雪のように、とけていく

山吹レイ

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クマと調教師(番外編)

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「お前に会わせたい奴らがいる」
 そんなことを言われたのは、貴昭に一度抱かれた後だった。
 快感にざわめく体をベッドに横たえたまま、伊摘は気だるげに目だけを向けるが、貴昭はそれきり何も言おうとはしない。
 まるでそれ以上のことを言いたくないような気配に、本当は会わせたくない人だろうかと不安に思い「誰?」と訊く。
 貴昭は今まで一度も伊摘に紹介した人はいなかった。また逆に伊摘を組の誰にも紹介しなかった。
 会わせる必要がないと思っているのか、それとも組にはかかわらせないつもりなのか、そういう内情すら、貴昭は話さない。
 ベッド脇に置かれたサイドテーブルから煙草を手に取り、ライターで火をつけると、貴昭はゆったりと紫煙をくゆらせる。
 伊摘は上半身を起こそうと力んだが、力を入れたせいで注がれた貴昭の体液が大量に滴り落ちて、シーツの上にどろりとした白濁が溜まった。
 数枚ティッシュを抜き取り、後ろの穴に押し当てようとしたが、貴昭がその手を止める。
「見せろ」
 貴昭はうつ伏せになった伊摘の尻を広げると、じっと見つめながら煙草の煙をそこに吹きかけた。見られているのを意識してよけい穴がひくつき、ねっとりとした精液が糸を引いて溢れてくる。
「俺のチンコはよく締めつけてくる締りのいい穴が、どうしてザーメンはいらねえとばかりに垂らすんだ? 子種をしっかり入れておかねえと孕まねえぞ」
 穴を塞ぐように親指を入れた貴昭に、伊摘は眉を顰めて体を強張らせる。
「馬鹿」
 唇から抜けた息が甘く掠れ、まるでねだる言葉のようになった。
「……伊摘、お前の『馬鹿』は俺には『もっと抱いて』としか聞こえねぞ。色っぽいんだよ」
 貴昭にもそう聞こえたらしく、煙草を乱暴に揉み消すと、いきなり猛った巨根を押しこんできた。
「ああっ……」
 喜んで貴昭の勃起に食らいつく伊摘は、尻を高く掲げ、足を開いて、もっと奥深くまで飲みこもうとする。
 十年という離れていた月日を埋めるように、一日に何度も抱かれているこの体は、かつてのように貴昭のあまりにも大きすぎる男根も難なく根元まで誘うようになった。
「いつになったらガキができんだよ。零すからできねえんだろ。出した後でしっかりと窄めておけよ。おら、出すぞ」
 宣言どおり、貴昭の嵩が大きく膨らんだかと思うと、勢いよくドクドクと長い放埓がはじまった。
「できるわけないだろ……ひっ……ん……ああ、出てる」
 緩く腰を引き、再び奥を突くと先端からさらに迸る。
 伊摘は貴昭の精液を全て搾り取るように、内襞を締め付け、体を痙攣させながら仰け反った。
「この締めつけが堪んねえ。まだ締めとけよ。孕むまでチンコ入れて栓してやる」
「子供はいい。いらない。というか無理。西から太陽が昇ろうとも俺に子供は無理だ」
 ベッドに屍と化し、ぐったりとシーツに顔を埋める伊摘は、一回に二度までならなんとかついていけるが、これ以上抱かれても体が持たない。
 せめて時間を置いて朝ならば……と思ったが、顔をずらして時計を確認して、絶望に顔を引き攣らせた。
 もう深夜三時だ。今日は貴昭が帰ってくるのが遅かった。これでは朝も夜もないに等しい。
「諦めんじゃねえ」
「諦めるとか次元が違う。貴昭……お前、あと一年で三十路だろ。限度があってもいいはずだ。俺はもうこれ以上は無理。死ぬ」
「限度? 三十路で枯れるわけねえだろ。むしろ盛りだ、盛り。おら、腰動かせ」
 貴昭が伊摘の尻を軽く叩く。
「無理」
「寝るな」
 貴昭の重い体が背中に乗ってくる。
 伊摘が首を回してキスを求めると、貴昭は巨根を引き抜き、伊摘の体を仰向けにさせた。
 そして伊摘の唇を奪うような激しさでキスをする。
 熱い息を絡ませ、息継ぎしながら、伊摘が謝る。
「ごめん、貴昭ついてけない……ん」
「ったく、しょうがねえな。昔は五、六回軽くいけただろ」
 しょうがないと言いつつも、未練がましく貴昭は伊摘の乳首を摘んで引っ張る。
「十年も前の話だろ? 今は俺は二十八歳だ。乳首いやだ……」
「伊摘は今も昔も全然変わってねえよ。むしろ今の方が好みだ。涎が出る」
 本気で涎を垂らしてそうな顔で、貴昭は伊摘の足を押し広げた。
「貴昭、いやだ」
 亀頭を押しつけられて体を竦ませるが、ゆっくりと貴昭は腰を進めてくる。
「あと一回、あと一回で我慢する」
「明日も……ってもう今日だけど仕事だから、その辺考えろ」
「わかった。加減する」
「加減……んん、ああっ」
 加減という言葉の意味を知っていても、まったく守ろうとしない貴昭に、結局そのあと二度三度と挑まれ、伊摘は気を失うように眠りについたのだった。


 佐光貴昭とのはじまりは十年前に遡る。
 強盗から助けてもらったという出会いから友人へと関係が進み、そして付き合いは恋人へと発展していった。
 貴昭はヤクザだ。
 伊摘は世間の噂を耳にしてはいたが、それでも強盗から助けてもらった貴昭が悪人とは思えず、自分を信じ、貴昭を信じ、愛を重ねていった。
 だがそれをよく思っていない者の手によって、二人は引き裂かれる。
 その間、十年。
 そう……十年という長い月日を経て、偶然二人は再会した。
 そして紆余曲折を経て、再び愛を取り戻した。
 伊摘が東京に出張に来なければ、決して交わることがない偶然。
 東京といっても広い。しかも伊摘は仕事で来たので限られた場所しかいなかったにもかかわらず、明日には北海道へと帰るという短時間で、運命は二人を出会わせた。
 出会うべくして出会ったのだ、と思わずにはいられない……これこそ『宿命』というものなのだろう。
 もしかしたら、伊摘は貴昭と出会うために生まれてきたのかもしれない。
 そう思えるようになっていた。
 だが……いくら貴昭と出会うために生まれてきたとはいえ、仕事に行けなくなるまで抱き潰す、という行為は許されるものではない。
 しかも、これが今日だけではなく頻繁に起っているのだから、会社にとってはいい迷惑だろう。
 組が経営しているということもあり、貴昭の一存で、伊摘は北海道支店から本社がある東京へと異動を命じられた。
 本社に移動という大それた事態に、伊摘は一層仕事に励むつもりだった。
 それをセックスしすぎて会社には行けません、では面目がないばかりか、会社を馬鹿にしすぎだ。
 それでも貴昭が伊摘に求める優先順位がそこにあるから、伊摘は文句が言えない。
 貴昭の会社で働かせてもらっている立場だから、何も言えない。
 伊摘との出会いが強盗から救った、というはじまりだったため、貴昭はいつも伊摘を危なっかしいと思っているらしく、働かなくてもいい、とまで言っていたのだ。
 それを、いい年して働かずにいられるか、と突っぱねたのは伊摘だった。
 頼んで、頼んで、無理に働かせてもらっているのだ。
 この価値観の相違は伊摘にとって憂鬱の種だ。
 ふうっと気だるげにため息をついて前髪をかき上げる。
 貴昭が仕事へと行った後の部屋で、こうしてぽつんと一人ベッドに残されることが、なんだか怖い。
 これが嫌だから仕事に行きたいのかもしれない。
 寝返りを打ち、貴昭に隅々まで綺麗に拭かれた体をシーツに擦りつける。
 二の腕の付け根の柔らかい部分に、貴昭が噛みついた跡を見つけ、伊摘は指先でゆっくりとなぞる。
 体中につけられたキスマークを数えようとしても数え切れない。抱かれた回数を毎日カウントしようとも数えられない。
 それほど貴昭の想いも、セックスも激しい。
 貴昭は伊摘に対して制限がない。
 愛情もセックスも常に全力投球だ。
 その日蕩けるほどの甘い睦言を囁いても、溢れるだけ精液を注ぎ込んでも、その想いも欲望も次の日また同じだけくれる。湧き出る泉のように、枯れることはない。
 以前、貴昭が言っていた。『伊摘に関しては、俺は際限がなくなる』と。それほど欲しいのだと。
 こうして日々貴昭に愛されることを思うと、会社に行けないことなど贅沢な悩みなのかもしれない。
 離れていた十年とても寂しかった。毎日会社に出勤しても、どれほど仕事に打ち込もうとも、常に心が乾いていた。
 それを思えば会社など……。
「ああ、もう……」
 会社に行けないことなど、どうでもいいと思えない伊摘は、苛立たしげに悪態をつく。
 働かずして生活するなど考えられない。
 もし仕事を辞めたとすれば、毎日貴昭がいなくなったこの部屋で何をすればいいのだろう。
 気が狂いそうだ。
 腹が減り、体を起こそうとして、ふと、会わせたい奴とは誰か伊摘に教えないまま、貴昭は行ってしまったことに気づいた。
 まさか友人とか気軽な相手ではないだろう。それならば貴昭は言うはずだ。
 だとすれば組の関係者だろうか。
 組のそれなりの地位にいる者に紹介されたとなれば、杯を交わすとか、組内部へと入っていくことになるかもしれない。
 伊摘は未だ堅気だ。たとえヤクザの組長である貴昭の恋人という立場でも。
 そして、実を言えば伊摘は堅気という立場にあまり未練はない。
 むしろ、貴昭のためになるならば、ヤクザになってもいいと思っている。
 もはや貴昭の側にいるためにはヤクザに染まることは必要不可欠だった。


 日曜日。誂えた上質のスーツを着て、伊摘は貴昭に連れられ、料亭へとやってきた。
 中に入ると、先方はまだ来てないと告げられ、部屋に案内される。
 伊摘は落ちつかない気分で貴昭の後について部屋の中へ入った。
 テーブルの前に座りながら、向かい側の空席を見つめ、やはり気になり尋ねる。
「貴昭、会わせたい人って一体誰……」
 言いかけたところで、貴昭が伊摘を手で制して胸ポケットから震えている携帯電話を取り出した。
 短く舌打ちして貴昭は立ち上がる。
 訊きたいことを訊けずに消化不良を起こしそうなまま、伊摘は貴昭の大きな後姿をため息をつきながら見つめる。
 すると、いきなり貴昭が障子を開けようと手をかけたところで、外から勝手に開いた。
 そして「うっ」という呻き声が聞こえる。
 何が起ったのか驚き、伊摘が体をずらし見てみると、見たことのない小柄な少年が、鼻を押さえて顔を顰めている。
 貴昭にぶつかったのだ。貴昭もよく見てなかったのだろう。
 少年は鼻を押さえたまま恐る恐る上を見上げ、貴昭の大きさに目を見開いて驚きの声をあげた。
「クマだ……」
 悪意のない呟きに、伊摘はぷっと吹き出して笑いつつ、もしかして会わせたい人とはこの少年だろうかと考える。
 だが、少年の後ろから、貴昭には及ばないが背の高い、目つきの鋭い青年が現れたことにより、はっと息を呑んだ。
 青年の身にまとう雰囲気が、貴昭のものと酷似している。
 黒いスーツに身を包み、ストイックにも見えるハンサムな容姿だが、眼光の鋭さや冷たさが堅気ではないと物語っていた。
 青年が貴昭を見つめると、挨拶程度に僅かに頷く。
 貴昭も頷きつつ、携帯電話を片手に出て行こうとしたが、少年に向かってチンピラのように威嚇した。
「誰がクマだ、コラ」
 子供じみた行為に伊摘は呆れ、さぞ少年は怯えるだろうと思っていれば、意外にも貴昭相手に怯むことなく睨みつけている。
 珍しい風景だ。組の者でも巨漢の貴昭に怯える者が多いのに、初対面の少年が怖気づくことなく立ち向かう姿に驚きを覚えずにはいられない。
 少年が鼻を押さえていた手を下げると、驚くほど美しい顔が現れた。
 少年とばかり思っていたが、少年というより青年、いや……青年というにはまだ若い気もするが、どちらともつかない年齢の狭間にいる瑞々しさが感じられた。
 貴昭は少年が美しいことも気にも留めずに、威圧的に上から見下ろしている。
 伊摘は貴昭がこれ以上変なことをしないように、窘め名前を呼んだ。
「貴昭」
 少年ははじめて部屋の中に人がいたのに気づき、こちらに目を向ける。
 貴昭はそれ以上少年に構うことなく、廊下へと出て行った。
「中に入れ」
 貴昭の後姿に少年は口を開きかけようとしたが、青年に肩を押され、渋々室内へと足を踏み入れる。
 そして伊摘の向かいに座った。
 近づいてみても、少年の美しさは目を引く。
 貴昭にも怯まず立ち向かっていく性格から相当負けん気は強そうだが、はっと息を呑む美しさは一見虫も殺せないような繊細なつくりだ。
 長い睫、柔らかそうな唇、華奢な首、だが視線の強さは凛としていて、男らしさを感じる。
 沈黙が気まずくて、何か話せばいいのだろうかと焦るが、話題が思いつかない。
 その前に自己紹介だと思いついたが、貴昭がいないうちからはじめてもいいものだろうか。
「悪い」
 貴昭が電話を終えて入ってきたのでほっとした。
「忙しいのはお互い様だ」
 青年がそう話す口ぶりから堅苦しさは感じられない。貴昭とはそれなりに親しいのだろうか。
 全員が座ったのを見計らったように、料理が運ばれてくる。
 会席のように一品一品運ばれてくるかと思っていれば、青年は「いつも通りで頼む」と告げ、女将が上品な笑みで「かしこまりました」と頭を下げると、食べてもないうちからテーブルの上に次々と料理が運ばれた。
 そして全て運び終え、人払いすると、貴昭が口を開いた。
「俺とお前は旧知の仲だが初対面同士もいるからな。まずは自己紹介からだろう」
 青年が頷くと、貴昭が少年を見つめ、組の名前と組長であることを告げて自己紹介した。その後で伊摘を促す。
「水江伊摘です」
 伊摘は名前だけ明かして頭を下げた。
 青年は頷きもせずに黙って伊摘を見ていたが、少年は軽くお辞儀をして微笑む。
 今度は青年が組の名を告げ名前を言った。
 組関係者だと思っていたが、貴昭の掲げる組とは別の、しかも組長だとは思ってもみず驚いた。
 京野瑛火きょうのえいか……組長という立場にしては随分若い。
 貴昭の年でも組長という座に就くには若いが、それよりもっと若い彼が組のトップに就いていることが信じられない。
 そして少年は、瑛火と目を合わせて柔らかく微笑むと、軽く居住まいを正し「高遠水景たかとうみかげです」と名乗り、まるで作法のような折り目正しさで頭を下げた。先ほどよりずっと大人びた態度だ。
「まずは乾杯といこう」
 日本酒を注ぎ、軽く猪口を合わせて乾杯し口をつける。
 一気に飲み干した貴昭に伊摘が酒を注いでいると、水景は「いただきます」と手を合わせ、もう料理を食べていた。
 腹が減っていたのだろうか。
 貴昭は瑛火と穏やかに会話を交わしている。
 伊摘は所在なさげに静かに酒を飲んだ。
 水景は料理を美味しそうに頬張り、二人の会話にまったく興味ないらしい。それよりも食べることが先決なのだろう。
 水景のほっそりとした容姿から、食が細いようにも見えたが、外見を裏切る食欲旺盛の食べっぷりに、目を丸くする。
 ただし食べ方はこの上なく上品で、躾がいいのだと感じる。
 観察していれば、いきなり水景は顔を上げた。
「すいません。腹が減ってて……」
 恥ずかしそうに目を伏せて、上品な仕草で口を布で拭う水景に、なにやら艶っぽさが漂う。
「いえ……」
 水景は人懐っこい笑顔で言った。
「ここの料理は美味しいですよ。俺は特にこの鱧の湯引きが好きで……何?」
 水景は横から見られていることを意識して、いきなり話の途中で貴昭と瑛火に目を向ける。
「いや」
 瑛火は少し微笑んで、水景の髪についていた小さなゴミを手で払う。
 思いがけない笑みと親密な仕草に、思わず見てはいけないものを見てしまったかのような気まずさに陥る。
 ぎくしゃくと目をそらそうとして、瑛火の左手に鈍く光る指輪を見つけ、まさかと水景の左手も咄嗟に見る。
 どう見てもお揃いの指輪が二人の薬指に嵌っているのに驚き、呆然としてしまった。
 呆気に取られたまま伊摘は問うように貴昭を見つめる。
 貴昭は何も言わず、苦笑しながら頷いた。
 二人はそういう関係なのだと悟ったとき「会わせたい奴らがいる」と言った貴昭の意図が見えたような気がした。
 杯を交わすとか重く考えていただけにある意味ほっとした部分はあったが、別な意味で衝撃を食らった。
 まさか自分達のようにヤクザの世界で同性でありながら愛し合っている者がいるとは思わなかった。
 薬指に嵌めているということは、それなりの関係だ。
 貴昭と伊摘の恋人同士という関係より、さらに進んでいる。
 しかも見るものが見れば一発でばれるだろうに、指輪を隠しもしない。
 伊摘は自分が失礼な目で二人を見ていたことに気づき、慌てて平然を装ったが、多分水景も瑛火も気づいただろう。
 そんな目で二人を見る資格のないことに恥じ入りながら俯いていると、向かいに座る水景が徳利を伸べた。
 はっとし、酒を注ぐために伸べたのだと理解し、伊摘は「すみません」と恐縮しながら、慌てて猪口を持ち、酒を受ける。
 水景は気分を害したふうはなく穏やかな眼差しで伊摘を見つめ、口を開いた。
「伊摘さんは、年はいくつなんですか?」
「二十八です」
「へえ……もっと若いと思った。綺麗だし」
 とんでもないとばかりに伊摘は首を横に振る。
 水景に言われるほど、綺麗でも若くもない。
 水景の視線が伊摘から隣にいる貴昭へと移ったのを見て、伊摘は言った。
「貴昭は二十九です」
 すると水景はしばしの沈黙を持って呟いた。
「……意外と若いんだ」
 伊摘の年齢を聞いたときと逆の反応に、思わず笑ってしまった。
 するとほっとしたように水景が笑顔を見せ、場が和む。
「そりゃ、どういう意味だ」
 隣から貴昭がぐいっと身を乗り出し、凄みをきかせた。
 せっかく和んだ場を緊迫させる貴昭の態度に、伊摘は「貴昭」と手で制する。
 こんな少年相手に大人気ない態度を取る貴昭に、伊摘の眼差しも鋭くなる。
 水景は貴昭を無視して鱧を口に運ぶ。するとさも美味しそうに表情が蕩けた。
 貴昭の威嚇など、完全無視の態度を貫いた水景に、貴昭は舌打ちする。
 心底美味しそうに食べている水景の姿に、瑛火は自分の皿を水景の前へとやった。
「いいのか?」
「いい」
「ありがと」
 素直に喜びを表情にあらわす水景は、感情を隠すことはせずに瑛火の元で伸び伸びと寛いでいるように見える。
 微笑ましい風景に羨望を感じ、伊摘は貴昭を見つめる。
 貴昭は伊摘をまっすぐ見つめ、手を伸ばしやんわりと首筋を撫でた。
 自分の所有権を見せつけるような態度に、伊摘は顔を赤らめて戸惑い、そっと貴昭の手を退ける。
 目を上げてみれば、何を考えているのか表情は読み取れない瑛火に対し、水景は全てを悟った眼差しで伊摘と貴昭を見ていた。
 意味深に微笑む水景の瞳は、先ほどはキラキラと輝き生き生きとした躍動を感じさせていたが、今は鳴りを潜め、不思議な色合いを見せていた。
 心の奥底までを見透かすような透き通った瞳で、伊摘を見ているようで見ていない、別の場所を見ているかのような、不思議な眼差し。
 伊摘はその不思議な瞳から目が離せずに、黙って見つめる。
 やがて水景は肩の力をふっと抜き、今度はちゃんと伊摘に目を合わせ、まるで何もかもを見通したように告げた。
「安心していい。その手を離さない限り、これから先、大丈夫だから」
 伊摘は目を瞠り、水景を凝視する。
 すると今度は世間話でもするような気軽さで、水景は言った。
「まさか視えるとは思わなかった。びっくりした」
「大丈夫か?」
 気遣うような表情で、瑛火は水景の背に手を当てる。
「うん。平気」
 頷き、ほっと息をついて瑛火の胸へと手を当てこちらを見つめる水景は、また謎めいた眼差しになる。
「何事も貫き通せば証明になる。俺と瑛火もそうしてきたから」
 貴昭は警戒心を纏い、不審な目つきで水景を睨みつけている。
 水景は肩を竦め、貴昭の視線から逃れるようにテーブルに目を落とす。
「今のは聞かなかったことにしてもいい。でも何か不安があったとき思い出してほしい」
「……何が言いたい」
 貴昭は鼻息も荒く水景に問うが、らしくなく顔が強張り、焦りが見える。
 伊摘は心配そうに貴昭の手に手を重ねる。
 水景は僅かに唇を上げて、わざと挑発するような表情をつくり、にっこりと笑った。
「クマはちゃんと大人しく調教師の言うことを聞けってこと」
 貴昭は虚をつかれて鼻白む。
 だが次の瞬間、怒りを爆発させた。
「誰がクマだ、やるってのか!?」
 色めき立った貴昭に伊摘は宥めようとしたが、貴昭は完全にヒートしていた。
 すると水景もふんっと鼻息を荒くして、挑発的な眼差しで腕を捲くった。
「よし、そうこなくちゃな」
「水景」
 瑛火は水景を窘めようとするが、まるできかない。
 立ち上がった貴昭と上着を脱いだ水景がテーブルの脇で、対峙していた。体格の差は歴然だった。
「日ごろの成果を試すチャンスだ」
 水景はネクタイをも引き抜いて、袖を捲くると、構えを取る。
「ガキなんぞ、一撃でのせる」
 食事の席で、しかも初対面の相手と喧嘩などありえない。
 相手は身長も体重もはるかに劣る少年だ。
「貴昭。やめろ」
 伊摘は立ち上がり、貴昭を本気で止めようとするが、逆に一喝された。
「うるせえ」
 水景もやめる気配はない。
 助けを求めるように瑛火を見たが、彼は呆れつつも水景のしたいようにさせるらしい。
 思わず瑛火に言った。
「あ、あの、いんですか? 貴昭は手加減すると思いますが、水景さんが無事でいる保障は……」
「大丈夫だろう。言ってもきかないからな」
 あっさりと瑛火は大丈夫と口にする。どう見ても大丈夫でいる保障はない。
 誰が少年相手に本気になって喧嘩する馬鹿がいる。
 対する水景も美しい容姿を裏切る、血の気の多さだ。
 本気で取っ組み合いを始めた二人に、頭痛がして伊摘は頭を押さえた。
 貴昭は水景の華奢な腰を掴むと一気に肩に担ぐ。
「うわっ」
 あまりにも軽々と持ち上げる貴昭に、水景は驚きつつも悔しそうな顔をして、なんとか肩から降りようともがく。
 貴昭の逞しさはいつ見ても畏怖さえ覚える。
 だが逞しさを感じれば感じるほど、水景が本当に華奢に見える。
 いっそ哀れだ。
 水景は諦めることなく、なんとか貴昭の首に腕を回すと、足で腰を挟んだ。
「お前は蝉か」
 まさしくその画は大木に蝉が張りついているようだ。
「ちっくしょー」
 負けん気の強さで、水景は貴昭を畳に倒そうとする。
 水景のシャツがスラックスからはみ出て、その隙間から意外にも筋肉が綺麗についた肋骨が浮き上がる。
 体を鍛える何かをやっているのだ。
 ハラハラしながら見つめる伊摘に対し、瑛火は子供の喧嘩には関知しないとでも言いそうな顔で酒を飲んでいる。
 じゃれているようにも見えなくもないが、もし怪我をしたらと思えば、黙って見ていられない。
「二人とも、もうやめろ」
 伊摘の言葉もまるで聞いてはいない二人に、実力行使にでることにした。
 水景を貴昭から離しつつ抱き上げる。
「まったく、なにやってるんだか、大人気ない」
 意外にも重い水景を下ろして言うと、貴昭が軽く衣類を直し顎でしゃくる。
「そっちがいちゃもんつけてきたんだろうが」
「貴昭」
 どう見てもいい年した貴昭が悪い。
「すいません、水景さん、怪我はないですか?」
「大丈夫」
 と言いつつ水景は息を荒くしながら、額に汗を滲ませ、腰を折っている。
「全然だめか」
「当たり前だ。誰がてめえみてえなガキに」
「貴昭」
 伊摘が、黙れ、と含めて名を呼ぶと、貴昭は肩を竦めて口を閉じた。
 水景はベルトを緩め、シャツの皺を直しながらスラックスの下に綺麗に入れてベルトを締めなおす。そして瑛火の隣へと座り、手で顔を扇いだ。
「暑い……」
「それだけ動けばな。自分がいかに貧弱かわかってすっきりしただろ」
 瑛火の辛らつな物言いに、水景は一瞬怯んだ。
「悪い……ついなんか熱が入った」
「お前の気の強さには困ったもんだな。しかも合気道を習うようになってから、さらに拍車がかかった」
「ごめん」
 貴昭相手には決して怯むことはしなかった水景が、瑛火が相手では反省して萎れている。
「合気道を習ってんのか?」
 貴昭が座席に座り、徳利ごと口をつけて酒を呷る。
「結構体力も筋肉もついたと思ったんだけど」
 水景は頷き唇を噛み締める。
「全然だろ。そんな体じゃまだまだ……」
 羨ましげに水景は貴昭を見つめる。
「じゃあ、どうすればそんな体になるんだよ?」
「そりゃ、あれだ。遺伝子の違いだ。お前は無理無理」
 無理とあっさり告げた貴昭に、水景の目が瞬く間につり上がった。
「やめろ、水景。佐光も嗾けるな」
 瑛火の一声ですぐに火種は消される。
 空になった徳利を振る貴昭に、伊摘は察して席を立とうとすると、水景が「俺が行く」と立ち上がった。
 伊摘が口をはさむ間もなく、水景は部屋を出て行く。
 静かに貴昭が口を開いた。
「威勢がよくてさぞ手を焼いているんだろうな。想像がつく」
「見ての通りだ」
 思ったほど水景の鼻っ柱の強さを苦にしていないような表情で瑛火は答える。
「だが、そこまでの自我の強さがなければやってらんねえんだろうな……」
 貴昭は頬杖をついて伊摘を見ると、そっと手を伸ばし伊摘の頬を撫でる。思い煩うような貴昭の顔に、何か言えないことがあるのではないかと伊摘は不安になる。
「ああ。弱い人間では務まらない」
 瑛火は伊摘と貴昭の恋人同士の態度を見て見ぬ振りをしている。
「……あの言葉はなんだ?」
 思いついたように、貴昭が瑛火に言った。
 水景が言った不可思議なことだ。
「あれは神託のようなものだ」
「神託?」
 言葉尻をつりあげ、馬鹿にしたような口調の貴昭に対し、瑛火は苦笑してかわす。
「あまり気にしなくていい」
 障子に影が映り音もなく開いた。
 てっきり誰かが酒を持ってきたと思っていれば、水景が大量の徳利がのった盆を手に入ってくる。
 背後から見たこともないスーツ姿の男も現れ、室内に入ってくることはなく盆だけを室内へと置き、お辞儀をして姿を消す。
 水景は慣れた手つきで空になった徳利を一箇所に集め、新しい酒の入った徳利を各々の前に置く。
 早速貴昭は徳利から酒を注ぐが「なんじゃこりゃ」と一口飲んで顔を顰めた。
「甘っ……おい、ガキ、何を持ってきた」
 水景はふっと笑い、済ました顔で言った。
「やっぱりクマにはハチミツだろ? 珍しいミードがあるっていうんでそれを貰ってきた」
 ミードとはハチミツを発酵させた酒のことだ。
 小さな仕返しをされて貴昭はむっとする。
 水景はやられっぱなしでは気が済まないらしい。
 貴昭は無言でそれを伊摘に押しやり、違う徳利を慎重に猪口に注ぐ。
 伊摘は困ったが、とりあえずミードは一度も飲んだことはなかったので、どんなものか口をつけてみる。
 なるほど、甘い。それとハチミツ独特のコクがある。だが最後に口に残ったのはミントのような爽やかな後味だった。
「よくそんなものが飲めるな」
 貴昭は吐き捨て、日本酒であることを確かめつつ、猪口を口に運ぶ。 
 まだミードを飲んでいる伊摘に目を向け、水景は問いかける。
「伊摘さんは、酒は結構いけるほう?」
「ほどほど」
「そっか、好みが合いそうだし、今度一緒に飲みにいきたい」
 いきなり誘われて驚く。随分簡単に人を飲みに誘う水景に、人嫌いしない性格なのかもしれないと思った。
 だが瑛火が意外なことを言った。
「珍しいな。お前がそういうことを言うなんて。特定の人以外の付き合いは嫌なくせに」
「伊摘さんのことは気に入ったんだ」
 衒いなく告げて微笑む水景に、伊摘は顔を赤らめる。
 誘い方もストレートだが、言葉も本当にストレートな人だ。
 すると、変なところで独占欲を剥きだしにしたのは貴昭だった。
「悪いな、これは俺のものだ。俺の了解なしに誘うんじゃねえよ」
「た、貴昭」
 耳まで顔を真っ赤にさせて慌てていれば、水景は目を細めて意味深なことを言った。
「そうやって囲ってたら息が詰まるよ? そしていつかは逃げていくんだ」 
 ふっと唇に笑みを浮かべる水景は、あくまで貴昭に立ち向かうらしい。
「……んだと」
「貴昭、やめろ」
 伊摘は貴昭を宥め、水景を見れば、伊摘と貴昭のやり取りを面白そうに見ている。
 これではどちらが落ち着きないか、大人気ないか明白だ。
 その後、二人はたびたび衝突を繰り返し、伊摘と瑛火に喧嘩になる前に止められは、ハラハラさせた。
 だが二人はそれを悪いことだとは思っていないようで、楽しそうに言い争いをしていたことから、彼らなりの意思の疎通のようにも思えた。
 それから小一時間ほどで食事を終え、料亭を出る。
 帰り際、伊摘と水景は互いに携帯電話で情報を交換した。
「それじゃあ、また」
 水景は伊摘の手を握ってそう言葉をかけたが、貴昭に対しては「クマもな」とだけ素っ気なく言って、瑛火と共にタイミングよく現れた車に乗り込んだ。
 そして窓から手を振る水景を映し、車は前後を護衛の車に守られて静かに去っていった。
「あのクソガキ」
 貴昭はそう言いつつも、気分を害していないことがわかる。
 貴昭と伊摘は車に乗る。水景たちと違い運転手も護衛の車もいない。
 貴昭が伊摘と出かけるときは、組の者がついてくるのを嫌うからだ。
「京野の親父と俺の親父は仲がよくて、それで昔知り合った」
 貴昭は運転しながら煙草に火をつけ、窓を少し開けた。
「昔は随分手のつけられねえガキだったが、今ではあの通りの落ち着きようだ。組をうまくまとめている」
「まだ若いんだろ?」
「俺より六つか七つ下だったか……」
「そんなに?」
 伊摘は驚きの声をあげる。
「伊摘」
 貴昭は深く煙草を吸うと、ゆっくりと紫煙を吐き出す。
「うん?」
「もし、俺の身に何かがあった場合、奴のところへ行け」
 言われた意味がわからず、伊摘は貴昭を凝視する。
「え?」
「お前をよろしく頼むと言ってある」
「ま、待て……一体何の話だ!?」
 伊摘はハンドルを握る貴昭の腕を思わず掴んだ。
 すると貴昭は深刻に考えた伊摘を宥めるように軽く言った。
「万が一の話だ。すぐにどうこうなるわけじゃねえ」
「貴昭……」
 伊摘はそれでも不安に思い、貴昭の腕を握り続ける。
「……あの水景とかいうガキの指輪に気づいただろ?」
「うん」
「あの男は三代目姐だ」
「姐って……まさか……」
 姐、というのは組長の妻のことをさす。
「ああ、組公認の関係だ」
「……信じられない」
 そこまで公の仲とは思ってもみなかった。
「ガキが姐という地位に至るまで、組の中でも外でも凄かったらしいがな。まあ、想像はつく」
「だろうな……そんなこと前代未聞だ」
「だが京野は決してあのガキを離さなかった」
 息が止まるような衝撃が走る。
 あの冷静さを失わない瑛火が、どれほどの思いで水景を守り、そして二人の行方を貫いたのか、考えただけで胸が熱くなる。
「はじめはガキも嫌がってたって話だ。堅気なのを無理やり京野が手篭めにしたらしいからな。相当抵抗しただろう。だが、まあ……今は見ての通りだ」
 水景の優しく微笑む表情の裏には沢山の苦労があっただろう。
 それを感じさせない水景の強さに、伊摘は感嘆せずにはいられない。
「京野はガキのことを笑われても、平然としてたそうだ。しかも奴は存在を決して隠すような真似はしなかった。全てを引き受ける覚悟があったんだろうよ」
「覚悟……」
 呟き、伊摘は貴昭の腕をそっと放す。
 正直そこまで思われる水景を羨まずにはいられない。
 伊摘とて貴昭に愛されている自覚はある。
 だが、貴昭の愛とは、どこまでも伊摘を道連れにするような愛とは違う。
 ヤクザに染めたくないと思っているのか、組のことは話もしないし、かかわらせてもくれない。
 共に連れて行って欲しいと願っても、貴昭はそこまでの覚悟を持って伊摘をさらってくれるだろうか?
 貴昭は煙草を灰皿に捻り消し、窓を閉める。
「京野の力があってのことかもしれんが、組員を認めさせるガキの器量もあってのものだろうな。あの負けん気の強さは俺でも舌を巻く。しかも俺を怖がらねえで嬉々として喧嘩をふっかけてきやがった」
 水景のことを思い出したのか、貴昭は小さく笑った。
 伊摘は思い切って貴昭に聞こえるように呟いた。
「貴昭は俺をどの位置に置こうとしているんだろうな」
「伊摘……」
「俺は水景さんが羨ましい」
 貴昭は急に車を道路わきに停めた。
「俺は、お前をヤクザの世界に浸すつもりはない」
 ハンドルに目を落としたまま告げた貴昭に、伊摘はショックで顔を歪ませた。
「貴昭はそんなことを思ってたんだな。だったら、俺は貴昭の側を今すぐ離れる!」
「伊摘!」
 車を降りようとする伊摘を、させないとばかりに貴昭が腕を掴み睨みつける。
「俺は……俺は、十年前から覚悟を決めている。ヤクザである貴昭の側にいる以上、俺も染まらずにはいれない。けど、貴昭はそこまで覚悟がないんだろ? 俺に対してただ可愛がるだけの愛人のような扱いでいいと思ってんだろ!」
 伊摘は悲痛な眼差しで貴昭を見つめ叫んだ。その目に涙が滲んでいた。
「違う! 俺は、お前が苦しむ姿は見たくねえ。愛してるんだ。誰よりも深く愛しているから……」
「そんな生ぬるい愛は俺はいらない。俺をどこまでも連れて行くか、それとも別れるか、二つに一つだ」
 睨みつけ、脅すような目で貴昭を睨む。
 すると、同じような瞳の強さで貴昭は伊摘を見つめた。
「地獄を見るぞ」
「承知のうえだ」
「二度と戻れねえぞ」
「覚悟はできている」
 貴昭は一瞬泣きそうな顔で唇を噛み締め俯く。
 だが、次に顔をあげた貴昭の目にはしっかりとした決意と覚悟が浮かんでいた。
 貴昭はきつく伊摘を抱きしめ、唇を奪う。
 もっと強く奪って欲しいとばかりに、伊摘も貴昭の首にしがみつき、唇を押しつけた。
 激しくお互いを求めながら、伊摘は呟いた。
「俺を連れて行ってくれ」
 貴昭は欲望を滾らせた雄の眼差しで大きく頷いた。
 これから先、どこへ向かうのか……ヤクザという荒波に身を浸して無事でいられる保証はない。
 だが伊摘は貴昭を愛してしまった。
 貴昭も伊摘を愛した。
 もう二度と離れられないところまできてしまった。
 だから、進むだけだ。
 後悔しないよう、後戻りできない道を進むだけ。
 二人の物語はこれから先、始まるのだ。
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