不倫され妻の復讐は溺愛 冷徹なあなたに溺れて幸せになります

雫石 しま

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辻崎宗介

シンデレラ

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 宗介は大理石のフロアを果林を抱き抱えて横切った。その姿に女性社員は羨望の眼差しを向け、男性社員は驚きの声を上げた。

「そ、宗介さん」
「大丈夫か、だいぶ腫れているな」

 果林は我に帰り右頬に触れると激しい痛みを感じ口角には鉄の様な味がした。宗介は社員用エレベーターホールで果林を床に降ろすとカードをかざし上階へのボタンを押した。

「さぁ、乗って」
「店は、もう来ないってどういう事ですか」
「君は解雇だ」
「ええっ!か、解雇ですか」
「君はchez tsujisakiしぇ つじさきを辞める」

 あぁ、騒動を起こした張本人という事で処分を受けるのだろう、このエレベーターに乗って4階の総務課のカウンターで退職届を書かされるのかと果林は青ざめた。ところがエレベーターは4階を通過し6階、7階と上昇している。7階は最上階で屋上庭園が広がっている筈だ。

(ーーーえ、どういう事?)

 そこで果林は宗介が一枚のカードを階層ボタンの下に翳していた事を思い出した。数字の無い階層を通過し不安気にしている果林に気付いた宗介は黒い階層ボタンを指差した。

「8階は秘書のフロア
「はぁ」

「9階は本部長クラスのフロア」
「はぁ、本部長」

「10回は常務取締役クラスのフロア」
「そうですか」

「11階は私のフロア」
「そ、宗介さんのーーフロア」
「そうです」

「12階は父のフロア」
「ち、父とは父の父で社長さんですか」
「そうなりますね」

「宗介さん、偉い人だったんですね」
「黙っていてごめんなさい」
「社員証を持っていらっしゃらなかったので不思議でした」
「私たちは基本付けませんから」
「そうですねーーーって!」

 どう考えても12階は通り過ぎている。

「宗介さん、い、今何階ですか!」
「16階」

ぽーーーん

 こぢんまりとした白い大理石のエントランス、両窓の眼下には縮尺した金沢の街並みが何処までも広がり遥か彼方に内灘町の風力発電の風車と日本海が見えた。

(ーーーなんじゃこりゃ)

 宗介がキーカードをマホガニーの扉に翳すとカチッと軽い音がした。

「さあどうぞ」
「あ、はい」

 目の前には重厚で落ち着いた色合いのフローリング、白い壁の廊下が続き、その奥には幅広の窓から柔らかな陽射しが降り注いでいた。

「あ、靴はそこで脱いで」
「はい」

 果林の薄汚れたスニーカーが赤茶の革靴の隣に並んだ。

(ーーーうっ、この貧乏臭さよ)

 果林の視点は定まらず落ち着かなかった。

「それで、ここはもしかして」
「私の部屋です」

 宗介は真顔でキッパリと言い切った。

「私の部屋とはご自宅ですか」
「はい、住んでいます」
「私は今、宗介さんのご自宅にお邪魔しているんですか?」
「はい」

 離婚したとはいえ、いきなり一人暮らし(多分)の男性の部屋に上がり込むなど言語道断。果林は踵を返して玄関へと向かった。

「お、お邪魔しました!失礼します!」
「無駄ですよ」
「はへ?」

 振り返ると腕組みをしてカードキーをひらつかせている宗介が居た。これまでの宗介はどこへ、といった具合でニヤニヤと笑っている。

「果林さん、このカードキーが無ければ外にも出られませんしエレベーターにも乗れませんよ?」
「え、えええ」


「まず」
「まず、なんでしょうか」

 果林は唾を呑んだ。まさかこの様な事態に陥るとは思っていなかったので下着は綿のパンツだ。

(なんでパンツ脱ぐ前提なのよーーーー!)

 冷静になれと何度も脳内で繰り返した。上流階級者が自分のような見窄らしい女に触手が動く筈は無い。

(いや、変な趣味の人なのかもーーーー!)

 迫って来る気配に果林は思わず目を瞑ったが、そこには頭の天辺で匂いを嗅ぐ宗介がいた。

(に、匂いフェチーーー!)
「臭いですね」
「ーーーあっ、バックヤードで転がり回ったから汚れたのかもしれません」

 それを聞いた宗介の眉間に皺が寄り果林の目の前に手が差し出された。

「なっ、なんでしょうか」
「忘れていました、ボイスレコーダーをお預かりします」
「そうでしたお借りしたままでした。でもあれはなんの為に録音したんでしょうか」
「証拠です」
「証拠、ですか」
「ぶっ潰す」
「は?」
「いえ、なんでもありません」

 和かに微笑む宗介だがこと和寿が関わる出来事には物騒な発言が散見された。

(ぶ、ぶっ潰すって言ったよね?)

 ボイスレコーダーをデスクの引き出しに片付けると固定電話の受話器を持ち上げた。電話番号を押していないところを見ると直通電話なのだろう。

「車を回してくれ、今から降りる」
(何処かに行くーーーか、解放されるのかな!?)
「果林さん、旧姓は」
羽柴はしば、羽柴果林です」
「良い名前ですね、でももっと良い名前もありますよ」
「はい?」

 宗介はカードキーを扉に翳すと振り向いて微笑んだ。

「まずはご両親にご挨拶に参りましょうか」
「りょ、両親ですか」
「離婚された事ですしそのご報告と、果林さんはこれからにお住まいになられるのですからお伝えしておきましょう」
「ここ、ここ?」
「部屋は秘書に、女性視点で揃えましたが足りないものがあったら遠慮なく仰って下さい」
「どういう事でしょうか」
 
 エレベーターの下降ボタンを押す横顔は上機嫌だ。

「そういう事です」
「そういう事ってどういう事ですかーー!」

 果林は有無を言わさずTOYOTAクラウンの後部座席に押し込まれた。
 

 羽柴の両親は宗介の身なりに驚き、手渡された名刺に腰を抜かした。

「つ、辻崎、辻崎の副社長さんが」
「はい、お初にお目に掛かります。辻崎宗介と申します」

 父親は縮こまり茶托を差し出す母親の指先は震えた。

(おおーーーい)

 宗介の登場で果林の離婚云々は吹っ飛び「離婚したの」「あ、そうか」
遣り取りはそれだけで終わってしまった。

「ーーーという事で果林さんには我が社の新しいプロジェクトに加わって頂きます。をご用意致しましたのでそちらに入居して頂きたいのですが、ご了承頂けますでしょうか」

 父親は住まいを無くした娘の渡りに船とばかりに二つ返事で頷いた。

(ちょちょ、ちょっーーーーお父さーん!)

 果林はカードキーが無ければ出入り不可の、社宅に入居する事が決まった。

「では失礼致します」
「お父さん、お母さんちょっと!」
「元気でな」
「副社長さんに可愛がって貰いなさいよ」

 それはもういつの時代かは不明だが奉公に出される娘の気分で果林は有無を言わさずTOYOTAクラウンの後部座席に押し込まれた。

「では果林さん」

 果林はもう諦めの境地で宗介の顔を見た。

「なんでしょうか」
「木古内の家に取りに行く物があるでしょう、今から行きますね」
「あ、保険証書と年金手帳と着替えと」

「着替えは不要です」
「不要、とは」
「あいつの家の臭いは捨てて下さい」
「あいつ、とは」
「木古内和寿です」

 着替えをどうしろというのだと困惑していると買い物に行きましょうと言い出した。金など持ち合わせていないと手を振ると宗介は見た事のないクレジットカードを取り出して見せた。

から何から何まで買いましょう」
(下着の事しか言ってない)

 木古内の家から必要な書類と思い出の品を段ボールに詰めると運転手がトランクまで運んでくれた。果林はこの家のスペアキーを郵便受けに入れて深々とお辞儀をし、別れを告げたところで有無を言わさずTOYOTAクラウンの後部座席に押し込まれた。

 果林は金沢駅構内のファションエリアに連れて行かれから何から何まで買い物に付き合わされた。もう買わなくても良いと言っても普段着も必要だ、室内着もいるだろう、特に下着にはこだわりがあるらしく「採寸して頂きましょう」と店員にメジャーを持たせた。

「宗介さん、ランジェリーショップとか恥ずかしく無いんですか」
「恥ずかしいも何も、必要な物を買っているだけです。あ、あのセットアップ刺繍が美しい、アウターにも響きませんね」
「もう疲れました」
「なにを言っているんですか、次はワンピースですよ!」

 38歳だと聞いたがあのパワーは何処から来るのか、果林は休憩スペースで疲労困憊、項垂れていた。すると宗介が真面目な顔で肩を叩いた。

「つ、次は何ですか」
「仕事着です」
「仕事着」
「はい、白いブラウスに黒いパンツを数着決めて下さい。華美でなく動きやすいものを選んで下さい」
「はい」
「黒いジャケットも必要です」
「はい」

 その目は真剣だった。

「戦闘服だと思って下さい」

 そこまでは格好良かった。次は靴下3足1,000円の組み合わせを楽しんでいた。

(宗介さん、思っていたイメージと全然違った)
「さぁ、帰りましょう!」
「あ、近いので歩いて」
「駄目です!果林さんに何かあってはご両親に面目ありません!」
(ここはメキシコですか)

 辻崎株式会社のビルは金沢駅から徒歩5分の位置にあった。果林が歩いて行くと言っても有無を言わさずTOYOTAクラウンの後部座席に押し込まれ、数十袋のショップバックは数人の社員の手によって16階の豪華な社宅まで運び込まれた。

「あっ、果林さん!」
「今度は何ですか」

 果林は山と積み上げられた衣類のプライスタグをハサミで切り取りながら宗介の顔を見た。とても楽しそうだ。

「スキンケア商品はどのブランドですか」
「あーーー、無印良品です」
「化粧品は」
「無印良品です」
「では秘書に買って来させましょう!」
「あっ、そんなお手を煩わせる訳にはいきません、自分で行きます!」

 宗介は秘書室への直通電話の受話器を取った。

「車を回してくれ、今から降りる」

 果林は有無を言わさずTOYOTAクラウンの後部座席に押し込まれた。


 宗介は無印良品で果林が可愛いと呟いた物、じっと眺めていた物を密かに注文し翌日大型商品が運び込まれる事となるがそうとも知らない果林は敏感肌用300ml790円の化粧水を手に喜んでいた。

「それではお部屋の紹介をします」
「はい」
「あ、その前に依頼していた物が届きましたからお渡ししておきます」
「何でしょうか」
「社屋7階以上に入室可能なカードキーです、この部屋も出入り自由です」

 果林の手に黒にプラチナの磁気が埋め込まれた名刺大のカードキーが手渡された。これは宗介を始めとする役員が果林を信頼しているという証だった。

「これまで果林さんの勤務に対する姿勢を人事部長に審査させていました」
「それで毎日ご来店下さっていたんですね」
「私の父も何度か果林さんの接遇を受けています。褒めていました」
「ーーーえっ、しゃ社長さんが!」
「私が果林さんを新店舗のプロジェクトメンバーに推薦し会議に掛けた結果合格、採用となりました」

「それで離婚届を下さったんですか」
「あれは個人的な物です」
(個人?)
「この部屋も」
「これも個人的な事です」
(個人?)

 これで果林は辻崎株式会社全ての部屋に出入り可能となった。果林は新店舗のプロジェクトメンバーに参加出来る事、新しい生活が始まる事への期待と嬉しさで舞い上がりカードキーを持つ事の重大さに気付くまで時間を要した。

「お部屋の紹介の前に、カードキーを1度使ってみましょう」
「はい」
「まずこのセンサーに翳して下さい」
「はい」
「ランプが緑に変わったら開閉ボタンを押す」
「はい」
「中に入ってみましょう」
「はい」

 果林はエレベーターの中に足を踏み入れた途端、急に宗介との距離が縮まった様な感覚に陥り胸の鼓動が忙しなく跳ね出した。

(えーーと、なんだこの動悸は疲れたからか?)

 宗介の声にはっと我に帰った。

「果林さん、聞いていますか?」
「あっはいすみません!」
「聞いていませんでしたね、先程と同じ様にセンサーに翳してランプが緑に変わったら行き先の階を押して下さい」
「はい」

「14階を押して下さい」
「はい、14階は何の部屋ですか?」
「食堂になります」
「しょ、食堂」
「軽食や飲酒は自室でも可能ですが、食事は基本食堂です」

 食堂はこれまた重厚なフローリングで縦横それぞれゴロゴロと30回転がれそうな広さ、ダイニングテーブルとチェアーはマホガニーだった。

「料理は誰が作るんですか」
「専属の料理人が作ります、和食が多いですね」
「りょ、料理人」
「朝食は6:00から9:00まで、昼食は下の社員食堂か社外、夕食は17:00から20:00の間この食堂が利用出来ます」
「利用するのは」

 果林は唾を呑み込んだ。

「私の父と母です」
(そーーーうですよねーーー!)
「緊張します」
「果林さんにはですね」
「ど、努力します」
「では部屋に戻りましょう」

 厨房の料理人は如何にも修行を重ねて来ましたという板前さんだった。果林が軽く会釈すると深々と頭を下げられ、それを見た果林も深々と頭を下げた。

「ではお部屋紹介です」
「はい」

 エレベーターホールまでは清掃員が掃除、分別ごみ、燃えるごみなどのペールが壁に埋め込まれていた。

「部屋の中は自分で掃除すれば良いんですね」
「はい」

 洗濯は8:00にクリーニング店が集荷に来るので備え付けの棚に入れておく様にと説明があった。

「あの、下着とかの洗濯はどうすれば良いのでしょうか」
「あぁ、ですね!」
(ランジェリー好き人間なんだな)

 それは大丈夫だとドラム式の洗濯機を叩いて見せた。

「最新型なんですよ」

 ロボット掃除機ルンバも最新型なのだと抱き抱えてドヤ顔をしていた。
(家電製品マニアなんだな)

「ここが果林さんのお部屋です」
「ここがーーー社宅ですか」
「はい!」

 フローロングは柞の木いすのきで紅色を帯びた褐色、壁紙はアイボリーで優しい雰囲気だった。天井は高く、橙色の濃淡が可愛らしいモビールが揺れていた。

「果林をイメージしてみました」
「か、可愛い」
「可愛いですか!そうですか!」

 クローゼットは埋め込み式でチェストやリビングテーブルも白味の強い楠の木くすのきで自己主張せず広々として見える。

(いや実際、軽く20、30畳はあるぞ)

「ベッド」
「あ、こちらはセミダブルですが明日、無印良品のクイーンサイズベッドが届きます」
「く、クイーンってなんですか」
「クイーンサイズだと2人でも広々です」

(2人、もしかして、もしかしてですか?)

「というか、ベッドがあるのにまたベッドを買ったんですか!」
「果林さんが無印良品で可愛いと仰っていたので」
「確かに言いました、言いましたけど!」
「ソファーも届きます」
「ソファーは確かに座ってみましたが!」
「駄目でしたか?」

 宗介は気落ちした様子で果林まで申し訳ない気分になった。

「ありがとうございます」
「ーーーーはい」
「無駄使いは今日までにして下さいね!」
「ーーーーはい」
「そんな顔しないで下さい」
「ーーーーはい」

 宗介は意外と打たれ弱い気質なのかもしれない。

(和寿の前ではかなり強面で冷たそうな感じだったのにな)

 少し気を取り直した宗介はお部屋紹介を続けた。

 本来ここはゲストルームとして造られた部屋だが他人を招き入れた事がないので新品だと言った。

「テレビは備え付けてありませんが良かったですか?」
「はい、リビングにちらっと見えましたからそちらで大丈夫です」
「2人で見ましょう」
「ーーーーはい」

 そして果林の部屋には天窓が付いていた。今は夜で暗いが晴れた日は青空が気持ち良いだろう。壁の窓からはchez tsujisakiしぇ つじさきの庭園にあるけやきの樹を見下ろす事が出来た。それにしても16階は高すぎる。地上に吸い込まれそうになった果林はもう2度と下は見ないでおこうと誓った。

「温かい造りですね」
「はい、辻崎株式会社のシンボルツリーはけやき、幸せの象徴と言われています」
「なるほどです」

 社屋外観はコンクリートとアルミ、ガラス張りと無機質だが屋内には土塀や木材、フロアの至る所に背の低い樹木が植えられている。

「ここがバスルームとトイレです」

 廊下の左側にはセパレート式のバストイレ洗面所が二箇所、これならば2人でも難なく使える。右側にはクローゼットとシューズボックス、コートなどはここに掛けるのだと言う。

(ん?私はこの冬もここに住むのか?)

 半年以上掛かるプロジェクトとは一体、果林は次から次へと湧いて来る疑問に頭を悩ませた。次はリビングルーム、こちらも温かな造りでフローリングは柞の木いすのき、壁はアイボリー、家具も白味の強い楠の木くすのきで揃えられている。

(会社の副社長さんってもっと黒とか金とか大理石かと思ってた)

 カーテンも落ち着いたグリーンで森の中にいる様だ。リビングの隅にはバーカウンターと冷蔵庫があった。中を見ても良いですかと尋ねると「どうぞどうぞ」と鼻息荒く勧めるだけあって中はミネラルウォーターと赤ワイン、数本のビール、チーズが整然と美しく並べられ清潔そのものだった。

「まるで何処かのお店みたいですね」
「整理整頓が基本です」

 働く気力が皆無だった和寿とは雲泥の差だった。



「次は私の部屋です」
「えっ、そんなプライベートな。良いです、良いです!」
「果林さんには私の全てを知って頂きたいのです」
「全てを」
「はい、を、です」

 宗介の部屋も果林の部屋と同じ造りでやや広い、そしてこちらにも幅広いベッドが鎮座ましましていた。

「これは」
「キングサイズです」
「ゴロゴロ転れそうですね」
「転がってみますか?」

 果林はつい好奇心でベッドに転がってしまった。横になった瞬間、シダーウッドと男性特有のにおいがふわりと舞い上がった。

(これが宗介さんの匂い)

 急に恥ずかしくなった果林は無邪気に戯けて見せ、勢いよくキングサイズのベッドの上を転がった。転がったまでは良かったがあと半回転足りず床へと転がり落ちそうになった。

「う、うひゃっ!」
「おーっと!」

 宗介の差し出した手が危ういところで果林を抱き止めベッドの上へと押し戻した。間一髪、然し乍らこの距離感は心臓に悪かった。

(か、顔が近い、近い、近いけどかっこいいーーー!)

 マットレスに両腕を突いた宗介、その顔を見上げる果林、2人の顔は赤らみ宗介はバネに弾かれる様に身体を反らした。

「す、すみません」
「私こそ子どもみたいに転がってしまいました」
「ご、ご飯食べに行きましょうか」
「は、はい。でも私、この格好じゃちょっと」

 果林はジーンズにTシャツ、ダンガリーのシャツを羽織っている。しかも心の準備が出来ないまま14階の食堂での食事はハードルが高かった。

「では、私が着替えますからソファに座って待っていて下さい」
「はい」

 果林は吸い寄せられる様にカーテンを捲った。幅広い窓の外はきらめく金沢の夜景、眩い金沢市中心部からポツポツと明かりが灯る郊外まで見渡せるこの部屋に今日から暮らし、明日から辻崎株式会社の社員として働く。

(あ、北陸新幹線)

 光の列が時速260kmの速さで東京へと走る様に果林の人生も走り出した。青椒肉絲を作って不倫にうつつを抜かす夫の帰りを待ち、姑の陰湿ないじめに遭って来たこの数年間が嘘の様だ。

「お待たせしました」

 上質なスーツを脱ぎ、ジーンズにTシャツ、ラフなシャツを羽織っただけの宗介は若々しく30代前半に見えた。

「ーーーーかっ」

 格好いいと言葉にしそうになると宗介は無邪気な笑顔で「今、格好良いって思ったでしょう」と果林の肩を抱いて玄関へと向かった。その行為があまりにもさり気無く不思議と嫌な心持ちにはならなかった。

(ーーーあ)

 玄関先には履き潰したスニーカーが揃えられていた。果林がスニーカーへ目を遣ると、宗介はそれを掴んで迷いも無く燃えないごみのペールに捨てた。

「果林さん、良い靴は良い事を運んで来ると言いますよ」
「そうなんですか」
「買ってきた靴を履いて出掛けましょう」
「はい!」

 果林はジーンズに合わせてデニム生地のバレエシューズを選んだ。

「良いですね、似合っています」
「ありがとうございます」

 エレベーターを降りた宗介は果林の手を握り点滅する歩行者信号を駆け抜ける。白い横断歩道の目の前には宗介の逞しい背中があった。

「さぁ、行きますよ!」
「は、はい!」
「お店は22:00までですよ!」
「ど、何処に行くんですか!」
「金沢駅の8番らーめんです、食べたくなりました!」

 今回はTOYOTAのクラウンではなかった。

(辻崎宗介さん)

 毎日14:00に会っていた正体不明な社員は実は副社長でその副社長と笑いながら夜の金沢駅前を走っている。

(い、痛い)

 和寿に殴られた左の頬に触れればやはり痛い。

(現実なんだ、これ)

 果林は幼い頃に読んだシンデレラの童話を思い出していた。
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