不倫され妻の復讐は溺愛　冷徹なあなたに溺れて幸せになります

雫石しま

文字の大きさ

大中小

2 / 21

chez tsujisaki

木古内家

しおりを挟む

辻崎株式会社2階フロアの一角に社員専用のパティスリーブーランジェリーchez tsujisakiしぇつじさきが憩いの場を提供していた。

「いらっしゃいませ」
「果林かりんさん、いつものお願いします」
「はい、エスプレッソとタルトタタン（りんごケーキ）のセットで宜しいですか」

　chez tsujisakiしぇつじさきの店構えは社屋の雰囲気に合わせ味気ないコンクリートの壁と全面硝子張り、アルミ枠といった無機質だ。然し乍ら四角い空へと広がる欅けやきの根は芝生の庭を握り締め新緑と柔らかな日陰をもたらし癒しの空間となっている。

　店内を切り盛りしている女性の名前は木古内果林きこないかりん（25歳）chez tsujisakiしぇつじさきのパティシエール兼ウェイトレスを担当していた。

「おまたせいたしました」
「ありがとう」

　木古内家は辻崎新社屋建設予定地として辻崎株式会社に土地を買収され、ビルに入居した町の洋菓子店だ。現在は血縁者でchez tsujisakiしぇつじさきの経営を任されている。

「おい、果林！遅ぇぞ、ちんたらすんな！」
「でも経理課の係長さんよ」
「係長？はぁー？そんなもん放置、放置、ほら、部長さんがお呼びだぜ！」

　木古内和寿きこないかずとし（30歳）は果林の夫で木古内洋菓子店の嫡子、乳母日傘おんばひがさで育てられた自己中心的な人物だ。ただその物言いや横柄な態度が日に日に宜しくない。

（ーーー和寿さん、落ち着かない感じがする）

　この2ヶ月、什器の発注ミスや予約キャンセルの取り消し忘れなど地に足が着いていない。出勤が妙に早い日が増えている。

（今は閑散期なのに）

　繁忙期ならば4:00頃から仕込みを始める日もあるが今は然程さほど忙しい時期ではない。果林には違和感しか無かった。

「あらぁ、果林さん相変わらず貧乏くさい、もう少し綺麗にお化粧なさったらどうなの？」
「え、いえ。飲食店でそんなお化粧は」
「ハァァ、また言い訳？聞き飽きたわ」

　美しいグレージュの巻き髪、ゲランアクアアレゴリアのパルファムを撒き散らしながら深紅のハイヒールが闊歩して来た。その残り香に社員たちは眉を顰ひそめ鼻を摘んだ。

「お、お義母さん」
「菊代さんでしょう？その空っぽのおつむはシュークリームの皮みたいね、和ちゃんにクリームのひとつも絞ってもらったら？」
「き、菊代さん、声が大きいです」
「あーーーらぁ、私はこの店のオーナーよぉ、良いじゃなぁい？」

　この厚かましい女性は木古内菊代きこないきくよ（60歳）、和寿の実母、果林の姑に当たる。菊代の言い分はあながち外れてはいないが木古内家はchez tsujisakiしぇつじさきを任されているだけでオーナーは辻崎株式会社である。にも関わらずこの態度には目を覆うばかりであった。

「菊代さん、今日はどうしたんですか」
「なに、自分の店に来ちゃ悪いの？」
「いえ、そんな意味で言った訳ではありません」
「失言に申し訳ございませんの一言もないの？」
「申し訳ございませんでした」

　白い封筒を持った菊代の装いはいつもに増して華やかで周囲に着座している社員は気圧された。果林がライムが浮かんだグラスをテーブルに置くと仰々しく脚を組んだ菊代がその封筒を手渡した。どうやら中を見てご覧なさいという事らしい。

「これは？」
「新しいブーランジェリーの女の子よ」
「女の子ーーですか」
「あら、なにか問題でもあるの？」
「いえそんな意味でーー」

　間髪入れずに菊代が謝罪の言葉を求めて来た。

「申し訳ございませんでした」

　その履歴書には明らかに果林よりやや歳上の女性の証明写真が貼られていた。経歴は悪くは無いがどの職場も長続きしていない。この女性がどうしたというのだろう。

「和寿を呼んで頂戴」
「え、お客さまがーー満席で」
「果林さんがおひとりで接客されたら？ほんの数分よ、それくらいも出来ないの」
「ーーー分かりました」
「なぁにその不貞腐れた顔は」
「申し訳ございませんでした」

　菊代は謝罪の質よりも兎にも角にも果林に頭を下げさせ「申し訳ございませんでした」と言わせたいのだ。果林と和寿は見合い結婚だが菊代とすれば可愛らしい息子を奪い取った嫁が辛にくかった。

「呼んできます」
「夫に向かってなに、何様なの！」
「申し訳ありません、お呼びして参ります」

　母親が来ていると知った和寿は菓子工房の中でエプロンを外すと嬉しそうに奥の席へと向かった。そこに客が居ようとお構いなしに一直線、母親の顔しか見えていない。その有り様に果林は大きな溜息を吐いた。

（潔いほどのマザーコンプレックスよね）

　そこで庭に面した席で手が挙がった。

（ーーーあ）

　その男性は14:00になると欅けやきの木を眺める席に座り同じ飲み物をオーダーする。濃灰の上質なスーツ、ネクタイの色は紺色、社員専用のパティスリーブーランジェリーの筈なのに社員証を首から下げていない。

（ーーーでも社章は付けているのよね、不思議）
「いらっしゃいませ」
「こんにちは」
「いつものオーダーで宜しいでしょうか」
「お願いします」

　男性はいつもアフォガートをオーダーする。アフォガートはイタリアのデザートでバニラビーンズが香り立つアイスクリームにエスプレッソコーヒーなどを垂らす。

「あ、私はアッサムティーでお願いします」
「かしこまりました」

　そしてその男性は果林を凝視して薄い唇で呟いた。

「アフォガートはイタリアでは溺れるという意味だそうですよ」
「おぼ、おぼれる」
「はい」

　その呟きにどんな意味があったのか果林には見当が付かなかった。

「和ちゃん、パート希望の女の子から履歴書が届いたの」
「へぇーーー応募があったんだ」
「時給970円、もの好きな子よねぇ。杉野恵美すぎのえみさん、あら30歳！和ちゃんと同い歳ね。若く見えたわぁ」

　和寿はその履歴書を見るまでもなく「良いんじゃないか」と母親に白い封筒を突き返した。それには流石の菊代も驚いた。

「顔くらい見なさいよ」
「見なくてもーーーー」
「なに、変な顔をして」

（そんな物、見なくても身体の隅々まで知っているからな）

「掲示板のスタッフ募集のポスターは果林さんに剥がして貰いなさい」
「母さんは果林に手厳しいなぁ」
「少しは動いて貰わないと！役立たずなんだから」
「今度の女の子は勘弁してやってよ」

　これまで菊代は低賃金の時給に文句も言わず勤務していたウェイトレスやパティシエールを蔑ろにしては次々と退職に追い込んで来た。和寿はそれを黙認していたが今回に限っては「勘弁してくれ」と両手を合わせた。

（ーーー変な和ちゃん）

　息子に甘い菊代はこの杉野恵美が和寿と2ヶ月前から不倫関係にある女性だとは思いも寄らなかった。

　パティスリーブーランジェリーchez tsujisakiしぇつじさきの営業時間は会社の始業終業時間に合わせて8:00から19:00となっている。

「おい、今夜は母さんと食事に行くから後は頼むわ」
「戸締りもしっかりね」
「はぁ」
「はぁじゃないでしょう！」
「かしこまりました」

　果林は清掃を終え椅子を一脚抱えると欅けやきの木が見える窓際で背伸びをした。手には透明なガラスの器にアフォガート、あの男性が眺める景色を見てみたいと思った。甘くほろ苦い香りに思わず涙が溢れた。

（ーーーなんか疲れちゃったなぁ）

　果林は親戚が勧める見合いでなんとなく結婚したものの、菊代姑からの不条理な仕打ちとそれを見て見ぬ振りの和寿夫との暮らしに人生の意味が見出せないで居た。

（なんの為に結婚したんだろう）

　すると一羽の鳥が欅けやきを通り抜け庭園に張り出した梁はりに留まりさえずり始めた。

ピーチチチ
ピーチチチ

　白い腹、黒い胴体、黒い羽根、赤い頭、燕つばめが巣を掛けていた。

（ーーーあ、あの人、あの巣を見ていたのかな）

　携帯電話を取り出してGoogleで検索すると燕は商売繁盛の象徴と表示された。

「商売繁盛祈願かなぁ」

　そして幸せの象徴でもあると書かれていた。涙を指先で拭った果林はエプロンの紐を解いた。

「さーーーて、スタッフ募集のポスターを剥がしに行きますか」

　店の入り口にチェーンを掛けた果林はエレベーターのボタンを押した。

ぽーーーん

　果林の手には彼方此方に貼って有ったchez tsujisakiしぇつじさきスタッフ募集のポスターが握られていた。

（こんな低い時給で応募して来る人がいるなんて信じられない）

　今回ブーランジュリーバケッド担当の求人に応募して来た女性の名前は杉野恵美、髪をオールバックにトップで結えた清潔感のある面立ちだったが口紅の色が気になった。濃い赤紫、ボルドーの色味は男性受けしそうないやらしさが匂っていた。

（30歳、人妻パート、お小遣い稼ぎって感じなのかな）

ぽーーーん

　辻崎株式会社新社屋ビルの1階はブティックや小物雑貨、飲食店などのテナントが入っている。果林はそのフロアの案内所や掲示板を回ってchez tsujisakiしぇつじさきスタッフ募集のポスターを剥がしていた。1日の業務に疲弊しきった果林はこの華やかな場所に居心地の悪さを感じていた。

（みんな楽しそう）

　25歳、同年代の会社帰りの女性が新作のワンピースを手に全身鏡の前でどちらにしようかと悩み顔だ。果林が左の薬指に結婚指輪を嵌めたのは23歳の秋。

（あぁ後悔、時すでに遅し）
「おつかれさまです」

　フロアの奥まった場所に総合案内所が有った。

「お疲れさまです」
「あら、木古内さんまだお仕事ですか？」
「はい、残業で」

　剥がしたポスターを掲げて見せるとアテンダントスタッフは「今度は長続きすると良いですね」と苦笑いをした。菊代の所業はこの会社内で知らない人は居ないのでは無いかとまで囁ささやかれている。

ぽーーーん

　背後の職員専用エレベーターの扉が開くと見覚えの有る男性が足を踏み出した。

しおりを挟む