が行きたがらなかった」
「わけがあったのか?」
「あまり仲がよくないらしい」
 聞けば聞くほど、昴に対する同情が募る。
 孤独なだけではなく、頼る親族もいないのだ。
「俺のオンナ呼ばわりしたんだろ? あんまり躾のいいガキじゃないから、嫌なら断っていい」
 貴昭は伊摘の気苦労を思い、そう言ってくれたが、伊摘は緩く首を横に振る。
 その場で断ることもできたのに、昴を傷つけたくなくてできなかった。
 昴は、嶋や直次郎に話せないような胸の奥深くに押し殺してある複雑な心境を、伊摘に言いたいのではないだろうかと感じていた。
「指名されたんだし、明日付き合ってみるよ」
「あんま仲良くすんじゃねえぞ」
 貴昭の声音に混じる微かな嫉妬に伊摘は苦笑する。
「彼はまだ早いよ」
「わかんねえぞ? あの年になれば、考えるのは女とセックスのことだけだ」
 それは貴昭だからこその考えだ。
「だってまだ……中学生? 小学生じゃないよな?」
「中一だ」
「中一なら早い」
 貴昭は伊摘の考えを「フン」と鼻で笑った。
「早くねえ。俺はもう盛ってた」
 今の貴昭を思えば、おのずとその頃の姿が想像できるような気がしたが、昴は貴昭とは違う。
「貴昭はそうだろうけど……彼はそういうのにまだ興味が向いてないような気がする」
 貴昭はため息をついて言った。
「明日は誰かつかせる」
「そこまでいいよ」
「なにかあったんじゃねえかって、仕事が手につかねえんだよ」
 貴昭にそう言われれば伊摘は頷くしかなかった。
「わかった」
 貴昭は肩の力を抜いて、ふっと伊摘に重みを預けた。
 心地よい腕の重みだ。
 相変わらず手は伊摘の尻に触れていたが、揉むようなことはしない。
 次第に貴昭から規則正しい呼吸が聞こえてきた。
 貴昭は伊摘以上に遅くまで毎日仕事をしている。
 疲れていないはずはないのに、この状態で毎日セックスをしていたのだから、今思えば体を壊していても不思議ではない。
 貴昭の巨体から並外れて体力も精力も耐久力もあるのはわかるが、疲労を感じないわけがなかった。
 セックスを休むことが互いの体調によい結果に繋がれば……それに越したことはない。
 伊摘は貴昭の足に足を絡ませる。
 そうして愛する男の腕に抱かれ、温もりに包まれて、安らかな眠りについた。
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