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第5章 想い出と君の涙を
5章 第10話
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バスに乗って吉祥寺駅まで行き、新宿・池袋を経由して、大宮に行く。玲華の言う通り、東京駅に出るより、大宮から新幹線に乗った方が僅かに早かったのだ。
新幹線に飛び乗った俺は、ほっと一息吐いて、座席に座り込む。
さっきまで玲華と一緒にいたのが信じられないほど現実感がなくて、またひょっこりどこかで会うのではないかと思ってしまう。
いや、仮に会ったとしても、もうさっきまでの俺達の関係とはもう異なっていて。例え想い出を共有していたとしても、見えない時空の壁がそこには隔たっていて、それよりも距離が縮まる事はない。その距離を作る為に、互いに置き忘れていたものをあそこに取りに行ったのだから。
時間は問題なさそうだ。結局プレゼントを買う余裕なんてものはなかったけれど⋯⋯それはまた今度にしてもらおう。映画の撮影とか色々あって凜も誕生日について話せる気分でなかったのだろうし、それ以前に俺もそもそももっと早い段階で訊いておけよっていう。
まあ、今は今日中に帰る事が大事だ。この調子なら23時には長野駅に着くから、今日中には鳴那町に帰れるはずだ。
そう思うと、緊張感と疲れから解放されたのか、一気に眠気が襲ってきた。凛に連絡を取りたいが、さっきスマホの電池も切れてしまった。気を紛らわせるものもなくなってしまったので、深いまどろみの中へと誘われていった。
長野駅を経由して鳴那町に着いた頃には、23時半だった。自転車があればすぐに凜の家に着くのだが、今日は徒歩だ。こんな田舎だからタクシーを捕まえるのも楽じゃないし、バスなんてもちろん無い。走るしかなかった。走れば15分くらいで着くだろう。そう思って、ただただ走る。
東京と比べて、12月の長野は寒い。まだ雪が降っていないだけ奇跡だが、もうそろそろ降りそうなほどの気温だ。東京との温度差が堪える。呼吸器を一気に凍り付かせるような冷たい空気が肺を出入りしていた。
それでも、今日中におめでとうを言いたくて、ただ走る。玲華の気遣いを無駄にしたくないという気持ちもあったし、ここで間に合わなければ俺は自分が許せないように思えた。
凛に電話をかけたいが、スマホの電池が切れてしまっている。充電している時間はない。そのまま息も絶え絶えで走って、何とか彼女の家の前に着いたが⋯⋯真っ暗。呼び鈴を鳴らしても反応はない。
もしかして、先に寝たのかとも思ったが⋯⋯多分、そうではないような気がした。
家にいないとなると、こんな時間にどこに行ったんだ⋯⋯と、そこで1か所だけ思い当たる場所を想い出した。
俺達が出会った場所。音慶寺の裏手の崖。凛の家からは徒歩圏内だ。
腕時計を見ると、時刻は23時45分を過ぎた頃。まだ間に合うだろうか。
そう思って、俺は震える足に鞭打って、走った。
音慶寺の石段前まで辿り着く。ずっと走りっぱなしなので、既に息切れも甚だしい上に足はがくがく⋯⋯そこにきて最後の最後でこの石段とは、一体何の罰ゲームだろうか?
腕時計を見ると、もう23時55分を回っている。あと5分以内に登り切らないと、凛の誕生日を祝えない。俺は両足と心臓に喝を入れ、階段を駆け上った。きっと今日は、人生で体力と精神力を使っている日になるんだろうな、等と思う。
階段を登る足がどんどん重くなる。でも、ここで立ち止まるわけにはいかない。この上に凛はきっといるから。凛がいるなら、立ち止まれない。今日中に伝えないと、意味がない。
階段の終わりが見えてきたので、最後の力を振り絞って登り切る。登り切った時点で、倒れ込みそうになったが、まだだ。まだここで倒れるわけにはいかない。
そう思って、よろよろとしながら、音慶寺の裏手にある森の細い石畳の道を抜ける。そして、道を抜けた先で⋯⋯雲に覆われた大きな月と、女の子の人影が見えた。冷たい冬の風に、ピンクベージュの髪が靡く。そこには、俺が会いたくて堪らない女の子がいた。
「凛!」
やっぱり、彼女はここにいた。自然と笑みが漏れると同時に、膝が限界を迎えて、ばたりと両ひざが折れた。
声と物音で彼女が振り向いて、驚いた表情を見せる。
「翔くん!?」
凛は俺を見るや否や、感極まった表情で、両手で口元を覆った。頬を紅潮させて、瞳が一瞬にして膜で覆われている。
凛が俺に駆け寄って、その勢いで俺に飛びつくように抱き着いてきた時に、ふわりと良い香りに包まれる。俺の大好きな、一番落ち着く匂い。帰ってこれた、と安心感で満たされた。
「翔くん⋯⋯翔くん!」
「はは、痛いよ、凛。駅からずっと走ってたから、俺、もう立てなくて⋯⋯」
彼女はもう言葉にならない様子で、俺の首元に顔を埋めて名前を呼んだ。俺の首根っこに抱き着いたまま、彼女も崩れ落ちるよにして、膝を着いていた。
そんな彼女をそっと抱き締め返した。
「凛⋯⋯遅くなってごめん。それと、誕生日おめでとう」
「え⋯⋯?」
彼女は驚いた様に顔を離して、口をぽかんと開けてた。膜の張った大きな瞳が俺を映している。
「どう、して⋯⋯?」
言ってなかったから知らないと思ってた、と凛。
「玲華に知らされて⋯⋯慌てて帰ってきた。何もプレゼント買ってないけど、それはまた今度にして」
「もう⋯⋯玲華、ほんとお節介なんだから」
少し怒ったように言いつつ、嬉しそうに笑っていた。その時、涙が彼女の頬を伝って、地面に落ちた。
「あ⋯⋯でも間に合わなかったかな」
彼女の肩ごしに腕時計を確認すると、0時を1分過ぎてしまっていた。
「家にいると思ったらいないからさ。ごめんな」
「いいよ、そんなの⋯⋯どうでもいい。こうして帰ってきてくれたんだから」
凛はまた俺をぎゅっと強く抱き締めて、声を押し殺して咽び泣いていた。
「そんな大袈裟な。帰ってくるよ、そりゃ」
まるで戦地に赴いた旦那の帰還を喜ぶような言い方で、思わず笑ってしまった。
でも、もしかすると⋯⋯彼女からすると、そんな気分だったのかもしれない。愛梨も昨日、俺が簡単に篭絡されそうだと不安に思っていたみたいだし。自分のこれまでの行動のせいだとは思うが、あまりに信用されてなくて、ちょっと悲しくなってくる。
「そうだけど⋯⋯連絡ないし、遅いから⋯⋯不安、だった」
「ごめん。電池切れててさ。家にいないと思ってなくて」
頭を撫でると、彼女は首を横に振る。
「私こそ、ごめん⋯⋯待つのがこんなにつらいって思わなくて⋯⋯」
家にいると落ち着かなかったから、と凛は嗚咽を堪えながら言う。
凛は凛で今日1日、気が気でなかったのだそうだ。いや、彼女からすると、待っていたのは、今日1日だけではなかったのかもしれない。玲華と再会してから今日に至るまで、ずっと待ち続けていたのではないだろうか。この涙がそれを物語っているような気がした。
全く、一体どれだけ俺は女の子を泣かせればいいのだろうか。本当に、情けないにもほどがある。
でも、もう凛がそんな思いをする必要はない。
「⋯⋯ちゃんと玲華と話してきたよ」
言うと、凛がおそるおそる顔を上げた。不安に満ちた表情。
「俺が好きなのは凛だって。ちゃんと、言ってきた。俺の事を一番に理解できるのは凛で、そんな凛の隣にいたいって」
「⋯⋯玲華は、何て?」
「幸せになってくれ、だとさ」
そう伝えると、みるみるうちに涙が溢れ出してきて、顔をくしゃくしゃに歪めて、肩に額を押し付けた。
「ごめん⋯⋯」
「どうして謝るんだよ」
「私が言わせたようなものだから」
「違うよ」
「違わない。私が⋯⋯言わせちゃったから」
全く⋯⋯なんだかさっきもこんなやり取りをしたな、と苦笑を漏らす。やっぱり、この二人は似ていないようで、本当に似ている。
「違うっつーの」
凛の髪を撫でながら力強く否定する。
「これは、俺の意思だからさ。ずっと言わなきゃいけなかったんだ。自分が傷つくのが怖くて、ずっと言えなかった。でも、本当は⋯⋯もっと早く言ってなきゃいけなかったんだ」
俺がもっと早くに言っていれば、凛も玲華も、こんなに傷つかずに済んだ。この二人が傷ついているのは、俺がそうして逃げていたからだ。
でも、例え玲華を傷つけてしまったとしても、凛を傷つけたくなかった。もう、あんな風に傷ついた凛を見ていたくない。
彼女には、笑っていて欲しい。困ったように呆れて笑ったり、嬉しそうに笑ったり、たまにどや顔したり⋯⋯そうして、ずっと楽しそうにしていて欲しいと思ったのだ。
玲華には酷い事をしたと思っている。ただ俺がケリをつける為だけに、今日あれだけ傷つけてしまったのだから。
ただ、俺は⋯⋯玲華を傷つけたとしても、凛を守りたかった。それがこの数か月、俺が悩み苦しんだ上で出した答えだった。
その気持ちを改めて伝えるべく⋯⋯俺は大きく深呼吸をして、凛と向き合った。
「凛⋯⋯好きだよ。お前の事が、誰よりも好きだ」
「翔、くん⋯⋯」
大きな瞳から、涙が零れ落ちた。
歯を震わせて、俺を抱き締めている手も小刻みに震えている。鼻を啜り、彼女は小さく頷いた。
「私も、翔くんが好き⋯⋯大好き」
泣きじゃくりながら気持ちに応えてくれる。
ああ、もう今日の俺はだめだ。涙腺が緩んでしまっていて、また視界がぼやけてしまった。
「これからは⋯⋯ちゃんと翔くんの事、一番に解るから。ずっと翔くんの事、見てるから。もう、あんな失態は⋯⋯絶対にしない」
「俺も、もうあんな我慢はしないよ。ちゃんとつらくても、かっこ悪くても、凛には隠さず言うからさ。だから凛も、隠さないでくれよ?」
「うん⋯⋯隠さない」
凛がまたこくりと頷いて言う。
ああ、なんて愛しいんだろう。きっと、俺達の抱えていた問題なんてすごく単純なものだったのだと思う。単純なものを、見栄だとか、虚栄心だとか、自分よがりな相手への思いやりだとか、そんなもので濁らせてしまっていたのだろう。
でも、事はもっと単純で⋯⋯俺達は、自分の弱いところも、かっこ悪いところも、見せ合っていていいのだ。
何度も何度も俺達はそれを確認して知っていたはずなのに、それでもやっぱり好きな人の前ではかっこよくありたくて、互いに我慢してしまう。
凛の前では、弱っちい自分を曝け出して構わない。凛だって、もちろん曝け出してしまって良い。そんなもので俺達の絆は変わらない。むしろ、もっと相手を深く理解できたと思える。俺と凛は、きっとそういう関係なのだと思う。
「俺はこれからもお前の事を支えていくからさ⋯⋯だから、ずっと隣にいてくれ、凛」
「私も⋯⋯ちゃんと翔くんの事支える。だから、もう離さないでね」
「ああ。俺も絶対に離さない。一生隣にいる」
「なんだかプロポーズみたい」
「だな⋯⋯」
言ってからお互い恥ずかしくなって、笑い合う。
また凛の頬に涙が伝ったので、そっとそれを拭ってやる。今の俺は、こうして堂々と君の涙を拭えるから。君の涙を拭う為に、想い出と決別してきたのだから。
それから見つめ合って、瞳をゆっくりと閉じて⋯⋯唇を重ねた。
またお互いの涙でしょっぱくなっていて、なんだか俺達はこんなキスばかりだな、と呆れてしまう。
でも、この口付けは今までのどの口付けとも違っていて、互いの過去と涙を拭い去るものなのだと思う。
辿り着いた先。過去を乗り越えた先にあるもの。
それは清々しくて、愛おしくて、好きという感情で溢れていて⋯⋯何度でも彼女を求めてしまいたくなる。二度、三度と唇を何度も合わせる。そこから彼女の存在を感じられた。
この口付けで、凛は玲華の呪縛から解放されただろうか。もし、まだ解放されていないのなら、何度だってその涙を拭い去ってやる。解放されるまで、何度でも、何度でも。
はらりと流れた彼女の涙を指で拭ってそう決意し、もう一度強く抱き締める。
「あっ⋯⋯雪⋯⋯」
凛がその時、空を見て呟いた。
俺も釣られるようにして上を見ると、粉雪が優しく降ってきていた
この冬初めての雪だ。長野にしては、ちょっと遅い初雪だった。毎年11月末には降っていたのに。
「綺麗⋯⋯」
長野の雪はさらさらしていて綺麗だ。東京の雪とは質が異なる。
でも、今は⋯⋯そんな雪よりも、目の前にいる女の子の方が綺麗で。でも、そんな事は恥ずかしくて言えなくて。
だから、天を仰ぐ彼女の隙を見て⋯⋯唇を奪った。粉雪と彼女の頬の涙が重なり、雪と混じって溶けた。
少しの間だけ彼女の唇から熱を感じて、この温もりを一生大切にしたいと、心に誓う。
唇を離すと、彼女は照れ臭そうに微笑んでいた。それは、あの時、この場所で見せてくれた時の⋯⋯凛の一番綺麗な、幸福感に満たされた笑顔だった。
新幹線に飛び乗った俺は、ほっと一息吐いて、座席に座り込む。
さっきまで玲華と一緒にいたのが信じられないほど現実感がなくて、またひょっこりどこかで会うのではないかと思ってしまう。
いや、仮に会ったとしても、もうさっきまでの俺達の関係とはもう異なっていて。例え想い出を共有していたとしても、見えない時空の壁がそこには隔たっていて、それよりも距離が縮まる事はない。その距離を作る為に、互いに置き忘れていたものをあそこに取りに行ったのだから。
時間は問題なさそうだ。結局プレゼントを買う余裕なんてものはなかったけれど⋯⋯それはまた今度にしてもらおう。映画の撮影とか色々あって凜も誕生日について話せる気分でなかったのだろうし、それ以前に俺もそもそももっと早い段階で訊いておけよっていう。
まあ、今は今日中に帰る事が大事だ。この調子なら23時には長野駅に着くから、今日中には鳴那町に帰れるはずだ。
そう思うと、緊張感と疲れから解放されたのか、一気に眠気が襲ってきた。凛に連絡を取りたいが、さっきスマホの電池も切れてしまった。気を紛らわせるものもなくなってしまったので、深いまどろみの中へと誘われていった。
長野駅を経由して鳴那町に着いた頃には、23時半だった。自転車があればすぐに凜の家に着くのだが、今日は徒歩だ。こんな田舎だからタクシーを捕まえるのも楽じゃないし、バスなんてもちろん無い。走るしかなかった。走れば15分くらいで着くだろう。そう思って、ただただ走る。
東京と比べて、12月の長野は寒い。まだ雪が降っていないだけ奇跡だが、もうそろそろ降りそうなほどの気温だ。東京との温度差が堪える。呼吸器を一気に凍り付かせるような冷たい空気が肺を出入りしていた。
それでも、今日中におめでとうを言いたくて、ただ走る。玲華の気遣いを無駄にしたくないという気持ちもあったし、ここで間に合わなければ俺は自分が許せないように思えた。
凛に電話をかけたいが、スマホの電池が切れてしまっている。充電している時間はない。そのまま息も絶え絶えで走って、何とか彼女の家の前に着いたが⋯⋯真っ暗。呼び鈴を鳴らしても反応はない。
もしかして、先に寝たのかとも思ったが⋯⋯多分、そうではないような気がした。
家にいないとなると、こんな時間にどこに行ったんだ⋯⋯と、そこで1か所だけ思い当たる場所を想い出した。
俺達が出会った場所。音慶寺の裏手の崖。凛の家からは徒歩圏内だ。
腕時計を見ると、時刻は23時45分を過ぎた頃。まだ間に合うだろうか。
そう思って、俺は震える足に鞭打って、走った。
音慶寺の石段前まで辿り着く。ずっと走りっぱなしなので、既に息切れも甚だしい上に足はがくがく⋯⋯そこにきて最後の最後でこの石段とは、一体何の罰ゲームだろうか?
腕時計を見ると、もう23時55分を回っている。あと5分以内に登り切らないと、凛の誕生日を祝えない。俺は両足と心臓に喝を入れ、階段を駆け上った。きっと今日は、人生で体力と精神力を使っている日になるんだろうな、等と思う。
階段を登る足がどんどん重くなる。でも、ここで立ち止まるわけにはいかない。この上に凛はきっといるから。凛がいるなら、立ち止まれない。今日中に伝えないと、意味がない。
階段の終わりが見えてきたので、最後の力を振り絞って登り切る。登り切った時点で、倒れ込みそうになったが、まだだ。まだここで倒れるわけにはいかない。
そう思って、よろよろとしながら、音慶寺の裏手にある森の細い石畳の道を抜ける。そして、道を抜けた先で⋯⋯雲に覆われた大きな月と、女の子の人影が見えた。冷たい冬の風に、ピンクベージュの髪が靡く。そこには、俺が会いたくて堪らない女の子がいた。
「凛!」
やっぱり、彼女はここにいた。自然と笑みが漏れると同時に、膝が限界を迎えて、ばたりと両ひざが折れた。
声と物音で彼女が振り向いて、驚いた表情を見せる。
「翔くん!?」
凛は俺を見るや否や、感極まった表情で、両手で口元を覆った。頬を紅潮させて、瞳が一瞬にして膜で覆われている。
凛が俺に駆け寄って、その勢いで俺に飛びつくように抱き着いてきた時に、ふわりと良い香りに包まれる。俺の大好きな、一番落ち着く匂い。帰ってこれた、と安心感で満たされた。
「翔くん⋯⋯翔くん!」
「はは、痛いよ、凛。駅からずっと走ってたから、俺、もう立てなくて⋯⋯」
彼女はもう言葉にならない様子で、俺の首元に顔を埋めて名前を呼んだ。俺の首根っこに抱き着いたまま、彼女も崩れ落ちるよにして、膝を着いていた。
そんな彼女をそっと抱き締め返した。
「凛⋯⋯遅くなってごめん。それと、誕生日おめでとう」
「え⋯⋯?」
彼女は驚いた様に顔を離して、口をぽかんと開けてた。膜の張った大きな瞳が俺を映している。
「どう、して⋯⋯?」
言ってなかったから知らないと思ってた、と凛。
「玲華に知らされて⋯⋯慌てて帰ってきた。何もプレゼント買ってないけど、それはまた今度にして」
「もう⋯⋯玲華、ほんとお節介なんだから」
少し怒ったように言いつつ、嬉しそうに笑っていた。その時、涙が彼女の頬を伝って、地面に落ちた。
「あ⋯⋯でも間に合わなかったかな」
彼女の肩ごしに腕時計を確認すると、0時を1分過ぎてしまっていた。
「家にいると思ったらいないからさ。ごめんな」
「いいよ、そんなの⋯⋯どうでもいい。こうして帰ってきてくれたんだから」
凛はまた俺をぎゅっと強く抱き締めて、声を押し殺して咽び泣いていた。
「そんな大袈裟な。帰ってくるよ、そりゃ」
まるで戦地に赴いた旦那の帰還を喜ぶような言い方で、思わず笑ってしまった。
でも、もしかすると⋯⋯彼女からすると、そんな気分だったのかもしれない。愛梨も昨日、俺が簡単に篭絡されそうだと不安に思っていたみたいだし。自分のこれまでの行動のせいだとは思うが、あまりに信用されてなくて、ちょっと悲しくなってくる。
「そうだけど⋯⋯連絡ないし、遅いから⋯⋯不安、だった」
「ごめん。電池切れててさ。家にいないと思ってなくて」
頭を撫でると、彼女は首を横に振る。
「私こそ、ごめん⋯⋯待つのがこんなにつらいって思わなくて⋯⋯」
家にいると落ち着かなかったから、と凛は嗚咽を堪えながら言う。
凛は凛で今日1日、気が気でなかったのだそうだ。いや、彼女からすると、待っていたのは、今日1日だけではなかったのかもしれない。玲華と再会してから今日に至るまで、ずっと待ち続けていたのではないだろうか。この涙がそれを物語っているような気がした。
全く、一体どれだけ俺は女の子を泣かせればいいのだろうか。本当に、情けないにもほどがある。
でも、もう凛がそんな思いをする必要はない。
「⋯⋯ちゃんと玲華と話してきたよ」
言うと、凛がおそるおそる顔を上げた。不安に満ちた表情。
「俺が好きなのは凛だって。ちゃんと、言ってきた。俺の事を一番に理解できるのは凛で、そんな凛の隣にいたいって」
「⋯⋯玲華は、何て?」
「幸せになってくれ、だとさ」
そう伝えると、みるみるうちに涙が溢れ出してきて、顔をくしゃくしゃに歪めて、肩に額を押し付けた。
「ごめん⋯⋯」
「どうして謝るんだよ」
「私が言わせたようなものだから」
「違うよ」
「違わない。私が⋯⋯言わせちゃったから」
全く⋯⋯なんだかさっきもこんなやり取りをしたな、と苦笑を漏らす。やっぱり、この二人は似ていないようで、本当に似ている。
「違うっつーの」
凛の髪を撫でながら力強く否定する。
「これは、俺の意思だからさ。ずっと言わなきゃいけなかったんだ。自分が傷つくのが怖くて、ずっと言えなかった。でも、本当は⋯⋯もっと早く言ってなきゃいけなかったんだ」
俺がもっと早くに言っていれば、凛も玲華も、こんなに傷つかずに済んだ。この二人が傷ついているのは、俺がそうして逃げていたからだ。
でも、例え玲華を傷つけてしまったとしても、凛を傷つけたくなかった。もう、あんな風に傷ついた凛を見ていたくない。
彼女には、笑っていて欲しい。困ったように呆れて笑ったり、嬉しそうに笑ったり、たまにどや顔したり⋯⋯そうして、ずっと楽しそうにしていて欲しいと思ったのだ。
玲華には酷い事をしたと思っている。ただ俺がケリをつける為だけに、今日あれだけ傷つけてしまったのだから。
ただ、俺は⋯⋯玲華を傷つけたとしても、凛を守りたかった。それがこの数か月、俺が悩み苦しんだ上で出した答えだった。
その気持ちを改めて伝えるべく⋯⋯俺は大きく深呼吸をして、凛と向き合った。
「凛⋯⋯好きだよ。お前の事が、誰よりも好きだ」
「翔、くん⋯⋯」
大きな瞳から、涙が零れ落ちた。
歯を震わせて、俺を抱き締めている手も小刻みに震えている。鼻を啜り、彼女は小さく頷いた。
「私も、翔くんが好き⋯⋯大好き」
泣きじゃくりながら気持ちに応えてくれる。
ああ、もう今日の俺はだめだ。涙腺が緩んでしまっていて、また視界がぼやけてしまった。
「これからは⋯⋯ちゃんと翔くんの事、一番に解るから。ずっと翔くんの事、見てるから。もう、あんな失態は⋯⋯絶対にしない」
「俺も、もうあんな我慢はしないよ。ちゃんとつらくても、かっこ悪くても、凛には隠さず言うからさ。だから凛も、隠さないでくれよ?」
「うん⋯⋯隠さない」
凛がまたこくりと頷いて言う。
ああ、なんて愛しいんだろう。きっと、俺達の抱えていた問題なんてすごく単純なものだったのだと思う。単純なものを、見栄だとか、虚栄心だとか、自分よがりな相手への思いやりだとか、そんなもので濁らせてしまっていたのだろう。
でも、事はもっと単純で⋯⋯俺達は、自分の弱いところも、かっこ悪いところも、見せ合っていていいのだ。
何度も何度も俺達はそれを確認して知っていたはずなのに、それでもやっぱり好きな人の前ではかっこよくありたくて、互いに我慢してしまう。
凛の前では、弱っちい自分を曝け出して構わない。凛だって、もちろん曝け出してしまって良い。そんなもので俺達の絆は変わらない。むしろ、もっと相手を深く理解できたと思える。俺と凛は、きっとそういう関係なのだと思う。
「俺はこれからもお前の事を支えていくからさ⋯⋯だから、ずっと隣にいてくれ、凛」
「私も⋯⋯ちゃんと翔くんの事支える。だから、もう離さないでね」
「ああ。俺も絶対に離さない。一生隣にいる」
「なんだかプロポーズみたい」
「だな⋯⋯」
言ってからお互い恥ずかしくなって、笑い合う。
また凛の頬に涙が伝ったので、そっとそれを拭ってやる。今の俺は、こうして堂々と君の涙を拭えるから。君の涙を拭う為に、想い出と決別してきたのだから。
それから見つめ合って、瞳をゆっくりと閉じて⋯⋯唇を重ねた。
またお互いの涙でしょっぱくなっていて、なんだか俺達はこんなキスばかりだな、と呆れてしまう。
でも、この口付けは今までのどの口付けとも違っていて、互いの過去と涙を拭い去るものなのだと思う。
辿り着いた先。過去を乗り越えた先にあるもの。
それは清々しくて、愛おしくて、好きという感情で溢れていて⋯⋯何度でも彼女を求めてしまいたくなる。二度、三度と唇を何度も合わせる。そこから彼女の存在を感じられた。
この口付けで、凛は玲華の呪縛から解放されただろうか。もし、まだ解放されていないのなら、何度だってその涙を拭い去ってやる。解放されるまで、何度でも、何度でも。
はらりと流れた彼女の涙を指で拭ってそう決意し、もう一度強く抱き締める。
「あっ⋯⋯雪⋯⋯」
凛がその時、空を見て呟いた。
俺も釣られるようにして上を見ると、粉雪が優しく降ってきていた
この冬初めての雪だ。長野にしては、ちょっと遅い初雪だった。毎年11月末には降っていたのに。
「綺麗⋯⋯」
長野の雪はさらさらしていて綺麗だ。東京の雪とは質が異なる。
でも、今は⋯⋯そんな雪よりも、目の前にいる女の子の方が綺麗で。でも、そんな事は恥ずかしくて言えなくて。
だから、天を仰ぐ彼女の隙を見て⋯⋯唇を奪った。粉雪と彼女の頬の涙が重なり、雪と混じって溶けた。
少しの間だけ彼女の唇から熱を感じて、この温もりを一生大切にしたいと、心に誓う。
唇を離すと、彼女は照れ臭そうに微笑んでいた。それは、あの時、この場所で見せてくれた時の⋯⋯凛の一番綺麗な、幸福感に満たされた笑顔だった。
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