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雪のように、とけていく(中編)
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「金を出せ」
伊摘は突きつけられた包丁に震え上がった。
深夜のコンビニでバイトしている伊摘が、まさかテレビで見るような強盗に遭うとは思ってもみなかった。
高校を卒業後、進学も就職もせずにアルバイトで小遣いを稼ぐ程度に気楽さを満喫しながら働いている伊摘はまだ十八歳。
強盗に遭ったからといって、どうすればいいのか経験も知識もない。
店長から教わったような気もしたが、蛍光色の塗料が入ったボールを投げつけることだけしか頭に入ってない伊摘は、震え気絶しそうになっていた。
ボールは人目のつかない隅に押しやられるかのように、埃をかぶり、伊摘の手の届かない場所にある。
素早くボールを取り、目の前の強盗に投げつけても、それは身を守ることになるのだろうか。
ならないだろう。護身用のグッズではないのだから、逆に激昂されて、切りつけられる可能性が高い。
深夜のシフトは防犯のため二人体制が原則なのだが、人件費削減のため、伊摘一人の勤務だ。助けを呼ぼうにも誰もいない。
伊摘は恐怖で動けないまま、ただ立ち尽くした。
目出し帽を被り、全身黒っぽい服装の声からして男の強盗は、苛々したように、さらにナイフを突き出した。
「金だ、金」
伊摘が震える指先で両替キーを押そうとしたとき、いきなり目の前に影が差し暗くなった。
「おい」
驚いて目をあげれば、体格のいい大きな男が、包丁を握った強盗の手を掴んでいた。
「誰だか知らねえが、こんなところで小せえ強盗なんかしてんじゃねえよ」
男はいとも容易く、強盗の腕を後ろに捻りあげた。
「痛い痛い痛い!」
「おい、お前、ぼさっとするな。防犯のボタンとかなんかあるだろ」
男はまるでなんでもないように冷静な声で言ったので、伊摘は呆けたように見上げてしまっていた。
一瞬遅れて、慌てて防犯ブザーのボタンを押す。
するとけたたましい音が鳴り響いた。防犯ブザーの存在をすっかり忘れていた。
「紐とかなんかねえか」
男に言われ、伊摘は雑誌の付録を紐がけする白いビニール紐をレジの下から出した。
強盗は「くそっ、離せ!」と抵抗するが、男はびくともしない。
男は抵抗する強盗を容易く床に押さえこむと、落ちた包丁を靴で蹴って手の届かない場所へと飛ばし、慣れた手つきで後ろ手に縛り上げる。
伊摘は、それでもはらはらしながら強盗と男を見つめる。
男は膝についた汚れを軽く払うと伊摘の目の前に立った。
「俺は警察に世話になるわけにはいかねえから、お前が捕まえたことにしろ」
言われた言葉があまりぴんとこなかったが、とりあえず伊摘は助けてくれたことに対しお礼を述べた。
「あ、ありがとう……ございます……」
すると男は目を数回瞬かせて、伊摘を見下ろした。
「まあ……礼を言われるのも悪くはねえわな」
照れたように呟くと、男は悠然と店を出て行った。
後に残された伊摘は、強盗のことなど忘れ、あんな人もいるんだなあ、とヒーローのように颯爽と去っていった男に、憧れめいた視線を向けてしまった。
一時は営業を停止して、警察の実況見分が行われていたが、それもなくなり、営業を再開し、またいつもの日常が戻ってきた。
変わったのは、深夜のシフトが二人になったことと、伊摘がちょっとしたヒーローになったことくらいだ。
強盗に入られても、金も取られず、しかも縄にかけた、というのだから、到着した警察官も伊摘の優しげな顔を見て驚いた。
そこで伊摘は包み隠さず、見ず知らずの人が助けてくれた、と正直に話したのだが、それでも伊摘にはヒーローのレッテルが貼られてしまった。
一ヶ月もすれば強盗に入られたことなど忘れるだろう、そんなことを考えていたとき、伊摘を助けてくれた男が深夜ふらりとコンビニを訪れた。
繁華街とは違い夜にはあまり人通りの少ない場所にあるので、来店も少なく暇を持て余してハタキをかけていた伊摘は来店を告げるオートドアの音に「いらしゃいませ」と声をかけて、あっと驚きの声をあげる。
すぐにあの彼だと気づいた伊摘は駆け寄り、この間の礼を再度言って深く頭を下げた。
彼はかなり面食らって「まあ……怪我もなく、よかったな」と言って、レジにいるもう一人の店員を見る。
「今まで深夜のシフトが一人だったのが、この間の事件からもう一人入りました」
彼がもう一人店員がいたことをほっとしたように見たので、つい伊摘も言わなくてもいいことまで話してしまった。
「よかったじゃねえか。お前はどう見ても度胸なさそうだし、すぐ殺されそうだ」
気さくな感じで話す彼を伊摘はかなり目線をあげて見つめる。
あの時は緊迫した場で彼の身長が見上げるほど高いこともたいして感じなかったが、今見ると本当に身長が高くしかも逞しい。
なにかスポーツをやっている人なのだろうか。
「あはは……多分、あなたがいなかったら俺なんて……あっ、俺、水江伊摘と言います。あなたは?」
屈託なく笑顔で話す伊摘に、彼は戸惑いながら「俺の名前なんて知らないほうがいいぞ」とどこか複雑な表情で告げる。
それでも伊摘が訊くと渋々「佐光貴昭」と名前を教えてもらった。
それからだ、まるで巡回する警察官並みに深夜頻繁に彼が訪れるようになったのは。
彼が来るとなぜかほっと安心してしまうのは、あのときの記憶に刷りこまれたせいなのか、親鳥の後を歩くヒヨコ並みに伊摘は彼に懐いていった。
年が一つだけ上だとわかったせいかもしれない。
深夜のシフトのもう一人の男は、びびって彼に声もかけなかったが。
それに彼の正体を知っていた。
「水江、いつも来るあの背の高いやたら目の鋭い男。あれ、ヤクザだぞ。お前よく普通に話せるな」
そんなことを言われても、伊摘は怯えもしなかった。
それで強盗を捕まえたとき、警察の世話になるわけにはいかない、と言った意味がわかり、少し驚いたが。
「へえ」
伊摘にとって、彼の職業など興味はない。いつだって、彼は伊摘の中ではヒーローだった。
「へえってお前知らなかったのかよ。つーか、あの体格とかツラ見ればわかるだろうよ、ヤクザだって。あいつの父親はヤクザの組長やってるんだぜ? しかも手のつけられないかなりのワルだ。暴力振るうことなんてなんとも思っちゃいねえ。かかわらないほうがいいぞ」
せっかくの忠告も伊摘は曖昧に頷いて聞き流した。
頭ではもう違うことを考えていた。
深夜にふらりと現れるとき、警察官とよく鉢合わせしなかったなあとか、その辺のところは大丈夫なんだろうか、とか急に心配になったのだ。
他人がどう言おうと、伊摘は聞くつもりはなかった。
ある日、深夜に来る彼が珍しく伊摘のシフトが終りそうな朝七時五分前、という時間に現れた。
彼は伊摘のシフトの終る時間を知っている。その上でこの時間に来たのだから、もしかして……とそわそわしていると「一緒にメシでも食いに行くか?」と誘われた。伊摘は嬉しくて大きく二度頷いた。
彼と会話をするのはいつも店内だけ、という関係にじれったさを感じていた伊摘は、外で一緒に食事をとるという大きな進展に胸を躍らせ、素早くタイムカードを押し、着替えて外に出た。
二十四時間営業のファミレスに入り、モーニングセットを食べながら「こんな時間に現れたのって、佐光さんは仕事の帰り?」と訊くと「いい加減、佐光さんってのはやめろ、貴昭でいい」と彼は眉を顰めて煙草を吹かす。
言葉に甘え名前を呼び捨てすることにして「じゃあ……貴昭はもしかして俺を誘いたくてこんな時間に来た?」と思い切ってストレートに訊くと、彼……貴昭は目を丸くして一瞬呆気に取られた顔をしていたが、次には大笑いした。
「お前はほんと、いいな。その正直で大胆なところ。ああ、伊摘を誘いたくてこんな時間に起きてきた。ついでに訊くけどよ、伊摘、お前今付き合ってる奴とかいるのか?」
その質問に、伊摘は一瞬フォークを止める。
それが貴昭になんの関係があるのか、と思う反面、貴昭がこの先に言おうとしている言葉がなんとなく想像できることもあり、伊摘は慎重に答えた。
「いないけど?」
「そうか……」
貴昭は眩しげに笑うと、伊摘の口の端についた米粒を指先で取ると、自分の口へと持っていった。
貴昭はそれきり何も言わず、紫煙をくゆらせて伊摘の食べている姿を見つめる。
半ばがっかりした気持ちで、伊摘は貴昭が米粒を取ってくれた場所を舌でぺろりと舐めた。
そんな伊摘の姿を苦笑しながら、貴昭は静かに口を開いた。
「お前俺のことどう思う」
「どう思うって?」
「俺がヤクザだって知ってんだろ?」
「うん」
「にしちゃお前は怖がらねえよな」
「貴昭は怖くないよ」
「強盗は怖くても俺は怖くないって? タチの悪さから比べたら強盗なんて比じゃねえぞ」
煙草の灰を落とすとゆっくりとコーヒーを飲み、再び唇に銜えて喋る姿に、年相当の浮ついた感じはない。
十九歳には見えない大人びた雰囲気に、つい伊摘は羨望の眼差しを向けていた。
「でも貴昭は俺に包丁突きつけることしないじゃん」
「お前……随分極論に走ったな。お前にはしなくても、他の奴らにはしてるかもしれねえ」
それは安易に想像できた。暴力沙汰も何度も起こしていると有名らしいから、それは間違いないのだろう。
けれど、自分には優しさだけを向ける貴昭が、暴力を振るうことはないと伊摘にはわかっていた。
「貴昭は俺には優しい。その意味を信じてる」
伊摘がにっこりと笑って言うと、貴昭は絶句し、苦しい表情で言った。
「お前ぐらいだ、そんなこと言うのは」
貴昭はため息をついて煙草をねじ消し、不思議なものを見るような目で伊摘を見る。
「伊摘、俺はお前を地獄に落とすかもしれねえ。けど、やっぱりお前が欲しい」
「……貴昭」
伊摘は、唾を飲みこみ、貴昭の真摯な顔を見つめる。
「俺と付き合え」
どこに、だなんて言わない。貴昭は伊摘に恋人になれと言ったのだ。
伊摘はやっと欲しい言葉を言われて、満面の笑みで大きく頷いた。
すると、どうしたことか、貴昭は呆れた顔で伊摘の額を指でぴんと弾いた。
「痛い……」
額を押さえて、下から貴昭の表情を窺う。
「……拍子抜けした。なんで簡単に頷くんだ」
まるで頷かなかったほうがいいようないい草に、伊摘はわけがわからない。
「言ったのはそっち」
「そりゃそうだけど……躊躇いとか、なんかねえのかよ。俺はヤクザだぞ。それ以前に男だ。もしかして……お前、男と寝たことがあるのか?」
最後は凄んだ貴昭に、伊摘はきっぱりと首を横に振る。
「ないけど、それを言うなら貴昭だって」
貴昭は目元を少し赤らめて吐露した。
「お前といると、ほっとする。こんなこと感じた奴はお前しかいねえ」
「俺だってそうだ」
伊摘の思いは、男だからとか、ヤクザだからとか、そういう次元からとっくに飛び出していた。
恋しないほうがおかしい。
「本当は、こんなこと言ったら絶対にお前は逃げると思った。嫌われると思った」
伊摘は嬉しさに頬を緩ませながら「嫌うわけないじゃん」と得意げに言うと、貴昭はむっとした顔をして伊摘の小さな鼻を摘む。
「早く食っちまえよ。こんないい天気なんだし、どっか遊びにいこうぜ」
「やった」
伊摘は急いで食事を平らげた。
伊摘が食事を終えるなり、貴昭がレシートを掴み、レジに向かう際「ああ、そうだ」と振り向いた。
「伊摘、深夜のバイトは辞めろ。俺はいつ何時お前が襲われるか気が気じゃねえ。いつもタイミングよく俺がいるなんて限んねえからな」
ヒーローの言うことに間違いはない。伊摘は「わかった」と素直に頷いた。
付き合ったその日から貴昭の住んでいるマンションを教えられ、仕事が終るなり、いつもそこへと帰っていくようになった。
入り浸る、というより、一緒に暮らしている、という感じに近い。
伊摘は深夜のアルバイトを辞め、日中のアルバイトをしている。
伊摘が帰る時間には貴昭はいないことの方が多かったが、必ず彼が帰ってくることを知っているからそれまで帰宅を待ち、二人で夕食を一緒に食べ、お風呂に入り、ベッドで一緒に眠る。
毎日が楽しかった。
貴昭はいつも優しく、伊摘を笑わせてくれる。
貴昭も伊摘と一緒にいるときは、笑ってばかりいる。
幸せだった。好きな人と一緒にいるということが、これほど胸を満たしてくれるとは思わなかった。今まで感じたことがなかった。
不満はない。いや……不満と言えるほど大きなものではなかったが、そんなものは些細なことだった。
貴昭が伊摘に一切触れないことなど……。
キスはする。それも掠めるような、そっと唇を合わすだけの優しい口づけを。
ただ一緒に風呂に入ってもベッドで眠っても肉体の触れ合いは一切なかった。
やはり男に欲望を感じないのだろうか、と思ったのは、伊摘もそれに対して、あまり深く考えなかったせいだ。伊摘自身淡白だったこともある。
ところが、貴昭が女性の匂いをつけて帰ってくることに気づいてから、複雑な心境を抱くようになった。
貴昭に対し、ぎくしゃくすることはなかったが、男同士の恋愛なんてそういうものなんだな、と悟り、少しへこんだ。
伊摘は好きな人がいる今、他の人に対して性欲が向くことはないが、貴昭は違うのだと思い知った。
肉体的とは違う精神的なものを伊摘に求めているとわかっているから別にいい、と諦めているが、女性の匂いをつけて帰ってくる貴昭に、どんなふうに女性を抱くのだろうか、とふとしたことに頭を過ぎる。
そんなことを考えると、淡白だった伊摘が、まるで発情したように頻繁に性欲を感じ勃起するようになった。
貴昭に抱かれたい。だが、そんなことは言えない。
セックスすることはない貴昭との関係を、今更無理を言って求めることはできないと、他の人に目が向くはずのなかった伊摘が、貴昭もしているから自分もいいだろうという気楽さで女性と関係を持った。
溜まったものを出すだけという、感情を伴わない後腐れないセックス。
体はすっきりしたものの、心は妙に沈んだまま、貴昭と暮らすマンションに戻り、夕飯何を作ろうかと冷蔵庫の中を見て考えていた伊摘に、事件は起った。
いつも遅くに帰ってくるはずの貴昭がもう帰ってきたのだ。
それも恐ろしい見たこともない形相で。
愛しい人を迎える伊摘の声も、貴昭の表情を見るなり「おかえりな……」と声が驚きのあまり途切れる。
「お前、今日なにをした?」
貴昭が伊摘の目の前に立つその姿は仁王像のようで、憤怒で顔が赤く染まっていた。
「え? 何ってバイト行ってただけじゃん」
「しらばっくれんな。その後だ」
貴昭には何人もの側近の男がいる。たまに伊摘一人でいるときになぜか側近がついてくることはあったのだが、伊摘は知らないふりをしていた。
アルバイトが終った後も誰かがついてきていて、女性と一緒にホテルに行った場を見られ、貴昭に報告したのだろうか。
「あー……ちょっとムラムラしてたから」
なんでもないことのように話した伊摘に、貴昭は手を上げた。
頬を平手で叩かれ、伊摘は軽く吹き飛んだ。
「なっ……」
まさか叩かれるとは思ってもみず、伊摘はひりひりする頬を押さえて呆然と貴昭を見上げる。
唇が切れ、口の中に血の味が広がった。
「お前、んなことしていいと思ってんのか!? ああ!? それとも……その女のことが好きなのか? 俺のこと好きじゃなくなったのか?」
吹き飛んで頭でもぶつけたのか、うまく思考が回らない。
「なに言って……ただ溜まってただけだから処理してきただけじゃん」
言った瞬間、もう片方の頬も叩かれた。
「痛ってー……なんで殴るんだよ……」
あまりの痛さに涙がこぼれる。
すると貴昭はひどく動揺しておろおろしていたが、急に気弱になって言った。
「俺のことが嫌になったんだろ? 女のほうがいいって……」
「俺は……貴昭が好きだ。女性とはセックスだけの関係だ。心はない」
きっぱりと告げた伊摘に、惑う貴昭の瞳が大きく揺れる。
「なんでんなこと……」
「俺にも性欲はあるって。ムラムラしてたって言ったろ? ちょっと自分の手以外のもので出したいなって思ったの。痛って……」
痛くてうまく喋れない。
貴昭は何かを悟ったように、目を見開いた。
「俺か……俺のせいか……。俺が他の奴と寝てることをお前は……」
「気づくよ。あれだけプンプン香水の匂いをさせていれば。……俺はプラトニックな恋愛でも全然構わない。貴昭は俺に欲望を感じてないんだろ? 別にそれでもいいんだ。側にいられるなら」
伊摘は立ち上がると、水で口を注ぐ。冷たい水が傷口に染みて思わす顔を顰める。
口から出した水は真っ赤に染まっていた。
「違う!」
貴昭は伊摘に詰め寄り肩を掴んだ。
「いんだ。俺は俺で処理するし。お互い様だ」
「許さねえ。お前が女を抱くなんて許さねえ!」
あまりにも身勝手な物言いに伊摘は呆れる。
「貴昭は自分勝手だ。自分で女を抱くのはよくて俺は許さないってそれはないじゃん」
「違う……俺はお前を抱くのが怖くて……」
「え?」
伊摘を見つめる貴昭の瞳は恐怖心があった。
「抱きたくて気が狂いそうだった。けど、俺のセックスは並じゃねんだ。伊摘を犯し殺してしまう」
「……それでかわりに他の人を?」
伊摘がもっと傷つくとは思わなかったのだろうか。
「仕方ねえだろ。俺は伊摘を抱いたら三日三晩離さねえぞ。それどころか、はめっぱなしで、失神しても突き続けるだろうよ」
伊摘はごくりと生唾を飲みこんだ。
想像してしまい、欲望に目を潤ませ、体が疼く。
さきほど処理したばかりなのに、下半身は甘く戦慄き、勃起していた。
誘うように伊摘は貴昭に抱きついた。
「してみたい」
貴昭は伊摘を抱きしめることはせず、手を触れないように必死になっている。
「俺の理性を失わせることを言うんじゃねえ」
「貴昭のセックスじゃ俺を殺せないよ。だって、貴昭はきっと俺のことを思って加減する。優しいもん。……殴られたけど……」
そこでやっと貴昭はおずおずと伊摘を抱きしめ頬を優しく擦った。
「悪い……悪かった。痛かっただろ? 俺はこういう男なんだよ。嫉妬で怒り狂って何をするかわからねえ。好きすぎてどうしようもなくなる」
伊摘はつま先立ちで貴昭の頭を引き寄せ、キスをする。
触れるようなキスでは足りなくて、大胆に舌を絡ませた。
「やめろ……抱くぞ」
「いいよ」
「よくねえ。どんだけ我慢してたか……」
「しなくていい」
貴昭の体によじ登るように足を絡ませて、膨らんだ股間を同じように膨らんだ貴昭のものに押しつける。
「ちきしょう……」
貴昭は伊摘を抱き上げると、そのまま寝室へと向かった。
ベッドに縺れるように横たわり、キスをしながら服を脱ぎ、体をまさぐりあう。
性急で荒っぽい貴昭の行動は、伊摘を夢中にさせた。
そして、貴昭と伊摘は一体となった。
体が捩れるような激しい痛みはあったが、それでも貴昭は決して無理をせず、優しく、壊れ物でも扱うように伊摘を抱いた。
嬉しくてぽろぽろと涙をこぼす伊摘に勘違いして、途中で行為をやめてしまうほど、貴昭は伊摘に気を配ったのだ。
失神するように眠りに落ちる間際、貴昭は言った。
「俺は女たちと別れる。金輪際お前しか抱かねえ。だからお前も女と別れろ」
まどろみに引きずり込まれそうになりながら、伊摘は頷く。
その表情は幸せそのもので、貴昭に抱かれたことがどれほど伊摘に幸福をもたらしたのか物語っていた。
「わかった」
「絶対だぞ。もし女と別れなかったら……そいつをぶっ殺しに行くからな」
「……うん」
伊摘は目を閉じた。
愛しい男の、汗ばんだ肌をしっかりと抱きしめながら。
それからというもの、伊摘と貴昭の関係は一層親密になった。
部屋に一緒にいるときは常に相手のどこかに触れている状態で、心境としては『離れたくない』という思いが常にあった。
貴昭は女の匂いを纏って帰ることもなくなり、伊摘は女と別れ、毎日貴昭に抱かれるようになった。
貴昭の性欲は本当に激しい。
夜しても、朝起きると再び挑まれる。それでも足りないときがある。それが毎日なのだ。
迷惑だと思ったことは一度もなく、伊摘は従順に足を開き、貴昭を受け止めた。
甘い睦言を囁き「愛してる」と繰り返す貴昭が、ただただ愛しかった。
貴昭を愛してる。
心底愛してる。
想いは常に心の底からわきあがり、口に出しても出し切れない。
幸せすぎて怖いほどだった。
だが、その幸せも長くは続かなかった。
貴昭が撃たれたのだ。伊摘の目の前で。
救急車で運ばれていくのを見ているしかない伊摘は、毎晩毎晩神に祈った。どうか、彼を連れていかないでくださいと。
伊摘は突きつけられた包丁に震え上がった。
深夜のコンビニでバイトしている伊摘が、まさかテレビで見るような強盗に遭うとは思ってもみなかった。
高校を卒業後、進学も就職もせずにアルバイトで小遣いを稼ぐ程度に気楽さを満喫しながら働いている伊摘はまだ十八歳。
強盗に遭ったからといって、どうすればいいのか経験も知識もない。
店長から教わったような気もしたが、蛍光色の塗料が入ったボールを投げつけることだけしか頭に入ってない伊摘は、震え気絶しそうになっていた。
ボールは人目のつかない隅に押しやられるかのように、埃をかぶり、伊摘の手の届かない場所にある。
素早くボールを取り、目の前の強盗に投げつけても、それは身を守ることになるのだろうか。
ならないだろう。護身用のグッズではないのだから、逆に激昂されて、切りつけられる可能性が高い。
深夜のシフトは防犯のため二人体制が原則なのだが、人件費削減のため、伊摘一人の勤務だ。助けを呼ぼうにも誰もいない。
伊摘は恐怖で動けないまま、ただ立ち尽くした。
目出し帽を被り、全身黒っぽい服装の声からして男の強盗は、苛々したように、さらにナイフを突き出した。
「金だ、金」
伊摘が震える指先で両替キーを押そうとしたとき、いきなり目の前に影が差し暗くなった。
「おい」
驚いて目をあげれば、体格のいい大きな男が、包丁を握った強盗の手を掴んでいた。
「誰だか知らねえが、こんなところで小せえ強盗なんかしてんじゃねえよ」
男はいとも容易く、強盗の腕を後ろに捻りあげた。
「痛い痛い痛い!」
「おい、お前、ぼさっとするな。防犯のボタンとかなんかあるだろ」
男はまるでなんでもないように冷静な声で言ったので、伊摘は呆けたように見上げてしまっていた。
一瞬遅れて、慌てて防犯ブザーのボタンを押す。
するとけたたましい音が鳴り響いた。防犯ブザーの存在をすっかり忘れていた。
「紐とかなんかねえか」
男に言われ、伊摘は雑誌の付録を紐がけする白いビニール紐をレジの下から出した。
強盗は「くそっ、離せ!」と抵抗するが、男はびくともしない。
男は抵抗する強盗を容易く床に押さえこむと、落ちた包丁を靴で蹴って手の届かない場所へと飛ばし、慣れた手つきで後ろ手に縛り上げる。
伊摘は、それでもはらはらしながら強盗と男を見つめる。
男は膝についた汚れを軽く払うと伊摘の目の前に立った。
「俺は警察に世話になるわけにはいかねえから、お前が捕まえたことにしろ」
言われた言葉があまりぴんとこなかったが、とりあえず伊摘は助けてくれたことに対しお礼を述べた。
「あ、ありがとう……ございます……」
すると男は目を数回瞬かせて、伊摘を見下ろした。
「まあ……礼を言われるのも悪くはねえわな」
照れたように呟くと、男は悠然と店を出て行った。
後に残された伊摘は、強盗のことなど忘れ、あんな人もいるんだなあ、とヒーローのように颯爽と去っていった男に、憧れめいた視線を向けてしまった。
一時は営業を停止して、警察の実況見分が行われていたが、それもなくなり、営業を再開し、またいつもの日常が戻ってきた。
変わったのは、深夜のシフトが二人になったことと、伊摘がちょっとしたヒーローになったことくらいだ。
強盗に入られても、金も取られず、しかも縄にかけた、というのだから、到着した警察官も伊摘の優しげな顔を見て驚いた。
そこで伊摘は包み隠さず、見ず知らずの人が助けてくれた、と正直に話したのだが、それでも伊摘にはヒーローのレッテルが貼られてしまった。
一ヶ月もすれば強盗に入られたことなど忘れるだろう、そんなことを考えていたとき、伊摘を助けてくれた男が深夜ふらりとコンビニを訪れた。
繁華街とは違い夜にはあまり人通りの少ない場所にあるので、来店も少なく暇を持て余してハタキをかけていた伊摘は来店を告げるオートドアの音に「いらしゃいませ」と声をかけて、あっと驚きの声をあげる。
すぐにあの彼だと気づいた伊摘は駆け寄り、この間の礼を再度言って深く頭を下げた。
彼はかなり面食らって「まあ……怪我もなく、よかったな」と言って、レジにいるもう一人の店員を見る。
「今まで深夜のシフトが一人だったのが、この間の事件からもう一人入りました」
彼がもう一人店員がいたことをほっとしたように見たので、つい伊摘も言わなくてもいいことまで話してしまった。
「よかったじゃねえか。お前はどう見ても度胸なさそうだし、すぐ殺されそうだ」
気さくな感じで話す彼を伊摘はかなり目線をあげて見つめる。
あの時は緊迫した場で彼の身長が見上げるほど高いこともたいして感じなかったが、今見ると本当に身長が高くしかも逞しい。
なにかスポーツをやっている人なのだろうか。
「あはは……多分、あなたがいなかったら俺なんて……あっ、俺、水江伊摘と言います。あなたは?」
屈託なく笑顔で話す伊摘に、彼は戸惑いながら「俺の名前なんて知らないほうがいいぞ」とどこか複雑な表情で告げる。
それでも伊摘が訊くと渋々「佐光貴昭」と名前を教えてもらった。
それからだ、まるで巡回する警察官並みに深夜頻繁に彼が訪れるようになったのは。
彼が来るとなぜかほっと安心してしまうのは、あのときの記憶に刷りこまれたせいなのか、親鳥の後を歩くヒヨコ並みに伊摘は彼に懐いていった。
年が一つだけ上だとわかったせいかもしれない。
深夜のシフトのもう一人の男は、びびって彼に声もかけなかったが。
それに彼の正体を知っていた。
「水江、いつも来るあの背の高いやたら目の鋭い男。あれ、ヤクザだぞ。お前よく普通に話せるな」
そんなことを言われても、伊摘は怯えもしなかった。
それで強盗を捕まえたとき、警察の世話になるわけにはいかない、と言った意味がわかり、少し驚いたが。
「へえ」
伊摘にとって、彼の職業など興味はない。いつだって、彼は伊摘の中ではヒーローだった。
「へえってお前知らなかったのかよ。つーか、あの体格とかツラ見ればわかるだろうよ、ヤクザだって。あいつの父親はヤクザの組長やってるんだぜ? しかも手のつけられないかなりのワルだ。暴力振るうことなんてなんとも思っちゃいねえ。かかわらないほうがいいぞ」
せっかくの忠告も伊摘は曖昧に頷いて聞き流した。
頭ではもう違うことを考えていた。
深夜にふらりと現れるとき、警察官とよく鉢合わせしなかったなあとか、その辺のところは大丈夫なんだろうか、とか急に心配になったのだ。
他人がどう言おうと、伊摘は聞くつもりはなかった。
ある日、深夜に来る彼が珍しく伊摘のシフトが終りそうな朝七時五分前、という時間に現れた。
彼は伊摘のシフトの終る時間を知っている。その上でこの時間に来たのだから、もしかして……とそわそわしていると「一緒にメシでも食いに行くか?」と誘われた。伊摘は嬉しくて大きく二度頷いた。
彼と会話をするのはいつも店内だけ、という関係にじれったさを感じていた伊摘は、外で一緒に食事をとるという大きな進展に胸を躍らせ、素早くタイムカードを押し、着替えて外に出た。
二十四時間営業のファミレスに入り、モーニングセットを食べながら「こんな時間に現れたのって、佐光さんは仕事の帰り?」と訊くと「いい加減、佐光さんってのはやめろ、貴昭でいい」と彼は眉を顰めて煙草を吹かす。
言葉に甘え名前を呼び捨てすることにして「じゃあ……貴昭はもしかして俺を誘いたくてこんな時間に来た?」と思い切ってストレートに訊くと、彼……貴昭は目を丸くして一瞬呆気に取られた顔をしていたが、次には大笑いした。
「お前はほんと、いいな。その正直で大胆なところ。ああ、伊摘を誘いたくてこんな時間に起きてきた。ついでに訊くけどよ、伊摘、お前今付き合ってる奴とかいるのか?」
その質問に、伊摘は一瞬フォークを止める。
それが貴昭になんの関係があるのか、と思う反面、貴昭がこの先に言おうとしている言葉がなんとなく想像できることもあり、伊摘は慎重に答えた。
「いないけど?」
「そうか……」
貴昭は眩しげに笑うと、伊摘の口の端についた米粒を指先で取ると、自分の口へと持っていった。
貴昭はそれきり何も言わず、紫煙をくゆらせて伊摘の食べている姿を見つめる。
半ばがっかりした気持ちで、伊摘は貴昭が米粒を取ってくれた場所を舌でぺろりと舐めた。
そんな伊摘の姿を苦笑しながら、貴昭は静かに口を開いた。
「お前俺のことどう思う」
「どう思うって?」
「俺がヤクザだって知ってんだろ?」
「うん」
「にしちゃお前は怖がらねえよな」
「貴昭は怖くないよ」
「強盗は怖くても俺は怖くないって? タチの悪さから比べたら強盗なんて比じゃねえぞ」
煙草の灰を落とすとゆっくりとコーヒーを飲み、再び唇に銜えて喋る姿に、年相当の浮ついた感じはない。
十九歳には見えない大人びた雰囲気に、つい伊摘は羨望の眼差しを向けていた。
「でも貴昭は俺に包丁突きつけることしないじゃん」
「お前……随分極論に走ったな。お前にはしなくても、他の奴らにはしてるかもしれねえ」
それは安易に想像できた。暴力沙汰も何度も起こしていると有名らしいから、それは間違いないのだろう。
けれど、自分には優しさだけを向ける貴昭が、暴力を振るうことはないと伊摘にはわかっていた。
「貴昭は俺には優しい。その意味を信じてる」
伊摘がにっこりと笑って言うと、貴昭は絶句し、苦しい表情で言った。
「お前ぐらいだ、そんなこと言うのは」
貴昭はため息をついて煙草をねじ消し、不思議なものを見るような目で伊摘を見る。
「伊摘、俺はお前を地獄に落とすかもしれねえ。けど、やっぱりお前が欲しい」
「……貴昭」
伊摘は、唾を飲みこみ、貴昭の真摯な顔を見つめる。
「俺と付き合え」
どこに、だなんて言わない。貴昭は伊摘に恋人になれと言ったのだ。
伊摘はやっと欲しい言葉を言われて、満面の笑みで大きく頷いた。
すると、どうしたことか、貴昭は呆れた顔で伊摘の額を指でぴんと弾いた。
「痛い……」
額を押さえて、下から貴昭の表情を窺う。
「……拍子抜けした。なんで簡単に頷くんだ」
まるで頷かなかったほうがいいようないい草に、伊摘はわけがわからない。
「言ったのはそっち」
「そりゃそうだけど……躊躇いとか、なんかねえのかよ。俺はヤクザだぞ。それ以前に男だ。もしかして……お前、男と寝たことがあるのか?」
最後は凄んだ貴昭に、伊摘はきっぱりと首を横に振る。
「ないけど、それを言うなら貴昭だって」
貴昭は目元を少し赤らめて吐露した。
「お前といると、ほっとする。こんなこと感じた奴はお前しかいねえ」
「俺だってそうだ」
伊摘の思いは、男だからとか、ヤクザだからとか、そういう次元からとっくに飛び出していた。
恋しないほうがおかしい。
「本当は、こんなこと言ったら絶対にお前は逃げると思った。嫌われると思った」
伊摘は嬉しさに頬を緩ませながら「嫌うわけないじゃん」と得意げに言うと、貴昭はむっとした顔をして伊摘の小さな鼻を摘む。
「早く食っちまえよ。こんないい天気なんだし、どっか遊びにいこうぜ」
「やった」
伊摘は急いで食事を平らげた。
伊摘が食事を終えるなり、貴昭がレシートを掴み、レジに向かう際「ああ、そうだ」と振り向いた。
「伊摘、深夜のバイトは辞めろ。俺はいつ何時お前が襲われるか気が気じゃねえ。いつもタイミングよく俺がいるなんて限んねえからな」
ヒーローの言うことに間違いはない。伊摘は「わかった」と素直に頷いた。
付き合ったその日から貴昭の住んでいるマンションを教えられ、仕事が終るなり、いつもそこへと帰っていくようになった。
入り浸る、というより、一緒に暮らしている、という感じに近い。
伊摘は深夜のアルバイトを辞め、日中のアルバイトをしている。
伊摘が帰る時間には貴昭はいないことの方が多かったが、必ず彼が帰ってくることを知っているからそれまで帰宅を待ち、二人で夕食を一緒に食べ、お風呂に入り、ベッドで一緒に眠る。
毎日が楽しかった。
貴昭はいつも優しく、伊摘を笑わせてくれる。
貴昭も伊摘と一緒にいるときは、笑ってばかりいる。
幸せだった。好きな人と一緒にいるということが、これほど胸を満たしてくれるとは思わなかった。今まで感じたことがなかった。
不満はない。いや……不満と言えるほど大きなものではなかったが、そんなものは些細なことだった。
貴昭が伊摘に一切触れないことなど……。
キスはする。それも掠めるような、そっと唇を合わすだけの優しい口づけを。
ただ一緒に風呂に入ってもベッドで眠っても肉体の触れ合いは一切なかった。
やはり男に欲望を感じないのだろうか、と思ったのは、伊摘もそれに対して、あまり深く考えなかったせいだ。伊摘自身淡白だったこともある。
ところが、貴昭が女性の匂いをつけて帰ってくることに気づいてから、複雑な心境を抱くようになった。
貴昭に対し、ぎくしゃくすることはなかったが、男同士の恋愛なんてそういうものなんだな、と悟り、少しへこんだ。
伊摘は好きな人がいる今、他の人に対して性欲が向くことはないが、貴昭は違うのだと思い知った。
肉体的とは違う精神的なものを伊摘に求めているとわかっているから別にいい、と諦めているが、女性の匂いをつけて帰ってくる貴昭に、どんなふうに女性を抱くのだろうか、とふとしたことに頭を過ぎる。
そんなことを考えると、淡白だった伊摘が、まるで発情したように頻繁に性欲を感じ勃起するようになった。
貴昭に抱かれたい。だが、そんなことは言えない。
セックスすることはない貴昭との関係を、今更無理を言って求めることはできないと、他の人に目が向くはずのなかった伊摘が、貴昭もしているから自分もいいだろうという気楽さで女性と関係を持った。
溜まったものを出すだけという、感情を伴わない後腐れないセックス。
体はすっきりしたものの、心は妙に沈んだまま、貴昭と暮らすマンションに戻り、夕飯何を作ろうかと冷蔵庫の中を見て考えていた伊摘に、事件は起った。
いつも遅くに帰ってくるはずの貴昭がもう帰ってきたのだ。
それも恐ろしい見たこともない形相で。
愛しい人を迎える伊摘の声も、貴昭の表情を見るなり「おかえりな……」と声が驚きのあまり途切れる。
「お前、今日なにをした?」
貴昭が伊摘の目の前に立つその姿は仁王像のようで、憤怒で顔が赤く染まっていた。
「え? 何ってバイト行ってただけじゃん」
「しらばっくれんな。その後だ」
貴昭には何人もの側近の男がいる。たまに伊摘一人でいるときになぜか側近がついてくることはあったのだが、伊摘は知らないふりをしていた。
アルバイトが終った後も誰かがついてきていて、女性と一緒にホテルに行った場を見られ、貴昭に報告したのだろうか。
「あー……ちょっとムラムラしてたから」
なんでもないことのように話した伊摘に、貴昭は手を上げた。
頬を平手で叩かれ、伊摘は軽く吹き飛んだ。
「なっ……」
まさか叩かれるとは思ってもみず、伊摘はひりひりする頬を押さえて呆然と貴昭を見上げる。
唇が切れ、口の中に血の味が広がった。
「お前、んなことしていいと思ってんのか!? ああ!? それとも……その女のことが好きなのか? 俺のこと好きじゃなくなったのか?」
吹き飛んで頭でもぶつけたのか、うまく思考が回らない。
「なに言って……ただ溜まってただけだから処理してきただけじゃん」
言った瞬間、もう片方の頬も叩かれた。
「痛ってー……なんで殴るんだよ……」
あまりの痛さに涙がこぼれる。
すると貴昭はひどく動揺しておろおろしていたが、急に気弱になって言った。
「俺のことが嫌になったんだろ? 女のほうがいいって……」
「俺は……貴昭が好きだ。女性とはセックスだけの関係だ。心はない」
きっぱりと告げた伊摘に、惑う貴昭の瞳が大きく揺れる。
「なんでんなこと……」
「俺にも性欲はあるって。ムラムラしてたって言ったろ? ちょっと自分の手以外のもので出したいなって思ったの。痛って……」
痛くてうまく喋れない。
貴昭は何かを悟ったように、目を見開いた。
「俺か……俺のせいか……。俺が他の奴と寝てることをお前は……」
「気づくよ。あれだけプンプン香水の匂いをさせていれば。……俺はプラトニックな恋愛でも全然構わない。貴昭は俺に欲望を感じてないんだろ? 別にそれでもいいんだ。側にいられるなら」
伊摘は立ち上がると、水で口を注ぐ。冷たい水が傷口に染みて思わす顔を顰める。
口から出した水は真っ赤に染まっていた。
「違う!」
貴昭は伊摘に詰め寄り肩を掴んだ。
「いんだ。俺は俺で処理するし。お互い様だ」
「許さねえ。お前が女を抱くなんて許さねえ!」
あまりにも身勝手な物言いに伊摘は呆れる。
「貴昭は自分勝手だ。自分で女を抱くのはよくて俺は許さないってそれはないじゃん」
「違う……俺はお前を抱くのが怖くて……」
「え?」
伊摘を見つめる貴昭の瞳は恐怖心があった。
「抱きたくて気が狂いそうだった。けど、俺のセックスは並じゃねんだ。伊摘を犯し殺してしまう」
「……それでかわりに他の人を?」
伊摘がもっと傷つくとは思わなかったのだろうか。
「仕方ねえだろ。俺は伊摘を抱いたら三日三晩離さねえぞ。それどころか、はめっぱなしで、失神しても突き続けるだろうよ」
伊摘はごくりと生唾を飲みこんだ。
想像してしまい、欲望に目を潤ませ、体が疼く。
さきほど処理したばかりなのに、下半身は甘く戦慄き、勃起していた。
誘うように伊摘は貴昭に抱きついた。
「してみたい」
貴昭は伊摘を抱きしめることはせず、手を触れないように必死になっている。
「俺の理性を失わせることを言うんじゃねえ」
「貴昭のセックスじゃ俺を殺せないよ。だって、貴昭はきっと俺のことを思って加減する。優しいもん。……殴られたけど……」
そこでやっと貴昭はおずおずと伊摘を抱きしめ頬を優しく擦った。
「悪い……悪かった。痛かっただろ? 俺はこういう男なんだよ。嫉妬で怒り狂って何をするかわからねえ。好きすぎてどうしようもなくなる」
伊摘はつま先立ちで貴昭の頭を引き寄せ、キスをする。
触れるようなキスでは足りなくて、大胆に舌を絡ませた。
「やめろ……抱くぞ」
「いいよ」
「よくねえ。どんだけ我慢してたか……」
「しなくていい」
貴昭の体によじ登るように足を絡ませて、膨らんだ股間を同じように膨らんだ貴昭のものに押しつける。
「ちきしょう……」
貴昭は伊摘を抱き上げると、そのまま寝室へと向かった。
ベッドに縺れるように横たわり、キスをしながら服を脱ぎ、体をまさぐりあう。
性急で荒っぽい貴昭の行動は、伊摘を夢中にさせた。
そして、貴昭と伊摘は一体となった。
体が捩れるような激しい痛みはあったが、それでも貴昭は決して無理をせず、優しく、壊れ物でも扱うように伊摘を抱いた。
嬉しくてぽろぽろと涙をこぼす伊摘に勘違いして、途中で行為をやめてしまうほど、貴昭は伊摘に気を配ったのだ。
失神するように眠りに落ちる間際、貴昭は言った。
「俺は女たちと別れる。金輪際お前しか抱かねえ。だからお前も女と別れろ」
まどろみに引きずり込まれそうになりながら、伊摘は頷く。
その表情は幸せそのもので、貴昭に抱かれたことがどれほど伊摘に幸福をもたらしたのか物語っていた。
「わかった」
「絶対だぞ。もし女と別れなかったら……そいつをぶっ殺しに行くからな」
「……うん」
伊摘は目を閉じた。
愛しい男の、汗ばんだ肌をしっかりと抱きしめながら。
それからというもの、伊摘と貴昭の関係は一層親密になった。
部屋に一緒にいるときは常に相手のどこかに触れている状態で、心境としては『離れたくない』という思いが常にあった。
貴昭は女の匂いを纏って帰ることもなくなり、伊摘は女と別れ、毎日貴昭に抱かれるようになった。
貴昭の性欲は本当に激しい。
夜しても、朝起きると再び挑まれる。それでも足りないときがある。それが毎日なのだ。
迷惑だと思ったことは一度もなく、伊摘は従順に足を開き、貴昭を受け止めた。
甘い睦言を囁き「愛してる」と繰り返す貴昭が、ただただ愛しかった。
貴昭を愛してる。
心底愛してる。
想いは常に心の底からわきあがり、口に出しても出し切れない。
幸せすぎて怖いほどだった。
だが、その幸せも長くは続かなかった。
貴昭が撃たれたのだ。伊摘の目の前で。
救急車で運ばれていくのを見ているしかない伊摘は、毎晩毎晩神に祈った。どうか、彼を連れていかないでくださいと。
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